影の円舞曲

10

『あーあー、テステス。テステス。マイクのテスト中。あーあー』
 天空に架かる天の川を背に、舵台に立ったメルが自作の拡声器に声を通した。
 普段は、狂科学者然としたピンク色の白衣(?)しか着ない彼女も、今宵ばかりは美しく着飾っている。ミンリーが手早く仕立てた異国風のドレスは、はっとするほど美麗だし、普段は二つ結びにしている髪をふんわり背中に垂らしているさまは、意外なほどに愛らしい。
 が、それらはすべて、ギラリと凶悪に光る色眼鏡のせいで台無しになっている。
『テステス! テステース!! ……ん? ちゃんと聞こえているか、愚民ども。テステース!!』
 キィンッと耳を貫くハウリング音。船員たちは耳を押さえながら「聞こえてるっつーんだよ、馬鹿メル!」「テステスうるせえ! 黙れテス!」「……え! おれ!?」と叫んだ。
 メルは咳払いひとつ、調整の終わった拡声器を、傍らのラギルニット船長に献上した。
 ラギルニットはいそいそとそれを受け取って、満面の笑顔で眼下の船員を振りかえった。
『みんなー! お祭りの夜だよー! 楽しんでるかーい!?』
「おーう!!」
『えー、こほん、それではみなさま、まずは上質の葡萄酒で乾杯とまいりましょう……』
 船長の声に応え、船員たちが硝子の杯を頭上高くに掲げる。
『それでは――バックロー号のえいこーに!』
「バックロー号の栄光に!」
『バクスクラッシャーの五十人の海賊たちのけんこーに!』
「ラギルニット船長の活躍に!」

『かんぱあああああああい……!!!』

「さあ、晩餐ですよー! みんな、たっぷり食べてくださいね!」
 料理長マートンの合図で、厨房から次々と料理が運び出されてくる。香辛料や、肉汁の匂い、酸味のきいた炒め物の香りが鼻孔をくすぐり、船員たちは「うおおおっ」と飢えた野獣のように吠えた。
 酒好きの船員たちが、酒樽の前に行列をつくる。先頭は、セインとワッセル――かと思いきや、どうやら二人は列なんかそっちのけで先頭に割りこんだようで、あっという間に殴り合いの喧嘩が勃発した。
 ラギルニットや子どもたちは妙に大人しかった。背伸びをした正装に身をくるんでいるせいだろうか。けれど体はそわそわし、目はくるくると興奮に動きまわり、ひとときも大人しくはしていない。
 それを、着飾った女たちが微笑ましげに見守る。気を抜くと、すぐに尻に手を伸ばしてくる命知らずな男どもの腕を、ぺちりと叩きながら。

 豪華な食事も半分が片付いたころ、なんとなく船員たちの間にそわそわした空気が漂いはじめた。――そろそろ舞踏会が始まる頃合いなのだ。
 キャムは五十一人もの人間で溢れかえった甲板に視線を巡らせた。
(きれい……)
 甲板は神秘的な雰囲気に包まれていた。明かりを灯したカンテラが揺れるたび、人々の影が伸びては短くなる。なんだか夢の世界に迷いこんでしまったようだ。
 影人たちの幻惑の世界。
 いつもの海賊船とは、空気がまるきり変わっている。
(あ……)
 キャムの視線が、人の群れの向こうにシャークの姿をとらえた。
 シャークは船内に通じる扉の前に立っていた。誰かを探すように、首をきょろきょろと巡らせている。
 ふと、丸眼鏡ごしの眼差しがキャムを見つけ、はにかんだ笑顔になる。
 それだけでもう、キャムの心臓はどきりと高鳴った。
(うわあ……っ)
 いったんは引いた緊張が、圧倒的な勢いでぶり返してくる。
 それがあんまりにものすごい緊張だったので、キャムはぎゅっと目を閉じて立ちすくんだ。
 ――ついでに、告白しちゃえばー?
 ふいに、リーチェの無責任なあおりを思い出し、ぼっと顔が火を噴いた。キャムは「リーチェのばかっ」と同室の親友を罵り、
(そういうのはいいの。踊るだけ。踊るだけで満足なんだから)
 満足どころの話ではないのだから。
 キャムは溜め息をつき、熱をもった耳を指でこすりながら、なんとか平静さを取りもどした。
 そして、シャークのところに一歩を踏み出そうとして――足を止める。
「……?」
 こちらに手を振るような気配を見せていたシャークの肩を、横から叩く者がいた。シャークの視線がキャムから外れ、キャムもまた顔をそちらに向ける。
 シャークの傍らに立っていたのは、ガルライズと、ラヴじいさん、ウグドだった。
 船大工たちだ。
 ガルライズが口早になにごとかを告げると、シャークは困ったように眉を寄せ、いかにも面倒そうに肩を落とした。そしてそのまま、甲板に背を向け、船内へと消えていってしまう。
(……あれ?)
 キャムはひとり取り残され、船大工たちが消えていった船内の闇を困惑して見つめた。

 多分、なにか不測の事態が起きたのだろう。それで、緊急の修理にでも行ったのだ。
 大したことではないはず。船が沈没するような大事だったら、ラギルニットかホーバー、それかレティクに話がいくはずだが、三人ともそこらで適当に寛いでいる。
 だから、大丈夫。すぐに戻ってくる。
 キャムは「うん」と自分に言い聞かせるようにうなずいて、船べりに背を預けた。
 拍子抜けした気持ちが、ふわふわと虚空をさまよい、頭がなんだかぼんやりする。
「くっそぉ……ホーバーの奴、ホーバーの奴ぅ……っ」
 ぼやけた頭に、悔しげな涙声が飛びこんできた。隣を振りかえると、バザークが船べりから身を乗り出し、酔っぱらった調子で、ぶつぶつとなにかを言っていた。
「一番にクロルを誘ったのはオレなのに……! いつの間にか、あいつが一番にクロルと踊ることになってるとか……馬鹿野郎! バカヤロー!」
 見目麗しい顔を男泣きに歪め、「海の女神カラ・ミンスさま、オレ、とんびに油揚げさらわれましたーっ」と叫ぶ。キャムは顔を引きつらせ、心の中で手を合わせた。ごめんなさい、そうなった原因は私です、どうもすみません。
「おい、バザーク。そろそろ舞踏会を始めよう。これ以上、船員どもが酔っぱらっては危ない。もう楽隊の準備は整っているか?」
 きびきびした足取りで現われた船管理のレナが、泣き面のバザークに声をかける。
「……あい。いつでもいいでふ……」
「……なぜ、泣いている。気持ち悪いぞ、無駄に美形男」
「はぅ――っ」
 涙ながらに健気にうなずくバザークを一刀両断し、レナは速やかに去っていく。バザークはくっと咽びながら、足元に置いてあった堕龍封産の五弦琵琶を手に取り、じゃらんっと激しい音を奏でた。
「踊れ、踊るがいいさ。オレの失恋ミュージックで、踊るがいいさー! ――おい、野郎ども、準備はいいか!」
 いつの間にか集まっていた、多少なりと音楽心のある船員たちが、統一感のない楽器を手に「いつでもカマン!」と声をあげた。

 最初の一曲は、パートナー探しのための音楽だ。曲が終わるまでにパートナーを見つけ、甲板の空いた場所で向かい合わせに立ち、二曲目――舞踏会としては一曲目が始まるのを心躍らせ待つのである。
 あらかじめ約束をしていた相手がいる船員たちは、パートナーと一緒に、照れくさそうにしながら踊る場所を探しだす。そうでない船員は、誰かしらの前に跪き、きりりと顔をひきしめ「踊っていただけますか? レディ」と誘いをかけていた。
 だが、その段階になっても、シャークは戻ってこなかった。
 キャムは船べりに背を預けたまま、うつむく。
(船内に、見に行こうかな……)
 見に行って、作業がどれぐらい進んでいるかを確認する。
 それで。それで――。
(それで、一曲目までに戻ってこれるのかな……)
 宴会の合間に脱け出すぐらいだ、きっと急を要する作業なのだろう。同じ船の船員として、それを邪魔することはできない。
 けれど。でも……。
「……っ」
 もやもやした気持ちに押しつぶされそうになって、キャムはぎゅっと唇を引き結んだ。
 そのときだった。
「ちょ、おい、やめろよ、押すなって……!」
「いいからいいから~」
 騒がしい声が近づいてくる。なんだろうかと顔を上げると、レイムとキャエズに背を押されたレックが、つんのめるようにキャムの前に飛びだしてきた。
「じゃあ、がーんばれよー!」
 レイムとキャエズは、不機嫌そうなレックをキャムの前に残して、踊るような足取りで駆け去っていく。
 キャムは怪訝に眉を寄せながら、見慣れないレックの正装姿を眺める。異国風の衣装はなかなか似合っていて、ざんばらの髪もちゃんと整えてあるせいか、いつもよりも大人びて見える。
 三歳年下の水夫の少年は、キャムの視線に気づくとぷいっと顔を逸らし――「キャミラル」と名を呼んだ。
「え。なに」
 目をぱちくりさせると、レックは唸りながら口をへの字にした。
「だから……」
「……うん?」
「…………」
「…………」
「だからあ……」
 レックはぼりぼりと黒髪を掻き、唐突に、右手を差し出してきた。
「――誰も踊る奴いねぇなら、おれと踊ってくれませんか」
 キャムは驚きのあまりに、目を真ん丸にした。
「……は!?」
 レックは耳やら首筋やらまで真っ赤にする。
「だから……! ……な、なかなか、ドレス――似合ってるっつーか……」
 良く聞こえない。いや、聞こえたけれど、あんまりに予想外の台詞に、耳が理解を拒む。呆気にとられていると、レックは勢い良く顔を上げ、黒い瞳で真っ直ぐにキャムを見つめて言った。
「今日は、お前、すげー可愛い。だからおれは、お前と踊りたい。おれと踊って」
「……っ」
 絶句する。顔がかっと赤くなり、頭が沸騰しそうなほど混乱する。
 レックが。いつもキャムのことを「お前はレディじゃねえだろ」とか「ブス」とか罵声ばかり飛ばしてくるレックが、か、かわ――可愛いって……。
 キャムは混乱のあまりに目をぐるぐるさせた。
(こ、こんなことが起こる日が来るなんて……!)
 嬉しかった。びっくりしたけれど、ものすごく嬉しかった。
 義理でも、気まぐれでもなんでも、誰かをダンスに誘うことがどれほど勇気のいることかをキャムはもう知っている。だからこそ、余計にレックの誘いが嬉しかった。
 踊ってしまおうか。
 帰ってくる気配のないシャークを待つより、レックと踊ってみようか。
 シャークとは二曲目以降、戻って来たときに踊ればいい。
 そうだ、そうしよう。きっとそれがいい。
「――ごめんなさい」
 けれど、キャムは気づいたらレックに頭を下げていた。
「先約があって……あの……」
 レックは目を丸め、「あ……そーなんだ」と拍子抜けしたように手を引っこめた。ぽりぽりと気まずげに頬をかき、そのままキャムに背を向けて立ち去ろうとする。
 キャムは慌てて「ありがとう!」と言った。
「誘ってくれて、嬉しい。ありがと……」
 レックは相変わらず不機嫌そうに「んー」とうなずき、背けた横顔でほんの少し笑い、駆け去って行った。

 甲板では、いよいよ舞踏会が始まった。
 優雅な円舞曲。踊りの中心にいるのは、体の線に沿った艶やかな真紅のドレスに身を包んだクロルと、バクス帝国の正装を見事に着こなしたホーバーの二人だ。
 カンテラの明かりが揺れる甲板を、流れるように踊る二人。
 いつか、バクス帝国領海内の小島で見た舞踏会の貴族たちのように美しく、優雅だ。
(楽しそう……)
 キャムはうっとりと見惚れた。二人は本当に楽しそうだった。彼らの足元に落ちた影はひとつに重なり合って、まるで本物の恋人同士のようだ。
 二人の周囲では、ダンスに不慣れな船員たちが思い思いに踊っている。ミンリーとログゼの恋人同士はもちろん、可愛らしい漆黒のドレスで着飾ったファルは、顔を真っ赤にしたレイムと。料理番のシュリは、ちゃらんぽらん男のサリスと。メル博士は、心から敬愛するラギルニット船長と。船上の天使フィーラロムは、なにがどうしてそうなったのか、ダンスなど死んでも踊らなそうなセインと。物静かなメイは、強面の舵手アレスと……。
 その中で、同室のリーチェが水夫のラスと踊っているのを見つけ、キャムは驚いた。
 リーチェの表情は不本意そうではあるが、どこかくすぐったそうにも見える。二人になにか噂が立ったことなんてないけれど、キャムの知らぬ間に、なにかしらの物語があったりするのだろうか。
 影の舞踏会。
 普段は目に見えない、海賊たちの秘めた恋物語を浮き彫りにする。
 美しく、妖しく、幻想的で、どこか儚い一夜限りの夢。
 壁の花となったキャムには、本当にたくさんの船員たちが声をかけてくれた。「綺麗だね」「可愛いじゃん」「いつもと雰囲気違うな」「キャムもいつの間にか、すっかり大人の女性だなあ」と普段では想像もできなかった言葉が投げかけられた。
 嬉しかった。幸せだった。不安ばかりだった数日前とはまるで違う。ほんの少しの勇気だけで、これほどまでに世界は変わるのかと驚くほどに。

 やがて夜空に、祭りの終わりを告げる大輪の花が咲く。
 帆船が色とりどりの光に染まり、甲板にはわっと歓声が上がる。
 踊りの輪は崩れ、船員たちは顔いっぱいに微笑んで、天空に咲く無数の花々に魅入った。

 結局、シャークが甲板に戻ってくることはなかった。

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