Silent voice

最終話「サイレント・ボイス」

 カルァスェ・ヴェシアカ、それは「たんぽぽ」のことである。

「ちょっと、待てよ」
 ホーバーは長いこと苦悶したすえに、相変わらず、涙を滝のように流している真顔のウグドに、青白い顔を向けた。青白いのは、もはや言うまでもないが、半分ぐらい死後の世界がこんにちはしてるからであり、怒髪が天まであとちょっとで突いちゃうからである。
 家の入り口では、セインが引きつった顔のまま、怪しげに視線を泳がせているが、とりあえずそれは無視だ。二人の馬鹿をいっぺんに相手にできるほど、いまの自分には余裕がない。
「先に聞いておきたいんだけど、苦手って、どういう意味だ」
 ウグドは真顔に、傷をえぐられたような痛みを浮かべた。
「苦手は、苦手、なのであります」
「じゃあラギルが苦手っていうのは、つまりラギルが『嫌い』って意味か?」
 次の瞬間、ホーバーは今までの人生で、これ以上にないというぐらい自分の失言を呪った。ウグドはカッと涙に濡れた目を見開くと、両腕をぐわっと伸ばし、テーブル越しにホーバーを猛烈に抱きしめた。
「そんなこと、冗談でも言ってはなりませぬー! 嫌いだなんて、好きです、好きです、好きですぞ、好きですぞっ、好きですぞー!」
「ッイヤァァアアアァーッッ!?」
 いきなり抱きしめられ、しかも熱烈な愛の告白までかまされたホーバーは、女の子みたいな悲鳴を上げてジタバタともがきにもがいた。しかし結構な体格差のうえ、興奮から凄まじい馬鹿力を発するウグドは、ホーバーの抵抗にもびくともしない。
「私はラギル殿が、大っ好きでありますーっっっ」
「た、たたたた助けてくれ、セイン……!」
 頬をすりすりされ、恐怖と動揺と絶望のあまりに涙まで浮かんできたホーバーは、ワラにも縋る思いでセインに手を伸ばした。吐き気を催すぐらい気持ちの悪い光景に唖然としていたセインは、ハッと我にかえると、ニヤリと笑って、両腕をホーバーに広げてみせた。
「よし、来るがいい! 俺様の下僕ワールドへ!」
「って、どっちもイヤだボケどもぉ!!」
 ホーバーは筋張った拳を固めると、ウグドの顎を火事場の馬鹿力で殴り飛ばし、ついでに力の緩んだウグドの腹を蹴飛ばしてやった。計算通り、背中から倒れこむウグドに巻きこまれ、セインもその下敷きとなって倒れる。一度で二度おいしい、グリコの必殺ボーリング式パンチである。
「い、痛くねぇ、俺様ちっとも痛くねぇ……」
 セインはめちゃくちゃ痛い後頭部を撫でながら、どうにか顔を持ち上げ、危うく気絶しかけた。
 ウグドが口からぼたぼた血を流しながら、自分の胸にしがみついていた。
「これでまた二人きりですな、軍曹殿」
「ふ、ふふふ、二人きり!? 何言ってやがるっつーか気色悪いしっつーか俺様にはホーバーちゃんっていう可愛い下僕がいるし! な!? ホーバー! ――ヒィイッ!?」
 セインはホーバーが床の上で倒れているのを見て、悲鳴をあげた。脳天の辺りから魂が飛び出ている。どうやら入魂の一発で、ついに昇天してしまったらしい。
 セインは絶望に駆られながら、必死に、存在しない知恵をしぼった。
 そして奇跡的にあることを思い出し、彼は狂喜乱舞して、叫んだ。
「つーか、さっきラギルの雀の脳みそがここから逃げてくの見たけど、ほっといていいのか、親バカども! ゲロムカつくことに、泣いてたぜー! ひゃっほう!」
 その言葉は、室内に爆発的な影響をもたらした。
 昏倒していたホーバーがパチッと目を覚まし、身を起こした。
 セインに上でだらだら血を吐いていたウグドもまた、目を見開いた。
「……なんですと?」
 セインはすかさずウグドの下から這いずり出て、部屋の隅っこまで逃げると、子供がいじけたみたいに膝を抱えた。指でのの字を書いてみたりする。
「だーかーらー、俺様見ちゃったの。ラギルの馬鹿が涙べろべろ流しながら、小屋から逃げてくとこ。だって俺様すれ違ったし」
「いつ! いつでありますか!」
 ウグドが真剣な眼差しで、セインに詰め寄る。今までの経験上、もはやウグドには近づきたくもクソもないセインは、更にテーブルの下まで逃げながら答えた。
「ついさっきだよ近づくなバァカバァカ。つーか……俺が入ってきたとき、てめぇら二人が難しい面つきあわせて、ラギルの顔見るのが辛いだの何だの、至極もっともなことを言ってたから……その少し前だな」
「ホーバー殿!」
 ウグドの顔からみるみる血の気が失せてゆく。
 ホーバーはうなずくと、溜め息まじりに前髪を掻き混ぜた。
「多分、聞かれたな。でも――」
 そこでホーバーはウグドを、険しく見据えた。
「それでいいんだろ。苦手なんだろう、ラギルが。そう決めたって言ってた。聞かれてなにがまずい? もう十分にラギルは傷ついてる。今さらそんな顔をするのは卑怯だ」
 ウグドは沈黙し、苦しげに唇を引き結んだ。
 そしてそのまま力なく、地面に膝から崩れ落ちる。
「……そう、であります。苦手なのであります。私が勝手に苦手だと思って……ですが!」
 だが拳には狂わんばかりに力が篭もり、ウグドは自らの膝を殴りつけた。
「傷つけたいと思ったのではありませぬ! 傷つけたくないと思ったからこそ、ラギル殿から遠ざかることを決めたのであります! 傷つけるなど、あの愛しい子供を傷つけるなど、決して!」
「あのさー、修行僧」
 子供を愛しいなど形容することは気色悪い以外の何ものでもないセインは、その様子を顔を引きつらせながら見物し、それでも妙な不快感に揺さぶられ、口を開いた。
「お前が何したいのか、さっぱり分かんねぇ。天才の俺様にも分からねぇんだから、あの脳みそ雀並みのガキにゃもっと分からねぇんじゃねぇの? 説明もなしに避けられたら、俺様だって傷つくしー」
 人の痛みに愚鈍なセインが珍しく正論を言ったので、ホーバーは雨が降る、洗濯物を取りこまねば、と生活臭たっぷりに慌てる。
 しかしセインの言うことは限りなく正しかった。
 やれやれ、と頭を掻くと、ホーバーは溜め息まじりに立ち上がった。
「とりあえずラギルを探そう。心配だ。道々、修行僧には今回のことを説明するよ。多分修行僧も、何が起きてるのか、まったく理解できてないだろうから……な、セイン?」
 ちらりと向けられた冷ややかな視線を避けるように、セインが口笛を吹いて目をそらした。

+++

 奇妙な取り合わせの海賊三人組は、沈黙を守ったまま草原を歩いていた。
 最初にラギルニットがホーバーを迎えたあの草地だ。緩やかな勾配の野原である。
 歩くと、下草の鋭い葉先が裾から入りこんで、チクチクする。しかしその不快さなど、この二人と歩くことに比べれば何てこともないだろう――とホーバーとセインは、それぞれの顔を見ながら同時に思った。
「とりあえず修行僧、お前から今回の顛末を、ぜんぶ話せ」
 適当なところで腰を下ろすと、ホーバーはようやく口火を切った。歩くたびに頭がぐらぐらするので、足を止めて話そうと思ったのだ。なんか包帯から血が垂れて、額のあたりをツーッと伝っているのだが、気づいていないのかどうでもいいのか、誰も指摘しない。
「あぁーあ、俺、昼寝ー」
 セインは二人から十歩ほど離れたあたりで、ごろりと横になった。
 そんなセインを舌打ち寸前の顔で盗み見ているホーバーの横に、どっしりと腰をおろしたウグドは、ホーバーをおそるおそると振りかえった。
「横じゃなくて、前に座ってくれ」
 なんでウグドとカップル座りしなきゃならないんだ、とホーバーは内心で涙を流した。
 ふわりと風が吹き、草原に根を生やした草花が優しげに揺れる。すでに時は晩春。野原には綿毛をこんもりとまとったたんぽぽが、ほかの花々の間に混じって、あちこちで群生していた。
 風にそよがれ、綿毛がふわふわと青い空に飛んでゆく。
 それを悲しげに見つめて、ウグドは重たい口をようやく開いた。
「結局のところ、私はどうあってもラギル殿を傷つけることしかできなかったのでありますなあ」
 その呟きに、昼寝するふりをしていたセインは、先ほどの「いつから避けられているのか」という問いかけに対する、ラギルニットの答えを思い出した。

「カルァスェ・ヴェシアカがきれいだよって言ったんだ」
 セインがハァ? という顔をすると、ラギルは慌てて先を続けた。
「そしたらウグドが変な顔したんだ、今のセインみたいに! それで「何がきれいなんでありますか?」ってまた聞いてきたの。だからタパリコ、リッカタで、イノカルゲーのところで見つけたカルァスェ・ヴェシアカがすごくすごくきれいで、リンカジャゲロネーッタ! って答えたんだよ」
「……はい?」
 セインはプププッと笑いながらラギルを見下ろした。
「なに言ってんの、お前。すっげぇ面白いんだけど!」
 だがラギルニットは不安でいっぱいの顔になった。
「面白いって、どうして? どうして面白いの? だって別に面白いこと言ったわけじゃないよ。どうしてセインは笑って、ホーバーは困った顔をするの? どうしてウグドは――」
 最後まで言い切ることができず、ラギルはうなだれる。
「だって、カルァスェ・ヴェシアカはとってもきれいだし、いまはタパリだから、綿毛がふわふわって空に飛んで……」
 そこでラギルニットは、きょとんとセインを見上げた。
 無邪気に見つめられ、セインは怯んだ。また泣き出され、あげく手でも繋がれたりしたら死んでも死にきれない。
 だがラギルニットは金色の眉をうーんと悩ましげに寄せ、首をかしげた。
「おれ、やっぱりセインと、もっともっと小さい時にたくさん遊んでもらった気がする」
「はぁ!? 気色悪いこと言うな誰がてめぇみたいな可愛いクソガキと遊んでやるかボケカス」
 しかし反射的に反論しながら、セインもまた首を傾げた。確かに、言われてみると記憶の奥底におぼろな何かが見え隠れする。
「そうだよねぇ。セインがおれと遊ぶわけないよね。じゃあ、何でセインだと思ったんだろう。どうしてもセインな気がするんだ。教えてくれたの」
 何を、と鼻息をたてるセインに、ラギルニットは真剣な顔でこう答えた。

「この花は、カルァスェ・ヴェシアカって言うのさ……って。カルァスェ・ヴェシアカはあの綿毛に子供を乗せて、遠い遠い世界まで旅させるんだよ……って」

 そこまで思い出して、青空を眺めていたセインはまた口許を引きつらせた。
(俺だろ、それ)
 思い当たる節が、不幸中の不幸にして見つかってしまった。セインは背中にじっとりと嫌な汗を掻いた。
(だ、だって俺様ちっとも覚えてなかったし。しかも何年前の話だよ、オイ。あんなことしたぐらいで、ガキってこんなんなっちまうわけ? っつーか俺は途中で飽きてやめたし、俺のせいじゃねぇ。俺のせいじゃねぇとも。って、まさかあいつら、あれからあのアホな遊びをずっと継続してたのか!?)
 冷や汗をダラダラ流しながらチラッとホーバーを見ると、ホーバーは実に疑わしげな目つきで自分を観察していた。パタリ。セイン、死んだふりをする。さよなら人類。
「理解できないのであります。いったい何が起きたのか」
 二人の声なき冷戦には気づかず、ウグドがまた話を始めた。
「突然のことだったのであります。私とラギル殿はそれまで、それはもう意気投合しまして、お互いにお互いを想いあい、強い愛で結ばれていったのであります」
「……へぇ」
「最強の盾と、最強の矛。ふたつを競い合わせたら、どっちが勝つかといえば、それは引き分けとしか言いようのないように、私とラギル殿、どちらの愛がより深いかといえば、心情的には、はい、それはワタクシであります! と大声で邪神ブーダー様に告白したいのですが、いかんせんラギル殿の想いもまた、ありがたいことに大変強く、嗚呼、これをもって人は両想いと称するのだと――!」
「よ、余計な形容はいいから、先を進めてくれ、頼む」
 生きる気力を根こそぎ奪われそうになって、ホーバーは心の底からお願いつかまつった。
「私には自信がありました。ラギル殿を誰よりも理解しているのは、きっとこの私だと。ラギル殿は、私に秘密も打ち明けてくれました。誰にも内緒だよ、と」
「あーすげぇうぜぇ。誰にも内緒とか言うなら、最初から言うなっつーの」
「うるさい、セイン」
「私もまたラギル殿には、誰にも語ったことのなかった秘密を打ち明けました。恥ずかしくて恥ずかしくて、一生誰にも言わないでありますと誓ったことであります」
「は? 何それ、すっげぇ聞きてぇし!」
「それは俺もちょっと聞きたいかも……」
「そういったわけで私とラギル殿の間には秘密は何もなく、どんなことさえも理解しあえるのだとそう思っていたのです。ですが……一年ほど前のことです。私はその頃、くじ運に恵まれておりましたので、幾度となくこの無人島に下りる栄誉を受けました。ですがその頃から、今までは自然と合っていた何かが噛み合わなくなってしまったのです」
 ウグドは深々と溜め息をついた。
「言葉が、理解できなくなったのでありますよ。ラギル殿が何を言っているのか、理解できなくなってしまったのであります」
 ホーバーが「やっぱり」と溜め息をついたことにも気づかずに、ウグドは続ける。
「ある日、ラギル殿と散歩をしていたときが最初でした。ラギル殿は私にこう言ったのです。カルァスェ・ヴェシアカがきれいだと」
 今よりも一年分小さなラギルニットが、空に舞うタンポポの綿毛を楽しげに見つめながら、うっとりとした顔で呟いたのだ。
「私は意味が分からず、聞きかえしました。なにがきれいなのかと。そうするとラギル殿はまるで……呪文のような言葉をつらつらと言いまして、私に同意を求めるのであります。そうでしょう? と。私は冗談で言っているのだと思い、それはなんの呪文でありますかと訊ねました。しかしラギル殿は不安そうに顔を曇らせ、おれは呪文なんか唱えていないであります、と答えたのであります。ウグドはどうして分からないのかと」
 ウグドはショックを受けた。ラギルの信頼を裏切ってしまったように感じたのだ。
「それからも、ふとした拍子にラギル殿はわからぬ言葉を喋るようになりました。最初は聞きかえしていたのでありますが、そのうちラギル殿は、聞きかえすと悲しげな顔をするようになりました。……たまらない気持ちになりました! あの明るい瞳が曇ってしまうことが、私にとっては何よりも悲しいことだったからであります。そして何よりも耐えがたかったのは――私以外の人間には、ラギル殿の言葉はきちんと通じるということなんであります」
 そこでウグドははじめて、ホーバーを振りかえった。
「ホーバー殿は、カルァスェ・ヴェシアカの意味をご存知でありました。一緒に無人島に下りた船員も、ラギル殿の不可解な言葉を、きちんと聞き取っていたのであります」
「その船員って誰か覚えてるか?」
「バザーク殿、メル殿、ルイス殿……他にも何人かおりました」
 ホーバーは名前の挙がった四人について考え、なるほど、と納得げな顔をした。
「ラギル殿の言葉を聞き取れないのは、自分だけでした。ラギル殿に悲しい思いをさせているのは、自分だけでした。だからこれ以上、ラギル殿を傷つけないためにも、私はラギル殿に近づいてはいけないと……そう、思ったのであります」
 そしてウグドは、長い話を終わらせた。
 ホーバーは胡坐の上で頬杖をつき、襲ってくる疲労感と必死に戦った。
 何というか、かんというか――すっごくイライラする。
 ホーバーはこのままウグドのことなんか忘れて、草原を楽しく散歩したい誘惑に駆られながら、必死こいて口を開いた。
「じゃあさっきの苦手ってのは何なんだ」
「あれは、その場の嘘であります。ホーバー殿に、ラギル殿が私に近づかぬよう、見ていていただこうと思いまして。ですが理由をお尋ねになるので、とっさにそんなことを申しました」
「素直に理由を言えばよかっただろ。ラギルの言葉が分からなくて苦しいから、距離を置きたいとか何とかさ」
「ですが、ホーバー殿! ラギル殿の言葉が変なのではなく、変なのは私なのであります、はい! そんなラギル殿の名誉を傷つけるような真似など、私には決して出来ませぬ!」
「ああ、そう……っ」
 じりじりと、虫眼鏡で焼かれているような気分になり、ホーバーは話を打ち止めにした。違う話題に持っていかないと、自分は苛立ちのあまり、今すぐ殺人を犯す。
「つまり、修行僧はラギルの話す言葉が何なのか、今も知らないんだな?」
「知りませぬ。あれは、何なのでありますか?」
 ホーバーは自分やセインとは肌の色も顔の造作も違うウグドを眺め、無理もないかと息をついた。
「出身地ってイリューザ大陸の方だったっけ。母国語は?」
「イリューザ大陸ではありませんが、そちらの方ですな。母国語は、イリューザの一部の民が使うギッタカリッサ語であります」
 途端、セインが弾かれたように身を起こした。
「マジで!? じゃあお前のそのリスト語って、後から習ったやつなわけ!? だからそんな妙な言葉遣いなのか!?」
 今、三人が使っている言語は「リスト語」と呼ばれる、世界三大言語のひとつだ。特にリスト語は、国際社会でも広く用いられているため、「リスト語が分かれば世界が旅できる」と言われるほど普及率が高かった。
 セインとホーバーの出身地であるバクス帝国でも、リスト語が公用語だ。
「いえ、母国語でもこの通りであります。実に見事な翻訳をいたしております」
「……あっそ」
 セインは、ガクリと肩を落とした。残念ながら、ウグドの変態は生まれつきのようだ。
 ホーバーも少々がっかりしながら、逸れまくった話題を強引に元に戻した。
「リスト語以外で、ほかの三大言語は喋れるか?」
「ダパス語なら喋れるでありますが……」
「じゃあ、答え。ラギルがたまに使う変な言葉、あれはスェサエド語だよ」
 あっさりと告げられ、ウグドは一瞬、理解できずに目を瞬かせた。
「リスト語、ダパス語と同じ三大言語のひとつだ。この辺りじゃ滅多に聞かないな。三大言語の中じゃ、一番、使われてる地域が狭いから」
「……スェサエド語?」
 ホーバーはうなずく。
「そう。バクス帝国で義務教育を受けてた連中なら、スェサエド語はある程度喋れるんだ。バザークもメルもルイスも帝国出身者だ。……必須科目なんだよ。バクス帝国の周辺は、リスト語とスェサエド語圏の国が多いから。むしろダパス語の方が俺は分からない。……たんぽぽ以外に、他に何言ってたか覚えてるか?」
 ウグドは頭をひねらせる。知らない国の言語は耳に馴染まないので、あまり覚えてはいないが、最初の頃は必死に暗記しようとしていたので、覚えているものもある。
「タパリコ、リッカタで、イノカルゲーのところで見つけたカルァスェ・ヴェシアカがすごくきれいで、リンカジャゲロネーッタ……とか何とか」
「タパリは春で、コは介詞、リッは綿毛、カタが飛ぶ、イノガルゲーは草原。リンカジェゲロネーッタで……えーと、彼らは新しい土地まで旅をするってらへんの意味かな」
「やめろ、授業を思い出す……!」
 ホーバーの模範解答な翻訳に、セインが悲鳴をあげた。
「スェサエド語、超発音ムズイんだよ! テスト前とか先公殺そうって毎度思ったし……!」
「……セインが昔、真面目に学生やってたってのが信じられない」
「中退ですがナニカ!」
 二人の口論はまるきり無視して、ウグドは胸のつかえが取れたように肩から力を抜いた。
「そう、であったのですか……」
「ああ、そうだよ。けど一番の問題は、だ……」
 ホーバーは拳を怒りにふるふると震わせた。
「誰が! 一体誰が、ラギルにスェサエド語を教えたかだ!」
 ウグドは首をかしげた。
「はて。それが何故、問題なのでありましょう? バイリンガルで素敵ではありませぬか」
「だから今回の騒動は全部、そこが問題になってるんだろうがー!」
 ここまで説明したのに全く要領を得ないウグドに対し、ついにホーバーは声を荒げた。
「ラギルが赤ん坊のとき、全員で約束しただろう! 育てるときは、絶対にリスト語以外の言語は使わないようにって!」
「そうでありましたか? さっぱり覚えておりませんな」
「ああああーもう!」
 ホーバーの額からブシュッと血が噴出したのを見て、ウグドは何だか可哀相になり、義理で思い出そうと努力した。
 言われてみれば確かに、船内の女医か誰かが「脳の言語野に大きな成長が見られる幼少時に、二つの言語を混合して教えた場合、ある年齢を越えたとき、何かしらの悪影響が出るかもしれない。ある学者の話では、ふたつの言語を両方とも不完全に覚えてしまう可能性があるのだとか。だからラギルを育てるときは、リスト語だけを使うことにしよう」と言っていたような気がしないでもない。不思議と事細かに言われた内容を覚えているので、本当にそんな話があったのだろう。小難しい話だったので、話半分に聞いていた。
 だがその小難しい話は当たってしまったわけだ。
「誰かが決まりを破って、ラギルにスェサエド語を使った。それも長い年月、それがスェサエド語だと説明もないままに。でなければ、あそこまで重症にはならなかったはずだ!」
 ホーバーは眉間に青筋を立てながら、据わった表情でその誰かへの罵倒を吐き捨て、そして、
「本当に、心当たりはないのか? ――セイン」
 ホーバーの眼がギランッと光った。
 セインの肩がビクッと跳ねた。
 セインは口元を引きつらせながら、飛んでゆく綿毛を目で追うふりをした。
「……だからこの間も言っただろ心当たりなんてない俺様一年以上ここに来てないしって」
「何で棒読みなんだ? え? 何で棒読みなんだ?」
「ぼ、棒……棒……が好き、なんで、その」

「……ッアホかぁああああー!」

 バキィッと、青空に強烈な殴打音が響きわたった。

+++

 二人はぜぇぜぇ息を切らしながら、小鳥さえずるのどかな丘の上でギラギラと睨みあった。
 殴り合いの喧嘩を始めて、すでに数十分。二人とも体力の限界に来ていたが、いまだ燃え盛る闘争心は収まらない。
「へ、全然……、て、てめぇの、……なまっちょろい拳なんて効かねぇんだよ……!」
 右目に青あざを拵えたセインは、口端の血を手で拭って、かっこ悪く吼えた。ホーバーも満身創痍でふらふらになりながら、手近に落ちていた石を拾って、セイン目掛けて投げつけた。
「は! どこ投げてんだ、かすりもしねぇぜこのこの南国豚ー!」
 元々怪我を負っている上に、体力もセインの方が上回っているので、ホーバーはもう声も出せない。しかし過去最大級の怒りが、火事場の馬鹿力を体中に漲らせた。最後の気力を振り絞って、今度はどえらくでかい岩を高々と持ち上げた。
「げ。」
 無言の気迫とともに、思い切りセインに投げつけてやる。
「っうおぁああ危な……!」
 セインは吹っ飛んでくる巨大岩から、四つん這いになって逃げ惑う。ズガンッと土塊を散らして落下した岩は、セインの足元すれすれにめり込んだ。
「こ、殺す気かてめぇ!」
「ああ、殺す気だよクソ野郎……」
 体格差的にも体力的にも、分は明らかにセインにあるのだが、こうなった原因もセインにあるので、あと一歩、セインのほうが気迫負けしている。だが仮にもバクスクラッシャーの帝王セイレスタン=レソルト、たとえ非が自分にあろうと、そんなもんで白旗揚げるなど真っ平御免である。
 やるしかない。どちらかが倒れるまで、戦い抜くしかない。
 ホーバーは無言で拳を固める。セインもまた迎え撃つ体勢を取った。
 そして、血で血を洗う、凄絶な戦いの火蓋が切って落とされた。
 ――で、そのさらに数十分後。
「ク、ククク」
 ついに燃え尽き、その場に倒れたのは、ホーバーの方だった。
 疲労で足がガクガクしているセインは、笑いながら地面を這って、死体と化したホーバーににじり寄った。頭の包帯から血をだらだら垂れ流したホーバーは、完全に意識が落ちていた。
「勝った、ホーバーの脳みそ碧色に、ついに勝った……!」
 セインは狂気じみた笑い声を上げた。唐突に身を翻すと、猛ダッシュで斜面を越え、丘の上の小屋まで駆け戻った。小屋の脇手にある倉庫からつるはしを取り出し、肩に担いで、再び走ってホーバーの元まで戻ってくる。
「ぐああぁああ――っははははははは!!」
 喜びに目を剥き、つるはしを持ち上げ、ホーバーの脇に穴を掘りはじめる。
「俺様、すっげぇ親切。死んだ友のために、墓穴を掘ってやるなんて」
 やがて完成した墓穴を見下ろし、セインは恍惚と煌めく汗を拭った。
「さらば愛しのホーバー。短い間だったが、俺様は確かにお前を愛してたぜ――ふごッ!!」
 後頭部に強烈な一打を食らい、体勢を崩してよろめいたセインは、穴の淵でわたわたと両腕を振り回した。
 辛うじて意識を取り戻したホーバーは、鮮やかな飛び蹴りから地面に着地すると、しぶとくバランスを取っているセインの背を、つん、と指で突ついた。セインの巨体はあっさりと、自ら掘った墓穴に没した。
「て、てめ……」
 食べちゃった土を吐き出しながら、穴の上を見上げたセインは、口を引きつらせる。
 ホーバーが今まで見たことのない冷たい表情で、つるはしを肩に担いでいた。
「……ああ。俺も愛してたよ、セイン」
 セインが最後に見たのは、容赦なく飛んでくる土塊だった。

 長い戦いに辛くも勝利したホーバーは、我関せずで草地に座っているウグドの前に立った。
 ウグドは頑丈な体を子供みたいに縮めて、うな垂れた。とても鬱陶しい。
「修行僧。ひとつ、良いか」
 ウグドが顔を上げる。
「ラギルは、お前のことが好きなんだ」
 ホーバーの率直な言葉に、ウグドはぴくりと震えた。
「お前だけがラギルを好きなんじゃない。ラギルもお前が好きなんだ。それをお前は忘れてる」
 言葉が理解できない、その原因が分からなかったウグドの苦悩も分からないではない。
 だがウグドは、ラギルニットが何故、言葉を聞き返されるたび、悲しそうにしていたのかをよく考えるべきだった。ウグドが理解してくれないことを悲しんだのではない。理解できないことをウグドが悲しんでいることを知り、それこそに小さな胸を痛めていたのだ。
 それなのにウグドは、自分さえいなくなれば、と安楽的に考え、黙ってラギルニットから遠ざかった。それがどれだけラギルニットを傷つけるか、考えもせずに。
 通じなかったのは言葉じゃない。心だ。
「何が傷つけたくなかった、だ。ラギルは十分傷ついてるよ。お前に避けられたことでな」
 ホーバーは担いでいたつるはしを放り投げ、その場にばたりと横たわった。
「こっから先は自分で解決しろ。俺はもう疲れた。寝る」
 ウグドは本当に寝息を立て始めたホーバーを黙って見つめた。
「……私は、ラギル殿が大切だったのであります」
 呟き、視線を自らの骨ばった掌に移す。
「誰よりも、誰よりも愛しい子供……」
 もう五年も昔、ラギルニットはバックロー号の船倉の樽の中に捨てられていた。甲板に連れ出された赤ん坊は、ウグドが差し伸べた指を、小さな小さな、柔らかい手でぎゅっと握りしめた。きゃっきゃっと太陽のように笑って、握りしめてくれた。
 あの無垢な笑顔は、今もウグドに向けられている。それがたまらなく愛しい。
 悲しい顔などさせたくはなかった。
 自分がいなくなれば、ラギルニットはまた笑顔になるのだと、そう思った。
「ラギル殿が、まだ私を好いてくれていると……?」
 ウグドは胸に染み入るその言葉を、反芻する。
 自分が避けたことで、嘆き悲しむほどに、好きでいてくれたと?
 ウグドは拳をもう片手で包みこみ、祈るように固く目を閉じる。
 まだ間に合うだろうか。まだあの無垢な太陽は、自分に笑いかけてくれるだろうか。
 いや、笑ってはくれなくとも、自分は行かなくてはならない。
「……ラギル殿」
 ウグドは拳からそっと顔を上げ、やがてすっと背を伸ばして立ち上がった。
「今、行きますぞ……!」
 そして全力に走り出した彼に、寝たふりのホーバーはこっそりと安堵の息をついた。

+++

 ラギルニットは真っ黒な海の上を、ひとり小舟で漂っていた。
 涙が止め処なく溢れて、拭っても拭っても、止まるどころか嗚咽まで出てきてしまう。
 ――苦手なのであります、ラギルニット殿が。
 ウグドが発した言葉の意味を理解するには、ラギルニットはまだ幼すぎた。
 けれどたった五歳の心に、ウグドの言葉は鋭い短剣のように突き刺さってしまった。
 どうしてだろう。自分は何をしてしまったのだろう。
 どれだけ考えても分からなくて、きっと自分がそんなことも分からない馬鹿な子だから嫌われたんだと思った。
 ――そう、嫌われちゃったんだ。
 ラギルニットはくしゃりと顔を歪め、声を押し殺して泣いた。
「い、いやだ、よ、ウグド……っ」
 嗚咽が邪魔にして、ちっとも想いが言葉にならない。
 言葉にならないから、許してもらえないのだ。
 自分が普通の言葉も喋れない変な子だから、避けられてしまうんだ。
 行かないで。逃げないで。
 側にいて、ウグド――。

 ラギルニットは不意に目を覚ました。
 涙でぼやけて、視界が白い。手の甲でごしごしと重たい目蓋を擦ると、突き刺さるような太陽と真っ青な空が視界いっぱいに広がった。
 体が揺れている。ぎしぎしと軋んだ音が近くで聞こえる。
「寝ちゃったんだ……」
 どうやら夢を見ていたらしい。とてもとても辛い夢だった気がする。ラギルニットは腫れぼったい目をもう一度擦って、また込み上げそうになる涙を堪える。
 そして身を起こそうとした瞬間、いきなり地面が傾いた。うわ、と悲鳴が上がる。
「あ、あれ?」
 とっさに掴んだのは、舟べり。掴んだ舟の縁を支えに、慎重に身を起こす。
 呆然と周囲を見回すと、辺りには碧色の海が広がっていた。
 波に揺らぐ舟にしがみつき、転覆しないようにバランスを取る。落ち着かなきゃと思うが、動揺が胸元にまで込み上げてきて、うまく息も出来ない。
 小舟は、海に浮かんでいた。
 ラギルニットは慌てて舟底を探るが、オールは見当たらなかった。代わりにゴロゴロと転がっていたのは、見覚えのある物――ラギルニットの秘密の宝物だ。
「そうだ、おれ……逃げてきたんだ」
 セインと一緒に小屋に戻り、ウグドがホーバーと喋っている内容を聞いてしまった。悲しくて悲しくて、訳も分からないままに逃げ出した。
 どこをどう走ったのか、気づけば自分は砂浜に立っていた。あの、お気に入りの砂浜だ。
 砂浜の隅には、何艘かの小舟が係留されている。そのうちの一つに、ラギルニットは大切な宝物をいっぱい入れていた。動物の角の形に似た貝殻や、鳥かなにかの骨、穴の開いた鍋や透明な石ころ、船員たちがくれたお土産に、船で使わなくなった壊れた道具など。

 おれとウグドの秘密の宝物だよ!

 ウグドにだけ、この宝物の在り処を教えた。内緒だよと、指切りをして。
 そうだ。自分は宝物を見て、あれこれと思い出しているうちに悲しくなってきて、泣きながら、舟の中に寝転がったのだ。
 ここならきっと、誰にも見つからないと思って。
 もしかしたら、ウグドが見つけてくれるかもしれないとも思って――。
「……そっか。潮が満ちて、舟が沖に出ちゃったんだ、きっと」
 縄で係留していたはずなのに外れてしまうなんて、今日はとことんついていない。
 緩やかな波が舟壁に当たって、寂しい音を立てる。
 船尾のはるか向こうには、ラギルニットの暮らす無人島が小さく見えていた。
 けれど帰る術はない。泳ぎは得意だけれど、あそこまで泳ぐのはまだ難しかったし、それに小舟の宝物を置いてゆくことは出来ない。これはウグドとの大切な宝物なのだ。
「どうしよう……」
 ラギルニットは舟の真ん中に座って、不安に膝を抱えた。

+++

 ウグドが走り去ってから、数時間が経過した。
 ようやくの安眠を貪っていたホーバーは、頬に温かい雫が当たるのを感じて、目を覚ました。
「……雨?」
 夕暮れに赤く染まった空に、怪しげな雲が浮かんでいた。どうやら夕立のようだ。
 まだ半分寝ぼけたまま周囲を見渡すと、先ほど、頭だけを外に出して墓穴に埋めてやったセインが、やはりグースカといびきをかいて寝ていた。
 それは無視するとして。
「そろそろ戻ってるか。……よっ、と」
 期待に身を起こし、体中についた細かい草を叩き落とす。殴られ蹴られてあちこち痛む体を引きずって、濡れ始めた草原を横切る。次第に、大粒の雨を降らせはじめた空から逃げて、夕陽に赤く染まった小屋へと駆けこんだ。
 しかし小屋は静かだった。
「ラギル?」
 奥の部屋を覗いてみるが、薄暗い室内には誰の気配もない。
 さすがに、もうウグドが連れ帰っているかと思ったのだが。
 仲直りに難航しているのだろうか。ウグドが一言、素直な気持ちを伝えでもすれば、それで解決すると思ったのだが。
 いや、それともラギルニットをまだ見つけられないとか。
 そこまで考えて、ホーバーは顔をしかめる。
 外は突然の夕立。雨脚は強まっている。
 妙な胸騒ぎがした。
 ホーバーはもう一度室内を見渡し、見切りをつけて、再び外へと駆け出した。

 空は茜色に染まり、明るいというのに、雨は容赦なく降りそそいだ。草に弾かれた雨粒が地面を真っ白に煙らせている。
「……ぬあ、てめ、待て、そこの馬鹿野郎!!」
 生き埋めにされたセインもさすがに目を覚ましたらしい、頭から濡れそぼっている上、跳ねた泥を顔中に浴びて、ぎゃーすかと喚いていた。
「俺様を掘り起こせー!!」
「ラギルがまだ帰ってない、見かけたか?」
 罵声を飛ばすセインを無視して、ホーバーは転がしておいたつるはしを拾いあげる。セインは鼻で笑った。
「知るか、あんなガキ」
「……じゃあ、これは捨ててくるな」
「っぅああああ、待て待てー!!」
 ホーバーは邪悪に微笑んだ。つるはしをこれ見よがしに抱きかかえて、セインの顔の前にしゃがみこむ。
「じゃあ、どうしたらいいか分かるよな? セイン」
「……え、えー? ……分かんねぇ、……かなぁ?」
「あ、そ」
「!! ま、待て、違、……あーもう分かったよ、分かったつーんだよ!!」
 頭だけのセインは、苦虫を噛み潰した顔でもごもごと呟いた。
「俺様が発案者です……」
「……は? 雨の音が煩くて、さっぱり聞こえない」
「死ねよてめぇ!!」
「あー、そ。んじゃそうする」
「あ、待ってホーバーちゃん! 愛してる!! 行っちゃイヤ!!」
「……」
 ここに酒瓶があったら、頭に叩きつけてやりたい。怖気に震えあがるホーバーに、セインはついに諦めの溜息をついた。
「だぁからー、最初、俺様がワッセルたちと遊び始めたわけ。ガキにスェサエド語で話しかけようぜーっつって。ちょうど船医らから、リスト語以外は使うなって言われた頃だったし、使うなって言われたら、使わねぇ訳にはいかねぇじゃん?」
「……」
「でも、賢い俺様はすぐに飽きたぜ? 全然、成果出ねぇし。……まさかあの後も、あいつらがずっとあの遊びを続けてたなんて知らなかったし。むしろ俺様が、あいつらの愚かさにビックリ。しかもガキもばっちり笑えることになってて、二重でビックリ」
 ホーバーは殺気の篭もった溜息を、鬱々と吐く。
「これが全部だボケ、もういいだろ、早く出せよ!!」
 死ぬほど腹が立ったが、今は人手が欲しかった。ホーバーは立ち上がり、つるはしをぞんざいな手つきで振り下ろした。
「……って、うお、怖! すれすれ、超すれすれ……!!」
「言っとくけど、船に戻ったら共犯者もろとも、死んだ方がマシな目に遭わせるからな……」
 据わった声で宣言し、ホーバーは雨で柔らかくなった土をどんどんと掘ってゆく。自力で脱出できるほど土が軟らかくなったところで、セインが穴から這い出てきた。
 素早く繰りだされた八つ当たりの拳を、予想済みであっさりと受け止め、ホーバーは次第に激しさを増す雨空を見上げた。
「ラギルを探そう。嫌な予感がする……」

 雨脚がどんどんと強まる一方で、空はやけに明るかった。強い西日が降りしきる雨に反射して、島全体を薄い茜色に染めている。
「ラギル殿ー!」
 そんな奇妙に美しい光景の中を、ウグドは一時も休まず走り続けていた。
「ラギル殿、ウグドですぞ、出てきてくだされー!」
「修行僧!」
 森の方からホーバーが駆けてきた。
「まだ見つからないのか?」
「は、はい、どこにも……っ」
「そうか。どっかで雨宿りでもしてればいいんだけど……」
「おいおい、何かやばい降りっぷりじゃねぇ?」
 そこへ逆方向から現れたセインが、苛々と湿った煙草を歯噛みしながら、殊更にゆっくりと歩いてきた。ホーバーが剣呑とした眼差しを向ける。
「セイン、いたか?」
「いねぇよ、畜生。何で俺様が……つーか修行僧、ウグドですぞ、はねぇだろ。ウグドですぞ、は。んなんじゃ出てくるもんも出てこねぇって。とりあえず俺様なら、てめぇの名乗りを聞いた時点で、世界最高記録マークして島の反対側まで大逃走だっつーの」
「で、では! では、どうすればいいのですか、軍曹殿……!?」
「……っち、近ぇ、顔近ぇって、変態修行僧ー!!」
 いまだウグドと繰り広げた愛の逃走劇の恐怖から抜け出しきれていないセインは、半狂乱になってウグドを蹴り飛ばした。ついでに、熊に襲われ高所へと避難する探検隊のごとくホーバーによじ登り、ガタブル震えながら必死の訴えをかました。
「も、もういいだろ、ホーバー!? 俺様は義理は果たしたぜ! あっちこっち探しまわったし、肥溜めの中だって覗いたし! 見つからなかったのは俺のせいじゃねぇ! もう俺様は小屋に帰って、ウンコして寝るんだ。絶対、ウンコして寝るんだ、俺様は!! てめぇらは好き勝手にガキ探して、ハラハラどきどきの大冒険を繰り広げるがいいさ!」
 ホーバーは猫の子を剥がすノリでセインの首根っこを掴み、無表情にウグドへと放り投げた。
「修行僧、好きにしていいぞ」
「了解であります、副船長殿」
「……っうそ、ごめんて、ごめんてぇ……ッ!!」
 ここらの海域では夕立は珍しいものではない。長続きはしないが、短時間で大量に降りそそぐ雨は、島の地盤を一気にゆるめてしまう。島に慣れているラギルニットのことだ、危険な場所は熟知しているとは思うが、問題は、今のラギルニットが普段通りではないということだ。
「小屋に帰ってるってことはありませぬか、ホーバー殿?」
 ウグドは焦りに顔を歪めて、難しい顔をしているホーバーに詰め寄った。
「俺が見た時にはいなかった。それに、そんなにすぐに帰って来るとは思えない。さっき、俺と修行僧が話をしてたのはあの小屋だ。近づきがたいだろ……」
 ウグドは悄然とうな垂れる。ホーバーは目を伏せて溜め息をつき、ウグドに向き直った。
「修行僧、よく聞け。この三人の中で、一番ラギルと長い時間を過ごしてきたのは、お前だ」
 その言葉に、ウグドがゆるゆると顔を持ち上げた。
「セインは子供嫌いだし、ほとんど島には来ていない。そうだろ?」
「そ、そう、俺様、一年以上来てない……。ウ、ウンコもしてない……本当、マジ本当……」
「いや、ウンコはもういいから。……俺も忙しくて、ずいぶん長いこと島下りのくじ引きにすら参加できてなかったからな。久々なんだ、ラギルと会うの。だから……悔しい話、ラギルが行きそうな場所の見当がつくのは、修行僧だけだ」
「ホーバー殿……」
「落ち着いて、じっくり考えろ。見落としている場所がないかどうか」
 大切なラギルニットを傷つけられ、ホーバーは腹を立てているはずだ。そのホーバーに背中を押され、ウグドはほろりと涙ぐんだ。
「こ、これは涙ではありませぬ、ただのしょっぱい雨でありますぞ……!」
「……いや、そういうのもいいから」
 冷静さを取り戻したウグドは、頭の中でもう一度、ラギルニットが行きそうな場所を反芻していった。すでに心当たりは見て回った。だが、どこか見落としている場所はないか。例えば、ウグドが無意識に、ここはありえないと除外してしまった場所……。
「……もしかしたら」
 ハッと目を見開いた。それは直感だった。確信があったわけではないし、ラギルニットがそこにいると考えるのは、小屋に帰っているのと同じぐらい有り得ないことのように思えた。
「……ホーバー殿、私めにもう一度、勇気を下さらんか」
 首を傾げて先を促すホーバーに、ウグドは続けた。
「ラギル殿は、今も私を好いてくれていると、本当にそう考えるでありますか?」
 ホーバーは呆れ返って、はぁ……と大きく溜息をついた。
「好きじゃなかったら、あんなに大泣きしない」
「では、だとしたら、今、ラギル殿は私が探しに来るのを待っていると思うでありますか? それとも来ないでほしいと考えるでありましょうか?」
 ウグドは真剣に問いかけた。ホーバーは少し考え、答える。
「来てほしいだろうな」
 仮にも、避けられた上に、陰で「苦手だ」などと言われたのだ。大人ならば、もっと複雑な感情を抱いたことだろう。だがラギルニットは幼い。たった五歳の子供だ。だったら追いかけてほしい、また好きになってほしい、そう単純に願うように思えた。
 ウグドは真っ直ぐにホーバーを見つめ、うなずいた。
「だとすれば、あそこかもしれませぬ。私とラギル殿の、秘密の場所」

 島の逆側にある浜辺に足を踏み入れたウグドは、呆然と立ち尽くした。
 潮が満ちて、いつもよりも手狭になった砂浜。波打ち際から多少離れた場所には小舟が幾艘か係留されていたが、そのうちの一艘が見当たらなかった。
「ここが秘密の場所だと……? んだよすげぇ期待してたのにただの砂浜じゃねぇか……」
 ようやくいつもの調子に戻ってきたセインの言葉も無視して、ウグドは小舟を一艘一艘、中を覗いて確かめてゆく。この中の一艘に、ラギルニットと一緒に島中で掻き集めた宝物がしまわれているはずだった。海賊のお宝とは程遠いガラクタばかり。だがラギルニットが「きれい」と言えば、不思議と光輝いて見えた宝物。それらを満載した舟がどこにも見当たらなかった。
「……まさか、海へ」
「海? 海って……」
「舟です、ホーバー殿。これは内密の話なのでありますが……、ここにラギルニット殿の宝舟があったのです。私とラギル殿だけの秘密で……それで、もしやここではと」
 それ以上の言葉は出てこなかった。
「ハイ、入水自殺決定ー……ふご!!」
 ホーバーの無言の回し蹴りを食らうセインである。
 ウグドは水平線を食い入るように見つめた。だが雨に水面を叩かれた海は、白く煙っていてひどく視界が悪い。舟らしきものは何も見当たらなかった。
 走りっぱなしの荒い呼吸を整えながら、そのまま視線を右上へと向ける。
 そこには、海に面した断崖絶壁が立ちはだかっている。
「……上からなら、見えるかもしれませぬ」
 言うが早いか、ウグドは浜辺を走りだした。
「修行僧、危険だ……!」
 とっさに呼び止めるホーバーを無視して、ウグドは走る。
「ラギル殿、待っていてくだされ――!!」
 そしてむっつり顔の中年親父は崖に張りつき、危険など物ともせずに登りはじめた。

+++

 その頃、小舟に取り残されたラギルニットは、襲いかかってくる雨と必死に戦っていた。
「……う、うわ、うわ、うわうわうわ」
 舟底にどんどんと雨水が溜まってゆく。両手で掬って海へ捨てるが、雨の勢いは小さな手が掻き出すよりもずっと早かった。先ほどまで穏やかだった海面も少しずつ揺らぎはじめ、波が入りこんでこようとしていた。
「何とかしなくちゃ……、そう、手じゃ駄目なんだ、もっと大きいの!」
 さすがは五十人の海賊に育てられているだけあって、ラギルニットは度胸と根性があった。一時の混乱から冷めると、舟に満載した宝物を大急ぎで漁りはじめた。石ころ、貝殻、何かの骨、底の破れた皮の鞄、金色の金槌、羅針盤の壊れたやつ、先が折れた羽ペン……。
「うぁったー!!」
 指先が縁の欠けた木製のカップを探し当て、ラギルニットは歓声を上げる。
「急げや急げ、水をすくって海にポイだ、おれたち海賊、ヤッホッホー!」
 農作業や家事をする時、海賊たちは歌を歌う。その癖が土壇場で移った。ラギルニットは大声で歌うことで勇気を奮い立たせながら、どんどんとコップで水を掻き出した。
 水がある程度引いてきた。すると今度は別の勇気も湧いてきた。
 作らなくちゃ! 思い立ったのは、そう、オールだ。
 再び宝物を探して、何かの棒を一本だけ見つける。確か、練った小麦粉を伸ばすときに使うものだった気がする。何でこれが宝物なんだっけ? 自分でも首を傾げつつ、ラギルニットは顔を輝かせて、さらに宝物をあさった。
 だが結局見つかったのは、その棒だけだった。
 平たい板か何かがあればいいのに、そんな宝物はどこにもなかった。
「お、おれたち海賊……」
 気落ちする自分に気づいて、慌てて歌を口にする。
 だが言葉尻が霞んで消えた。不意に、先ほどまでの勇気が嘘のように消え、弱気が驚くほどの勢いで込み上げてきた。
 怖くて怖くてたまらなくなった。
「……っ……」
 わっと涙が溢れて、ラギルニットは慌てる。
 震える手で目をごしごし擦るが、涙は止まらず、雨と一緒に腕を濡らした。
「ど、どうしよう……っ」
 嗚咽まじりの声が、さらに恐怖を助長させて、ラギルニットはついに声を上げて泣き出してしまった。
「う、うわぁ……! ……っこわい……、よ……! 怖いよぉ……!」
 そして、その時だった。

 ラギル殿――……!!

 ラギルニットの耳が、誰かの声を捕らえた。
 ぽかんと顔を上げて、辺りを見渡す。だがそこに誰がいるはずもなく、ただ荒れた海面と、雨の幕の向こうに無人島の姿が薄っすらと見えているだけだった。
 けれど、だけど、今のは間違いなく、ウグドの声だった。
 空耳だろうか。――ううん、空耳だってかまわない。
 ラギルニットは鼻水と涙を一緒に垂れ流して、しゃくりを上げながら叫んだ。
「……っウ、グド……ッ」
 船べりから身を乗り出して、どこにいるとも分からないウグドに呼びかける。
「助けて、ウグドー!!」

「うおぉ、ラギル殿ー!! ウグドはここにおりますぞぉおおお―――……!!!」

 声が返って来た。
 今度こそ、ラギルニットは涙を引っこめた。
 驚きに声も出ない。それでも必死にウグドの姿を探して、海上を見回す。
 そして、見つけた。
 薄っすらと見える無人島の方角、激しい波飛沫を上げて、近づいてくる何か。
 ウグドだった。
「う、うひゃあ……!」
 凄まじい泳ぎっぷりで近づいてくるウグドに、ラギルニットは妙な悲鳴を上げた。若干恐怖が混じっていたことは、本人の名誉のために伏せておく。
 ウグドは雨や高波などもろともせずに、舟目掛けて真っ直ぐ泳いできた。
 幻でも何でもない。本物のウグドだ。
 ラギルニットは船べりにしがみつき、気づけばウグドに声援を送っていた。
「ウグド! ウグド、がんばれ、がんばれぇえ――!」
「ラ、ラギル殿……、あとちょっとですぞぉ……!」
 だがラギルニットを見つけて気が緩んだのか、ウグドの力はそこでついに切れてしまった。
「あと、ちょ――ぼこぼこぼこ……っ」
「ぎゃー!」
 いきなり海に沈んだウグドに悲鳴を上げ、ラギルニットはいても立ってもいられず立ち上がった。そして息を吸う間も惜しんで、海へと飛びこんだ。

 茜色に染まった透明な海水が、ウグドの体を包みこんでいた。
 口から零れた細かな水泡が、きらきらと輝きながら海面へと昇ってゆく。
 ――しょっぱいですなぁ……。
 溺れたときに呑んでしまった海水が、喉を通って、焼けつくような塩分を胃に注いだ。
 ――何ゆえ、塩水はしょっぱいんでありましょうか……。
 思えば無人島に着く前、ウグドはホーバーとセインにそんな疑問を投げかけた。塩水だからだろ、と突っ込みを入れられたが、別にそんなこと言われるまでもなく分かっていた。
 この無人島に来たくなかった。
 来てしまえば、会わずにいることがきっと辛くなる。
 そんな甘えた気持ちを誤魔化すために投げかけた、どうでもいい疑問。
 ――ああ、ラギル殿に会いたい……。
 沈んでゆく意識の奥で、ぼんやりと想う。
 ――もう一度、ラギル殿の太陽のような笑顔を……。
 不意に、視界の片隅に光が溢れた。
 遠のいてゆく海面が揺らぎ、海中に射しこむ夕光の帯がひときわ輝きを増した。そしてその光の帯の中を、真っ直ぐに潜ってくる子供がいる。美しくしなやかに、小さな手足を無駄なく動かし、黄金の髪を後方へとなびかせて。
 ラギルニットだった。幼くて愛しい、ウグドの大切な宝物。
 ラギルニットの顔が、ウグドを見つけて笑顔に輝く。
 意識がはっきりと覚醒した。真っ直ぐに差し出された小さな掌に、そっと自分の手を重ね、二人一緒に海面へと昇ってゆく。
 夕暮れの海を、ゆっくりと、水の泡が昇ってゆくように。

「……っぷはぁ!」
 海面へと顔を出したラギルニットは、大きく息を吸いこんだ。
 続けて上昇してくるウグドに、導くように手を差し伸べて、一緒に小舟へと泳いでゆく。波間で不安定に揺れていた小舟にしがみつき、どうにか体を引きずり上げた二人は、重たい体を宝物の上へと転がした。
 先に回復したラギルニットは、いまだ荒い息をしているウグドへと身を乗り出した。
「ウグド――だ、……」
 大丈夫? そう聞こうとした。
 だが、ラギルニットは口を噤んだ。
 興奮から冷めると、どうしようもない不安が込み上げてきた。
 どうしてウグドはここに来たのだろう。こんな海のど真ん中まで、何故来てくれたんだろう。自分のことが苦手だって、そう言ったのに。
「……ラ、ラギル殿」
 何も言えずにいるうちに、ウグドもまた呼吸を整え、どうにか身を起こした。
 苦吟に満ちた修行僧の顔が、食い入るように目の前のラギルニットを見つめる。
「怪我は、ラギル殿!?」
 焦りにひっくり返った声で問われて、ラギルニットは慌ててふるふると首を振った。
 途端に、ウグドの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「……良かった。無事で……良かった、ラギル殿……」
 そしてそのまま、深々とうつむいてしまう。
「このまま見つからなかったら、どうしようかと……っ」
 心配してくれていたのだ。
 ラギルニットはそのことに気がついて、口をぱくぱくさせた。
 言いたいことが山ほどあった。心配かけてごめんなさい。来てくれてありがとう、そう言いたかった。
 けれど怖くて、何も言えない。
 また言葉が通じなかったら、またウグドを悲しませてしまったら。
 そう思うと声の一つも出せない。
 言葉にならない声の代わりに涙がぽろぽろと零れた。唇を噛んで堪えようとしても、どうしても堪えきれない。ラギルニットは涙をひっこめようと、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
 ――ふと固く握りしめた拳が、優しい何かに包まれた。
 目を開くと、ウグドの大きな掌が、そっとラギルニットの手を包みこんでいた。
「……許して、いただけまいか、ラギル殿。私はラギル殿を傷つけたくなかった。そのために過ちを犯してしまったのであります」
 ラギルニットはただ黙ってウグドを見つめる。何も言えぬまま、けれどうんと身を乗り出し、次の言葉を待って。
 ウグドは手に力を篭めて、ふと、微笑んだ。
「言葉など、必要ありませんでしたな。たとえ話ができなくとも、目を背けず、ちゃんとラギル殿を見ていれば、何を言っているかは聞こえたはずなのに。……ラギル殿は私の、大切な大切な宝物なのですから」 
 真摯に向けられた言葉は、幼いラギルニットには少し難しかった。
 けれどウグドが自分をまだ好きでいてくれている。その事実は、言葉ではなく、自分の両手を包みこむ掌の温かさから、優しく微笑む瞳から伝わってきた。
 それで、十分だった。
「……うん。おれも、……よ」
 やっと口に出来た「言葉」は、またウグドには伝わらなかったようだった。一瞬だけ、彼の顔が戸惑いの色を宿す。
 だがウグドはふと笑って、うなずいた。
 ラギルニットもまた、顔をほころばせた。

 浜辺に取り残されたホーバーとセインは、ひどく疲れた気分で砂の上に寝転がっていた。
 夕立はいつしか止み、雨に洗われた空は、鮮烈なまでの焔色に染まっている。
「……おい、南国豚野郎」
「……何だ、俺様馬鹿」
「お前、出来るか? あれ」
 セインは先ほどウグドが凄まじい勢いで登っていった断崖絶壁を顎で示した。
「あいつ、あそこから飛び降りやがったぞ……」
「ああ、見事だったな……」
「てか普通死ぬだろ、あの高さから落ちたら!」
「……まあ、修行僧だから」
 それ以外の理由は見つからない。
 あの断崖絶壁を登りきっただけでも驚愕ものだった。何度も足を滑らせ、転がり落ちてはまた濡れた岩肌に足を掛け、再びずり落ちては登ってゆく。怪我だらけになりながら、ついには頂点まで登りつめた彼は、「見つけましたぞー!」と叫ぶなり、崖から遥か彼方の海面まで飛び降りたのである。そして、そのまま水平線に見えていた小舟目掛けて、脅威の速度で泳いでいってしまった。
 霞んだ視界の向こう、二人並んで舟に乗っているのが見えたときには、ホーバーもセインも脱力して、砂浜に倒れこんでしまった。
「訳わかんねぇ、あれ。人間じゃねぇ。絶対ぇ人間じゃねえよ。きっと邪神ブーダーだ、ブーダーがついに奴に大臣の座を、そ、そうに違いねぇんだ……!」
「まあ、修行僧だから……」
 それ以外の理由は見つからない。
 殴り合いをして怪我だらけな上に、水分を吸った服がへばりついているせいで、体が恐ろしく重たい。それでもどうにか上体を起こし、海の方に目を向けると、すっかり晴れ渡った水平線の向こうで、ラギルニットとウグドが大きく手を振っていた。どこか必死に見えるのは、助けを求めているからだろう。
「……しばらく放っとこ。もう無理」
「へぇ、珍しく気が合うじゃねぇか、ホーバー」
 ホーバーは乾いた笑いを浮かべて、再びばたりと背中から倒れこんだ。
 遠くから聞こえてくる悲鳴と必死の呼び声。小気味良いぐらいの子守唄だ。
 ホーバーはうとうととまどろみながら、ふと頭に巻かれた血みどろの包帯に手をやる。
「……ところで、何で俺、包帯してるんだ?」
「遅ぇ!」

+++

 海の上にポツンと浮かぶ二隻の小舟。
 馬鹿らしくなるほど良い天気で、シラけるほど静かだ。
 音といえば時折聞こえる海鳥ズーダラッダランの、「ふあぁー」という情けない鳴き声と、舟の際を打ちつける波の音、そしてゆっくりと水を掻くオールの音ぐらいだ。
 波のない穏やかな大海をオールでもって進みながら、ホーバーはチラリと、わずかに離れた辺りを並走するもう一艘の小舟を見た。
「ホーバーちゅあーんっ」
 唐突に、舟上の主であるセインが力の抜ける声を上げた。
「なぁーあーにー……」
 途端、ぶはっという盛大な吹き出し音とともに、セインが笑い転げた。
 ホーバーは溜め息をつき、この数日ですっかりやせ衰えた顔をさらにげんなりとさせた。
「……本気で俺、お前が嫌い」
「あっはーん、お・れ・さ・ま・も!」
 しかし二人の視線は、ふと背後へと向けられた。
「……でも俺様、あいつが一番嫌い」
「……ああ、俺も」
 小舟の後をすいすいと平泳ぎでついてくるのは、誰であろうウグドだった。
 ウグドは幸せ満面に微笑すると、泳ぎながら大きく手を振った。
「お二方ー! こうしていると、海の中で繰り広げられたラギル殿との愛のアバンチュールが、心によみがえってくるようでありますぞー! ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、さあご一緒に!」
 ホーバーとセインはチラリと目配せし、チラリと妙なものを見る目つきでウグドを見て、またお互いシラけた気分で見つめ合って、再び無心にオールを動かしはじめた。

 彼らの背後では、無人島が眩しい陽光を受けて光輝いている。
 きっとその浜辺では、小さな子供がいつまでも手を振っていることだろう。とうに見えなくなった小舟に向かって、見送りの言葉を大きな声で叫びながら。
 声は沖合いの舟にまでは届かない。
 けれど、ウグドは笑った。
 聞こえないあの子の声に、耳を傾けながら。

おわり

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