第八話 |
『GAME START』 コンビニのレジ液晶に映った最後の文字列を見送り、浅海は沈黙している。 世界には音と映像が復活し、当初に感じた無音の違和感は大分薄らいだ。が、代わりに無人有音という新たな気色悪さが、窓の外を席巻しはじめていた。 そして今。店内には引き攣れるようなハウリング音と、マシンガンのような紅の独り言とが響いている。 「ちょお待ち、待った、待てよ待てよ待てよ、いきなりゲームて何やん!ゲームゆうんはルール説明にまずゆーっくりじーっくり時間掛けて進めるモンで‥‥‥ん?そういや俺そんなん聞けへんないつも‥‥‥って違ぁーう!ここで自分省みてどないすんねん俺ッ!!」 商品棚の前をうろうろしていた彼だったが、突然我に返ったように首を振り、手にしたプリングルス缶を床に叩きつける。空になっていた缶はポコンと間抜けな音を立ててひしゃげ、転がった。 喋ることで自らを落ち着けたのか、荒い息をつきながら、紅は潰れた缶を見下ろして腰に手をやり、上半身を水平まで折り曲げた。 「‥‥‥っあ゛―――‥‥‥しんど。」 「情けないねえ、若いモンが」 その紅とは対照的に、5分前と全く変わらない顔つきをした司貴が、店の奥から暢気な科白を言ってよこした。今や耳障りなハウリング音を生じるだけとなった有線放送機材を探し出した彼は、プツプツと幾つか適当にリモコンを操作し、バックヤードから顔を出す。流れ始めたのは、70年代のアメリカン・オールディーズ。 「ああ、煩かった。嫌だねえ、ああいうキイキイいうのは‥‥‥ジェ●ソンマスク被って窓ガラスに爪立てた音とか黒板引っ掻いた音とか」 「何や知らんけど、わざわざマスク被ってやらんでもエエんちゃうか、それ」 「そりゃーキミ、気分だよ気分。やっぱやるならジェイ●ンか、せめて黒マントぐらいは用意しないとね★」 「うわっ!ヒマ!究極にヒマ人やなオッサン!!」 「だからオッサンじゃなくて司貴お兄さんvはい、言ってみようかー」 「うゴっ!?う、うひひひゃらひくっこうあ!!」 無造作に練り辛子のチューブを口に突っ込まれた紅と、無造作に笑顔な司貴のやりとりする横で、万要は長い長い袖を大きな腕まくりにして(紅がやったらしい)、袋入りのクッキーを口に運ぼうとしたその仕種のまま、凝とどこかを見つめている。 否、どこか、ではない。 「‥‥‥‥‥‥?」 視線に気付いた浅海は振り返った。 「万要ちゃん、どした?」 万要は浅海越しに、レジの液晶画面を見ていたのである。 浅海や紅や司貴からしてみれば、御伽噺や昔語りの世界から抜け出してきたかのような少女だ。ありえない髪の色に時代を無視した服装、そして極め付けに常識まで無視したその“特技”。浅海はともかく、紅や司貴は自分もよほど常識はずれの部類に属することを重々承知しているはずだが、それをも超越して、万要の技能は特殊だ。 それこそ、生を受けた世界さえ、違っても不思議でないような。 その万要は、見つめていた画面から視線を外すと、クッキーでそれを示し、幼い眉根を寄せた。 「あれは、どういうホウジュツなんだ?」 浅海はぱちぱちと瞬き、紅に助けを求めるような目線を送る。 口からチューブを引っこ抜いた紅は、ぽい、とそれを司貴に向けて放り投げ(もちろん命中せず避けられた)、銀髪の尻尾を揺らせて万要の側にしゃがみこんだ。 「なあなあ。ホウジュツって、なんや?」 「‥‥‥お前、ホウジュツを知らないのか」 万要は眉を更に寄せる。 紅は両脚の間にぶらんと両腕を下げた格好で、大きくコックリと頷いてみせた。 しばらく悩むように視線を彷徨わせた万要だったが、やがて何を思ったか、窓ガラスの向こうを一指した。 「説明しづらい。要するに、こういう力のことだ」 バリバリバリ‥‥‥ッガゥン!! 一瞬の閃光と、直後発生した轟音とに、浅海が小さな悲鳴を上げ、司貴は目をすがめる。 「もちろん、種別としては一例にすぎないが」 「な‥‥‥なーるほど‥‥‥」 フウと軽く息を吐いた万要の向こう側には、放電の青白い光を残して、文字通り木っ端微塵となった街路樹の残骸。幼い少女の仕業たるそれを目の当たりにし、紅は口角を引き攣らせた。 「ウチで言う、ダブルの能力に似とるっちゃあ似とるけど‥‥‥こりゃちゃうな」 「だ、だぶる‥‥‥?」 「いや、こっちの話や」 聞きとがめた万要に何でもないと片手を振ってみせ、紅はフムと顎をつまんだ。 「“パラレル”と“アナザー”が、共存している‥‥‥?」 そのまま顎先を数秒トントンと叩いていた紅だったが、やがて視線を上げると、こう答えた。 「とりあえず万要ちゃん。質問にお答えしますと‥‥‥あの画面な。多分、そのホウジュツってので動いとんのとはちゃう思うで。たーぶーん、やけどな」 多分、というのを強調する彼に、浅海が首を傾げた。 「えー何でー?液晶って、確か電気で動くんでしょー‥‥‥?ホウジュツとかゆうのじゃぁ、ないと思うんだけどぉ‥‥‥?」 「そやな。俺の世界でもそうや、浅海ちゃん。‥‥‥けど、それは俺やアンタの住んどった世界での話やろ?」 紅はコメディアン調に、大きく肩をそびやかしながら腰を上げる。その背後で一連のやり取りを眺めていた司貴が、つまり、と口を出した。 「今いる此処が、例えば僕の住んでいた20世紀末ニッポンの延長である、とは考えるな―――と、言いたいわけだ紅クンは」 「うーわー!オッサン20世紀人かいな!!どーりで古臭いカッコし‥‥‥」 「あたし、生まれは20世紀だけどぉ‥‥‥住んでた頃は21世紀になりたてぐらいー‥‥‥」 「おっ、次世代少女だねっ★うーんひょっとしたら僕の息子と同世代だったりするかもねえはっはっは!」 「って無視かいお前ら!!」 ダンダンダン!!とリノリウムの床を踏み鳴らした紅だったが、パターンを学習したのか、今度はすぐに気を取り直して復活した。 「ともかく、や。此処は確かに“地球”の文化をモチーフにしとるようやけども‥‥‥せやからって、俺らの持っとる“常識”を素直に当てはめて考えるのは、危険かもしれんで」 「ほう?」 司貴は思わせぶりな物言いに興味を示したようで、細めた視線を再び紅へ転じた。一人事情のよく飲み込めていない万要の肩に、その紅は両の手を置く。 「それに、や。さっき有線やら何やらがやかましゅう言うてたやんか。『ここはどこだ』『ここはフィールド』、て。そこらへんも今までと総合するとやなー‥‥‥俺らも万要ちゃんも、多分状況は“同じ”なんとちゃうか。ココにおる4人が本来おった場所っちゅうのは、多分時間軸どころか、空間軸‥‥‥いや、領域(フィールド)そのものが、はじめから皆ちゃうんやないか?」 いきなり話の軸にされた万要は、よくわからないといった顔で紅を見上げた。浅海もまた、一見欠伸でもしそうな表情の中に困惑をにじませ、向かいの司貴に視線をやる。司貴は司貴で、わかっているのかいないのか、にこにこと様子を眺めるばかりだ。紅は「何て言うたらええんかな‥‥‥」と頭を掻き、続ける。 「さっきから微妙に話し噛み合わんの、万要ちゃんだけやないやろ?‥‥‥こう考えれば理由は簡単や。それは俺らがお互い」 そこで一度言葉を切り、紅は結論を言った。 「そもそも完全な“異世界人”同士だからやないんか?」 全員の間に、妙な沈黙が下りる。 それを破ったのは、司貴の一言だった。 「やっぱ君、ゲームのやりすぎ★」 「やかましわオッサン!!」 スカッ! 「毎度当たらないんだから止めればいいのに」 「放っとけ!」 練りからしの空き箱も空振りに終わり、スカンと床に転がる。 司貴は百面相の如き紅の表情を面白そうに眺めつつ、笑顔のまま片目をすがめた。 「君が言うのは、いわゆる“ぱられる・わーるど”というヤツかい」 「ん!近い!」 紅はビッと人差し指を立てる。 「俺やアンタや浅海ちゃんにとっての、お互いの世界と、今おるこの世界は、そやな。二人に会うたあたりまでは、タイムスリップの可能性も考えたけども‥‥‥万要ちゃんのお出ましで、仮説崩れたわ。話聞くと、万要ちゃんは“パラレル”やのうて、完全な“アナザー・ワールド”から飛ばされて来たっぽいやろ。そうすると、俺らもお互い、時間云々関係ナシで、全く別の“世界”から飛ばされてきた、と考えるのが賢明やないか?」 彼の問うような視線を受けて、他3人は互いに表情を読みあう。 「‥‥‥タイムスリップ、なんてモンじゃないのはー‥‥‥あたしにも、わかるよ」 ゆっくりと、浅海が饒舌ではないらしい口を開いた。 「ここがあたしの住んでたとこじゃ、全然ないっていうのも、わかるよ。だってぇ‥‥‥あたしたち以外、だあれも、いないもん‥‥‥。でも、じゃあここは、どこ‥‥‥?」 「『フィールド』やろ」 紅が何の感慨も見えない声色で、これに答えた。 「さっきスピーカがワンワン言うてた通り。‥‥‥ここは『フィールド』っちゅう名前の、異世界。今の情報からは、これだけしか答えようもあれへんわな」 浅海はまたしばし沈黙し、「そっかぁー」と頷いた。妙に落ち着いた彼女を見上げ、万要が「何故今ので納得できる!?」と、一人で困惑顔で焦っている。 「しかし随分あっさり認めるんだねえ、“異世界”とやらの存在を」 楽しそうに揶揄するのは、もちろん司貴だ。 「しかも普通ひとつあるってだけでも大混乱のところを、そんなにポコポコ何個も存在すると君は言うわけだ」 「まーな。」 並ぶように立った彼に横目を向けた紅は、肩を竦めて口の端を歪める。 「俺の時代‥‥‥いや、“世界”では、まあ微妙にちゃうんやけども、ある意味異世界みたいなもんが既に一個あんねん。それとは別にまた別世界がある言われても、へェさいですか、で納得できるといえば出来る。どっちにしろ、初めから此処は全然別物の環境や!と思っておくに越した事無いやんか。同じと思ってかかって、痛い目見るよかマシやろ」 と、紅は横目で彼をねめつける。 「それともアンタ、こーゆー状況呑み込めんタイプ?」 「まさか」 くすり、と笑って、司貴は着流しの袖内に腕組みを隠した。 「お陰様で、僕も大抵の不思議事には慣れた体質なのでね。実は、面白そうだから茶化しただけ♪」 「へーえ‥‥‥さいですか。話がは・や・く・て助かるわっ」 半眼で息をついた紅は、トンと司貴の肩に腕を置き、 「ほなお嬢様方、他にご意見は?」 ぽんぽんと叩いて少女達の側へ目を向けた。 浅海と万要は顔を見合わせ、それぞれに答える。 「んー‥‥‥あたしは、どっちでも〜‥‥‥帰れればいいしー‥‥‥」 「同感だ。」 「‥‥‥うーん、シンプルで誠に結構」 クスクスと笑う司貴にひと睨みをくれ、紅は一旦落とした肩をグイと持ち上げ直した。 「とりあえず!さっきの腐れヒントども、検証してみましょか!」 「おー★」 「ってゆーかぁ、ソレなんだけど〜」 がく。 ノリノリの司貴に続いて、おー!、と振り上げかけていた紅と万要(付き合い)の腕が落ちる。 浅海は半分挙げかけたグーの手をそのままに、ことんと首を傾げた。 「アレってさぁー、どーやって流れてきてたのかなあ‥‥‥?」 「知るかー!!っちゅーかヒトの話聞いてたんかーっ!!電波かもしれんしマジックかもしれんし心霊現象かもしれへんし不明やっちゅーねんむしろ教えろー!!」 「んー‥‥‥」 あらぬ方向に叫びを上げる紅と、それを見てかたや大笑い、かたやうんざり顔の司貴と万要。浅海は彼らを見回すように、もう一度首を傾げる。 「そうじゃなくってえ‥‥‥。電波でもオカルトでも、どっから送られてくるのかなあ、ってことー‥‥‥。此処ってぇ‥‥‥あたしたち以外にも、誰かいるわけぇ‥‥‥?」 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」 司貴と紅は顔を見合わせる。 背の高い二人の間に挟まれて、万要はきょろきょろと首を左右させた。 この際、良心にはしばらくオヤスミしてもらう。 「マサヤー!あったよ―――!!」 「あったか!?」」 灰色の道路沿いをくまなく探していた塚本は、ぶんぶんと手を振って呼ぶイッコに駆け寄った。 路上駐車されていた黒塗りの二輪は、キーが刺さったまま。 「よっし、サンキュ」 得意顔をしたイッコの背を叩いて、機体を軽く検分する。 飛ぶような速さで、出された条件―――キーが刺さったままの、原付バイク―――を満たす物体を探し当てたイッコは、その青い髪をばさりと掻き揚げ、フウヤレヤレと頭を振った。 「やだなーもう。電子キーなら、鍵なんかわかんなくたって開けられるのに‥‥‥。アナログキーなんて、お目にかかる日がこようとは思わなかったよ」 「だからっていきなりぶっ壊すか?」 「‥‥‥ごーめんーなさーい」 二人の現在地から50mほど後方には、片ハンドルがスクラップと化した原付が一台、ごろんと転がっている。イッコがロックを外そうとして、爆破をかけた結果だ。 「普通、バイクはキーを捻らないと、エンジンが掛からないようになってる。‥‥‥盗むには、迷惑な構造だったんだな」 関心したように塚本はぼそりと最後を呟き、キーを回した。 ドッ‥‥‥ドッドッドッドドドドド‥‥‥ 低いエンジン音が、肺の奥を揺るがすような感覚。 慣れた、否、今や懐かしいような気さえするその感覚に、塚本はホッとしながら、肩越しに振り返った。 「動きそうだ」 「ヒュー!やったネ★」 イッコは嬉しそうに親指を立てる。それから後部の座席部分をパカリと開けて、しょくりょーしょくりょー!と、まだ大分中身の残っている、例の紙袋を詰め込んだ。 「ボクは別に食べなくても動けるんだけどねっ。マサヤは要るでしょ、しょくりょー!」 「‥‥‥無いと死ぬなぁ。多分」 東京タワーに行こう、と言い出したはいいが、電車もバスも止まっているこの状況下で実行に移すのには、少々困難な御題だった。機械仕掛けのイッコはともかく、生身の塚本は、まさかオール徒歩で疲れ知らずのヒューマノイドに付いていける自信などあるわけもない。そこで、アシを調達と相成ったのである。 いかな春先とはいえ、夜にもなって風を切れば、相当寒いはずだ。普段からバイク乗りの塚本は、ポケットにしまっていた革手袋をはめる。‥‥‥今朝これをはめて、最寄の駅まで向かった時には、まさかこんなところで役に立つとは思ってもいなかったのだが。 ハンドルに引っ掛けてあったバイクメットを被ろうとして、彼はふと、しげしげとバイクを眺めているイッコに問いかけた。 「なあ。後ろ、乗るか?」 「あ、ボクいーよ!走るから!」 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥時速?」 「300キロまでなら付いてけるー!」 「‥‥‥新幹線かよ」 気の抜けたような顔をして、塚本はメットを持ち上げる。 夜の帳に包まれた新都心の、雑多なネオン。 無人の歓楽街の底辺から、それを見ることは叶わないが――― この鉄とコンクリートの向こう側で、その赤い塔はきっと今、無数の光にライトアップされているはずだ。 ガイ=フレデリックは思わず車を飛び降りた。 「Fantastic‥‥‥!」 眼前にそびえ立つ赤い鉄塔を、首が折れてしまうのではないかという程にまで仰向いて見上げ、彼は興奮しきった声を上げる。 「見えるかいミッキー!素晴らしいよ!全く素晴らしい!!そうか、この街の建物が異常に低いのは、きっとコレのためだね!闇夜に浮かぶ赤いタワー‥‥‥何て幻想的!アッハハハハハハハ‥‥‥!」 その肩で、ネズミをデフォルメした機械人形が、小さな手をかざして遥か頭上を仰いでいる。 彼の生まれた世界では、こんな光景はありえない。切り立つようなビルに囲まれて、頭上を仰いでも、夜の闇が視界を覆うことなどありえない。 だから、闇に浮かぶ光がこうも美しいとは、感じようもなかったのだ。 正確な数値を、もちろん彼は知らないが――― それは、高さ333m。 パリのエッフェル塔を模して作られた、赤と白の電波塔。 そびえ建つ場所の名を冠し、その名を、東京タワー、という。 覆い被さるような鉄塔の下、ガイの飛び降りた車の中から、ひょっこりと覗く顔があった。 年齢は、まだ少女と呼んで差し支えない程度。それが後部座席の窓枠に両腕をもたせかけ、月の光と人口の光に照らし出された建造物を、首を伸ばして見上げている。 が、しばらくしてその顔を顰め、車の中に引っ込んだ。そのまま彼女は、ぽすん、とシートに背を預け、首や背中をコキコキ鳴らす。 「つっかれたー‥‥‥そりゃ綺麗っちゃあ綺麗だけどさあ、あのヒトもよく飽きないねー」 暖かい車内でウンと身体を伸ばし、彼女、ルエルは呆れたように言った。ちらりと見た窓の外では、帽子を被ったオニイサンが、何やらわからんがおおはしゃぎだ。 その言葉は、窓の内側の彼女には、今や理解できない。 「おかしいなー?さっきまで話通じてたんだけどなあ‥‥‥つか、あれ何語?わっけわかんなーい」 でもなんかカワイーまあいっかー! ケラケラケラ、とあっさり笑いながら、ルエルは制服の皴を伸ばすため、パンパンとスカートを叩いた。 何せ“飛ばされた”時の、着の身着のままだ。追いかけっこやったし、かくれんぼやったし、図らずも本物のカーチェイスまで経験したし、朝綺麗に手入れしてきた制服は、ものの見事に形がくずれてしまっている。 「パフェこぼさなかったの、奇跡だわ。あ!!今朝の占い!“不幸中の幸い”ってヤツ、ひょっとしてこれ!?」 がば!!と。 起き上がった彼女の視界を占めたのは―――フロントガラスの闇。 そして意識を釘付けたのは、その只中にぽかりと浮かんだ、『目玉』だった。 「い‥‥‥ッ!?」 掴めば手の中に納まる程度だろうか。 その『目玉』に睨み据えられた形のルエルは、起き上がったそのままの体勢で硬直する。 ―――『目玉』は、パチリ、と瞬きのように前面部を開閉し、車内を“覗き込んで”いた。 (こ‥‥怖‥‥‥!) 空飛ぶ『目玉』と見詰め合うこと、しばし。 助手席と運転席の間あたりにあったカーナビが、いきなり起動した。 「ぎゃっ!なななな何よっ!!」 ガイと彼女をここまで運んで以来沈黙していたその機械の起動デモ画面に、ノイズのようなものが走る。 『目玉』が闇の中から、パチリとまた瞬いた。 『ごきげんよう、最初のお嬢さん』 “welcome to drivers navigation system!”―――ルエルにとっては馴染みのない、おそらく文字であろうソレを掻き消すようにして、そのメッセージは画面に現れた。 『はじめありて、おわりありき』 殆ど本能的に、その瞬間ルエルは後部座席からギアの上を飛び越え、ハンドルにしがみついた。 暖房設備のためにだけ働いていたエンジンが、手が届くのと殆ど同時に唸りを上げる。 『さあ、“終わり”を探せ!』 グオ‥‥‥ン! 瞬間闇から消えた『目玉』の行方を確かめる暇もなく、青のセダンは塔を背に、坂道を急激にバックしはじめた。 「きゃぁぁぁぁぁぁ!!ちょ、ちょっとー!誰か止めて―――!!ガ‥‥‥ガイ―――ッッ!!」 縞馬帽子がこちらを向いた。 肩のネズミが飛び上がるところを見たのを最後に、ルエルを乗せたセダンは、坂道の遥か下へ消えていった。 「‥‥‥あーあーあー」 と、ガイはずり落ちた帽子をクイと持ち上げる。 足元でパタパタと手足を振り回す機械ネズミを拾い上げると、なおも暴れるそれの頭を撫でて苦笑した。 「落ち着きなよ、ミッキー。あの子なら、また会えるさ」 ピタ、とネズミは動きを止め、小さな頭を巡らせて青年の顔を仰いだ。 ガイは薄い唇を上向きに曲げると、帽子の縁に手をやった。 「だって、ほら。」 バチン!! 素早く取り出した即席スタンガン―――車内で暇潰しに作ってみた―――に撃たれて、ガイの背後にあった何かが地に落ちた。 パリパリと小さな放電を残し、坂道を転がり落ちていこうとするそれを、手袋をした手が拾う。身を乗り出す仕種をしたミッキーの鼻先まで、手にした『目玉』を持ち上げたガイは、 「‥‥‥僕らには、同じ看守が見張りについているからね。同じ檻にいさえすれば、どこかで必ず鉢合わせるはずさ」 そう言って、ショートして最早ガラクタ同然になったはずのそれを、ポイと道具入れに放り込んだ。 彼は赤い塔の入り口を探して歩き出す。 確か20世紀だかそのくらいに、とあるネズミのために作曲された行進曲を、ひとり口笛吹きながら。 |
written by 羽室セイ 2003年01月10日公開 |