Silent voice

第四話「探さないでください」

 セインはぬぼーっとした顔で、寝台の上に起きあがった。
 寝起きのその間抜け顔は、何故かひどく青ざめいている。
「…………」
 セインは冷や汗でぐっしょりと濡れた額に、震える手を押し当てた。
 全身がカタカタと小刻みに震えていた。喉もカラカラに乾き、何度も生唾を飲みこむ。
 いくらか経ってから、ようやく落ち着いてきたのだろう、セインは震えた息を吐き出し、心底恐怖した様子で、ぼそっと呟いた。
「屁が止まらねぇ夢見ちまった……」
 そのまま両手で頭を抱え込み、深くうなだれた。

「超こえぇー……」

+++

 爽やかな早朝。
 朝露が草木を濡らし、葉先や枝先から、透明な滴を零している。
 澄み切った蒼天には色とりどりの小鳥が優しく飛び交い、美しいさえずりを奏で──
 ブー!
 ──た矢先、嫌な音が響き渡った。

 爽やかな朝をぶち壊した張本人は、状況を把握できない顔で、しばし虚空をぼんやりと見つめた。
「ぎゃー! くっさーいホーバー! エンガチョー!」
 隣ではラギルニットが、日に焼けた小鼻をこれでもかと摘みあげ、空いた手をぶんぶん振り回し、空気をかき回した。
「……ごめんなさい」
 ホーバーは虚ろな顔で、ぼそっと謝罪の言葉を呟き、ぺこりと頭を下げ、
 ゴン!
 その勢いでテーブルに頭を打ち付けた。
 ダラダラダラ…ホーバーの頭に巻かれた真っ白な包帯に、みるみる血の色が広がってゆく…ような錯覚が見えて、ラギルはぎゃー! と声を上げた。
「ひえー! うわー! ごめんホーバー、うそだようそだよー! 死なないでー!」
「あ、頭が重い……」
 ホーバーは頭が鉄ででも出来ているかのように、よろよろふらふらと頭を持ち上げた。
「な、何か今回のは、いつもより眩暈がひどい気が……」
 頭を押さえ、ホーバーはぶつぶつと独りごちる。いまだにこれが心労などではなく、頭の怪我のせいとは、まったくもって気付いていない。何故なら血が足りてないので、頭がまるで働いていないという、危険な状態だからである。
 ラギルニットはわたわたとホーバーの座っている椅子に駆けより、ホーバーの膝に抱きついて、ホーバーの顔を見上げた。
「だ、大丈夫?」
 ホーバーはどこか違う世界を見つめた目で、一応ラギルニットを気遣ってか、こくんとうなずき、薄っすらと微笑みを浮かべた。かなり怖かった。
「え、えーっとえーっと、あのね、ごめんね、ホーバーのオナラじゃないよ、今の」
「……じゃあ、お前か」
「ぎゃ! ち、違うよ、これこれ!」
 ラギルニットは慌てふためいて、ホーバーの尻に敷かれたクッションを引っ張りだした。そして得意げに腰に手を当てると、片手でクッションを掲げ持ち、パンパカパーンッと口で言った。
「ブーブークッションー!」
 ホーバーは初めて見る物体と、初めて聞く名称に首を傾げる。
「これね、今アッシュクラースで流行ってるオモチャなんだよ。この間ルイスがくれたの! 『いっけんクッションのフリして、座るとブーッと音が鳴るんです』!」
 商品のキャッチフレーズらしき言葉を棒読みで言うラギルに、ホーバーは「ふーん」と呟き、クッションを手にとり、裏返しにしたり、かかげて下から眺め上げたりした。笛のような妙な突起がついている以外が、普通のクッションと変わりないが、この突起が音の正体というわけだろう。
「コイヌール社製……。下らない会社だ、コイヌール……」
 ホーバーはクッションをぱふぱふ叩き、ごく自然な動作で隣の椅子の上に乗せた。そして微笑を浮かべ、ラギルニットを振りかえる。
「まあまあラギル、隣座れよ。たまにはじっくり、おしゃべりしよう」
「わーい、おしゃべりするー!」
 ラギルニットは万歳と両手を振り上げ、…ぴたっと足を止めた。
「ああ! ホーバー、おれのこと今、だまそうとしたでしょ! だめだよ座らないよ、ぜったい座らなーい!」
「ち」
 ホーバーは舌打ちし、悔しそうな顔で隣の椅子を振り返り──「お」と片眉を上げた。
 隣の部屋から、ちょうどセインがぬっと現れたところだった。
「あ、おはよー、セイン」
 ラギルニットの元気な挨拶に、セインはやけに青い顔をぼんやりと持ち上げ、口を開いた。
「……はよ」
 瞬間、室内の気温が、氷点下にまで下がった。
 ──挨拶を返してきた、あのセインが!
「ど、どうした、セイン」
 ホーバーは不気味なものを感じつつ、セインの様子を窺った。
 セインは半目をこちらに向け、一歩一歩歩きはじめる。
「……へんな夢をみた」
 そう言いながら、セインはホーバーの隣の椅子の背もたれを、引いた。
 ラギルニットとホーバーは、一瞬ちらりと顔を見合わせ、にやっと笑った。
「恐ろしい夢だった……」
 セインは椅子に、どっかりと腰を下ろした。

 ブー!

 セインは、恐怖に慄いた顔で、ばっと立ち上がった。
「うははははははは! セイン、盛大なオナラだね……!」
 ラギルニットがその様子を見て、腹を抱えて大爆笑をはじめた。ホーバーも耐えきれずに吹き出し、肩を震わせる。
「? ?? ……!?」
 セインはおろおろと周囲を振り返り、──やがて椅子の上に転がっているものを見つけ、何が起きたのか把握したのだろう、わなわなと震え始めた。その顔が真っ赤に染まる。
 ラギルニットとホーバーは笑い転げながらも、避難態勢に入った。
 しかしセインの第一声は、予想外のものだった。

「む、む、無神経な奴らめぇ──────!」

「……は?」
 ラギルニットとホーバーは、思わず逃げるのも忘れ、首を傾げた。
 セインはがしがしとフケが飛ぶ勢いで髪を掻きむしり、ダンダンと地団駄を踏んだ。
「くそ! ばかにしやがって! どうせ俺様は、屁が止まらねぇ男さ! ああそうさ、いいじゃねぇか止まらなくったってよ! それも個性の一つだろーがそんなゴミでも見る目で見やがってなんだよ夢の中でしか生きていられない架空の人間どもめが──!」
 セインはがむしゃらに腕を振り回して、テーブルの上の花瓶やらペン入れやらを引っくりかえし、壁にかかった絵やら何やらを引っぺがし、キーッと壁を蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴りまくった。
 そして半泣き状態で、唖然とする二人を振りかえり、びしぃっと指を突きつける。
「分かるか分かるかお前らにええ!? 屁が止まらねぇっつー、あの恐怖と羞恥心がお前らに理解できるか!?」
 その指先がカタカタと小刻みに震える。
「この無神経が! 無神経がー! 俺様は、俺様は……!」
 言うなりセインは、テーブルをうりゃーっと引っくり返して、地面に放り捨てた。
「傷ついたー!」
 ホーバーは椅子に座ったまま、ラギルニットはぽかんと立ち尽くしたまま、止めることも出来ずに、ただその様子を見守る。
「はぁ、はぁ……!」
 セインは激しく呼吸を繰りかえし、深くうなだれる。
「……おしまいだ」
 ぼそっと言うなり、セインはばっと顔を上げ、ホーバーを睨みつけた。
「俺たちのラブラブな関係も今日限りだ、無神経な南国ブタめ! 誰とでも浮気するがいいさ!」
「…………」
 南国色の髪なホーバーは口を半開きにしたまま、呆気とセインを眺める。
 セインは目をうるうるさせ、突然身を翻した。
 そのまま振り返らずに、小屋の出口へと向かってゆく。ズボンのポケットに手を突っこみ、肩をすぼめて。逆行が彼の姿を、光で縁取る。
「探すんじゃねぇぞ。……あばよ」
 そして哀愁漂う男の背中は、朝の光の中へと消えていった。

「なんだありゃ」
 随分時間が経ってから、ホーバーがようやくぽつりと呟いた。
 部屋は嵐が去ったような有様だ。テーブルは転がり、物は地面に散らばり、壁にかかった絵がちりじりになって、ひらひらと虚空を舞っている。
「とりあえず、何か」
 まだ口をぽかんと開いたままのラギルニットを、ホーバーは苦悩に満ちた顔で振り返った。
「厄介払いできた、みたいだな」

+++

 セインは怒りと羞恥に顔を赤くしながら、深くうなだれ、ずかずかと草の上を歩いた。
「くそ、くそ」
 いかにも性悪そうなひん曲がった唇から、何度も何度も力ない罵りが漏れる。
「あんまりな仕打ちだ、可哀相な俺様! こんな愛くるしい良い奴なのに」
 ラギルニットのクソガキの「あれ」は面白可笑しいし、セインに惚れこんじゃってるホーバーもなかなか愛しいが、人が傷つくようなことを平気でやってのけ、大笑いするあの無神経さには、幻滅もいいとこである。奴らはきっと今頃後悔に後悔を重ねて、泣き叫んで愛しいセインの名を呼び、もはや一家心中する勢いに違いないが、後の祭りというやつだ。
 ぐしっと鼻をすすり、腹いせに地面に生えまくる雑草を、ぐーりぐりと踏みつぶしながら、セインは目的地もなくひた歩いた。 
 ともかく一刻も早く、連中の近くから離れたかった。
 数分してセインは、射し込む陽射しも程よく暖かい木陰見つけ、そこにどかっと腰を下ろした。
「あーあ、俺様ふて寝ぇっと」
 そのまま柔らかい若草の上にごろりと横になり、セインは目を閉じる。
 しかし、次の瞬間だった。

 ブー!

「──!?」
 恐怖の音色がセインの安眠を、一瞬にして打ち砕いた。
 セインはバッと目を開け、バッと上体を跳ね起こし、
 白くなった。
「ブー、であります」
 次に、青ざめた。
「ブー。さあご一緒に、軍曹殿」
 寝転がったセインの脇に、ウグドが当たり前のように鎮座していた。
 日に焼けたごつい右腕に、唇を押し当て、思い切り息を吹き付けて「ブー」だの「プー」だの真面目腐った顔で、音を鳴らしている。
「やあ楽しいですなぁ。ああ、これ、ブー、私が考えた新手の遊びであります、軍曹殿。よろしかったら、プー、どうぞお納めくだされ、特許はまだとって、ブビー、おりません故、権利はあなたに差し上げます、ブブー、ええ喜んで」
 時折意味もなく腕に息を吹き付けつつ、ウグドは別に喜ばしくもなさそうな顔で言う。
「使用法によっては、敵の気力を奪う兵器になるやもしれませ……おおっと、スパイがどこに潜んでいるともしれませんな、口は慎みましょう、ブー」
「…………」
「ブー、ブピー」
「…………」
「ブー、軍曹殿?」
 バキャァ!
「ブー軍曹だとー!?」
 セインは怒号とともに、ウグドの顎にパンチを繰り出した。ウグドは垂直にぶっ飛び、勢い余って頭上に張り出していた大木の枝に、頭をガツンとぶつけた。
「死んじまえぇ!」
 ウグドの頭が枝にめり込み、そのままぶらんぶらんと宙に垂れ下がっている内に、セインは脱兎のごとく逃げ出した。その目は悔しさと羞恥と怒りで真っ赤に血走り、ひそかに目尻には涙が光っていた。
 何でブー軍曹なんだ! 何故だ何故ウグドがブー軍曹のことを知っているんだ! 何で夢の中の俺の立場を奴が知っているんだー!
「俺はブー軍曹じゃねぇ、ぢぐじょー!」

 セインはさらに走り、島のほぼ中央にある森林に飛び込んだ。それなりに大きな森で、この中にいればそうそう誰かに見つかることはない。
「くそー!」
 セインは周囲に誰もいないことを確認すると、優しげな風体の大木に顔を突っ伏して、半泣きの雄叫びを上げた。
 船上を恐怖のどん底に叩き落す「帝王セイン」としては、少々情ない一場面であった。

 その頃。一家心中する勢いのホーバーとラギルニットは、きわめて平穏な気分で、菜園の手入れをしていた。
 無人島にはもちろん店などないので、ラギルの生活をまかなう全てものは、自家栽培によって成り立っている。船員たちが汗水たらして作った菜園には、季節の野菜や、ケガの多い年頃なラギルニットには必要不可欠な、薬草の類がわんさと植わっていた。
「さて、と」
 あらかた手入れを済ませ、ホーバーは額に浮かんだ脂汗をぬぐった。
 カンカン照りの太陽が、怪我した頭をぐらぐらと沸騰させ、彼の寿命ゲージはそろそろ臨界点突破だ。
「ちょっと休むけど、ラギルはどうする?」
 本能的に身の危険を察知したのか、ホーバーは土気色の顔で、ふらふらと立ちあがった。
 雑草を引っこ抜いていたラギルニットは、ぱぁっと顔を明るくすると、大きく手を振りあげる。
「はぁい! 海で泳いでくる!」
「おー、溺れんなよ」
「愚問であるぞー」
 ラギルニットはにぱっと笑うと、どだだだだっと家に入り、ブーブークッションを手に、再び飛び出してきた。
「何に使うんだ?」
「海の中でも音が鳴るか、試してみるの。ウミウシをひっかけてやるんだ!」
 謎の試みに頬を紅潮させて、少年はそのまま全速力で丘を駆けていった。途中くるりと振りかえって、大きく手を振ることを忘れない。
 小さな姿が消えるのを待ってから、ホーバーは少し残っていた桶の水を畑に撒いて、家の中へと入った。
 光に慣れた目には、やけに暗く感じる。桶を入り口脇に置き、おぼつかぬ足取りでテーブルの脇を通り過ぎる。そして左手にある部屋に入ると、そのまま寝台に倒れこんだ。
「うう、ぐらぐらする……」
 ついでにガンガンともしてきた。
 ホーバーはうなりながら頭を抱え──いい加減包帯に気づいてほしい──、今日の夕飯はどうしようとぼんやり考える。
 まったく、他の二人には困ったものだ。無人島下りのメンバーを決めるくじ引きが、時に血を見る騒動になるのは、この辺の事情が絡んでいる。料理が出来る奴一名、毎度さぼってどこかへ消える奴一名、何故か来ない奴一名。料理を作れる一名が死にかけてたって、ラギルの料理を出すほかの要員は、ホーバー以外誰もいないのである。
 野菜たっぷりシチューと、船からちょろまかしてきた肉と青菜の炒め物と……ああ、そういえば肉はセインに全部食べられてしまったんだ後で殺す死ね偏食児童めとなると肉はないから代わりに保存しておいた魚の──。
 意識が朦朧としてくるのに任せて、そのまま眠ろうとしたホーバーの脳裏を、昨夜の出来事が駆け抜けていった。
 ──ずっとウグド、おれのこと避けてるんだ!
 耳に蘇るのは、ラギルニットの泣きじゃくる声。
 ──ずっとしゃべってくれないし、会いにきてくれないんだよ!
 不可解だった。
 ウグドはラギルニットをこよなく愛していた。傍から見てると、気持ち悪いぐらいにラギルを可愛がり、まさに目に入れても痛くないの体現者だった。むしろ本気で目に入れたがる。
 なのに何故。
 ──おれ、なにかしたのかな。
 何かしたから、ウグドがラギルニットを無視している。
 ホーバーはそのパターンで、今回の不可解な一件を推測してみる。だが一瞬で推測は終了する。考えもつかなかった。セインならばともかく、あのウグドゼード=ヴァリスが、ラギルニットが何かをしたという理由で無視しているなど、どう考えてもありえない図だった。
 ぐらぐらぐらぐら。考えのまとまらないホーバーは、重い目蓋を閉ざすと、そのままこてっと気絶した。

+++

「…………」
「…………」
 泣き疲れ、気づけば眠っていたセインは、不意に何かの気配を感じて、うっすらと黒眼を開いた。
 目の前に、ウグドの顔があった。
 セインの傍らに横たわり、合わせた両手を頬の下に敷くという「おねんねポーズ」で、こちらを憮然とした顔でのぞきこんでいる。
「セイレスたんは、おねむでありまちゅかー」
「……おねむでちゅー」
 まだ寝ぼけてるセインは、不気味極まりない問いかけに、にへっと笑って答え──直後、悲鳴をあげて飛び起きた。
「しゅ、しゅしゅしゅしゅしゅ!」
「お、それは二十跳びの擬声でありますか!? ならば私めは二十交叉飛びで反撃を」
「っ修行僧ーッッ!」
 セインは至近距離で添い寝していたウグドから、すっ飛ぶように後ずさった。
「何故逃げるでありますか、軍曹殿」
「お前が嫌いだからに決まってるだろこの……っこの……っこ、この……このこの……こ、この!」
 この変態―! とか言いたかったのだが、ウグドの気色悪さを表わすのに適切な言葉が今一歩見つからず、セインはひたすら「このこの」叫んだ。ちょっと「のっこのっこ」と聞こえてきて、ウグドは内心でプーッと吹き出す。
「軍曹殿。嫌い嫌いも好きのうちと良く言いますゆえ、それでは軍曹殿がまるで私が好きだと告白しているようなものであり、少々アレですぞ」
 匍匐全身するがごとく、這いつくばって逃げるセインの横を悠々と歩きつつ、ウグドは真面目腐って言う。すると単純馬鹿なセインは、驚いた様子で目を見開いた。
「な、なんだと!? ……そうだったのか、よし、じゃあ、俺はお前が好きだ! これでどうだタコ!」
「……申し訳ない。私にそういう気はないであります」
 帝王一世一代の告白を受け、ウグドは無表情をぽっと赤らめると、乙女の拳を口元に当て、ふいっと顔をそらした。
 そして横目で、ちらりとセインを見つめる。
「でも軍曹殿が本気なら、考えてもいい……かもでありますぞ」
「ぁああ嫌だ本当マジ嫌だ死ぬほどキモい近づくなぁああー!?」
 セインは半狂乱で下草を毟ってちぎり、中年乙女にぺれぺれっと放って投げる。そしてウグドが顔を庇った隙に、立ち上がり様の大逃走を図った。
「どこへ行かれるでありますか、軍曹殿。何か不快な思いでもさせましたかな? これでも見て、気分を和ませてくだされ。……ブーッ、ブピー。どうですかな、ブー軍曹殿」
「ヒギャー! 出たぁあーっっ」
 二人は、陸上選手が泣いて優勝杯をゴミ箱に捨てそうな猛スピードで、命を懸けた──いや、操を懸けた大規模鬼ごっこを、開始したのだった。

+++

 極彩色の鳥が頭上をかすめてゆく。
 それを木々の合間に見送って、ラギルニットは森の中を軽快に走っていた。
 この無人島は、数ある孤島の中では小さい部類に入るが、それでも四人で暮らすには巨大だった。内部は手付かずの大自然が根付いていて、その周囲は砂浜のある海岸と、断崖絶壁で囲われている。遊ぶ場所には、実に事欠かない按配である。
 ラギルニットは今、バックロー号が着くのとは真逆にある海岸を目指していた。
 白い浜辺の綺麗な海岸で、大陸側を向いているため、高台に上ると賑やかな港町を一望することが出来る。浜には小舟が何艘か、岩の陰にこっそりと用意されていて、無人島暮らしに飽きた船員が一人で、或いはラギルニットを連れて、町に遊びに行くのに使われる。
 この中の一艘を、ラギルニットは宝物置き場に使っていた。海岸に流れ着いた色々な漂流物や、島や船で使わなくなったものをいれてある。
 そんなわけで、その砂浜はラギルニットの大のお気に入りなのだった。
(前は、よくウグドと遊びに来た)
 不意に、ラギルニットの目が曇る。

 ウグドー! 見て見て青い貝だよー!
 おお、綺麗ですなぁ! よし、宝舟にしまっておきましょう!
 うんうん! これ、内緒だよ!? 誰にも内緒だよ!?

 ウグドとおれの、秘密の宝物だよ!

 ラギルニットはきゅっと唇を引き結んで、がむしゃらに腕を振り回して走った。
「あれ?」
 まばらな木々の間に水平線のきらめきが見え、土にかわって砂が足をくすぐり始めた頃、ラギルは唐突に立ち止まった。
 目の前に広がる真っ白な砂浜。
 寄せては返す波に打たれて、セインがうつぶせで野垂れ死んでいた。
「……探してないよー」
 一応断りを入れておいて、少年はブーブークッションを小脇に、セインの方へと近づいてゆく。
 砂に没した黒い長身は、舌をだらりと出したまま、死人そのものの面でぴくりとも動かない。細身の黒犬が寝そべっているみたいで、なんだか面白かった。
 クッションが鳴らないよう気をつけながら、ラギルニットは彼の側にちょこんと腰を下ろした。
 ざぶーん、ざぶーん。
 泡だった浅い波頭が、なんだか海に逃げ込もうとでもしたかのような体勢で倒れているセインの頭を、濡らして去ってゆく。波が顔の下をくぐるたび、口からボコボコ泡が出てくるので、生きてはいるらしい。
 満潮がきたら、多分セインは死んじゃうなーとか思いながら、ラギルは赤い瞳を再び曇らせた。
 ウグドの話が、聞きたかった。
 セインは島に下りた時から、しばらくウグドと一緒にいたという。だったらウグドが何故自分を避けているのか、それを聞けるのではないかとそう思った──のだが。
 嫌われている理由を知るのは、とても怖い。すごく怖い。
 目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭って、ラギルニットはしばらくその場でしゃがみこんでいた。

 それから少し経った頃だった。
 セインの体が、ビクッと跳ねた。
 きょとんと眺めていると、彼はうつぶせたまま目を見開き、
「奴の気配がする……!」
 と苦々しげに言った。
「だれの?」
 ぽかーんと聞き返すラギルには気づかぬまま、セインは頭を抱え、その場でダンゴ虫みたいに丸まった。
「お、おお、俺はブー軍曹じゃ」
 ざぶーん。
「ボコボコボコーッ」
「セ、セイン」
 波が顔の下を通っていって、言葉半ばでボコボコ言い出すセイン。完全に恐慌状態に陥っている。
 しかしラギルニットが、とりあえず起きたせインに、ウグドの話を切り出すか切り出すまいかで悩みかけた、その時。
「ぐーんそーう殿ー!」
 遠くの方から、懐かしい声が聞こえてきた。
「来たぁあああ!」
 セインは悲鳴をあげると、わたわたわたわたと手足を振りまわした。
「軍曹殿ー!」
 動揺を後押しするかのごとく、急速に声が近づいてくる。
 ウグドの低くて無表情な声が、どんどんこちらへと。
 ラギルニットは思わず、ブーブークッションを抱きしめた。
 ブー。
「ひぃ! 今のは俺じゃないぃい! 本当に俺じゃないぃ!」
 セインはガビンッと肩を震わせ、砂浜の上で見苦しくもがく。
 三者の思いが複雑に交差する中、とうとう地平線の向こうに、ウグドの上げる土埃が見えてきた。
 ラギルニットは硬直する。
 セインは呪いでもかけるようにブツブツ呟きながら、何を思ったか、砂浜に両手で穴を掘り始める。
「軍──」
 やがて、土埃の向こうから、ウグドが飛び出してきた。
 見慣れたターバン姿、砂まみれのマント、渋い無表情な親父顔。

 一瞬、ほんの一瞬、彼は確かにラギルニットを見た。
 セインの傍らでクッションを握りしめている、ラギルニットを。
 今にも泣きだしそうな、小さな子供の姿を。

 唐突に。ウグドは百八十度方向転換をした。
 見開かれた眼差しはすっと反らされ、不自然なほど急転換をすると、来た勢いのまま、再び土埃をあげて去っていった。
「き、消えた!? 消えた消えた!? あいつ消えた!?」
 聞こえなくなった遠吠えと、牛の猛進のような足音が遠ざかったのに気づくと、セインが砂をかぶっていた頭をガバッと上げて、ぶんぶんと周囲を振り仰いだ。
「いねぇ! よしいねぇ! 俺は乗り切った、俺はついに乗り切ったヒヒヒヒヒッさらば隊員俺に恐れをなしてとうとう姿を消しやがったイヒヒヒヒッ嬉しいっおっかしぃ!」
 目を剥いて半泣きになりながらの、勝利の雄たけび。
 相変わらず存在を気づかれていないラギルニットは、ウグドの去っていった方向をぼんやりと眺め、セインへと視線を移し──大きな瞳から、大粒の涙をこぼした。
「行っちゃやだぁ……!」
 唐突に間近で上がった子供の泣き声に、セインはハッと我に返った。
 慌てて辺りを見回し、すぐ真横にクッションを放りだして泣くラギルの姿を見つけると、彼は口をあんぐりと開け、顔を真っ赤にした。
「ラ、お、お前、いつからそ、そこに」
 今のを見られた! 明らかに今の醜態をこのガキに見られた!
 セインは羞恥心で頭に血を上らせると、口封じのために、うがぁっと腰のカトラスに手を伸ばした。とっても大人げない。
 しかしそれよりも先に、セインの胸に、ラギルニットが飛び込んでくる。
 完全に予想外の行動だったので、セインはラギルを受け止めきれず、そのまま背中から砂浜に倒れこんだ。ちょうどそこにあった小石が、ものすごく痛い角度で背骨にぶつかり、セインは声にならない悲鳴をあげる。
 しかし彼の痛みをよそに、ラギルは倒れた黒犬にしがみついたまま、うわーんっと大声で泣きじゃくり始めた。
「このガキー!」
 セインは泣き声と同じぐらいの大声で雄叫ぶと、ラギルを引っぺがしにかかった。
「く、くそ、この……はがれろ、ガキ! んにゃろう!」
 しかし子供の馬鹿力は案外強いもので、がっしり腕を巻きつけたラギルニットはなかなか離れようとしない。セインの胸に頭を押し付けて、喉が裂けんばかりに泣きじゃくっている。
 大嫌いな「ガキ」に抱きつかれ、なんだかスーッと血の気が失せてくる。
 セインはくらりと青ざめた顔を砂浜に落とすと、うううっと力ない嗚咽を漏らした。
「頼むから、どいつもこいつも、俺様のことはもうほっておいてくれ!」
 人気者は辛かった。

 眠っていたホーバーは、ふと物音を聞いた気がして、寝台から身を起こした。
「ラギル?」
 呼びかけてみても返事はない。
 不審に思って、寝台から這いでて、部屋を出る。
 家の入り口から最初の部屋となる厨房兼居間に出ると、ホーバーは目を見開いた。
 室内中央に置かれたテーブルの、四脚だけ置かれた椅子に、失踪中のウグドが座っていた。
「ホーバー殿」
 ウグドは顔を上げず、いつになく暗い表情でぼそりと呟いた。
「うん」
 動揺をやり過ごし、ホーバーはうなずく。
 何も言わず、ウグドと真向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
 ウグドは溜息を一つ落とすと、姿勢を正して、ホーバーに真正面から向き直った。
「ラギルニット殿のことで、話があるのです」
 いつものハキハキした口調ではなく、昨夜よりもなお思いつめた声が、ぼそっと呟く。
 ホーバーは再び、静かにうなずく。
 しかしウグドはそれきり、口を閉ざしてしまった。
 長い間、沈黙が続く。
 どちらも何も言わない。
 そうして息も詰まるような静寂が、どれほどか過ぎた頃、ようやくウグドが口を開いた。
「ホーバー殿。ラギルニット殿を、私に近づけないでほしいのであります」
 ホーバーは表情を変えずに、テーブルの下でそっと拳を固く握りしめた。
 瞬間的に、ものすごく頭にきた。いや、頭にはすでにキテているが、そうではなく、腹が立ったという意味だ。
 ラギルニットがどれだけ泣いたか。どれだけ辛い気持ちでいるか。どれだけの思いで、明るい表情を無理やりに作っているか。──それを、近づけないでくれ、だと?
 一体ラギルニットがいつ、ウグドに近づこうとしたというのだ。
 ラギルはウグドを思うあまり、近づくことすら恐れた。
 決してウグドを探しに行こうとも、ここに連れてきてとも言わなかった。
 しかしその言葉をホーバーは飲みこむ。ウグドには、ラギルに関しては信頼を置いていたのだ。決してむやみに悲しませることはしないと、そう思ってきた。
 今もその気持ちに変わりはない。
 何か、事情があるのだ。
「何故だ?」
 ウグドはちらりとホーバーを見つめ、苦悩の表情で視線をそらした。
「近づいて、ほしくないのであります」
「それは、何故?」
 辛抱強く、ホーバーは重ねて問う。
「近づかれると、困るのであります」
 やはり答えにならない答えを返して、ウグドは固く口を閉ざしてしまう。
 ホーバーは小さく溜息を落とし、席を立った。厨房の棚の中にしまっておいた、セインすらも宥めた例の酒瓶と、グラスを二つ取り出して、再び席に戻る。
 コツンと瓶を机に置いたところで、まるでそれに後押しされたように、再びウグドが口を開いた。
 それは、残酷な一言だった。
「苦手なのであります」

「ラギルニット殿のことが」

+++

 カチコンッ。
 そんな音をたてて、セインの体は完璧に石化している。
 なんでだろー。
 同時に、人生最大の疑問が、硬直した脳みそを駆け巡ってゆく。
 どうしてかなー。
 固まった口端にだらりとくわえた煙草からは、海水か汗か涙なのか、滴がぼたぼたと地面に落ちてゆく。ついでに長い黒髪からも水が滴る。
 濡れすぼった前髪から覗く双眸には、気力というものがまるでない。
 それもそのはずだ。
 腹の中まで真っ黒なセインは今、真っ白になっていた。
「う、ひっく……!」
 忌々しい泣き声が足元から聞こえてくるという事実に、セインは口端を虚ろに笑わせる。都市の貧民窟に生きる親父だって、こんな立派な「虚ろ笑い」は出来ないだろう。人生全て投げきった、魂もほとんど外に出きった、見事且つエレガントな、虚ろっぷりである。
「……っ……っひ……!」
 ラギルニットがもはや音にもならない声で、泣いていた。目は真っ赤に腫れ、何度も擦ったせいで、瞳どころか白目まで真っ赤になっている。いっそ血でも吹いて死ねとか思う。
 泣いた興奮で、体温が上がっているのも良くわかった。
 何でかというと、仲良く手を繋いで歩いているので。
「……へへ」
 自分からは絶対に絶対に握らんとばかりに、指をだらりと開ききり、セインは薄ら笑う。何が可笑しかったのか、自分でもよく分からない。
 せっかくあの変態の魔の手から、逃れられたのに。
 死魚の目で虚空を見つめつつ、セインは半開きの口からポロッと煙草を落とす。
 あの悪夢にもようやく打ち勝ったのに。
「……へ、へへへ」
 ウグドにされた仕打ちに泣くラギルニットに、しっかりと手を握られたまま、セインはひたすらに小屋を目指した。海賊の寵児ラギルニットの成せる技か、辛うじてしがみつきからは逃れられたものの、手を振り解くことがなぜか出来なかったのだ。
 とりあえず、ラギルニットに延々泣きつかれるのは御免被る。
 自分からこのクソ雀を引っぺがすことが出来るとしたら、あの碧頭をおいて他にいまい。
 あそこまで行けば解放される。あそこまで行けば自由になれる。
 呪文のように繰り返しながら、二つの影は、並んで歩いた。
 なんでだろう。

 縛り首にされた死体が歩いているみたいに、首をだらんと前に突き出し、ちんたら歩くセインと、ラギルニットは、やがて前方に最終目的地である小屋を発見した。
 道中、延々泣き続けていたラギルニットだったが、一度盛大にすっ転んだ後は、ぴたりと泣くのをやめていた。見事に顔からスライディングしたことに驚き、涙が引っ込んでしまったのかもしれない。
 それとも、必死で立ち直ろうとした、その結果だろうか。
 側にいたのがセイン以外の船員だったら、涙を流して抱きしめただろう健気さだが、子供大嫌いな帝王様には「健気」など「死ね」と同義である。
「おら着いたぞ、とっとと消えろクソガキバーカ」
 無気力に呟いて、足元のラギルニットを見下ろすと、子供は唇をぐっと噛みしめて、もう一度だけ目元を擦った。ちなみにセインの罵倒など、生まれた時から聞きなれているので、全くもって気にしていない。
 腹立つほどあっさりとセインの手を離すと、ラギルニットはぺちぺちと両頬を叩き、それでも明るくならない顔を力なくむにむにした。
「あのね、セイン」
「ぁあ?」
 握られていた手を、ゴッシゴッシとズボンで拭いていたセインは、まだ何か用か殺すぞマジでという険悪な目でラギルニットを振りかえる。石化が解けてきたのか、帝王の風格も戻りつつあるようだ。迷惑な話である。
「おれ、さっき聞きたくて、でも聞けなくて──ウグドのことだけどね」
 ウグドという名前を聞いて、セインは盛大に顔をしかめ、いらいらと舌打ちする。
 そんなセインを見上げるため、ラギルニットはうんと首をのけぞらせると、ついに、不安げな瞳で問いかけた。
「ウグド、どうしておれのこと避けてるか、知ってる?」
「知るかバーカ知りたくもねぇしバーカ、俺様無知でごめんなさーい」
 耳の穴をホジホジしながら、憎たらしく答えるセインを見つめ、ラギルニットは「そっか」とうなだれる。
「そうだよね、セイン、無知だもんねぇ」
「……耳クソ食わすぞてめぇ」
 無邪気に罵倒され、セインはラギルニットのつむぢにぐりぐりと耳クソを押しつける。しかし無関心を装っていたセインだったが、ふと、好奇心を覚えて眉を持ち上げた。
「っつーか、やっぱ修行僧って、てめぇのこと避けてんだ」
 直接的な質問にビクッと肩を震わせ、それでもラギルニットは辛うじてうなずく。
「うん、……うん」
「ふーん。なぁんか変だと思ってたけどぉーやっぱそーなんだ。あれあれお可哀相に、ついに愛想つかされちゃったのかしら。ざまぁみやがれっつーか。あはは」
「……うん」
「あー」
 とことん大人げないセインの意地悪な物言いに、今度ばかりはしゅんとなるラギルニット。いつにない暗い反応を返され、セインは笑った口端をそのまま気まずげに引きつらせた。いつもは蹴ろうが殴ろうが罵倒しようが、天然無邪気で蹴り返し殴り返し罵倒し返してくるくせに、どうしよう落ち込んでる……! 慣れぬ事態に困惑しつつ、実は俺様いい奴!? なんて悶々しながら、セインはオロオロと周囲を見渡し、「あーそういえば」と話題を変えることにした。
「なんつーの? ほら、あー……いつから避けられてんの」
 あまり変わっていなかった。
 が、何気なく出た問いかけに、ラギルニットは心底困った顔をした。
「わかんない。でも、でも、おれが何か言ってからだったと思う。あのね、ホーバーとかセインが、驚いたり笑ったりするでしょう。あれみたいなの」
「何か言ってから?」
 要領を得ないラギルニットの説明の中に、セインは妙に気にかかる何かを見つけて、素で反芻する。
 ラギルニットは太ももの脇できゅっと拳を握ると、こくりとうなずいた。
「うん。でも何かって、別に変なことじゃないんだよ?」
 そしてラギルニットは、セインを不安げに見上げ、口を開いた。
「あのね」

 ラギルニットは小屋の側までたどりつくと、泣きはらして真っ赤になった目を擦って、どうにか笑えるように、硬直した頬を揉み解した。
 ホーバーだったら、赤く腫らした目を見ても、うつむいていれば、何も聞かないでいてくれるはずだ。笑いが引きつっていても、気付かないふりで笑い返してくれるはずだ。
 ラギルはぐっと唇を引き結んで、手入れしたばかりの畑の脇を通り過ぎた。振りかえると、セインが物凄く妙な顔をして、何やら考えこんでいる。
 ひどく不安に駆られた。
 やはり自分がウグドに言ったことは、とても変なことだったのかもしれない。
 けれど──本当に何でもないことだったのに。
 ラギルニットは発作的に嗚咽を上げそうになる唇に拳を当てて、ぐっと衝動をこらえる。
 そして小屋の入り口を前にした時、中からひそひそと話す声が聞こえてきた。
 ラギルニットはきょとんと首を傾げ、放っておくとすぐに霞む目をゴシゴシと擦った。
 ──それは、何故?
 ホーバーの声だ。ラギルニットは、そのまま小屋に入ろうとする。
 しかし小屋が地面に落とした影の中へ、足を踏み入れた途端、
 ──近づかれると、困るのであります。
 ラギルニットは、憐れなほどに肩を震わせ、硬直した。
 そして、重苦しい長い沈黙の末、
 聞いてしまった。

「苦手なのであります、ラギルニット殿のことが」

 声すら、あげることが出来なかった。
 息が詰まって、全ての色が褪せてゆく感覚。
 ラギルニットは気付けば後ずさりし、小屋から逃げ出していた。

 考えにふけっていたセインは、唐突にラギルニットが身を翻し、こちらへと走ってくるのに気付いて顔を上げる。だがラギルニットはセインのことなど見もせずに、彼を通り過ぎて、そのまま走り去っていった。
 無人島で鍛えた脚力は、小さな体をあっという間に地平線の向こうへと消し去る。セインはガシガシと黒髪を掻いてそれを見送ると、首を傾げつつも小屋の入り口へ回った。

+++

「苦手?」
 そして小屋の中では、ホーバーもまた不可解さに首を傾げていた。
 ウグドの言う言葉の意味がまるで理解できない。いや、言葉そのものは理解できるが、それを言う心情が、全く理解できなかったのだ。
 嫌な沈黙が流れる。
 ウグドは何も言わず、相変わらずの無表情を力なくうつむかせる。
 ホーバーはじっとウグドの様子を見つめ、やがて決然と首を振った。
「嘘だ」
 途端、ウグドは弾かれたように拳をテーブルに叩きつけた。
 ダンッという音とともに、酒瓶が宙を踊り、着地できずに倒れて転がった。コルクが閉ざされた瓶の中で、液体がちゃぷり……と音をたてた。
「嘘ではありません! 私が勝手にあの子供を苦手に思い、それで──」
「……修行僧」
 突如激昂したウグドに、ホーバーは目を見開いた。
 彼の珍しい怒鳴り声に驚いたのではない。
 ウグドの苦吟に満ちた眼に、涙がにじんでいた。
 自分でもそのことに気付いたのだろう、ウグドは呆然と言葉を失った。
 小刻みに震える手をゆるゆると持ち上げ、彼は口元を、鼻先を、そして目元を覆い隠し、ぐっと歯を食いしばってうなだれた。
「ホーバー殿、辛いのであります」
 狂おしいまでに、痛みが伝わってくる。
「ラギルニット殿の顔を見ることも出来ぬのが、辛くてたまらないのであります」
 揺れていた瓶中の酒が、ようやく静寂に還る。
「自分で決めたこと、けれどしかし、もうとても耐え切れない……!」
 そこでホーバーはテーブルの上に、長い影が落ちたことに気付いて顔をあげた。
 見ると、うなだれるウグドの向こう、小屋の入り口に、家出したはずのセインが逆光を受けて立っていた。
 一瞬ホーバーと目線を交わしたセインは、何やら妙な顔でウグドの後頭部を見つめている。自分たちより年上の人間が、しかもあの世にも稀なむっつり顔の変態修行僧が涙を流して語っているその情景に引きまくっている……という様子ではない。何かに気付きかけている、そんな曖昧な表情だった。
 その時、ウグドがゆっくりと目から手を離した。
 涙に濡れた目元を渋く細め、ウグドは躊躇いながらも口を開く。
 そして彼は、こう聞いた。
「カルァスェ・ヴェシアカとは何でありますか」
 途端、セインはひくりと口元を引きつらせた。
 ホーバーは唐突な上、百八十度変わった話題に、「は?」と顔を顰めた。

「……タンポポ?」

「え?」
 未だ状況についてゆけぬホーバーは、もう一度首をかしげ、
 次の瞬間、全てに合点がいった。



《 次回予告 》

 逃げ出した、小さな足跡。
 帰らぬ、小さな子供。
 綿毛が舞い飛ぶ草原で、海賊たちが殴りあう。
 すれ違う二人の声は、果たして届くのか!?

 次回最終回『サイレント・ボイス』

最終回「サイレント・ボイス」へ

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