虹の翼

08

「あ――!?」
 耳に女の声が飛びこんできたのは、まさにヴァイズの拳がレックの頬に叩きこまれようとした瞬間だった。
「……あぁ?」
 間抜けな声に気を殺がれたヴァイズは、上げた拳をそのままに声の方を振りかえる。
 その顔が、驚きに凍りついた。
「お、お前……」
 胸倉を掴まれるままになっていたレックもまた、閉じかけていた目をおぼろげに開いた。苦労して顔を横に向けると、砂浜と林との境目に、ど派手なピンク色の白衣をまとった女が立っているのが見えた。
 メルだった。
「どうやって、ここに……」
 動揺に声を上ずらせるヴァイズを睨みつけ、メルは怒りに声を震わせた。
「変な照明弾が見えたから、まさかと思ってきたのよ。そうしたら……やっと見つけた、あたしの可愛いラギルちゃん……! と、レック。」
「……て、こら、あほメル!」
 ついで感たっぷりに名を呼ばれたレックは、何とか声を絞り出してつっこみを入れる。
「ついでなのはともかく、来んのおっせぇよ……!」
 メルは目を瞬きさせるが、レックの怒りが安堵から来るものと分かったのだろう、ふっと笑って、不敵な視線をヴァイズに向けた。
「悪かったわよ、レック。あなたたちの居場所を探すのに、ちょっと手間取ってね。……そう、やっぱり、あなたたちイリータインだったってわけね。もう二度と会うことはないと思ってたのに。脳みそツルツルどころか、足の毛すら一本も生えてない乙女もびっくりな超美脚のあなたに、ね……」
「!? 美脚は関係ねぇだろ!?」
 どうやら本当に美脚らしいヴァイズは、男として恥ずべき図星をさされて大いに慌てた。
「い、いやそうじゃねぇ! お、俺こそがお前みたいな奇人変人大サーカスとまた会うはめになろうとは、思ってもみなかったぜ……!」
「なんですって!? 奇人変人サーカスだなんて……っそんないきなり褒めないでよ気色悪い!」
「えぇええ微塵も褒めてねぇし――!?」
 全く噛み合わない会話に、早くもぜぇぜぇと肩を上下させる二人である。
 メルはかいてもいない額の汗をぬぐうと、短く息を吐き出した。
「それよりも……あなた、覚悟はできてるのかしら?」
「何がだこの変態!」
「何がって……」
 メルはおもむろに白衣のポケットから、ピンク色のレンズが入った丸眼鏡を取り出した。
 その何の変哲もない眼鏡を見たヴァイズの顔から血の気が引いた。
「私の可愛いラギルちゃんと、ついでにレックを、こんなひどい目に遭わせた覚悟よ……」
「っだぁ! やっと見つけたメル、何だよいきなり走り出して!」
 メルが、つ……と眼鏡を掛けた瞬間、背後の林から数人の人影が飛び出してきた。レティクにレイム、ルイスとクステル、テスの五人である。
「って、あ! てめぇ、ヴァイズ!」
 彼らは立ち尽くすヴァイズに気がつくと、表情を険しくさせた。しかしその視線が自分たちではなく、メルに向けられていることに気づくと、同じく直立しているメルを不審げに振りかえり、そして、硬直した。
「お、おい、メル?」
 ルイスは色眼鏡をかけたまま黙りこんでいるメルに気がつくと、おそるおそると声をかけた。しかし返事はない。ルイスは口元を引きつらせ、他の仲間を振りかえって「やばい」とジェスチャーでメルを指差した。
 それはラギルたちをいち早く見つけた功労者に対するにはあんまりな、まるで危険な珍獣を見つけた時のような反応だったが、仕方あるまい。
「……ふ、ふふふ」
 何故ならメルは。
「ふふふふふ……!」
 普段はそれなりにまともに見えるこのメルは。
「ふあーっはっはっはっはっはっは……!!!」
「っ出た――!!」
 メルの突然の哄笑とともに、ヴァイズと、ルイスたちが同時に悲鳴を上げた。
「誰だ誰だ私の名を呼んだのは!? そうかお前たちか、あい分かった今こそその呼び声に答えてくれよう。東西南北天地境外、神より勝るこの頭脳、誰が呼んだか、天才科学者メルファーティ=ナンディレスとは、この私のことだあぁ――!」
 ――そう、本当に誰が呼んだのか、船大工メルファーティ=ナンディレス。普段は多少変なだけで、一応まともなメルは、ピンクの色眼鏡をかけると、突如として世界に類を見ない変態科学者へと変身してしまうのである。
「おいメル、落ち着け……!」
「メ、メル博士、落ち着いてください……!」
 仲間たちが青ざめに青ざめ、一斉に諌めるのを無視して、メルはピンク色の白衣をばっと翻すと、光もないのに眼鏡をギラリと輝かせ、晴天なのに何故か走る稲光を背景に両手を広げた。その手にはどこから取り出したのか、大砲ほどもある巨大な筒。
「どうしたどうした、海賊の風上にも置けぬどころか、風下だって御免蒙るそこの愚か者ヴァイズ、恐ろしくて声も出ないか……! だが後悔してももう遅い、愛しくも愛らしい我が心の船長を誘拐したこと、心の底か悔いるがよい……!」
「メ、メル、いやだからちょっと待てって!」
「――無駄だ、無視しろ。全員、武器を抜け」
 必死に止めようとするルイスを制し、一人変わらず冷静なレティクが鞘からカトラスを引き抜いた。それを見たヴァイズもまた、慌てて腰の鞘に手をやる。
「来るなら来やがれ返り討ちにしてくれる! て、うわ、ねぇ、ねぇ、カトラスがねぇよ!?」
「……ハ。ばぁか……」
 レックは先ほど突き飛ばした際に地面に転がったヴァイズのカトラスを指差し、馬鹿にした笑いを浮かべた。ヴァイズの顔が焦りと憎しみに歪む。
「っくそ、ニーヤル、起きろ! ラギルを連れて浅瀬へ走れ! 仲間はすぐそこだ!」
「そうはさせるか!」
「さぁ唸れ、轟け、我が怒りの化身……っ」
「全員、ラギル奪還を優先だ、走れ!」
「うおぉおおおお――ッ!!」
「超強力薄力粉入り水爆弾、思う存分、受けてみよぉおおー!!」
 今まさに敵と味方が入り混じっての大混戦が繰り広げられようとする中、メルは肩に担いだ筒の、いかにも「不穏です。」と主張している、シンプル且つ危険度マックスなボタンをポチッと押した。
 ぼよん。ぼよんぼよんぼよんぼよんぼよん。
 筒から放たれた水色のぶよっとした球体が、敵を追って走るバクスクラッシャーと、浅瀬に迫る小船へと逃げるヴァイズたちの頭上を通過する。
「は、何だそりゃ! 子供の遊びじゃねぇんだぞ……ぉぉおおーっ!?」
 ふらふらした足取りのニーヤルを小突きながら、ヴァイズはぶよんぶよんと飛んでくる球体を見上げて鼻で笑った。しかしその笑いは、球体が思いのほか巨大で、しかも自分たちの進路に直撃する位置へと落下しはじめていることに気づくと、悲鳴へと切り替わった。
「て、こ、こら、こっちにはラギルニットがいるんだぞいいのかこんにゃろう!?」
 ヴァイズの肩にはラギルニットが担がれている。その至極もっともな主張を聞いたメルは、目をぱちくりとさせると、「あ。」とわりと大声で呟いた。
「「「バカメル――――!!」」」
 敵味方全員からつっこみが入るも虚しく、ぼよよん、と降ってきた球体は情けない音をたてて地面に着地し、ぱん……っと破裂した。
 直後、割れた球体を中心に、凄まじい突風が海岸を駆け抜けた。
 それは砂浜に立つありとあらゆるものをなぎ倒し、ヴァイズやニーヤルは元より、ヴァイズの背後にまで迫っていたバクスクラッシャーの仲間たちをも吹き飛ばした。
 そして風の通り抜けた跡を追うように、もわりとした濃厚な白煙が辺り一帯に漂いはじめたのだった。

「……っげほ、ごほ……っ」
 辛うじて謎の爆弾の直撃を逃れたレックは、鼻から口から入りこんでくる粉っぽい物体に、激しくむせ返った。涙目で辺りを見回すと、そこには霧よりもなお濃い白煙がたちこめていた。
「メ、メル、やりすぎだバカ……げほ……っ」
 レックは、天才的頭脳の持ち主ではあるが、過去にろくな発明品を作ったことがないメルを心の底から呪った。
 周囲から剣を交える鋭い金属音が聞こえた。誰かが交戦をしているらしいが、剣戟の音は二つや三つではないので、恐らくイリータイン号からの小船が着岸したのだろう。
 だとすれば、ラギルニットが危なかった。岸に着いた小船に乗りこまれては、もう取り戻すことは困難だ。
(探さなきゃ、ラギルを早く……!)
 レックが焦りに歯噛みした、その直後。
「こっちだ、早くしろニーヤル!」
 どこからか、ヴァイズの声が聞こえてきた。
 レックは目を見張り、ふらついてまともに動かない体で無理やり立ち上がった。
「く、そ……!」
 遠くない。すこし前の方だ。あと少し歩けば、すぐに追いつく。
 レックは白煙の中を手探りで進んだ。そしてその手が、誰かの服を掴んだ。
「捕まえた、このゾウリ虫……ッぅわ!?」
 その時、前方から強い風が吹きつけてきた。とっさに腕で顔を庇う。風が収まり、次に目を開けたときには、視界を覆っていた白煙はどこにもなくなり、満天の星空と、夜の海とが眼前に広がっていた。
 砂浜には、すでにイリータイン号からの小船が乗り上げていた。その上には、両手を突き出した男が一人――突然白煙が消えたことを考えると、恐らくは風を操る精霊術師かなにかだろう。その横にはラギルニットを抱えたニーヤル。そして、自分の掴んだ服の先では、怒りに顔を歪ませたヴァイズがいた。
「しつこい男は嫌われるぜぇ、レック!」
「…………!」
 小船を目前にしてまたも邪魔をされ、ヴァイズにはもはや余裕すらなくなっているようだった。腕を払われると同時に殴り飛ばされ、そのまま地面に顔を押し付けられた。
「いい加減諦めろよ、面倒くせぇな! お前の情けない味方は、まだ煙の中。お前はまた一人ぼっち。勝ち目なんてねぇんだよ!」
 何の容赦もなく幾度も殴られ、レックは防御することすらままならずに目を閉じた。
 一人ぼっち。その言葉に絶望しそうになる。そうだ、助けに来たメルも、レティクも、クステルもルイスも、レイムも、それに同じ組のテスまで未だに白煙の中だ。
 もう助けを呼ぼうにも、誰の名前も浮かばな――。

『おまえ、自尊心とかないわけ? ラギルがいねぇと何もできないんでしゅか、ハー!』

「セ、セイン……」
 不意に閃くように浮かんだ名前を、レックは気づけば呼んでいた。
「セイン! ちくしょう、いっつもガキだとかバカにしやがって……っ仲間だろうが、助けに来いよ馬鹿野郎ー!」
 その直後だった。
「ぅぐぁ……!」
「……っう!」
 空気を切り裂く鋭い音が、辺りに響きわたった。ヴァイズが肩を押さえて地面に膝をつき、ニーヤルもまた悲鳴をあげて地面に転がる。
 レックは二人の肩に、驚くほど冴え冴えとした投擲用の短剣が深々と刺さっていることに気がつき、驚きに目を見開いた。
「く、くそ……! 誰だ……!」
 ヴァイズが震える手に力をこめ、短剣を引き抜いた。
 メルやレティクたちでない。彼らはいまだ背後に渦巻く白煙の中だ。
 だとすれば――。

「懐かしい顔じゃねぇか。また会えて嬉しいぜ、ヴァイズ……」

 ヴァイズは目を剥いた。
 その声。笑い含みのいかにも人を馬鹿にした、声。
 メルのときとは比較にならぬほど恐怖に血走った目で、ヴァイズは声の方を振りかえる。
 海岸線の先、木々に遮られて月光も届かぬ闇の中からまるで融けだすように現れたのは、見上げるほど背の高い、黒髪の男だった。
 片手の指には投擲用の短剣を絡め、もう片手には抜き身のカトラス。カトラスで肩をとんとんと叩きながら、ゆっくりと、殊更にゆっくりと、こちらへ向かって歩いてきた。
 その口端には、歪みんだ笑み。
 男の正体に気がついたヴァイズは、顔から血の気を引かせ、唇を震わせた。
「セ、セイン……」
「ほう? 呼び捨てとはいい度胸だな……」
 砂浜に立ったセインは、どこまでも相手を見下す薄笑いを浮かべた。

09へ

close
横書き 縦書き