影の円舞曲

09

 時が止まってしまったみたいだった。
 甲板は喧噪に溢れているのに、船員たちの笑い声も、怒鳴り声も、赤い空を羽根を切って横切る海鳥の鳴き声も、喫水線に打ちつける水飛沫の音さえも。
 すべての音が消えて、シャークだけが真っ白な世界に、無言で立っている。
(踊ってくれますか)
 高鳴る胸の奥で、魔法の呪文のように繰り返す。
(私と……)
 言い間違えないように。
 いつもみたいに、意地っ張りな言葉を捨て台詞のように吐きださないように。
 一歩、薄紅色の夕陽が注がれた甲板に足を踏みだすと、ぐらりと踵が不安定に揺れた。
 ヒールのことを忘れていた。慣れないヒールのせいで、爪先が自由に動かない。地面から離れた踵が、雲を踏んでいるみたいに不安定で――途端に、緊張がぶり返した。
 もしも断られたらどうしよう? キャムと踊るなんて、恥ずかしくてごめんっスよ、て言われたら、なんて言い返す? 化粧なんてして似合わないっスよ。馬子にも衣装っスね。いつもはあんなに性格悪いのに、今日は大人しくて、熱でもあるんスか? そんなこと言われたら、泣かない自信がない。
(……ううん、シャークはそんなこと言わない)
 キャムは膨らむ悪い妄想を振り払って、また一歩、爪先を前に置く。
(シャークはいつだって優しい)
 ちゃらんぽらんな言動ばかりだし、大人げないし、どこのクソガキかってぐらいにふざけているけど。自分にも他人にも厳しくて、実はキャム以上に頑固で、短気だけど。
 シャークはいつだって、本気でぶつかってきてくれる。
 全身を針にして、近づいてくる他人を威嚇しつづけたキャムにも手を差し伸べてくれた。不用意に近づいてくる相手を、キャムは全力で罵り、傷つけ、遠ざけてきたけれど、シャークは傷だらけになっても針の内側まで手を差し伸べてくれた。
 ――ずっと不機嫌そうにしてた。キャムが原因だったんだな。
 昨晩のホーバーの言葉が蘇る。
 シャークは本気でぶつかってくれたのに、キャムに理由も分からずに突っぱねられて、だから本気で怒ったんだ。
 だから真剣に踊りに誘おう。本気でシャークに向き合おう。
(多分、馬子にも衣装っスね、ぐらいは無神経に口にできちゃう奴だとは思うけど)
 キャムは高鳴る胸に手を当て、また一歩、一歩とシャークに近づいて行き、
 ――気づいたら、シャークの間抜けな丸眼鏡がすぐ目の前にあった。
 硝子の奥で、夕陽を受けて榛色に輝く、実はちょっと鋭い目が、驚きに見開かれている。
「……シャーク」
 キャムは足を止め、震える声でシャークの名を呼んだ。
 名前を呼んだ途端に、どくん、と心臓が緊張に飛びあがった。
 身が竦み、恥ずかしさと恐ろしさで目を合わせていられずに、キャムはうつむいた。
(なにこれ、緊張する……っ)
 視界がぐるぐると回った。慣れないヒールは相変わらず不安定だし、波に乗り上げて甲板が揺れるたびに倒れそうになる。スカートが裾の広がった長いもので良かったと思う。両足を懸命に踏んばっているところを見せるなんて、格好悪すぎて死にたくなる。
 キャムは事前にあれほど練習した魔法の呪文も忘れ、視界に映るシャークの両足を睨みつけた。極度の緊張で、この場をどう乗り切ったらいいのか分からない。
(の、乗り切る? 乗り切るってなに。なにしに来たんだっけ、私。あれ、なにを言おうと思ってたんだっけ。どうしよう。どうしよう――!)
 蒼白になって、顔も上げられずにいると、ふいにシャークが「わあ」と調子外れな歓声を上げた。
 びくっと顔をあげると、丸眼鏡が夕陽を受けて赤く反射していた。
「びっくりしたっス……」
 シャークが空気の抜けたような声で言う。
 キャムはどきどきして、唇を引き結び、続きの言葉を待った。
「いやー、驚いたっス……」
 シャークはもう一度、そう言って、あはは、と何故か気恥ずかしげに笑った。
 キャムは知らずまじまじとシャークを見つめてしまった。
(それだけ……?)
 そう思ってから、はっと我に返る。
 なにを期待していたのだろう。可愛いね、綺麗だね、と言ってもらえるものと無意識に思いこんでいたのだろうか。がっかりしている自分に気づいて、キャムは初めて多少なりと自分が綺麗になれたと自信を持っていたことに気づき、猛烈に恥ずかしくなった。
 頭に血が昇る。顔が真っ赤になっているのが自分でもはっきりと分かる。
「わ……わたし、わた――」
 動揺が口から溢れ出る。まずい。落ち着け。これはいけないパターンだ。今までなら、意地になって「うるさい馬鹿」って言っちゃったり、回れ右をして逃げ出してしまったりしているパターンだ。――同じ過ちは繰り返せない。
 そう思った途端、自分がシャークを踊りに誘いに来たことを、ようやく思いだした。
「シャーク! 私と……っ私と」
 言いながら、あれ、待てよ、と心のどこかで思う。
 こんなに顔を真っ赤にして、こんなに動揺して、踊りに誘ったりしたら、ばれるんじゃないだろうか。キャムがシャークを好きだと思っていることを。
 それでももう口が止まらなかった。キャムは情けないぐらい唇を震わせながら、理想とはあまりにほど遠く、魔法の言葉を吐きだした。
「私と今晩、踊ってくだひゃい……!」

 あ。

 キャムは口を両手で覆って、顔面蒼白になってシャークを見つめる。
 笑われる。声が裏返ってしまった。気づかれる。断られる。馬鹿にされる。
 目を真ん丸に見開いて、シャークの反応を凝視する。体が硬直して、もはやてこでも動きそうになかった。
 だが――。
「え? 踊り? あ、舞踏会っスか? うん、いいっスよ」
 拍子抜けするほどあっさりと許しを得て、キャムは呼吸も出来なくなった。
 呆然として見つめると、シャークは首を傾げ、照れくさそうにしながら満面に笑った。
「じゃ、後でまた」

+++

 疲れた。

 ぐったりと甲板の隅に腰を下ろして、キャムは項垂れる。
 慣れないヒールにも疲れたし、両足にまとわりついて来るスカートもなんだか重く感じられて疲れた。まとめた髪の毛も根元から引きちぎられそうで辛い。
(シャーク、普通だったなあ……)
 嵐のような日々の果てに、ようやく踊りに誘うことまでこぎつけたのに、シャークがあまりにあっさりと「いいっスよ」なんて言うものだから、どっと気が抜けてしまった。本番はまさにこれからだというのに、すでに全力疾走した直後のように疲れ切っている。
(これからが本番……)
 そのことを考えた途端、緊張で頭が真っ白になる。
 シャークは「いいっスよ」と言った。ということは、踊るのか。踊ることになるのか。数時間後には、シャークに体を預けて、寄り添うように踊っているのか。
 ――だめだ。想像するだけで疲れる。
「早く終われ……」
 キャムはげんなりとして、力なく抱えた両膝の上に頬を預け、カンテラの灯りを反射する甲板の木目を見つめた。
 太陽はすでに水平線の向こうに没し、空は西の方角に燃えるような紅蓮を残して、あとは数えきれないほどの星を宿した濃紺色に変わっていた。
 甲板の空気が浮き足立ってくる。すでに北の方角には、タネキア大陸の港町が見えていた。灯のともりはじめた影絵の街並みは、溜め息が漏れるほどに美しい。祭の喧噪は遠く、こちらまで聞こえてくることはなかったが、沖合にはバックロー号と同じように花火を見学に来た船が何艘か浮かんでいて、船の賑やかな様子は風に乗って伝わってきた。
 けれどどうしたわけか、キャムの心は沈んでいる。
(普通、だったなあ……)
 自分でもその理由が分からないまま、キャムはぼうっと遠い喧噪を見つめた。
「なに始まる前から、浮かない顔してんのよ」
 ぽんと肩を叩かれた、慌てて振りかえると、同室のリーチェが明るい金髪に深緑色のコサージュをつけながら笑って立っていた。ほかの女たちの衣装係を務めていたので、ようやく自分の支度を終えたとこらしい。
 リーチェは綺麗だった。活発で、明るい気性によく似あう、深い柑橘色のドレスを身に纏っている。コルセットはしていないのに、艶めかしいほど細い腰だ。たっぷりと膨らませたスカートがその艶美さをさらに際立たせている。
 それにとても楽しそうだ。
「疲れただけ。……その……き、きれいよ。リーチェ」
 自分が綺麗と言われて嬉しかったから、キャムもごにょごにょと思ったことを口にする。普段なら、綺麗と思っていてもなかなか素直には言えなかったが、疲れていることもあって、言葉は思いのほかするりと口から零れた。
 リーチェは面喰った様子で眉を持ち上げ、ふっと笑った。思いがけずはにかんだ笑顔で、リーチェも褒められて嬉しいのだと、当たり前のことに気づく。
「えへへ、気合い入れちゃった。こういう時でもないと、あんまりおめかしできないし、普段からめかしこんだら、「なんの祭だよ」って笑われそうだしね」
 リーチェもそんなことを思うんだ。キャムは隣に腰を下ろす年上の友人を見つめた。スカートを押さえて座る仕草がしとやかで、視線が離せなくなる。
「どうしたの、キャム」
 見上げると、リーチェは優しく頼りがいのある眼差しで自分を見つめていた。
 いつもシャークのことや、コンプレックスのことで、からかわれたり、おせっかいなアドバイスをされたりすることが鬱陶しかった。
 けれど今は、リーチェと話したかった。
 女性としての先輩に、なんでもいいからアドバイスを授けてほしい。
「……シャークをね、踊りに誘った……」
 なんとか口にすると、リーチェはきょとんとし、数秒後、口を「お」の字にした。
「お、おおおっ、ちょ、え、本当に!? キャムが!? キャムから!? やだ、すごいじゃない! なにそれ、えー!?」
 大仰な反応に、言わなければよかったという思いと、やればできるってことを見せつけられた喜びとが複雑に入り乱れる。
「でも、なんでそんな暗い顔なわけ?」
 的確に指摘され、キャムは困り果てて目を泳がせる。
「そのう……わかんないの。疲れたのかも、て思ったんだけど……違うのかも。なんか……拍子抜け? 頑張って誘ったのに、シャークの馬鹿、ものすごくあっさりと「いいっスよ」って。……それが、なんかなあ、って」
 リーチェは目を真ん丸にして、いきなりぷっと噴きだした。
 相談したことを後悔しそうな反応にむっとなるが、リーチェはにんまりと先を続けた。
「ははーん。片思いじゃ、満足できなくなってきちゃったわけだ」
 キャムは目を見開き、かっと顔を赤くした。
「な、ちが、……っちがう!」
「違わないでしょ。要するに、それってもっと「可愛いね」とか「誘ってくれて嬉しいっス」とか、もっと深い反応を期待してたってことでしょ?」
「――!」
 キャムは言葉もなく、耳まで真っ赤になった。
 恥ずかしさのあまりに絶句するキャムを、しかしリーチェは微笑ましげに見つめてきた。
「それ、いいことよ、キャム。やっと自分に自信が持てたってことじゃない。可愛いって褒めてくれるって期待したんでしょ? シャークに振り向いてもらえるかもって、少しでも可能性を感じられたんでしょ? ……その自信、大事にしな。今日のキャム、本当、可愛いよ!」
「や、やだ、やめてよ。うわ、どうしよう、やだやだ!」
 パニックを起こして、頭を抱えるキャムを、リーチェはつんと肘で突いた。
「ついでに、告白しちゃえばー?」
「……っ」
「今夜ならいけるかもよ? ううん、あたしだったら今夜のキャムに「好き」って言われたら、いちころかも! ね、ね、「隙間」に貸切札かけといてあげよっか!? キスのひとつもしちゃいなさいよ!」
「~~リーチェ……!!」
 調子に乗る同室の友人をぽかすかと叩いて、キャムはこれ以上ないほど全身を真っ赤に染めて、「うーっ」と唸りながら膝に顔を埋めるのだった。

 甲板中に、淡いランプの灯りが星屑のようにともされる。
 心得のある船員たちが楽器を手に取り、開会の音楽を奏ではじめる。
 そして、夢幻の舞踏会の夜が始まった。
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