第二話



 塚本は詰まりそうになる息を意識的に吐き出した。
 無音のビルの谷間。不気味なほどに反響して響き渡る、規則正しい固い靴音。それと同時に耳を打つのは、自分の激しく高鳴った鼓動。
 誰かがこちらへと向かってきている。
 相手の姿はまだ見えない。止まったまま動かない自動車の影に隠れ、靴音ばかりが近づいてくる。
 誰もいない世界に唐突に放り込まれた塚本の中に湧き上がってくるのは、自分以外の存在を喜ぶ「安堵」ではなく、それが何者か判断のつかない「恐怖」だった。
 逃げるべきか、相手の姿をせめて確認するべきか、判断がつかずに塚本はただ石のようにその場に立ち尽くした。

 ──…ジリリリリリリリン…ッ!

「…──!?」
 そのとき突如、塚本のポケットに潜んでいた携帯電話が鳴り始めた。黒電話を真似た、鳥肌がたつほどに無機質な着信音が、無人のビルの谷間に反響してこだまする。
 跳ね上がる心臓に引きずられ、反射的にポケットに手をつっこむと、近づいてくる靴音がその速度を増すのが耳に入った。焦りで震える指先が、どうにか携帯電話を取り上げる。その瞬間、塚本は自分でも正体の分からぬ衝動に駆られて、本能的にその場を逃げ出した。
 足音がついてくる。背後を振り返りながら、塚本は何故逃げたりしたんだ、と更に高まってしまった恐怖の中で激しく後悔した。同時に、何故こんな世界に来てしまったのかという強い疑問が頭を駆け巡る。
 全力で走りながら、塚本はまるで答えを求めるように、握りしめた携帯電話のディスプレイに、ちらりと視線を落とした。
 そして、そこに何かの文字を見つけた瞬間。
「………っ」
 塚本は背後からではなく、右脇に伸びた路地から伸びてきた腕に力強く肩を掴まれて、悲鳴を上げるまでもなく路地へと引きずりこまれていった。

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 その奇妙な事態が起きたのは、爆音がうるさい夜のことだった。
 上空から打ちこまれる弾丸が、大都市の裏側に巣喰らうスラム街を破壊し、真っ赤な炎で包みこむ。空は鮮やかな朱に燃えあがり、建物の壁はそれを受けて赤々と輝きを放つ。
「…うるさいなぁ…」
 そしてそれは、ガイ=フレデリックの色白の頬をも煌々と染め上げていた。
 戦争じみたその騒ぎを建物の屋上から眺め下ろしていたガイは、爆音のせいでじんじんと痛む耳に顔をしかめた。
「赤く染まる町は綺麗だけど…この爆音はいただけない」
 呟いた途端、再び下で爆音が弾けた。同時に聞こえてくる人々の悲鳴。ガイは不愉快そうに歪ませていた顔に、ふと微笑みを浮かべた。
「…悲鳴なら大歓迎。人の逃げ惑う姿は、懸命でとても愛しいからねぇ」
 彼の故郷であるスラムは、先日から戦争状態に陥っている。本物の戦争ではない。スラムを支配するチンピラたちの、ちょっとしたデモンストレーションだ。政府から「犯罪者の巣窟」と恐れられるこのスラムで、このような光景は毎日繰り広げられる日常の一端にすぎなかった。
 ガイはそれをいつもビルの屋上から眺めていた。
 特に理由はない。ただ彼はいつもそうなのだ。高見の見物。すぐ脇で巻き起こる事態を、小説でも読むように傍観者として楽しむのが、彼のライフスタイルだった。
 そう、いつだって自分は傍観者。決して物語の中の登場人物にはならない。
 ──はずだった。
「それにしてもうるさい。ねぇ、ミッキー?」
 ガイは縞馬柄の帽子を煩わしそうにくいっと下げると、組んだ膝の上にちょこんと座る、彼の大切な機械人形「ミッキー」に声をかけた。昔流行ったキャラクターを模した人形ミッキーは、彼の声に反応してコクコクと首をうなずかせる。ガイは嬉しそうに笑って、「そうだよねぇ、やっぱりねぇ?」とその頭を愛しげに撫でてやった。
 だがそんな二人の楽しげなひとときも、再び起こった爆音が台無しにした。ガイは舌打ちして、不愉快そうに頬杖をつく。
「…野暮」

 そして彼は、呟いた。
「もう少し、静かにしてくれない?」

 まさかその願いが、叶ってしまうとは知らずに。

「…………」
 ガイは組んだ足に頬杖をついたまま、ぼんやりと灰色の曇天を見やった。
 どこかで、ぴよぴよ…っと鳥がさえずっている。風がそよそよと心地よく吹いて、街路樹がさわさわと音をたてている。
 ひときわ強い風が吹きつけ、縞馬柄の帽子が浮き上がる。彼は無意識に空いた手を持ち上げて、それが飛んでいってしまう前に受け止めた。
そして帽子をきちんと被りなおしてから、ガイはようやく「…ん?」と首を傾げた。
「…ぴよぴよ?」
 ガイは頬杖をついたまま、目の前に見える景色をポカンと見据える。
 彼は屋上に座っていた。先ほどからずっと座っていた。だから今ももちろん座っている。
 けれど何故だかいきなり色々と違う。
 ──いきなり、周囲を取り囲む景色が一変していた。
 頭上には灰色の曇天。眼下には、膝の上できょろきょろしているミッキーと、その向こうに見下ろせる整然と建ち並ぶオフィス街。先ほどまで彼の視界を覆っていたのは、炎で赤く燃えた汚らしいスラムだったのに、今、眼下に広がっているのは明らかにそれではない光景。火の粉すらも見当たらず、汚らしいスラムの塵も飛んでいない。人の悲鳴も、爆音も、物が弾ける音も聞こえない。聞こえるのは鳥ののどかな鳴き声や、風のかすかな音だけで──。
「…死んだかな?」
 ガイは頬杖をついたままの姿勢で凍りつき、何の前触れも衝撃らしいものもなく、まさに忽然と現れた世界を見やった。
 ミッキーを胸に抱きあげ、とりあえずその場に立ち上がってみる。本能的に見える景色から情報を拾おうと、視線を周囲に彷徨わせ、そしてガイは改めて呆気にとられた。
 模型世界。そんな単語が頭を過ぎる。
 ビルの屋上からはるか遠くまで見渡せたその世界は、動くものが何一つ見当たらない、まるで模型の中のような、静寂と静止が支配する灰色の都市だった。明らかに、自分がいた世界とは異なっている。
 ひどく静かだ。耳があまりの静寂に圧迫されて少しばかり痛い。
「…僕は“もう少し”って言ったのであって、ここまで静かになれなんて言ってないんだけどねぇ…」
 耳にまとわりつく静寂が鬱陶しくて、「融通が利かないんだから…」と誰にともなく文句を吐く。冷静ぶって喋ってみると、それは実際に動揺を鎮めるにも一役を買った。
 これは夢だろうか。それとも幻覚でも見せる新手の化学爆弾が降ってきたのだろうか。あるいはやはり自分は爆発にでも巻き込まれて、死んだのかもしれない。だとしたらここはあの世?随分けったいで味気のないあの世だ。
 そのときふと、思わぬものが目に飛びこんできた。
 ビルの織り成す山々の向こう。ファーストフード飲食店「マクドナルド」の黄色と赤い色をした看板が高々と立っているのが見えた。
「…マクドナルドがある」
 ガイははてはてと腕を組み、腕の中でガイの真似をして腕を組むミッキーと顔を見あわせた。
 
 屋上から階段へ回って、地上へと下りたガイを待っていたのは、人気のない閑散とした道路と、せいぜいが八階ほどしかない背の低いビル街だった。
 通りには無造作に車が止めてある。ガイは思わず感嘆の溜め息をついた。
「大変、ミッキー!博物館級の車がある。分かる?これ。確か、タイアっていうんだよ。ぐるぐる回転して、地面を転がるんだ。非生産的な乗り物だよ」
 ガイは両手の指をわくわくと絡め、車へと近づいて好奇心で輝いた顔であちこち丹念に検分した。
「…Toyota?」
 もはや遠足気分でバンの後ろに回ったガイは、そこに盛り上がったロゴに首を傾ける。
 首を傾げたまま車の側面まで戻って、ドアの取っ手らしき部分をそっと掴んで引いてみる。ドアは難なく開いて、ガイの前に彼の世界の車とはそう変わらない運転席が顔を出した。
「…右ハンドルか」
 無意識で開いた方は助手席だった。なにかを考えるように虚空を見据えながら、反対側に回って運転席に乗りこむ。そして席の前に羅列したボタンの数々と、フロントガラスの向こうに伸びる道路に止められた車が、全てタイアを持っているのを見て、ガイは再び顎に手を当てた。
「…やっぱり博物館に展示してある車と構造が同じだ。それもこの車だけじゃなくって、あっちの車も全部そうみたい。…Toyotaというのも幻の名車だし、それにこの町並み…僕はもしかして、タイムスリップをしてしまったのかな…?」
 忽然と現れた模型世界は自分の知る世界とは随分とかけ離れているものの、どこかで見たことがある気がした。ガイの世界では、車は空を飛ぶためにタイアを持たず、建物は天を貫くほどに高く聳え立っている。だがここでは車はタイアを持ち、建物群は八階ほどの高さしかない。にもかかわらず、どちらにも共通してあるマクドナルド。──自分のいた世界とは明らかに違うが、どこかが似ている…そう、いつか古い映画の中に見た、百年以上昔、ちょうど2000年あたりの地球の光景にそっくりだった。
「…ふーん?」
 ガイは顎先を指でとんとんと叩きながら、不意に妖しげな微笑を浮かべた。奇怪な世界に突如入りこんでしまった彼の、傍観者としての好奇心が徐々に疼き始めた。
「まあ、何でもいいや。ともかく僕はこの世界に興味津々だ」
 ガイはくすくすと笑いながら、刺さったままの鍵を直感を頼りに右に回した。エンジン音が鳴るのと同時に車体が振動する。アクセルペダルは自分のいた世界と同じ位置にあるようだ。強く踏みこんでみると、体が椅子の背もたれに叩きつけられるほどの凄い勢いで急発進した。
「どうやったら飛ぶんだろう、この車。タイアがあるってことは飛ばないのかな…不便…」
 無人の車道を恐ろしく荒っぽい運転でかっ飛ばしながら、ガイは空いた片手でボタンの羅列を指でなぞる。適当に押してみると、ラジオだろうか、ザァ…というノイズが延々と車内に流れ始めた。ガイは試行錯誤の末に窓を開け、音の一切しない音に嫌がらせのようにノイズを流してやった。
 窓から見えるのは高速で過ぎ去ってゆく、小さな都市の空虚な建物群。アップダウンの激しい道をメーターによると120キロを出して走る。
 とりあえず目指す先は、あのマクドナルドだ。なにかこの世界を知るヒントがあるかもしれない。
 と、その時だった。
 目の前の建物の間から何かが飛び出してきた。
「…おや?」
 速度を緩めぬ車の前に飛び出してきたのは、人間だった。
「…あれれ」
 暢気に首を傾げつつ、ガイは勢いよくハンドルを切って、人影の横をぎりぎりの間隔ですり抜けた。タイアが甲高いスリップ音を立てて、地面に黒いタイアの跡を刻む。しかし停車はせずにそのまま道路を突っ走らせるガイは、高速で過ぎ去ってゆく背後の様子をバックミラーで覗き見た。
 ほんの一瞬、人影が道路脇に停車してあった車のドアを開ける姿が目に入り、あっという間に粒ほどの大きさになって見えなくなる。
「…人だねぇ…」
 少なくとも屋上から見えた世界は、風に吹かれて物が揺らぐ以外、何も動いているものがないように思えた。だから自然と人間もいないような気分になっていたのだが、そうではないらしい。
 開け放した窓から、遠く過ぎ去った後方でエンジンが高々と鳴る音が聞こえてきた気がした。
「……カーチェイス?」
 もしや自分の後をついてくる気だろうか。ガイはあまりの楽しさに肩を震わせて笑った。
「僕に勝負を挑むなんて…無謀だねぇ」
 ガイは助手席に座るミッキーがちゃんとシートベルトをしているのを確認すると、薄っすらと微笑みを浮かべてアクセルペダルを踏みこんだ。
 急坂を落下でもする勢いで下りはじめた車のフロントガラスには、林立する建物群と、その背景に輝く灰色の海と、そしてマクドナルドの看板が、どこか誇らしげに立つ姿が映っていた。

                              +++

 どこかで鴉が空虚に鳴いている。
 排気ガスで黒ずんだ痩せた街路樹が、一応それでも樹らしく風に揺れてカサカサと葉音をたてている。自然の音は耳に心地よいものだ。他が一切無音であると、余計にそう思う。
 シュン…という音とともに透明な自動ドアが開く。
 薄暗い店内から、反応速度の遅めな自動ドアを抜けて外へと出た紅は、満足げに空気を吸いこんだ。
「ま、こんなもんやろ」
 そよと吹く風に長い銀色の髪を揺らしながら、彼は両腕いっぱいに抱えた紙袋を嬉しそうに見下ろした。入りきらずに紙袋の端から顔を出しているのは、チョコやらパンやら──背後にどんと構えるパチンコ屋で手に入れた景品たちである。
 紅は快活に笑って、振り返った途端に閉じた自動ドアの向こうに広がる、パチンコ台の群れにひらひらと手を振った。
「おおきにな〜」

 パチンコ屋を振り返る紅の背後には、紅の明るい表情とは正反対に、時を止めたかのように空虚な都市の姿が広がっていた…。



written by 翁千尋 2002年05月05日公開