第七話



 空気をわずかに震えさせる程度のモーター音。
 それは優しい子守唄。
 今は姿を消した「父親」の音がするから。
「…………」
 ぱちり、と長く真っ直ぐな睫毛に縁取られた目蓋が開く。現れたのは、大理石色の瞳。ズームを繰り返す瞳孔は、明らかに人間のそれではない。その収縮が止まり、ピントが合った。
「あー! よく寝た!」
 目が開くと同時に、筒型のベッドのカバーが左右にスライドして分かれる。そこから、センターパーツで肩までにしている毛先の跳ねた髪を大きく振り上げて、体を起こした。両拳を握り締めて天高く突き上げると、そのまま後ろへブリッジの要領で半分倒れていく。良い朝……逆さまのまま時計を見ると……午後五時。語呂もタイミングも格別に悪い。
 だが、今問題なのは語呂でもタイミングでもないのだ。見る間に顔が青ざめていく。
「やっば!! カナに怒られるー!!」
 すぐさま今まで自分が伏せていた机上のメモリーカードを引っ掴み、既に破った提出期限を出来るだけ埋めようと、人間以上のスピードで走り出す。
 決してがしょがしょなどという機械音をさせない辺りに製作者の力量が知れるという、年齢不詳・性別未定のこの人物は――――――


「放せよ!!」
 塚本真也は大声で叫んだ。先程自分が逃げてきた空間に、人間に、声が響き渡るであろう可能性はすっかり頭の中から吹っ飛んでしまっている。そこから逃れた恐怖よりも、背後に存在する恐怖の方が強いのだ。たとえその手が「先程」の全てから彼を路地裏へ引きずり込むことで助けたとしても。
「……っ、放せ! 誰だ!」
「まぁまぁそんなに暴れないでよ。…放すけど」
 やけにのんびりした声。
 それと同時に塚本の振り切ろうとした手が空を掴み、バランスが一気に崩れた。指先の方へ重心が傾き、頭から地面にダイブしそうなところを辛うじて肩で留める。衝撃と共に訪れるのは鈍い熱。
「大丈夫?」
 差し出される手は、真っ白な肘までの手袋付き。但し、指は抜いてある。
 見上げた先にあるのは大理石色の瞳と、スカイブルーの髪。長い睫毛。どんな風に形容していいか解らない、SFな衣装…ハイネックになっていて胸の辺りをくりぬいた、長方形のシルエットを描くロングコート。それに膝上までのブーツ…これらは白銀色をしていた。加えて、強く青い膝上までのスパッツらしきもの。もしかしてコスプレイヤーだろうか。そして、極めつけは中性的に整った顔。
 ふと我に返り、塚本は急いで頷く。すると白い手袋は彼の二の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。立ち上がった彼に、男とも女とも取れる目の前の人物(但し、胸は無い)は、目線を同じくしてにっこりと微笑む。身長は、塚本のほうがごくわずかに高いくらいのようだった。
「君、誰?」
 にこやかな顔のまま、彼…彼女だろうか。とにかくその人物は落ち着いた女声で口を開いた。
 そんなことこっちが聞きたい。礼儀上、相手の話を聞く為に大音量のMDは切ったが、解けるわけのない警戒心と乱暴な扱いに、思わず塚本の視線は強まる。それをまともに受け取ると、その子は眉根を寄せ始めた。
「……日本語で通じるんでしょ? ……あぁ、そう言えばシンに言われたっけ!」
 それ、誰だ。
 投げやりな視線での突っ込みも、全く通じてはいない。
「初めまして。私はIllimitable Cline of Capital Offspring……ICCO」
「イッコ?」
 優雅に礼をしてみせ、イッコと名乗った人物を、塚本は疑いの目で眺めながら後ずさった。けれども相手は全く気にしていない。尚も不思議な自己紹介は続く。
「宇宙治安維持警備保障会社hobbyhorce、third ship所属です」
「……………………」
 今度こそ、完全に塚本は沈黙した。どうしていいか、解らない。
 不思議な葛藤と問答だけが脳裏を嵐のように駆け巡る。この無駄に長い名前は何だ? 宇宙の治安維持って何だ? 要するにガンダムみたいなもんか? むしろヤマトか? ていうかどうしてそれを警備保障会社とかいう民間企業がやってるんだ? そんな宇宙技術、もう完成してたっけ? してたらなんで知らなかったんだ? 微妙に機密っぽいのは気のせいか? ホビーホースってどういう意味だったっけ? サードシップって何だ? 第三号ってことか? 三番目の船ってことでいいのか? ってことはその前に船が少なくとも二つはあるんだよな? 民間ってそんなに金持ちだったっけ? この不況の時代に……
 そして、最初の問題に立ち返る。
「あんた、誰だ」
「イッコ。」
 けれどもやっぱり通じない。笑顔のまま、イッコは塚本を眺め、そして儀礼的に握手の為に右手を差し出す。塚本としてはそれすらも、やはり躊躇われる。
 と、不意にイッコが口を開いた。
「ボクはきちんと先に答えたからね。今度は君の番だよ。君、誰?」
 大理石色の瞳…瞳孔が明らかに自然ではない速さで収縮を繰り返している。よくよく見れば、髪の色は完全なスカイブルーだ。かといってウィッグとも思えない。それよりも更に精巧に、滑らかに作られているようだから。そして眉も、完全に根元からスカイブルーだった…。
 どくり。
 突然、塚本の心臓が一つ打つ。その、あるはずのない予想に、展開に、再び脈が上がる。
 「あった」記憶が、微かに蘇る。
 たゆたう海は、いつでも目の前に広がって――――――
「…塚本真也」
「マサヤか! 解った!」
 ぱあっと広がった笑みで、塚本は意識を表面化させることを思い出した。反射的に答えてしまったことについては、理由が解っている。なんとなく。何となくだけど…。
「……イッコ」
「ん?」
 滑らかに動く首は、一体どういうことなのだろう。もし、この馬鹿げた……いや、自分にとってはそうと言えないけれども、それが、予想が当たっているのならば。
 けれども大理石色の瞳は、再び収縮を繰り返している。自然ではない速さで。
「…………もしかして、人間じゃなかったりする…?」
 耳を澄ませば聞こえてきそうなその、金属が擦れ合う音。幾ら滑らかに作られていると言っても、それらはきっと全て人工物なのだ。その瞳も、肌も、髪も。
 その確信が塚本にはあったし。
 振り向いたイッコはにっこりと…やはりこう言って微笑んだ。
「ヒューマノイドだよ」


 青白い世界が消えてゆく。
 たった二色でしかなかったこの世は、秒数を重ねていくごとに色数を増していった。
「……おやおや、雷とは…粋じゃないか」
 深みのある低音は、司貴。面白がるような口調は、何があっても健在なのだろう。
 じんわりと痛む耳を押さえて、ちらついていてもひとまずの視界を取り戻した紅は小さく呻いた。
「…また雷か…」
 目を開けると相変わらず空は青くて、紅にとっては遺物のようで浅海にとっては見慣れたビル群が広がっている。そのすぐ上に。
 凛とした声が貫いた。
「そんなところで何をしている?」
 金糸と赤の刺繍が鋭い炎のようにも見える、波を模った刺繍。裾には同色のフリンジが付いている、亜麻色がベースのマント。その奥から淡い桃色の袖と小さな腕が覗いている。
「わぁー。 やっぱり飛んでるー」
 浅海が感嘆だか寝惚け声だか判断のつかないイントネーションで言った。おそらく前者の方であるのだろうが、間延びした感じがどうも拭えない。けれど、改めて驚いているのだけは確かなようだ。
なにしろ突然現れた彼女は、確かに上空で全ての空気を味方につけながらそこに存在していたのだから。
 彼女が指し示すのは、三人の背後。今しがた、司貴の言った事が正しいのならば、派手に雷を打ち込まれた場所だ。当然、そこはぶすぶすと燻って煙を上げていた。
 もう二区画ほど手前だったならば、確実にこの三人へ命中していただろう。
 要するに、威嚇か。
「な…何って…お嬢ちゃんこそ…」
 くしゃっとした萌黄色のショートカットと、青みがかった灰色の目。クールな印象を受けはするが、上空にたなびく風と共に存在する彼女は、確実に子供であった。言葉遣いよりも遥かに実年齢は幼いであろうことくらい容易に予測できる。
「『お嬢ちゃん』などと容易く呼ぶな。わたしは志陰儀の万要。きちんと名はある」
「シオンギ…?」
「へぇー、マカちゃんかー。可愛い名前だねぇー。因みに僕は司貴だよ」
 イマイチ耳に覚えのないその発音を聞いて、紅は『どういう字や?』と眉根を寄せ、司貴はやはりにっこりと微笑んだ。褒める主体が名前なのか万要自身なのかは判然としていなかったが。
 その証拠に。
「万要ちゃん可愛いねぇ。どう? おじさんと遊んでいかない?」
「こ…断る…!」
 うろたえる万要を向こうに、浅海は口を尖らせた。
「ええー? 司貴さん私に言ったのと同じこと言ってるー。まぁ、別にいいけどねー」
「うーん困ったねぇ」
「…ってどこが困るんやこの阿呆ー!! オッサンのクセに誰にでも声かけよって!」
 話を打ち切り、元の位置にまで戻したのはやはり紅の必死な突っ込みだった。それによって司貴のペースに巻き込まれそうだった万要は、はっと目的を取り戻す。
「そ…そうだ! ここでお前達は何をしていたんだ!」
 だが三人はもう完全に万要の話を聞いていない。
「オッサン呼びは好ましくないと言ったじゃないか。呼ぶのならね、お兄さんvとかパパvとか…」
「だあああああっ!! どうして! どうして俺が! 男にハート散らして呼びかけなきゃあかんのや! しかもオッサン自身がさっきも『おじさんと遊んでいかない?』って言うとったやないか! 可笑しい! 何かが間違うとるわ!」
「お…おい、お前達…! 人の話を…!」
「いや、この場合はだね『雅貴君ちのおじさーん』っていう意味のおじさんでね。オッサン、は僕自身を年寄りだと見なしている言葉だから、訂正を求めたわけだよ。だからまぁつまり、なんなら、パパ☆でも良いんだよ!」
「どうして爽やかで朗らかなんやー!! しかも『雅貴』て誰や!!」
「失礼だな。僕の可愛い息子に」
「万要ちゃん、可愛いねぇ。私は湯之倉浅海っていうの。アサって呼んで」
「…………わかった」
 話は通じず、思惑は読み取れず。万要は諦めてぐったりと頷いた。…だが、今は別に懐柔されても良いだろう。とりあえず、この三人が探していた人物達であることは間違いない…らしいのだから。
 その向こうでは、やはり男性陣二人が(浅海からすれば)楽しそうに騒いでいる。
 ――――――時は『それ』より十五分ほど前のことだ。


「しかし…君は面白い事を彼女に言ったね。ねぇ? ミッキー」
 青年が唇の端を軽く上げると、助手席の人形はこくこくと頷いて肯定の意を示した。その人形に同調したのか、はたまた自分の意思を再度示したのか。
 縞馬柄の帽子を被った青年…ガイがちらりとバックミラー越しに視線を向けると、後部座席にちょこんと収まって『君』と呼ばれた彼女はうっすらと笑った。
「君、あの天使に何て言ったんだっけ? えぇと、確か」

『あなたで最後』

「だったかなぁ? そしたらあの子、大急ぎで飛んで行っちゃったね。残念だ」
 くすくすとガイは笑い、軽くハンドルを弄ぶ。後部座席の少女は既にミニパフェに夢中になっていて、彼の言葉は余り聞いていない。だが、ガイの言葉は総じて自分やミッキーに向けているところがあると知ってのことだったのろう。
「面白そうだね。『皆揃った時』、一体これから何が始まるのかな? 退屈させないでくれると嬉しいんだけど…」
 車は、相変わらずの常識外れなスピードで街らしきものを駆け抜けた。あちこちに英語の散らばっている、人が入っていない、廃墟となった箱庭。
 ガイは、薄笑いを浮かべた。サングラスの奥の双眸が、深まる。
「ねぇ? ミッキー…」
 ――――――時は『それ』より十分ほど前のこと。


「……ヒューマノイド?」
 ほぼ呆然と、塚本は呟いた。
 それにイッコはにっこりと、やはりにっこりと微笑んでみせる。
 イッコの時代では当たり前の。塚本の時代では夢の行く先の。
 ヒト型ロボット。それがヒューマノイドだ。
「おまけに戦闘型」
「戦闘? どこで…戦いなんて…紛争とか?」
「違うよ。さっき宇宙治安維持警備保障会社所属、って言ったでしょ。宇宙の平和を守るんだよ!」
 イッコはそれを誇るように言った。だが塚本はやはり腑に落ちない。宇宙の平和とか言ったって、現在地球は…内部はどうであるか知らないが、平和なのだ。宇宙に地球以外の生命体は今のところ見当たらないし、いたとしてもバクテリアがどうとか言っているレベルである。
 それに…宇宙の平和? そんなもの、無駄な事をする『人間』がいなくなれば全て成される事だろう…?
「……真也も、『特務』と同じこと思ってる?」
「え?」
 特務?
 突然耳に飛び込んだのは、イッコの弱気とも取れる声だった。
 しかし、状況はいとも容易く逆転する。
「伏せて」
『ログイン完了』
 イッコの声と、もう一つの電子音は同時だった。
 素早くイッコは腰にあった何かを引き抜いて、電子音へ…つまりは塚本の頭上背後へと向きを固定させる。ライターで火を点けるときの音をもう少し激しくさせた程度でしかない、音。それが構えた何かから発せられた。
 イッコの眼球に青いスモークガラスのようなものが掛かる。発射された光の束を防ぐ為に。
「……え?」
 塚本が振り返ると、丁度光は掻き消え、機械の残骸がばらばらに上空から落ちてきたところだった。デザインはビリヤードの球を思わせる、それの黒。違うのは内蔵されていたと思われる、明らかにカメラと解る機械。浮遊する為のプロペラだったはずの板。集音だか発声だか知らないが、ネットの掛かったスピーカー。それらが全て、ここに落ちていた。大した大きさではない。せいぜいが直径にして十センチ程度だったろう。
 腰から抜いた物……玩具の銃のような形態をしたそれを元の位置に戻し、イッコは口を開く。
「……真也。君の所には来てなかった?」
 塚本は驚いて答えない。気付きもしなかった。おそらくそうなのだろう。イッコでさえ、自身を相手におめおめと補足させてしまったのだから。
「……何なんだ?」
 その疑問はビリヤードの球にか。イッコの武器にか。それとも両方か。
 宇宙空間において、しかも戦闘中でしか許可されていない銃を街中で使ってしまったのは違反だが、ここには全く人がいない。おまけに咎める人もいない。ならば、説明は省くべきだと処理して、イッコは口を開く。
「多分、監視だよ。……でもログイン、って何のことだろうね…」
「何かに登録されたとか…」
「それしかボクにも考えられない…けど」
 双方ともに心当たりは、無い。
「ゲーム…じゃないよねぇ…」
 嘆息と共にイッコは呟く。
 ゲームセンターに今日来た覚えは無いから、ヴァーチャルではない。それ以前に、入って結構経つというのに今更ログイン完了も無いだろう。ヘッドギアを着けて…イッコの場合は直接コードを繋いで、そこでログインするのだ。幾らなんでも遅すぎる。
「…あ」
 再び不意に、塚本は口を開いた。その手には携帯電話。
「……メールが来てる」
 文面にはただ一文、『ログイン完了』と書いてあった。つまり。
「もう、来てたんだねぇ」
 イッコは思わず苦笑し、塚本は笑えない。
「何なんだよ…」
 握り潰すように呻いて、塚本は携帯を再び仕舞う。思えば数分前。誰かが近づいてきた時に携帯が鳴ったのは、このメールを受信したからなのだ。『ログイン完了』。あの時点で自分は既に、『登録』されていた。…勝手に。
「とにかく、進んでみますか」
 イッコが能天気に、しかし表情は真摯に言う。
 自分達の周囲に、不可視の、しかし巨大な力が見え隠れしていること。イッコも気付いているのだ。
 未だに現在地は引きずり込まれた路地のままで、全く移動せずにそこに二人は突っ立っている。
 …ふと、塚本は気付いた。自分の後ろにいた人影。あれは、塚本に気付いてはいなかったのだろうか? また、塚本やイッコの声は聞こえなかったのか?
 人間がこんな誰もいない街中で、みすみす自分以外の人間を放ってどこかに行くとは思えない。逃げ出した自分とは違ってその人影は悠然と歩いていたし、あのビリヤードの球でさえ、接近してきたのだ。ならば、ほぼ全てが近づいてくるはず…。
 イッコが小首を傾げた。スカイブルーの髪が軽やかに揺れる。そう、このロボットでさえ、塚本に接触してきたのだ。ならば、あれは何故?
「真也?」
「あ……なんでもないよ…」
 軽く手を振って、塚本は路地から一歩足を踏み出した。柔かい午後の日差しが傾きかかっている。
相変わらず都市の喧騒は無くて、日頃は絶対に気付かない鳥のさえずりが耳を潤す。ここから左へずっと走っていけば、渋谷のスターバックスに辿り着く。世界が分かたれた、あの境界地点。
 そう、思っていたのに。
「あれ! こんなところにもあるんだ!」
 イッコが感嘆の声を上げた。そのとてつもなく巨大な画面を前にして。
「……嘘だろ…?」
 逆に、塚本の唇は痙攣する。
 巨大なモニター。いつも正午の番組ではここが映る…
 新宿アルタの、眩暈さえ引き起こすあの大画面。
 それが、何故か目の前に真っ暗なままそびえ立っていた。
「なんで新宿なんだよ…」
 地形を完全に無視している。自分が今までいたのは、渋谷だ。あの路地に入ってからは一歩も動いていない。引き込まれたのはほんの数メートル。戻ったのもほんの数メートル。なのに。
 自分を追った人物は、消えたわけではなかった。自分を捨て置いたわけでもなかった。
 塚本。彼自身があの場所から忽然と移動していたのだ。それが、全ての種明かし。
 この、人のいない世界に彼を通したスターバックスの自動ドアを思い出す。あのときのような感覚が再び脳を襲った。いなくなったのは他ではない。自分だという、その事実。
 後から来るのは、感覚的な眩暈。受け入れる事の出来ない、だが確かな現実。それが。
「ワープだとでも…言えってのか…?」
 突然、その画面に…いつの間にか流れていたCMが変化した。どうして気付かなかったのだろう。この静寂の都市に訪れた、自分達以外には唯一の音だったというのに。
 清涼飲料水のCMのセリフを喋っていた美人女優。彼女はここで微笑みながら楽しそうに『その言葉』を言うはずだった。だが。
 塚本にとっては見慣れた彼女が、聞き慣れたセリフが、その声をもってしてこう言った。
『ようこそ、フィールドへ』
 彼女は、変わらずその飲料を手にして微笑んでいる。


 異変に気付いたのは丁度その時。
「ん? なんや?」
 めいめいに商品やカゴを持って、コンビニエンスストアで。
「…故障ー?」
 流れていたのはラジオだったか有線だったか。もしかしたらそれさえも、自動的にスイッチを入れられた伏線だったのかもしれない。だって、この街は無音なのだから。
「…いや、電波ジャックかもしれないねぇ」
 レコードを無理やりに逆回転させたような、カセットテープを突然早送りにしたような。人の首を絞めたときのような。そんな一呼吸をおいて。
「……音が」
 今まで歌っていた男性歌手の声が、メロディーから醒めた。ご丁寧に、デュオのままで。
『これから、ルールを説明しよう』


 最後に言った指示はなんだったか。
 人はいなくても機械は衛星と正常に作動しているらしく、そのカーナビゲーションシステムの端末は、生真面目に仕事をこなしていた。渋滞なんてしていないのに、どこへ向かえと指示を出してもいないのに。
 もしかしたらその時には、もう狂いだしていたのかもしれない。
「あれ?」
 青年の声と同時に、助手席のミッキーマウスを模った人形も首を傾げる。後部座席の少女も、身を乗り出した。
 今までは、何処へ向かうつもりだったのか『次の信号を、右に』とか言っていたその女性の電子音が、そのままの平坦さで意思を持つ。
『果たして君達は、クリアできるか』


 美しい声が、滑らかな声が、歪な声が。その全てが口を開く。
 世界全てが、口々に言う。それは風さえもそれは葉さえもそれは鳥さえもそれは光さえも。

『ここは何処だろう』
『ここはフィールドだ』
『何をすれば良い』
『抜け出してみれば良い』
『何処から』
『此処から』
『どうやって』
『どうやって?』

 美人女優のCMが終わると、次はお笑い芸人のCMが彼らの声で。
 男性デュオの曲の長さが過ぎると、次は凄まじい高音で歌う世界の歌姫の声で。
 カーナビかと思うと、次は何処かのスピーカーから。

『条件は』
『誰かが抜け出せればゲームクリア』
『どうやって』
『一つで良い他を消せば良いさすれば自身は外へ』
『他には』
『ジグソーパズルだ揃うしかない』
『他には』
『…他には?』

 問いかけとは決して言えない、自問自答にも似たそのルール説明。気が狂いそうなほどに混ざり合った音。世界は今、フィールドへと変貌し、その全ては何一つとして自分達の知ったものではない。
 何一つとして、何処かの何かの誰かの手の平の上にある物は、手に入らない。
 ここは、フィールド。
 誰一人として、見知らぬ場所。

『是非、抜け出して貰いたい』
『君達に出来るのはすべきことはただ一つそれだけだ』
『夢ではない現実だ』
『健闘を、祈る』
『それでは……』

 歪曲した音が、淡々とフィールドに沁みていく。意思持つ声は意思持たぬ声に。意思持たぬ声は、意思持つ声に。流れ持つ声は、流れ持たぬ声に。流れ持たぬ声は、流れ持つ声に。
 そして、『その時』は訪れた。
 全ての声が、一斉に集束して。

『――――――GAME START』


 …ふらりと記憶をリピートしてみる。
 エレベーターも螺旋階段も通常階段も待っている時間が惜しくて、手っ取り早く行けるだろうと螺旋階段の吹き抜けを一気に飛び降りた。そうしたら、着いた先は「木馬船」の一階ではなくて、アスファルトの路地だったのだ。真っ白なリノリウムを予想していたら、全く反対の色に出会ってしまった。
 正直、これは歪みが起こってどこかへリンクして、ワープしてしまったかな。とか思っていたのだけれども、現状は遥かに深刻らしい。座標を違えただけならば自分で信号を発信して迎えに来てもらえるのだが、座標も座標。X軸だけでなくY軸だけでなくZ軸まで間違えて、捻じ曲がったどこかへと飛んでしまったようなのだ。おまけに時間とかいうもう一つの軸すらも摩訶不思議なミラクルで越えた。
 弄ぶしかない報告用メモリーカードを内ポケットにに仕舞いこむ。帰ったときのために、失くすわけにはいかないのだ。…絶対に帰る。帰るために。
「…東京タワー?」
 不意に、隣の塚本が口を開いた。何となくまだ青褪めてはいるが、一通り葛藤して落ち込んで、とりあえず今は現実逃避を決め込んだらしい。話題を逸らしたいという気持ちは、イッコにも良く理解できる。何せ、今はイッコも全く同じ気持ちなのだ。確かに中身はゼロと一で構成されているけれども。
「見てた方向……東京タワーだろ? でもここからじゃ見えないよ。ビルもあるし」
 親切だ、とイッコは心の底から感動した。そして同時に自分の居場所を確定させる。
 東京タワー。そんなクラシカルな遺物が存在する時代なんて。
「……真也…それ、真也の時代の物?」
「そうだろうけど…」
 躊躇いがちに返すけれども、彼も薄々気付いていたらしい。自分達の間にある、大きな時間的隔たりに。
「ボクねぇ…西暦だと2571年にいたんだよ、さっきまで」
「…………冗談」
「じゃないからね」
 びしりと断つ。だがやはり彼は信じない。頭のどこかで気付いているはずなのに。極力イッコと目を合わせないようにしているのか、それとも考えているのか。とにかく彼の視線は落ち着いていなかった。
 ぽつりとイッコは呟く。
「東京タワーは、僕の時代では転送塔になるんだよ。そこから宇宙にあるセンターへ物資とか、人とかを送るんだ。……ロケットはもう無いからね。百年くらい前に、転移装置が開発されたから」
「……どこでもドア?」
「何それ?」
 凍りついた顔の塚本に、イッコは小首を傾げてみせた。
「ドアは決まった場所にしかないよ?」
「いや……やっぱいい」
 塚本はやけに細かく首を振り、手でイッコを制する。もうこれ以上の追求はするな、むしろして欲しくない、いや、しないで下さいお願いします。という意識がイッコにも読み取れた。何となく。
 暫くそのまま躊躇の気配を見せて、それから塚本は…不意に顔を上げた。
 目の前には、相変わらずそびえたつプラズマスクリーン。最近アルバムを出したばかりの女性歌手が、伸びやかに、晴れやかな笑顔で歌っていた。その高音は、どこまでも響く。
 それも、いつまでのことだろうか。もうすぐにこの街は、再び音を鎮めるだろうに。
「……真也。ボク、東京タワー見てみたいよ」
 遠くを見遣りながらぽつりと落としたイッコの言葉に塚本は少し詰まり、
「…出来たらいいけどね」
 そして躊躇いながらも呟いた。
 現状は楽観視できるものではない。確かにここで生きてはいけるかもしれないけど、あの雑多で退屈で窮屈でやかましい『日常』に戻る事は出来ない。何よりも塚本は、その『日常』に戻りたいのだ。八十ホーンある、家から電車ですら一時間以上掛かる、あの渋谷に戻りたいのだ。そしてそこからまた一時間以上かけて、家に戻りたい。誰かに、会いたい。
 かすかに目蓋を伏せて、挿しっ放しだったイヤホンのコードを弄んだ。電源を入れたら先程の設定からボリュームを大幅に下げて、そして再び電源を切る。なんとなく、バッテリーは残しておきたかった。それが『通常』との繋がりだと少なからず感じたからかもしれない。
 と。
「よっし、じゃあ前祝いだー!!」
 突然イッコが大声で叫び、地面に座り込んだ。呆気に取られている塚本も座るように手で指示をすると、そういえばさっきから持っていたらしい一抱えのものをドンと二人の間に置いた。
 …スナック菓子を中心に、何だか色々と詰め込まれた大きな紙袋。
 一人で陽気に騒ぎ出すイッコを視界の端に収め、
(何か……定番のチョコレートは入ってないけど…パチンコの景品みてぇ…)
 ぼんやりと考えながら、塚本はその中の一袋を受け取った。
 どこから取ってきたのかとか、そもそもロボットが食べられるのだろうかとか、そもそも一体何の前祝いなのかとかは……この際全部気にしないことにして。



written by 梢凪 2002年12月17日公開