第十六話 |
「出来た♪」 いつもの目覚ましの代わりに耳に飛び込んできたのは、人の声と金属音だった。 誰だよ、と寝ぼけていられたのも一瞬の事、塚本は瞼に強烈な光を感じて覚醒した。 一面を取り囲む硝子窓から容赦なく朝日が差し込んで、フロアの床が眩しい程真っ白に光っていた。反射光に焼かれた目の痛みと、無理な体勢で痛めたらしい背中の痛みが、昨日、そして今この瞬間の境遇が夢でないことを、彼に改めて教える。 昨日目覚めたはずの自分の部屋は、遥かに遠い。 硝子の向こうに広がる、輝くばかりの朝靄に包まれた無人の大都市を眺め下ろしながら、塚本は寄り掛かっていた壁から背中を離した。 「起きたか」 逆光を浴びてもなお影すら白い阿小夜が気付いて振り返った。窓辺に佇んだ彼女の白すぎる肌や銀髪や衣装やらは差し込む東陽に照らされて、まるで燐光を放っているかのように見える。 「‥‥‥おはよう、ございます」 相変わらず冷たい視線に居心地の悪さを感じながら、塚本はもそもそと毛布代わりにしていた上着を着込んだ。いつもの習慣で携帯の待受画面を見ると、時刻は午前8時になろうとしていた。昨朝なら熟睡していた時間だ。 その塚本を眠りから覚ました張本人であるガイはというと、窓際に立った彼女から四、五歩離れた位置で窓に向かって座り込み、何やら御機嫌な様子である。どうやら先程の金属音の原因か、その両手指から落ちたらしい工具を、ミッキーが片っ端から回収していく。 「ありがとうミッキー。気が利くね」 昨夜の作業から夜通しそうしていたらしい。明らかに何かを作った痕跡の散乱する床から立ち上がると、満足そうに大きく息をついて、ぱんぱんと膝を払った。その手には、何やら銀色をした球体のようなものが乗っている。 「何が出来たんだ?」 尋ねた塚本の目の前をガイはさっさと素通りし、フンフンと鼻歌を歌いながら窓際に近づいた。その後ろを、大量の工具を抱えたミッキーが、ててててっと付いていく。 阿小夜は白すぎる手を上げ、その塔、『東京タワー』の中と外とを隔てる硝子にしっかりと指をついて、眼下の光景を見下ろしていた。 「恐ろしいものだな。これが、人の身によって造られたものだとは」 「おやおや?どうしちゃったのかな」 ガイが面白がってからかった。彼のウエストポーチによじ登り、工具を仕舞い終えて得意げなミッキーの首根っこを、ひょいとつまんで腕に抱く。 「昨日の夜にはそれと同じ窓を、遠慮なくバリバリ壊しまくってたっていうのにねえ」 しかし、怒るかと思われた阿小夜は、意外にも冷静に、 「どうかしていた」 と答え、うっすらと笑んだ。未知の世界へ飛ばされた最初の錯乱状態から脱したのか、昨夜の殺伐とした危うさは大分薄らいでいる。未だ一枚壁を持った印象は変わらないが、おそらくはこのどこかひんやりとした落ち着き振りこそ、彼女の本分なのであろう。 眼下に広がる、彼女にとっては神域から見たかのように小さく映る、豆粒で描いたかの如き風景。遠目には文字通り林立する、異様に細長い箱のような建造物の群れ。 この世界に飛ばされた瞬間からタワーの中にいた阿小夜には、遥か彼方まで続く豆粒と箱の景色が、本来なら数多の人間が住んでいるはずの都市の姿であるとは、頭の冷えた今でも想像し難い話だった。その事実を言葉少なに説明した、今は壁際で大人しく座り込んでいるあの青年は、まさにこの箱庭の光景の中で―――正確には、これと非常に類似した世界で―――生活していたのだという。 「こんな、天にも届くような櫓(やぐら)を立てて、一体何を見下ろそうというのだ。神にでもなる気か?」 「かも知れないね」 ガイが相槌を打って、振り向いた阿小夜に笑い掛けた。両手を手すりに掛け、うんと身を乗り出し下を覗く。そして、誰にとも無く呟いた。 「‥‥‥僕にとっては、低すぎる」 地面の見えない、空の見えない、高度の実感さえ沸かないバベルの塔。そういうところから見た光景を、彼は知っている。灰色をした故国のそれを思い出して眼下の景色と重ねたガイの顔からは、ごっそりと表情というものが抜け落ちていた。 「下から見た姿は素晴らしかったけど、中に入ったら大した事無かったな。・・・とても、つまらない」 フイ、と反転して、手すりに背と両肘を預ける。ミッキーが彼の肘と阿小夜の間に飛び降り、手すりの上で器用にタップ・ダンスを始めた。 窓鏡越しに男の変化を見ていた白ずくめの女は、血色をしたその眼だけを隣へ向けた。 「つまらない物に興味はないか」 「ないよ」 欠伸でもしそうな調子で縞馬帽子が答える。 「観客は刺激を求めてるのさ。そうだろ?」 「‥‥‥わからんな」 「それは君が『出演者』の側だからだよ」 眉を顰めた阿小夜にくつくつとガイは喉を鳴らした。その顔には、すっかり笑みが戻っている。 「ところでね、アコヤ。さっきまで僕が何を作っていたか、わかるかい」 「わかるわけがないだろう。貴様、あのツカモトとやらの話を聞いていたのか?」 異邦人のすることなどいちいち理解できるものか、と大いに皮肉を込めて阿小夜は言ったが、ガイはそうと問いかけておいて全くこちらの返事を聞いていない様子で続けた。 「ちょっと良いパーツが手に入ったんで、作りかけを完成させてみたんだ。どう?」 得意気に取り出したのは、先程の銀色をした球体だった。目の前に寄せられてよく見ると、掌に収まる程度の小さな本体に、耳のような弁が二つと、赤い目のようなものが二つくっついている。 阿小夜は鼻を鳴らし、こんなものに興味は無いとばかりにガイをねめつけた。ガイはひょいと眉を上げ、 「別に噛み付いたりしないよ」 「誰がそんな事を聞いた」 ギロリと男を睨み下ろしながら、阿小夜は腹立たしさを覚えた。 後悔先に立たずというが、この世界に入って最初に出くわしたのがこの男だったというのは、まず自分にとって不運であったに違いない。平常心を失った己も己であるが、それによってこの男の中での阿小夜像が「からかい甲斐のある玩具」で固定されてしまっているのが判るだけに、余計腹が立つ。武士の自尊心に懸けて、どこかでそれを払拭せねばと、人生で数度あるかなしかの情けなさを込めて、阿小夜は深く嘆息した。 もちろん、そんな悶々たる彼女の内心など、ガイが気に留めるはずもない。 「はい。これあげる」 ぽん、とばかりに無造作に、それを彼女の手の中に押し付けた。言わずもがな、例の金属球である。 「‥‥‥‥‥‥い、いらんわっ!」 「どうして?改心の出来なんだけどなあ」 「いらんと言ったら、いらん!!」 遠目からやり取りを見ていた塚本は、あ、と声を上げた。反射的に受け取ってしまった阿小夜が我に返って投げ返そうとした瞬間、宙に浮いた球の擬似眼に光が点ったのだ。 「起動成功♪」 ガイが口角を曲げて呟く。 一晩という短時間で製作された謎の未確認飛行物体は、何だこれはと詰め寄る阿小夜と、嬉しそうに手を叩くミッキーの頭上を浮遊し始めた。 +++ ルエルは呆れた。 「うッッそだぁーっ」 「ちょっと、舌噛むよ」 頭上を仰いで反らせた彼女の顎の下で青い髪をはためかせているイッコから注意が飛んでも、開いた口を塞げないでいる。 ひとつは、彼女を背負ったまま高層建築のてっぺんを飛び越え疾走するロボット(イッコは自らをヒューマノイドと呼称した)の驚異的な脚力を目の当たりにしたせいもある。女の子とはいえ人間である以上、そう軽いわけではないはずのルエルを背に負って、昼の陽光に照らされた大都市を、屋根伝い(というか屋上伝い)に、自分が走っているわけでもないルエルの方が息をするのに苦労するような速度で駆けていく姿は、彼でも彼女でもない“ICCO”の存在が、まさに人外であるということを如実に語る。が、これは既に都市の一区画を大破させた現場を目撃している身としては、ただ現実を再認識する程度のものでしかない。 彼女があっけにとられる理由はもうひとつ。 「いや、デカすぎでしょあれは!?」 林立した四角く長い建物たちの隙間に―――否、合間から突き抜けるようにして天へと伸びる、巨大な赤い塔の姿であった。 視界の先いっぱいに広がった『東京タワー』の異様を指差し、ルエルは縋ったイッコの肩をがくんがくん揺さぶって―――実際には一寸たりとも揺れてくれなかったが―――同意を求めた。 「ねえイッコ、あれが本当にトウキョウタワー?間違いない?」 「そんなのボクに聞かれても困るよ。データでしか知らないもん。でも、たぶんアレだと思うんだよね、見た目的に」 イッコは素直に答え、言いながらまたビルをひとつ飛び越えた。 「うわわっ!急に飛ばないでっ」 「ともかく、キミが行かなきゃいけないのは、『東京タワー』なんでしょ」 「無視しないでお願い心臓止まっちゃうってば。‥‥‥そう、『トウキョウタワー』っていう名前なのは知らなかったけど、赤くて、ちょっと白いとこもあって、昨日の夜は綺麗にライトアップされてた。坂の上にあって、上のほうがとんがってて、鉄かな?金属で出来てるみたいな感じの塔でね」 見上げた塔の姿を思い出し、その下であった事を思い出す。 「‥‥‥もう一度、行かなきゃいけないの」 呟いて、ルエルは目の前にあるコートの背を掴んだ。 イッコは脚を緩めぬまま、しばし口を噤んだ。二秒ほど沈黙を続けて、 「そしたら、当てはまるのってやっぱり東京タワーぐらいなもんじゃない。この時代の鉄塔としては東京で一番有名だしさ」 自身に記録された情報の再検索をかけたのだろう。きっぱりと言い切った。 「だーからーっ!問題なのはそこじゃなくてー‥‥‥もうっ!」 何と言っていいのかわからないもどかしさにルエルは頭を振り、 「最初にわたしが見た時は、絶対もーちょい、ってか全然小さかったよ!?それでもけっこー大きかったけどっ!あれが本物だっていうんなら、私が見たのは偽物だったの?それとも何、一晩明けるといちいち大きさが変わっちゃうわけ、トウキョウタワーっていうのは!?」 イッコがぐるん、と首を後ろへ向け彼女を見た。 「最初って、いつ?」 「キミがスクラップにした目玉くんと会う前だよ!」 ‥‥‥キキィーッッ!! 「ぷきゃっ!」 「あっ、ごめん」 背中に追突したルエルの悲鳴にごく軽く謝っておいて、ビルの縁に急停止したイッコは前へ向き直った。 「東京タワーの全長は333m。ボクが真也と一緒に見た時の推定全長‥‥‥333m」 突然抑揚の無い独り言を始めたイッコを、不審に思ったルエルが覗き込む。硝子玉のようなその瞳孔は、虚空を見たまま小刻みに上下していた。ルエルはイッコの首にしっかり掴まって尋ねた。 「ねえ、メートルって?単位?333メートルってどのくらいなの?」 「1mは君の身長の約3分の2。3mは一般住居の約1階分。333mはその111階分だよ」 「わ、わかりづらいぃ〜」 111階建ての建物など、容易に想像できるものではない。再び頭を抱えたルエルに、イッコは続けて事実を述べた。 「今現在見えてる『タワー』の推定全長は、キロメートル単位。1kmは1mの1000倍だ」 「つまり‥‥‥え?じ、じゃああれはやっぱり偽物ってことー!?」 「うん、そう」 「‥‥‥えええーーーーーーっ!!早く気付いてよそういう事はぁぁ〜っ!!」 せっかく苦労してここまで来たのにー!と泣きそうな声を出すルエルである。 「大体キミ、本物の『トウキョウタワー』の数値知ってたんでしょ!?それで何で疑問に思わないわけよ、あの大きさ見てっ!」 「いやあ、これだけ変なことだらけのトコだし、そんなこともあるかなーと思っててさ。でも、よく考えたら、ボク一度この世界の『東京タワー』見てるんだよね。そういえばふつーの大きさだった!あはははは!」 「あははじゃなーーーい!!ち、ちゃんと考えてから動いてよぉぉっ!」 「無茶言わないでよ、ボクは戦闘兼通信用なの。元々、考えるのって苦手なんだ」 ルエルはそれを聞いて、ぱくりと口を開け、やがてがっくりと項垂れる。 そうか、“これ”はどこまでもロボットなのだ。いくら高性能であろうとも、それを上手く“使って”やれる人間がいなければ、どこまでもただの道具でしかないのかもしれない。 ナントカと包丁は使い様、という格言を残念ながらルエルは知らなかったが、それに果てしなく似通ったことを思い、深く深く撃沈した。 「うあ〜ん‥‥‥どうしよう、もう、どこ行ったらいいのかわかんなくなっちゃったよー‥‥‥。大体、あれが偽物なんだったら、わたしが見た本物はどこ行ったのかなあ?あんな馬鹿でっかい偽物なんてあんなとこ置いたの誰よぅ〜っ勝手に本物隠さないでよ〜っ」 背中でとうとう泣き言を言い出したルエルの嘆きをしばし黙って聞いていたように見えたイッコは、困ったというよりはあーもー面倒だなあという顔つきをして、再び眼の焦点を巨大な塔に定め、それから遥か下の地上を見下ろした。 「『目玉』を見つけなきゃ」 何の脈絡も無く、よし、とイッコは腰に手を当てて気合を入れる仕草をし、ずり落ちかけて「わわわっ」と奇声を上げたルエルに一言、 「ちょっと寄り道するよ。しっかり掴まっててね、落とすかもしんないから」 「落とすかもって?かもって何!?」 一方的に断りを入れて、トンとコンクリートを蹴る。 「ッきゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」 「だから、舌噛むから口閉じなって言ってるのにもう」 15階建てのビルの屋上から、二人は地上へダイブした。 +++ どーん、とそれは建っている。 「‥‥‥うっそーん」 図らずも未だ遭遇していないとある少女とよく似た科白を吐き、紅はあんぐりと口を開けた。 「いや、デカいやろあれ‥‥‥っちゅーかデカすぎやろ常識として‥‥‥」 「やだなあ紅くん。ここはジョーシキの通用しない世界だって言ったのは君自身じゃないか。もしかして健忘症かい?いやーそうだったのかー大変だねえあっはっは☆」 「やかましわこのヒジョーシキの権化が」 ぽんぽんと同情気味に青年の背を叩く司貴と手を繋いで歩いていた浅海もまた、ぽかんとした顔で遥か頭上を仰ぎ見ている。 「すっごーい‥‥‥てっぺん、見えなーい‥‥‥」 遠く、ビルの林の間からそそり立つ『東京タワー』の異形は、実物を知る浅海にとっては勿論の事、資料や伝聞でしか知らない紅や司貴にとっても、十分なインパクトを発揮した。 赤と白の鉄塔は、おそらく敷地面積はそのままに、ひたすら上へと真っ直ぐ伸びて、都市スモッグの向こうへ消えており、頂点の見えぬ異様な姿を晒していたのである。 「万要ちゃんの言うた通りやったなぁ‥‥‥けったいな」 ぼりぼりと首のあたりを掻きつつ、紅は投げ遣りに嘆息した。 「ほんま、けったいな事だらけやわもう。昨日かて、ホテルに車刺さってくるわ、いきなりビル崩壊現場にぶち当たるわ、今日は今日で巨大タワー出現かい」 「ほんと、不思議なもんだよねえ」 にっこり笑顔で、司貴が珍しくも賛同する。 「昨日は普通の大きさに見えたのに、今日になったらいきなり巨大化してるんだからねえ」 「‥‥‥あ、そか。おかしいねぇ」 浅海が納得して頷く。 紅は「そこや、そこ」と眉間に皺を寄せて、 「万要ちゃんは海から見えてたちゅーてたやんか。何で俺らには普通の大きさに見えとって、そんで今になって万要ちゃんの言うた大きさで見えるようになったんねやろか」 「さあねえ。宇宙の神秘ってやつかな☆」 「せやからシャレにならんシャレかますのやめてんか、おっさん」 「パパかおにーさん」 「こうなったら死んでも言うたらんわい」 はー、と再度ため息をつきながらも、紅は置いてきぼりを食わぬために歩き出す。 三人はともかく『タワー』へ向かい、少しでも見晴らしのいい場所を選んで歩いていた。別に行き先は東京タワーでなくともいいはずではあるが、こういう時は無闇に目的を変えない方が迷わずに済む。結果的にそれが正解だったかもしれない、と、選んだ目標物の異様な姿を見て、紅は思った。 勿論、確証なんかどこにもあったもんじゃないが。 ただ漠然と、阿呆な会話を繰り返しながらでも、目に見える景色だけを頼りに歩いていくしかないのだから。 「‥‥‥どこでもドアが欲しいわ、ほんま」 知らない間に空間を移動してしまうこの世界では殆ど意味を成さないポケット地図をぺらぺらめくりながら呟いて、それを司貴に返した。 「おや。ドラ○もんを知っているのかい?紅くん」 「おうっ、知っとるでぇ〜。‥‥‥って、そういえばそやったな、ありゃ20世紀の漫画やった」 「君の時代でもまだ残っているんだねえ。やっぱりある程度世界がリンクする部分もあるのかな」 「へぇ〜‥‥‥あっ、じゃあ紅さん、ドラちゃんはやっぱり、完成してたりするの〜?」 「残念ながら、聞いた事ないわ。鉄腕ア○ムも、結局誕生日に間に合わへんかったしなあ〜」 「なあんだ、そっかあー‥‥‥」 「ええっ、ドラちゃんは出来てないのかい!?ざ、残念だなあ〜‥‥‥」 「いや‥‥‥本気で落ち込むなや、おっさん‥‥‥大人気なすぎやで‥‥‥」 しょぼんと肩を落とした(ように見える)司貴に、恐る恐るツッコミを入れる紅。 「ドラちゃんが出来ないなんて、夢がない。夢がないよ。そうは思わないかねワトソン君」 「誰がワトソンやねんっちゅーかアンタがホームズかい!」 悲劇の主人公よろしく哀愁漂う影を背負ったおっさんと、見て見ぬ振りの出来ないある意味律儀な青年との間で、またもや即席漫才が始まる。 そこへ、二人のやり取りを見上げていた浅海が、ふと前を向き直って、 「あ‥‥‥」 と、声を上げた。 「どこでもドアだ〜」 「‥‥‥へ?」 「んん?」 首だけを相手に向けて小競り合っていたおっさんと青年は、同時に正面を向いて―――ひたりと足を止めた。 道の真ん中に、なんかある。 なんか、というか、ピンクの扉がある。 ってゆーか、どこでもドアがある。 三人は一様にそれを凝視し、それから一斉に互いの顔を見合わせ―――‥‥‥ ごくり、と紅が生唾を飲み込んだ。 ぴったりと寄り添うようにして立ち止まった浅海と司貴(ちゃっかり)を背後に、そろそろと扉に近付いていく。 車も人も動物も、彼ら三人以外の誰一人としていない4車線道路の真ん中で、そのピンクの扉は実に堂々と、当然の如く鎮座していた。扉を挟んで前と後ろには、延々と同じアスファルトが続いている。紅は用心深く真ちゅう製とおぼしき金色のドアノブを掴むと、深く深く息を吐き、やがて決意を込めてノブを回した。 がちゃり、と開いたドアの向こうには、 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」 向こうには、 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」 向こう? 「‥‥‥‥‥‥?」 浅海はツイと司貴の手を離し、とたとたと扉を迂回して、反対側へ回った。ピンク色の額縁となった扉の枠組みから中を覗き込み、 「やほー」 そこから首を出した紅の呆けた顔の前で、ひらひら〜っと手を振る。 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥な‥‥‥っ」 一瞬完全に自我を手放していた紅は、我に返った瞬間、一気に沸点に達した。 「なんッッッでやね――――――――――――ん!!!」 ばちーん!!と勢いに任せてドアを閉め、地団駄を踏んで悲鳴に近い絶叫を上げる。頭を抱えて天を仰ぐポーズを取る彼の横合いから、「はいはいちょっとごめんねー」と腰を屈めた司貴が割り込み、脇をくぐり抜けて扉を開け、その枠をあっさり跨いだ。 「やあアサちゃん☆ごきげんようv」 「んー‥‥‥?司貴さんこんにちは〜‥‥‥?」 「ちょっと待ちぃな俺だけか!?これに怒りを感じるのは俺だけなんか!?」 至ってナチュラルに挨拶なんぞ交わす二人に、紅は涙さえ浮かべて理不尽を訴える。―――それはそうだろう。どこでもドアの話をしている最中に、突然ピンクの扉(しかも扉だけ)が現れたら、誰もが彼と同じ事を期待するはずだ。特に今現在、彼らは『何が起きてもおかしくない場所』にいるのだから。 だがしかし、期待を見事に裏切って、ドアの向こう側には今までと同じ道路が続いているだけであった。 「てっきり、どっか別の場所に通じとる!て思うたのに‥‥‥っ」 がっくりと項垂れてとぼとぼと歩き出す紅に、司貴はカラリと笑いながら、 「まあまあ。漫画じゃあるまいし、まさかドラえ○んワールドが実在するわけないじゃないか。はっはっは」 「さっきと意見違うとるやないかおっさん!!」 ズビシィッ!!と裏拳を入れる紅。浅海がその側で笑いながら、背後を残念そうに返り見た。ピンクの扉はどんどん遠ざかっていく。 「武器とかじゃなくて、ああゆうのだったら‥‥‥いいのにねぇ」 ほわりと吐息のような声で、浅海は呟いた。力なく笑んだその横顔を男性二人は見下ろして、紅は直視することが出来ず、こっそり目を逸らす。しかし司貴の方はあっさりと、 「そうだねぇ、全く全く」 と、何でもないように同調した。 「ユーモアは楽しくなくちゃ。‥‥‥ついでに今後は、さっきのドアみたいに、食料もポンッと出て来てくれるんだったら、とっても助かるねぇ。結局、あのサービスはどうなったんだろうね?ホテルまでいちいち取りに行きたくないなあ‥‥‥おなかが減ったら人間動く気力も失くすしね〜。あっ、ところでアサちゃん。僕は今、無性に肉じゃがが食べたいんだけど、どうかな」 「‥‥‥ん〜。食べたいかも〜」 「ね?またさっきのみたいに出てきてくれないもんかねえ♪」 「ええ〜?出て来るかなあ〜?お皿に乗って‥‥‥?」 「いや!鍋だネ、鍋っ☆昔懐かしいアルミ鍋希望。飾りに勿論グリーンピースか絹さや付きで。うん」 「あはは〜料理の本とかに載ってるのみたい〜」 「そうそう」 突如現れたドアのせいで妙な雰囲気になりかけていた道行きは、一挙に元通りのピクニック気分に戻り始めた。紅は薄く微笑み、「俺もまだまだやなあ」と独りごちて二人に並ぶ。 ドアがどうした、遊んだれ! そう思い切った矢先である。 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥おーい」 思いっ切りくじけそうになる光景が、10m程先の道端に、またも突如として現れた。 「ナベ、転がっとるでー‥‥‥?」 「‥‥‥。」 誰も答えない。 黙々と残りの距離を同じ歩調で歩いて、彼らはそれと対峙した。 鍋がある。 蓋は料理本の写真のように、外されて鍋縁に美しく立てかけてある。 中身はほこほこと湯気の立つ、絹さやの緑も鮮やかな、 肉じゃが。 ひく、と紅の頬が引き攣る。 司貴が顎に手をやって、整った唇の端を爪で引っ掻く。 浅海は後ろを振り返った。 ―――道は延々と続いてきている。 その緩やかにうねったアスファルトの上に、ぽつんと、鍋がある。振り返った更に向こうには、大分輪郭も曖昧になってはいるが、ピンク色をした四角い板が。 三人はお互いの目を見比べ合った。 「‥‥‥ねえ‥‥‥他には今、何が欲しい〜‥‥‥?」 「そうやな‥‥‥おっさん、考えつくか?」 「急に言われてもねえ」 苦笑の様子を見せて、司貴は袖の内側で腕組みをし、さっさとその場を離れた。もっと興味深く観察を続けるかと思っていた年長者の態度に首を傾げながらも、青年と少女は後を追う。 「どうなっているのかな?僕たちに提供されるサービスは、武器と食料だけじゃなかったかと思うんだけど。ドアはともかくとして生活用品も出てくるとは、随分と気前のいいことだねえ」 「基準がさっぱりわからんわ。大体、どこから沸いて来よんねん」 「ほんと〜‥‥‥前には何にも見えない道なのに、ね‥‥‥」 然り、彼らの進む方向の路上には、障害物など何もない。あるとすれば、遥か彼方にそびえ立つ、『東京タワー』の巨体ぐらいだ。 「それに、この道どこまで続いとんねやろ」 「ん〜‥‥‥あの壊れた街から、歩きっぱなしだよねぇ〜‥‥‥」 電柱と街路樹と、高低入り混じったビルの立ち並ぶオフィス街を、延々と歩き続けている。 あって然るべき無断駐車さえも、この道には見当たらない。ただ色気の無いダークグレイの地面に白とオレンジの線が走って、遥か向こうまで伸びている。緩くカーブしているせいか、道の先に見えるのは水平線などではなく、同じようなビルの壁だ。その向こうはというと、タワーの赤が埋め尽くしていた。 「とりあえず、」 と、歩きながら紅は息を吸い込み、ぎゅっと拳を握り締めて、空へ叫んだ。 「パチンコもっかい、やらしてくれぇーーーーーーーーーーーーー!!!」 その余りの大声は空虚な天へ響き渡り、くれぇ、れぇ、ぇ、と長く尾を引いた。 「‥‥‥ぱ、パチンコぉ〜‥‥‥?」 「おうっ!」 フンッ、と鼻息も荒く、ずかずか紅は先を行く。その顔は果てしなく投げ遣りで、果てしなく楽しそうだ。やがて、ビル街の景観に全くそぐわないパチンコ屋が姿を現し、歩き続ける彼らの横を通り過ぎて背後へ去っていく。 青年は横目にそれを見送って、にやりと前方を睨んで笑った。 「こりゃエエわ。どこまで言う事聞いてくれんねやろか?」 浅海はきょろりと紅を見上げ、それからやや後ろを歩く司貴を振り返り、頬に指先を当てる。 「‥‥‥ん〜と‥‥‥じゃあ、あたしはぁ〜‥‥‥シャワー浴びたいなあ〜」 「おお!?これまた大胆発言!!」 10mほど進むと、アスファルトから、海の家にあるようなシャワーノズルが生えていた。 「何ッッやあれーーーーっ!?う、ウケる‥‥‥っ」 「ん〜。せめてボックスぐらいつけて欲しかったぁ〜」 「僕は構わないけどネ☆主に紅くんの教育上よろしくないかなv」 「言うと思うたわエロオヤジ。てか俺は子供か」 「んと、次ぃ〜。次、どうする〜?」 「そうだ、奈良公園の鹿はどうだい。出張プリーズ♪」 「生き物もオッケーなんか‥‥‥って、来てるし!!」 「あ。ちがうよ〜?剥製みたい〜」 「紛らわしいわ!!」 その後、彼らの会話に出てきたものは、本棚、十字架、植木鉢、ダイヤの指輪にもみじまんじゅう、幻の名作漫画最終巻、パラパラ教習ビデオ、イワトビペンギンの巨大ぬいぐるみ、だましガム(ガムを取ろうとするとバネに挟まれる旧式のおもちゃ)、金色をした脳みその模型に入れられたメロンパン、大阪名物食い倒れ人形、素揚げにされたザリガニ、etc… 「む、無駄すぎる〜〜〜〜っっ」 「すっごーいぃ〜何でも出てくるねえ〜あはははは〜v」 片や目に涙を浮かべ、片や頬を紅くしてまで笑いまくる紅と浅海だ。司貴もまたいつもの絵に描いたような「あっはっは☆」という笑い方で、彼らの背後に取り残された無為なる代物たちを笑っていた。今や彼らの進んだ道筋には、ある間隔を置いて点々と、ガラクタが規則正しく連なってきていた。 「ほんまに、言えば何でも出てきよる。過剰サービスやけど、使えるなぁ」 「こうゆうのだったら、ちょっと楽しいかも〜」 「そうだねえ。‥‥‥ところで、注文する時は必ず口に出さないといけないのかな」 「んん?そういえば、どうなんやろな。けど、別にこっそりせんでもええやん」 「いやあ。ほら、人を脅かす時に声なんか‥‥‥ねえ?」 「オッサン、今何か不穏な事考えんかったか。なあ。その笑顔はなんや。なあなあなあ」 「べ・つ・にvさあ〜て、次はどうしようかねぇーアサちゃんv」 「ええ〜?んー、とぉ‥‥‥どうしよ、もう打ち止めかも〜。司貴さん、今欲しいの何かない〜?」 「僕?ううん、そうだなあ。僕もそろそろネタが尽きて‥‥‥」 と、困ったような仕草をしてみせていた司貴の表情が、ふと固まった。 「おっさん?」 訝しんだ紅がその顔を覗き込むより先に、彼は足早に道を歩いていく。そして、5mほど先の道路の真ん中にしゃがみこみ、何かを拾い上げた。 「ふうん‥‥‥つまり、口に出さなくても解る、ってことかな。これは」 二人に背を向けたままの司貴の口調は、いつもの通り人を食ったような、それでいて穏やかなものだった。だが、後を追ってきた二人は、その広い背がひどく恐ろしいものを纏っているのを感じ取り、どちらともなく足が止まってしまう。 「最高に笑えない冗句だねぇ」 司貴はやがて洒脱な着流しの裾を捌いて立ち上がった。と、同時に手元から放り投げられた何かが地面にぶつかり、パリンと音を立てて壊れる。 気にも留めずにゆっくりと歩き出す司貴を追って、ようやく何かの呪縛から逃れた紅は、浅海を促して歩き出す。司貴の通ったあたりを通る時、ぱりんと何かの破片が音を立てた。 「‥‥‥フォト・フレーム?」 中身は今しがた抜き取られたのだろう、割れたガラス面には何の写真も入っていない。だが、何が入っていたのか、大まかな予測はつく。紅は司貴に追いすがり、肩を掴んで振り向かせた。 「おい!あんた!?」 「何だい。」 両肩を捕まえて見下ろした司貴は、だが、5分前と変わらない飄々とした笑顔で彼を見上げていた。 「‥‥‥ったく、びっくりさせんなや〜!!オッサン、ついにキレてもーたかと‥‥‥!」 「君もほんとに礼儀のなってない子だねえ。おっさんだのあんただの、どーゆー教育を受けてきたんだか疑うよ」 「ヒトんとこの教育事情はほっといてんかっ」 「ほ〜らまたそういう憎まれ口を叩く。どうやら紅くん、君にはまだお仕置きが必要のようだねえ☆」 「ぎ‥‥‥ぎゃー!練りからし補充してたんかいー!!」 わたわたと逃げ回り始める紅と、軽やかに追いかける司貴。浅海は駆け回る彼らの姿を追って、ぐるりと360度、少しずつ首と身体を回転させる。 何も無い道、ビルと街路樹と電柱、点々と物の置き去りにされた道、またビル、そして。 またも、浅海は発見してしまった。 元の、進行方向。割れたフォトフレーム以外に何も無かった道の真ん中で、追いかけっこを止めた二人に挟まれて、ぽつんと、誰も望んでいないものが置かれていた。 見ようによっては可愛らしい、それはカフェにあるような、小さめの黒板だった。殴り書きの方がお洒落に見えるそのボードに、楷書体のお手本のようなチョークの文字が書かれている。 ただ一言。 『まほろばの 恩恵を 受けよ』 ヒ、とそれを両目が捉えた瞬間、浅海の喉が引き攣れた音を発する。少女の膝は身体の重みを支えきれず、カクンと折れて地に崩れた。 「アサちゃん!?」 走りこんだ紅が、力を失った上体が倒れこむ直前、その背を支える。だが、浅海はそうしてもらった事にも気付かぬ様子で、歯の根の合わない口元に両の指先を持ってきた。 「や、やだぁ‥‥‥もう来ちゃったよぉ‥‥‥っ」 「大丈夫や。何もあれへん、こんなんただの看板や。‥‥‥おっさん、走るで!」 「とりあえず、そうしようか」 ガクガクと震えの治まらない浅海を抱えた紅は司貴を促し、浅海の恐慌状態を抑えるために、ともかく黒板の見えない場所まで走ることにした。今まで通ってきた大通りを外れ、横道へ飛び込んでいくつかの角を通り過ぎ、平行に走る別の通りへ出る。 慣れない全力疾走に息を切らせて立ち止まると、道路脇の植え込みの手前に、横抱きに抱えた浅海の足を下ろさせた。 「ほれ。もう大丈夫やろ?立てるか?」 「‥‥‥‥‥ん‥‥‥」 浅海は頷いて、そろそろと足を地に付けようとした。しかし目線を上げた瞬間、叫ぶことすら忘れたように目を見開いて、その手に再びしがみついた。 紅は浅海の様子につられ、街路樹の向こうの車道に目を凝らす。 電柱のあたりから飛ばされたのだろうか、道の真ん中には、古い立て看板が転がっている。 表を上にして転がったそれには、禿げかけたペンキで一言。 『まほろば に したがえ』 「‥‥‥冗談、きっついわ」 頬を引き攣らせて、よいしょと浅海を抱え上げようとしたが、 「代わるよ」 長身のわりに体力が無い紅の限界を見抜いたのか、横合いから司貴が手を出し肩代わりした。 どうも、と素直に少女の身体を預けると、ガードレールを跨ぎ越えて車道に出る。看板は紅の靴底に潰されて、べこんと間抜けな音を立てた。 「こーの、けったいな現象の続きっぷり。まさか、『目玉』がまたおるんか」 「さて。どうだろうね☆」 「どうだろうね☆やないて。おっさんも思とんのやろ、どうせ『目玉』や『目玉』。いい加減うっといわ、思わせぶりなヒントばかり出しよってからに‥‥‥大体誰やねん、『まほろば』て。目玉の親分か?」 紅がその名を出した途端、びく、と浅海が首を竦ませた。怯えた様子を隠しもせず、まるで幼児返りしたような幼い仕草で司貴の首にしがみつく。 司貴は「役得♪」と紅に笑い、ぽんぽんと浅海の頭を叩く。彼は、やわらかく滑り落ちる少女の髪に、赤子にするようにして口を寄せた。 「アサちゃん。‥‥‥『まほろば』って、何かな?」 浅海は再度肩を震わせた。だが、ぎゅうと司貴の胸にしがみついたまま、いやいやをするように首を振って口を開かない。 「言いたないんか」 こくん。 紅の言葉に頷いた浅海の顔色は、昨夜ホテルで見たそれと同じ青さをしていた。 絶望ではない。悲嘆でもない。言うなれば、純然たる恐怖を見た者特有の表情―――‥‥‥ その顔色に意識を取られて、彼らは足元の変化に気付くのが遅れた。 二人が浅海に見入っていたその時、彼らの背後で、踏み潰された看板がカタカタと動いていた。 やがてその下から、何かの沸騰に似たくぐもった音が聞こえ始め、ようやく三人が異変に気付く。 振り向いた三者が目撃したのは、地面から『目玉』たちが次々と湧き出してくる、まさに瞬間であった。 +++ 「いた!!」 砂煙を上げてイッコは急停止し、直角に進行方向を転換した。 「見つけた!?」 「うん!」 ルエルの声に答えるやいなや、その駿足でアスファルトの地面を疾走し始める。ルエルは急激に襲いかかる加速の重みに耐えながら、 「お願いだから、手加減してよーっ!わたしは生身なんだからぁぁ〜っ!」 と、何度目かの叫びを上げた。 このロボットに負ぶさっていたら命が幾つあっても足りないと思ったルエルは、既に自分の翼を起動させて、疾走するイッコを上空から追っていた。ただし、ここでまた空間移動でもされてはぐれてしまっては堪らないので、彼女の手には一本のケーブルが握られている。それは飼い犬の手綱よろしくイッコの首筋から伸びており、数メートルの間隔を置いて、しっかりと彼女の手に巻きついていた。 『目玉』を探す、と言い放ち、イッコが駆け出してから半刻ぐらいだろうか。 道々で聞き出した、ルエルにとっては意味不明に近いイッコの言葉の片鱗を繋ぎ合わせて察するところによると、 1:戦闘型ヒューマノイドであるイッコは、敵の通信を傍受する機能を持っている。 2:この『フィールド』に入った瞬間から、正体不明の微弱な波動がどこかから発せられていた。 3:追跡すると、そこには『目玉』があった。 4:『目玉』の近くでは、必ず『どこか』との通信形跡と共に、磁場の歪みが検出される。 5:磁場の歪みが確認された場所では、何がしかの形で空間が歪んでいた。 そこで、先程ルエルが口にした「誰がタワーを歪めたか」という言葉を引き金に、イッコの中の回路が「犯人は『目玉』である」という回答を出した‥‥‥と、おそらくそういうような事であろうと、ルエルはかなり苦労して理解した。 (め‥‥‥めんどくさい‥‥‥めんどくさいよこのロボットぉ‥‥‥っ) 30分をかけてようやく状況を把握出来たというあたりに心で涙を流しつつ、彼女はともかくせめてこれ以上たった独りになることだけにはならぬよう、飛ぶように先を行く青い後頭部を必死で追い掛けた。 林立するビルの狭間を時折立ち止まりながら駆けていたイッコは、チッと器用にも舌打ちの動作を見せると、 「嫌な感じ。“波”がいきなり強くなった」 言って、肩口のあたりまで高度を下げてきたルエルを、にこぉっ!と満面の笑顔で振り返った。 「でもルエル、意外に近かったよ。そこの裏に、何匹か見つけた」 「へ〜!すっごいねえ!‥‥‥って、どこの裏??」 ぴ、と白手袋の示すものがわからず、きょろきょろとルエルは辺りを窺った。 「そこ」 「どこ?」 「だから、そこだってばっ!」 言うなり、ルエルの脇腹を抱え上げて、イッコは跳躍した。 トン、と着地したのは、遥か頭上を走っていた、高速道路のフェンスの上。 ―――ルエルが「もういや‥‥‥」と滂沱の涙を流したのは、言うまでもない。 「見て」 そんなことなどてんでお構いなく、イッコは地上を指差す。 今まで彼らが歩いて(というか飛んだり走ったりして)いた方と反対側の高架下に、浮遊する小さな点―――いや、『目玉』たちが見えた。しかも、どこから沸いてきているのか、見る間に数を増やしている。 だが、ルエルが驚きの声を上げたのは、増殖する『目玉』のせいではなかった。 「人だ‥‥‥人がいるよ!!」 その『目玉』と対峙して、大小三人の人影が見えたのだ。 うち一人は、ルエルと同年輩と思しき少女。そしてその彼女を抱えた、見慣れぬ形の服を着た黒髪の男が一人と、もう一人随分と背の高い男とが、『目玉』と正面から向き合ったまま、今にも駆け出しそうにじりじりと後退している。 「お、追いかけなきゃ、イッコ!」 抱えられているのを忘れて、ルエルは思わず背中の羽を広げた。翼に押されて腕を放したイッコは、一瞬落ちかけながらもふよふよと自力で戻ってきたルエルを仰いで、口を尖らせる。 「何でさっさと壊さないんだろ。あの『目玉』割と弱いんだから、蹴っ飛ばせばイッパツなのに」 「えーと‥‥‥知らないんじゃないかな?壊さなきゃいけないなんて、わたしも知らなかったし。それに」 みんながみんなキミみたいにあっさり壊せるわけじゃないと思うんだけど、と繋げようとしたルエルを置き去りに、イッコは「そっか」とフェンスの上に立ち上がって口をぱくりと開いた。 「‥‥‥あ。ルエル。ちょっと耳塞いでてね」 「え、あ、うん」 仕切り直してから再び口を開いて―――怒鳴る。 「そこの人たち!!その『目玉』、壊さなきゃ駄目だよ!!!」 耳を塞いでいても、鼓膜どころか脳髄まで揺れるような大声だ。 眼下の三人が、一斉にこちらを仰ぎ見た。 「‥‥‥〜っう〜〜〜‥‥‥く、くらくらするぅ〜〜〜」 一瞬羽ばたきを忘れて傾いだ姿勢をルエルはどうにか立て直して、ふらふらと高架の上に戻る。得意そうに胸を反らしたイッコの肩口にまで浮上し、ぽすんとそこに手を置いた。 「ねえ‥‥‥別にここから叫ばなくても、キミがちょっと行ってあげればいいんじゃない‥‥‥?」 「うん。じゃ、ちょっと行ってくる!」 こくん、と素直に頷いて高速道路を飛び降りていくイッコの背を見送って、ルエルは本当に深々と肩を落とした。 「お願い、誰か代わって‥‥‥」 センサー照準を『目玉』と、その周囲にいる3体の人間に向けてしまっているイッコには、彼女の嘆きなど聞こえない。 降りた地点から一足飛びに、唖然とこちらを眺めている3人と『目玉』との間に滑り込むと、 「何やってんの、聞こえてたんでしょ?ボサっとしてないでさっさと壊すっ!」 腰のレーザーを引っこ抜いて、地表に現れていた『目玉』を続けざまに5・6個撃ち落とした。突然辺りを席巻した強烈な光の束に、三人は反射的に顔面を庇う。 イッコはこれ幸いにレーザー銃を乱射して、地表に現れていた『目玉』たちを一掃し、最後に先程からボコボコと不自然に泡立っているトタンの看板を焼き潰す。看板は焦げた臭いと焼け跡だけを残し、あとは欠片も残さず道路上から消失した。 「よし。完了かな」 小さな金属音を立ててレーザーを仕舞ったイッコの声に、伏せっていた三人の人間たちが身を起こす。そのうちの一人、やたらと背の高い男―――つまり紅が、改めてイッコの後姿を見るなり、 「あああーーーー!!!」 と、大声を出して指差した。 「お、お前!!昨日、俺の景品かっさらってったヤツやないかいーーーーーーーー!!」 「おや。知り合いだったのかい」 ぱんぱん、と裾の埃を払いながら、もう一人の男、司貴が口を挟む。紅はそれに唾を飛ばしそうな勢いで答えた。 「知り合いちゃうわ!ただの通りすがりの泥棒と被害者や!!」 「へ〜‥‥‥どろぼうさんなんだぁ、このひと〜」 『目玉』が消えて安心したのか、残った少女、浅海が司貴の腕を下りながら、どこか論点の違う納得の仕方をする。 瞳のスモークガラスを引っ込めたイッコは、さも心外だという顔つきで振り返った。 「ひっどいなー!!ボクがいつ泥棒なんか‥‥‥」 と言いさしたが、途中でその科白を止め、ぽんと手を叩いた。 「あー!!思い出した!!キミ、あの時ベンチにいた人!?」 叫びと共に指を突きつけられた紅は、その指をぐいと掴んで捻って叫び返す。 「そうやその通りや思い出したか青アタマっ!!」 「うっわー!そうだったんだねー!えーと、その節はオセワニナリマシタv」 「なーにがお世話になりました、や!お前みたいのんを慇懃無礼っちゅーねん知らんのか、ああ!?」 「ええっ!?知らなかったなー!今度データに書いとくねっ!ごめん!!」 「ごめんで済んだら警察いるかーーーーーーー!!」 「あー、紅くん、紅くん。そのへんにしとこうか」 がああ!!と銀髪を掻き毟ってなおもイッコに詰め寄ろうとする紅の肩に、ぽん、と司貴の手が置かれた。 「何やねんオッサン!今俺はごっつう忙しいねんで!!」 「はっはっは。まあいいからちょっと周りを見てごらんv」 言われて、紅は我に返る。そして、恐る恐る青い髪を見下ろしていた視線を上げ、自らの置かれた状況を再度視界に入れた。 ―――『目玉』だらけ。 一体いつの間に増殖したのか、彼らの立っている路上の周辺は、無数の『目玉』に包囲されてしまっていたのである。 司貴は再度はっはっはと爽やかに笑った。 「いや〜なかなかホラーでシュールな眺めだねえ☆」 「ボクは気付いてたよ、ちなみに。」 えへん、と胸を張るイッコ。 紅は額に片手を当てて、昨日から大盤振る舞いのため息をつく。 「お前ら、揃いも揃ってボケばっか‥‥‥っ早よ言わんかい、そういうことはー!!」 「「だって、聞かなかったし」」 「ハモるな!頭痛いわほんまに!!」 『目玉』たちは一箇所に固まった四人を囲んでホバリングし、時折思い出したように瞬いて、その他は微動だにしない。誰もが最初に見た時と同じく、彼らから攻撃してきそうな気配は微塵も見られなかった。 だが、この上も無い気色悪さが流動体となって毛穴から侵入してくるかの如き圧迫感がそこにある。 浅海もまたそれを感じていないはずはなかったが、視線を逸らすことなく『目玉』を見据えていた。先程のパニックで抗体が出来たのか、指先や膝に僅かな震えを残しながらも、しっかりと自分の足で立っている。 「無理せんでええで」 「‥‥‥ん〜。へいきだよ〜」 紅の気遣いに弱いながらも笑顔で返す余裕がある。イッコという、まだ敵か味方かわからないが、少なくとも同じ境遇にある者が一人増えたということが、少しだけ少女の気を支える役目を果たしたのかもしれない。 「とりあえず、言いたい事は全部後回しや。‥‥‥どないする?」 紅は軽く拳の裏でイッコの胸を叩き、目尻の鋭い眼の端に映る『目玉』たちをねめつけて、一歩、二歩と後退した。 「そんなの決まってるじゃん。片っ端からぶち壊す!」 くるりと『目玉』と対峙する形に向き直ったイッコがあっさり言ってレーザー銃を引き抜いた。だが、下から伸びた浅海の手がその動きを止める。 「ねえ、このまま逃げちゃおうよ〜。別に、あの子たちはこっちが何もしなければ、何もしてこないでしょ〜‥‥‥?」 浅海は上目遣いにイッコを見上げ、ねえ?と同意を求めた。しかし、イッコは、 「『あれ』は、そこにいるだけでもう“何か”してるんだよ」 あっけなく少女の手を振り解いた。 「『あれ』がここにいる限り、ボク達はこの地区を抜けられないんだから。言っとくけどね、誰が空間を歪めてるかって、あの『目玉』なんだよ?」 言うなり、イッコは抜いたレーザー銃を再び撃ち始める。だが数が多すぎると見るや、エネルギーの消費を抑えるためだろう、銃をホルスターに収め、身体を使った直接攻撃に切り替えた。 その姿を目の当たりにした浅海は、目の前を通り過ぎていく非常識に、ぼんやりと悟る。 「あぁ‥‥‥ヒトじゃなかったんだぁ‥‥‥」 硬い音と粘着質の音、二種類の破壊音が連鎖して路上に巻き起こっていた。無限に湧き出るかのような『目玉』のことごとくを蹴落とし、あるいは叩き潰し、青と白銀で飾られたヒト型をしたものは、ただ一見が綺麗なだけの“兵器”そのものとなって、アスファルトを汚していく。 「キミ達がどうだか知らないけど、ボクはね、すぐにでも帰らなきゃいけないんだ。だから、こんなとこでひとつの道を堂々巡りしてる暇はないんだよ。邪魔なものは残らず排除する、じゃないと進めないだろ?当たり前のことじゃないか。ボクにしてみれば、キミらが何をそんなノロノロ躊躇ってんだか、ほんっとわかんないね!」 一言ごとに『目玉』を粉砕しながら、人間の形をした人間でないもの、イッコは乱れもしない声でそこまでを言い、最後の一言と同時に握りつぶしたモノの破片を投げ捨てた。砕かれた小さなプロペラの欠片が、カツンと灰色の地面に落ちる。 「言いたい放題ゆうてくれるやないか。こっちかて、事情ちゅーもんがあんねんでっ!」 四方八方を取り囲んでくる『目玉』を、蚊を払うような手つきで追い払いながら、紅が反論した。イッコはぐるりと首を回してそれを視界に入れ、にこりと笑う。 「別にいいよ?キミ達がヤる気ないんだったら、ボクが全部壊しちゃうから。その代わり、終わるまでそこで大人しく黙っててよ。何もしなくていいけど、邪魔はしないで!!」 言いながらバックステップを踏んで、背後にあった一体に踵を叩き付ける。排水溝から顔を出した数体を逆の足で薙ぎ払い、目の前をよぎったもう一体を慣性のままに裏拳ではたき落とした。 だが、『目玉』の数は減るどころか、徐々に増えて路上の空間を今や灰から黒へ染め替えようとしている。 「頑張るねえ」 しばし口を噤んでいた司貴が一言、苦笑交じりに言った。頭を掠めた『目玉』を屈んで避け、ついでに路上にしゃがみこみながら、にぱっ☆と笑顔で続ける。 「ま、ありがたく見物させてもらうのが得策ってヤツだよねっ☆何せ、僕らが今『目玉』くんに手を出したら、折角の『サービス』が多分キャンセル扱いになっちゃうからねえ〜」 「せやな。一人でやってくれるちゅーねんから、任しといたらええねん。うん」 腕組みをして隣に立った紅もまた、空々しく同調して頷く。 「ん‥‥‥んん〜‥‥‥」 紅の上着の裾に縋った浅海は、複雑な表情をして二人の顔を覗き見、そしてまだ名前も知らない、孤軍奮闘する青い影の姿を追った。 彼ら三人に、与えられたサービス。 それを、等しく与えられてもよかったはずのもう一人の同行者、万要は、それを与えられずに場を去った。彼らと彼女の相違点は多々あるが、その中で明暗を分けたのが、『目玉』に対しての態度であった可能性は非常に高い。 万要は『目玉』を壊し、彼ら三人は壊さなかった。 今もし、彼らが『目玉』を破壊して、サバイバルに最も必要な物資―――武器と食料の常時供給という最有利条件を手放すことにはならないと、誰が言い切れるだろう? 司貴はしゃがみこんだ膝に立てた頬杖で、子供のように顎を支えている。 紅は腕組みを解き、上着のポケットに両手を突っ込んで、パキッと首を鳴らした。 「「なーんちゃって。」」 二人は同時に言い、それが当人たちにも意外だったのか、振り返った浅海よりも驚いた様子で、互いの顔を見合わせた。そしてまた、図ったように同じ調子で視線を外し、苦笑する。 よっこらしょ、といかにも親父くさい掛け声をかけて、司貴は立ち上がった。 「で、紅くん。キミは今、何が欲しいのかな?」 「オッサンこそどないやねん。あんま心臓に悪いモンはやめといてな」 「‥‥‥。はっはっは☆」 「うっわー、ものごっつ心臓に悪そうなもん考えてそー」 けらけらと笑った紅の袖を、浅海はためらいがちに引いた。 「待ってよう‥‥‥ねえ、やっぱりみんなで逃げようよ〜‥‥‥ね?」 だが紅はその手をやんわりと外し、ぽんぽんと浅海の頭を撫でて言った。 「‥‥‥うん。逃げような。外へ」 何かを振り切ったような笑顔を見せて、彼は少女の傍を離れる。 「アサちゃん、必ず俺らの見えるとこにいるんやで!見失ったらあかんよー!!」 「おぢさんたちはすぐ戻ってくるからね〜v」 「そこ!俺をおっさんの域に入れんなやっ!!」 後ろ向きに歩きながらぶんぶんと浅海に手を振る司貴にしっかりツッコミを入れつつ、紅もまた反対方向へ駆け出した。 「おい、そこの青いの!!俺らも仲間に入れてーな!!」 『目玉』の波の向こうに大声で呼びかけると、ムーンサルトをかましている最中だったイッコは逆様の状態で首を反らせ、嬉々として応えた。 「ほんと!?どーぞどーぞ、ってか早く手伝ってー!!」 「へいへい、急かすなっちゅーねん」 紅は苦笑気味に呟き、キュ、とスニーカーの底を鳴らして立ち止まった。そして横合いのビルの入り口に夜間ポストを発見すると、やおら手を突っ込む。 「さぁて、出といで〜?全世界のお医者さん御用達、切れ味抜群のメスちゃん達っ!!」 やけくそにも聞こえる声で叫んで、ズボッと引き出したその五指には、曇りひとつなく光る医療用メスが数本、剥き出しの状態で握られていた。 「‥‥‥って、あっぶなー!!よう指切らんかったな俺―!!」 「全くだよ。心臓に悪いねえ」 ちっとも動揺していない顔で、冷や汗タラタラの紅にそんな一言を浴びせかけた司貴は司貴で、いきなり着流しの裾から脚を突き出し、近くのマジックミラーガラスに回し蹴りを叩き付けた。バリン!!と派手な音を上げて崩れ落ちたガラスの穴に、ひょいと頭を突っ込んで、何かを掴み出す。 「さすがに“雅”は無理か。ちょっと期待してたんだけど‥‥‥」 しげしげと眺めて残念そうに息をついたその左手に下げられているのは、黒光りする鞘に収められた、見るからに業物と判る日本刀。 「あんたの方がよっぽど心臓に悪いわアホーっ!!ってか、“雅”って刀の名前だったんかい!」 「細かいことは気にしちゃダメ☆」 「ああもうっ、キミたち何遊んでんのさっ!早く手伝ってったらー!!」 「「はいはい」」 苛立ちを隠そうともしないイッコの叫びに応えて、漫才コンビはそれぞれの仕事を開始した。 「ほんまは、あんまし気が進まんねやけど‥‥‥」 羽虫のような音を立てて群がる『目玉』の中に飛び込んで、紅は乾いた笑いをひとつ零し、メスの一本を構える。 「‥‥‥悪いな。お前らがおると、前へ進めへんのやって」 ひゅ、と風を切って振られた切っ先に引っかかり、近くの一体がプロペラを切られて落下した。まるで驚いたように一瞬後退した他の『目玉』たちは、だがすぐに再び周囲を包囲し、輪を狭めて迫ってくる。同時にぶわりと押し寄せた、今までと違う総毛立つような感覚に、紅はそれらを眉を寄せて眺め渡し、ポケットに入れていたメスをもう一本、逆の指先に挟み込んだ。 ―――目に見えて大量の『目玉』の群がりだした路上の一角を見やっていた司貴は、 「へえ〜。まあ、それなりにヤルじゃないか」 生徒を褒める教師の口調で呟いた。無防備とも思える気軽さでぶら下げた刀は、未だ鞘に収められたままだ。だが、目の前を塞ぐように回りこんできた大量の『目玉』に視界を遮られて、見物していた紅の姿が隠れてしまう。 「‥‥‥つくづく、ヒトの視界を邪魔するのが好きだねえ。キミたちは」 ばちばちばち、と一斉に瞬きを繰り返す『目玉』に向かって、盛大に呆れた溜息をつく。 次の瞬間、彼の前にあった黒い目玉模様の幕が、横一文字に切り裂かれていた。 「キミたち、というより、キミたちの『飼い主』が、かな?」 抜刀した真剣を軽々と片手で扱い、その鞘を帯に挟み込みながら、司貴はボタボタと落ちていく十数体のいびつな半球を横目に、変わらぬ笑顔を残った『目玉』たちへ向ける。 『目玉』は彼の周囲を緩く浮遊し、やがて、ぎょろりと白い『目』を剥いた。 上空からイナゴの大群にも似た勢いで迫り来る黒い球体の嵐に、司貴は片手の刀を肩に担ぎ上げ、やれやれと口角を曲げて柄を握りなおした。 「‥‥‥っわお!?何なんだよいきなり!」 今まで潰され放題だった『目玉』の変容に、イッコは振り上げた脚を戻して二歩ほど後退した。 突然文字通りに『目』を剥くなり、今までの無抵抗をかなぐり捨てて襲い掛かってきだした―――体当たり程度のものだが、ここまで大量となると無視はできない―――『目玉』たちは、多少の事では動じないようプログラムされているイッコをもたじろがせる程の勢いをもって、次々と身体のあちこちにぶつかってくる。 「っあぁ〜〜〜〜ったく!!鬱陶しいなあっ!!大人しく潰されてろってば!!」 イッコはキイィ!!と青い髪を振り乱し、人智を超えた速さで手刀を振り下ろした。 『目玉』の大きさは約10センチ、硬度もサイズも丁度固めのゴムボールに似ている。ひとつひとつから受けるダメージは大した事もないが、勢いと数がある分、無視出来る程弱い衝撃でもない。 三人はそれぞれところどころにぶつかられたり、あるいは避けたり受け流したりするうちに、ひとつ所に落ち合った。 「キリないね。二人とも、だいじょぶ?」 よく見ると綺麗な顔をしたヒューマノイドが、人間二人に声をかける。紅は明らかに疲弊した様子で、それでもメスを一本、近寄ってきた『目玉』に投げつけた。 「はぁっ、はぁっ、は‥‥‥きっつ‥‥‥俺って本来、頭脳労働派やねんけどなあ‥‥‥っ」 「奇遇だね。僕もなんだ♪」 「嘘こけ、嘘を!」 息も乱さず首だけ振り返った司貴の軽口に、それでも軽口で返している。 「まだ保つみたいだね」 イッコはそう判断し、頭を振ってばさりと髪を掻き揚げた。 「‥‥‥どっかに、『核』がいるはずなんだ。それを叩けば、多分増殖は止まるんだけど‥‥‥さっきからノイズが多くて見つからないんだよ」 忌々しげに眉を顰めて吐き出す―――という一連の表情が作れることにも驚きだが―――イッコを、紅と司貴は背中越しに見やり、 「手伝えってかい‥‥‥」 「うんv」 「やれやれ。ヒト使いの荒いロボット君だ」 二人はイッコを挟み込む形で互いに背を向けると、『核』探しに専念するイッコをガードして、周辺の『目玉』を破壊していった。 浅海は黒い靄のように三人を包み込んだ『目玉』の大群を、ほんの少しだけ離れたガードレールに寄りかかって見つめていた。何故あれだけの『目玉』たちが目の前にいながら、一体も自分に向かってこないのかを不思議に思いながら、それでも笑ってしまう膝に必死で力を込めて、どうにか立っていた。 耳鳴りのするような羽音を立てて群がる『目玉』の姿は、電波のおかしいテレビの砂嵐にも見える。 その中で砕け散っていく『目玉』たちが、黒い幕の下のアスファルトに落ちて、そこを埋め尽くしていく光景は、昨夜、テレビの画面と彼女の脳裏を駆け巡った大量の『言葉』たちと重なって、浅海は目を背けた。 (いやだよぅ‥‥‥何でこんなの、見せるのぉ‥‥‥っ) 瞼に焼きついた光景は、今や彼女の中で全てが『言葉』に変わっていた。 黒い霧から落ちてくる大量の文字が脳の裏側に溜まって、彼女を侵食していくイメージ。耐え切れず目を閉じてうずくまった浅海の意識を、それは容赦なく犯す。 (やだぁぁ‥‥‥やだよ、お願い、やめてぇっ‥‥‥) ずるずると頭を抱えて伏せるその姿を、じっと凝視する視線。 それを感じ取った浅海は、わけのわからない涙に潤んだ瞳をゆっくり、ゆっくり上げて――― (‥‥‥お願いやめてよ‥‥‥『まほろば』ぁ‥‥‥っっ!!) ひとつの『目玉』が、声にならない悲鳴を上げる彼女を、じっと見下ろしていた。 『 シ タ ガ エ ! 』 強烈に脳内を駆け巡ったその思念に、びくん、と二人の男が静止する。 「な‥‥‥何や今の‥‥‥!?」 「自己主張の激しい幻聴。‥‥‥な〜んてね」 「見つけた!!!」 遠まわしに互いが同じ声を聞いたことを確認する紅と司貴の間で、イッコが同時に顔を上げた。 「あそこにいる、あれ!あれが『核』だよ!!」 指差した方向には、倒れこむ浅海の姿と、その頭上に浮遊する、一体の『目玉』があった。 「アサちゃん!?」 紅が顔色を青くして叫ぶ。と、『目玉』がその声に反応するかのように、彼らを振り返った。 瞬間、紅と司貴の二人は、襲い来る頭痛に苛まれて顔面を歪める。 『 ま ほ ろ ば の 恩 恵 を 受 け よ 』 声無き声が、はっきりと脳を揺るがす。紅はついに耐え切れず、手元のメスを取り落とした。 「なに?どしたのさ急に??」 一人、それを“何かの波動”としてしか受け取らないイッコが、不思議そうな顔で二人を見比べる。 『 従 え 』 「クソ‥‥‥けったいな真似しよってからに‥‥‥っアッタマ痛いわ!!やめんかい!!」 ぐっ、と拳に力を入れて頭を振った紅は、落としたメスを勢い良く拾い上げて、浅海に当たらないよう狙いを定め、『核』に投げつける。だが、それはまるで壁にでも当たったように途中で進路を変え、別の『目玉』に突き刺さって落ちた。 「至近距離で攻撃するしかないようだね」 言って、司貴が踏み出す。初速から既に最高速度に至っているだろう、年齢云々の制限を全く無視した運動能力を発揮して距離を詰めていく。行く手を塞いでいた『目玉』たちは、後から参戦したイッコの脚に砕かれて次々と落下していった。その後から、紅が少しルートを外れて走る。 『核』は向かってくる彼らに瞳を向けたまま、ぎょろりとひときわ大きくその『目』を剥いた。 『 コ ロ セ ! 』 「やかましいー!!」 『目玉』の少ないルートでいち早く浅海の元に辿り着いた紅は、一喝すると共に少女を抱き寄せて地面を転がる。 と、ほぼ同時に。 「この僕に、命令しないでくれるかな。『目玉』の親分さん?」 「ゲーム・セット!!」 司貴の切っ先が『核』を両断し、更にイッコがレーザー銃でその欠片を焼き尽くした。 ―――路上に、異様なまでの沈黙が訪れる。 あたりを埋め尽くしていた『目玉』たちは、プロペラすらも止めたまま、静止画のようにその場で動かなくなった。 「‥‥‥浅海ちゃん。終わったで」 むくり、とアスファルトから身体を起こした紅が、ぺちぺちと浅海の頬を叩く。 「‥‥‥ん、ん〜‥‥‥?」 苦悶に歪んでいた浅海の顔がゆるりと色を取り戻し、眠そうな、とろんとした瞳が開く。彼女は彼にも聞こえないほど、小さく、小さく呟いた。 「‥‥‥‥‥‥ほ、ろば‥‥‥」 「お!気ぃついたか」 嫌な想像をしかけていた紅は、ほっとした表情を見せる。 その時、じじじ‥‥‥と何か音が聞こえた。音は、彼らの周囲をいつの間にか包み込んでおり、四人はそれぞれに辺りを見回す。 空中に浮かんだ『目玉』、そして破壊されたその破片、それらが“砂嵐”のように視界の中でブレて、時折細かな粒子がその姿に重なるように現れては消えていく。 「〜〜〜ッッすっごい、ノイズ‥‥‥っ」 先程の『声』には眉も顰めなかったイッコが、今度は両耳を押さえて盛大に顔を歪めた。 司貴が面白そうに刀を鞘に戻した。 「おやおや。今度は何が始まるんだろうねえ☆」 「‥‥‥あ。あれぇ〜?」 声につられてそちらを向いた浅海が、司貴を指差してぼんやりと瞬いた。 「司貴さん、それ‥‥‥」 「んん?」 指先を追って、自らの腰に視線をやった司貴は、「おやまあ」と緊張感なく呟いて、そこにあった刀を鞘ごと帯から外した。 刀は、鞘の先から徐々にブレを生じ、粒子と化し始めていた。 「うわわわわ!ちょ、ちょっと、それこっち向けないでよ!」 イッコが奇声を上げて、掲げられた刀から身を捩って逃げようとする。 面白がってそれを見物していた紅は、ふと自分の足元を見て、 「おっと。こっちもかい」 浅海ごと座っていた位置をずらした。 そこには、半分輪郭の消えかけた医療用メスが転がっていた。 「‥‥‥あんだけ『目玉』ぶっ壊したもんなあ。ま、こうなるやろとは思とったわ」 苦笑を浮かべる紅。司貴もまた飄々とした笑顔で、手の中の真剣を投げ捨てる。 「あったら、どうせ使ってしまうからね。無い方がいいんだよ、特に僕みたいな最強キャラにはネ☆」 「あっそー、はいはい。さいでっか。‥‥‥でもまあ、そんな程度の事や。な?」 下手なウインクを送ってよこした紅の顔を、浅海はきょとんと見上げ、やがて子供のような笑みで小さく頷いた。 「何!?何なのさ今の一連の会話!?ぜんっぜんわかんないんだけど!!」 「わからんでええわロボ子め。‥‥‥いや、ロボ太郎か?どっちや?」 「どっちでもないよ。ボクはイッコ。Illimitable Cline of Capital Offspring、ICCO」 「‥‥‥いっこ、ちゃん?」 「へえ〜、それが全部名前かい?長いねえー」 「‥‥‥‥‥‥。まあええがな。ロボ彦」 「あ、それいいね。ろぼひこ☆」 「‥‥‥。だから違うって。Illimitable Cline of ‥‥‥」 「で、どっから来たんやロボえもん」 「だから誰それ。ICCOだってばわっかんないヒトだね」 「〜〜〜気転のきかんやっちゃな!ノリツッコミぐらいプログラムしとかんかい!!」 「無茶苦茶いわないでよ。ってか、今さりげにボクのパパ馬鹿にしたね?殺すよホント」 「はは、物騒な事言うなや。シャレにならんで」 「あっはっは。シャレじゃないんだけどなあ」 「お、おいおいおいおい‥‥‥待て!何やそのレーザーは‥‥‥っ」 「うーん、楽しい仲間が増えたねえ☆結構結構v」 「あはははは〜」 「結構なわけあるかーい!!」 「‥‥‥‥‥‥!」 「‥‥‥!!」 彼らを取り巻いて浮かぶ『目玉』たちは、静かに、小さなハウリング音を残して消えていく。路地に転がった日本刀とメスも。やがて景色がノイズを生じ、空を埋める赤が煙のように薄らいで、 「きゃっ!」 ブン、という羽音にも似たそれが、上空にいたルエルの耳を襲い、彼女は慌てて両耳を塞いだ。 「‥‥‥うう、びっくりした〜」 そろそろと手を外し、内側に隠れていた彼女はふわりと浮かび上がって、再び高速道路のフェンスに降り立つ。 見下ろす視界の果てには、小さな―――今までよりは格段に小さな、現実的な高さの『塔』が、その頭を覗かせていた。 「あれが、『トウキョウタワー』。だよね」 ルエルはぎゅっと両手を握り締め、自らに目的地を言い聞かせるように呟いた。 きっと皆が、あの塔に集まる。 そして、そこから始まる。 ルエルには、今やその確信があった。 消えていく『目玉』たちの残像を、霧の晴れていく『塔』を遠く見下ろしながら、彼女は占いそこねたこの先の自分の道を、そこに見ていた。大きな目を細めて、くねりながら伸びる『塔』への道のりを辿り、ふと、ルエルは思い出して首を捻る。 「でも、ひとつわっかんないんだよねー。『目玉』くんて、味方に見えたんだけどなあ‥‥‥」 最初に『トウキョウタワー』へ行った時から彼女の傍を付いてきて、イッコに破壊された、あの『目玉』。あれは姿こそ気色悪かったが、少なくともルエルにとっては、小さな支えでいてくれた。 「‥‥‥『目玉』は、大事なものなのになあ‥‥‥」 ぽつん、と漏らす。歪みから戻った都市を見下ろすその瞳はぼんやりとして、焦点が合っていない。 「‥‥‥わかんないよ‥‥‥『コトホギ』‥‥‥」 「ルエルー!!」 鼓膜を揺らす声に、はっとルエルは我に返った。 「こっちはもう大丈夫、降りてきなよー!」 高架下で、イッコがぶんぶんと手を振っている。その周りで、新しい三人の人影が、ルエルを見上げていた。 「うん!今、行くー!!」 ルエルは叫び返し、背中の翼を広げる。 『目玉』と偽物の『塔』とは、既に影も形も消え失せていた。 +++ ガイの手の中を、小さな火花が踊っている。 「‥‥‥ダメだね。ケーブルの不備じゃない」 遮光ゴーグルがわりのサングラスを人差し指で押し上げて、回転させていた工具を放り出したガイは、がっくりと肩を落とすミッキーを腕の中に抱え上げ、止まったエスカレーターを降りてきた。 「まったく。だから無駄だって言ったのにねえ、ミッキー?何で僕がこんなことしなきゃならないんだか‥‥‥」 「悪かったよ」 ぶちぶちと文句を垂れながら通り過ぎるガイに、配線系統を見てくれと提案した張本人である塚本は、気まずく謝る。だが、ガイは彼に一瞥をくれることもなく、機械人形に悪態をつきながら、さっさと元いた窓際へ戻っていった。 「‥‥‥気にするな。無駄ではない」 無表情だが鈍いわけではない阿小夜がフォローを入れてくる。その肩には、しっかりと謎の耳つき球体―――今朝、ガイが完成させたアレ―――が乗っている。塚本は微苦笑で応え、今ガイが降りてきたエスカレーターを上った。 その先の暗がりにある特別展望台へのエレベーターは、エスカレーター共々機能を停止したまま、依然として動きそうにもない。昨夜も同じ状況であったが、何せ真夜中過ぎの事だ。通常の『東京タワー』なら、とっくに営業を停止している時刻だったし、朝になれば動く可能性もなきにしもあらずということで、一夜明けるのを待って再度様子を見にきたのだが‥‥‥ こうして色々試してみても、この一画の電気系統はウンでもなければスンでもない。 「下へ戻ろうとすりゃ、そっちのエレベーターまで故障してるし‥‥‥。ここまできて、どーしろってんだよ。くそ」 塚本はエレベーターの固い扉を、腹立ち紛れにトンと拳の裏で叩いた。 後ろからついてきた阿小夜が、隣から手を伸ばして、既に何度となく触れたその金属の板に指を沿わす。つ、と合わせ目を辿り、暗闇の中でもなお白いその指を、ぐいと隙間に食い込ませようとする。 「刀で切って、どうにかなるものならな‥‥‥」 「それは無理‥‥‥っすよ、阿小夜さん。これがもし開いたとしたって、中身は空洞だから」 「覚えてる。さっき聞いた」 年上の女性、という、普段あまり多く接することのない人種―――しかも、本人は“女”であることを否定している上、同じ時間軸にいる人間ですらない―――に対して、まだどう接していいのか距離を掴みかねている塚本の、少し妙な具合の言い回しがおかしかったのだろう。阿小夜は色に乏しい細面に、小さく笑いのようなものを浮かべた。そして、ふと、その苦笑の空気を自分自身へ向ける。 「この世界では、私は赤子も同然のようだ。何もかもが、私の手に余る」 いつだって、この手だけを頼りに生き抜いてきたはずだった。ところが、と心の中で阿小夜は自らを哂う。ここでは、彼女の“手”は、殆ど何の役にも立っていない。彼女の中の常識はことごとく覆される。それはおそらく、阿小夜が初めて味わう種類の無力感であった。 「‥‥‥そんなの、俺だって同じ、です」 ぼそり、と。隣から低い囁きのような声を聞いて、阿小夜は自分の指先から視線を外した。 隣に立っていた、闇にも溶けるような目立たない服装の、雑踏に紛れてしまえばきっと目にも留まらないだろう青年は、両手を上着に突っ込む格好で、俯き加減にこちらを向いていた。けれど、視線は阿小夜を僅かに外れて、その下の床に落ちている。 「俺だって、何も知らない。学校から一歩外に出ちまえば、何の特技も無い、赤ん坊と同じだと思う。けっこー何度もそんなの考えたこと、ありますよ。俺の‥‥‥世界、にいた普通の奴等は、同じことで悩んだ経験、誰でも持ってるんじゃないかと思います。世界に生きてるほとんどの奴等は、自分の生きてるフィールドを抜けたら、何にもできなくなっちまう‥‥‥ような、気がする」 何言ってるかわかんねーけど、と、小さく付け足して、塚本真也という名前の、その凡庸な青年は、前髪の下で目線を彷徨わせた。 「その、阿小夜さんは、こんなとこ飛ばされても‥‥‥色々、出来てる方なんじゃないっすか。とりあえず、俺よりは」 阿小夜はしばらく沈黙していた。赤い、偶然によって生まれたその強烈な色の眼で、静かに青年を見つめる。やがて、フイと音も無く動いて、彼に背を向けた。 「あ‥‥‥あの、すんません。なんか、語っちまって」 それを別の意味に捉えたのか、先程よりも更にひどく気まずげな顔で謝ってくる塚本に、彼女は振り返って「いや」と首を振る。 「お前の言う通りだ、‥‥‥真也」 後ろ手を振って展望台へ出て行く阿小夜の声音は、ほんの少しだけ柔らかく、暗いトンネル状の空間に響いた。 ―――塚本は後になって襲ってくる猛烈な気恥ずかしさに、顔面を片手の平へ埋めて息を吐き出す。 (何やってんだ、俺) ずる、とエレベーターの開かない扉に寄りかかり、天井を見上げた。 蛍光灯の光さえない、仄暗い天井。 (‥‥‥俺はいつまで、こんな風なんだろな‥‥‥) ぐずぐずと悩んで、その手では何一つ成し遂げない。どこにでもあるスペアな存在。 ガイの、自分に対するあの空虚な目つきは、そっくりそのまま、塚本の中に棲む冷静なもう一人の彼が彼自身を見る目そのもののようだ。 偉そうに阿小夜に言えた義理では到底ない、心の底の煮え切らない焦燥が、時折思い出したように腹の奥を抉って、内臓全部を吐き出してしまいたくなる。思春期と呼べた時代から既に成人と呼ばれるようになった今の今まで、彼の奥底に巣食っている、どこか空虚な衝動。 勿論それすら、誰にでもあるもの。 誰もが耐え切って、日々生活しているもの。 一人一人違っていて、それでいてきっと全く同じな――― 塚本は天井を見上げたまま、もう一度、声に出して呟いた。 「ほんとに‥‥‥何やってんだ。俺」 エレベーターは、動く気配すらなく沈黙を続ける。 ―――塚本がそうして頭を冷やしている間に展望室へ戻った阿小夜は、窓際に足を投げ出して座り込んでいるガイに、 「あれは、本当に開きそうにないのか」 と、わかりきった事を聞いた。 ミッキーと一人戯れていた彼はひょいと視線を上げ、両手を肩まで持ち上げる。 「少なくとも、僕には無理だね」 再び機械ネズミの相手を始めるガイから数歩分の距離を置いて、阿小夜は手すりに背を預けた。肩に乗っかっていた球体がブゥンと浮遊し、阿小夜を離れて勝手に飛び回り始める。彼女は煩げにそれを見やり、その目線を横合いの縞馬帽子のてっぺんへ向けた。 「ならば、このまま待つのか?」 「そうなるねぇ」 「何もせず?」 「それしかないさ。ねぇ、ミッキー?」 球体を捕まえようとあちらへこちらへ走り回っていたいびつなネズミは、ぴたりと足を止めて主人の問いかけに大きく頷き、再び球体を追いかけ始める。「だよねえ」と満足そうに頷いたガイは、ああふ、と大きな欠伸をして帽子を持ち上げ、巨大な窓の枠の部分に寄りかかって、目の上あたりにそれを乗せた。 「さすがに徹夜はきついや。少し寝るから、何か面白い事あったら起こしてね。アコヤ」 「‥‥‥図々しい事を」 「お願いしたよ♪」 「知らんな」 冷たく阿小夜は鼻を鳴らす。 ちぇ。と、舌打ちした割には唇に笑みを乗せたまま、ガイは両腕を頭の後ろへ回して昼寝の体勢を取る。 「‥‥‥カギがね。来るまでは、多分どうにもならないよ」 「鍵?」 「そう。きっと、可愛い天使の格好をして、そのうちここにやってくる」 「‥‥‥‥‥‥お前は、一体どこまで知っているんだ」 「別に、特別な事は何も?」 くつくつくつ、と、帽子の下から喉を鳴らす音がする。 「僕は僕なりに、ストーリィの予測を立てるだけ。当たってるのか外れるのか、そこまで知ったことじゃないけどね」 「他人事のような言い草をする」 「‥‥‥ふふ。君はとっても勘がいい。だから好きだよ、アコヤ」 彼は含み笑う。それに合わせて、よじよじと阿小夜の肩に登ったネズミが、冷たい鼻先を白い頬に押し当て、両手でその鼻を押さえてクククと笑う仕草をした。 不意を突かれた阿小夜は、いい加減慣れもあるだろう、抜きかけた刀を納めて、これ以上無い程冷ややかな視線を縞馬帽子に突き刺した。 「永遠に寝ろ」 「ひどいなあ!」 ミッキーが肩を飛び降り、今度はガイの腹の上によじ登って、頭の後ろで腕を組み、ころりとそこへ寝転ぶ。 「‥‥‥聞くが」 「んん?」 「ありきたりのものは、つまらないか」 「大抵、最悪につまらないね」 「‥‥‥そうか。」 二人が背にした『東京』の風景は、もうすぐ西日を受けて輝き出す。 +++ 初めて見た夜から、まだ丸一日も経っていない『東京タワー』の姿を、何故かひどく懐かしく感じた。 「着いたー!!」 バンザーイ!と、坂の上で歓声を上げるイッコと一緒になって、 「着いたよー!!うわーん!長かったよぉぉーーーー!!」 と両手を振り上げ、ルエルは素直に思った事をそのまんま叫ぶ。 けれど、色々ありすぎて長く長く彷徨ったように感じていても、これはたった一昼夜の出来事。 物語は始まってもいないだろうことを、きっと誰もが予感している。 東アジアの経済集中都市『東京』。そのシンボルである『東京タワー』は、朱に染まり始めた空を貫くようにして、夕暮れよりも濃い朱色と白でカラーリングされた雄姿を現していた。 「んん〜、久しぶりだなぁ〜。ちっちゃい頃に来て以来だよ、東京タワーなんて〜」 「えー!アサちゃんこれ昇ったことあんのー!?」 「うん〜ここのじゃないけどねぇ〜。上の景色とか、けっこー綺麗だよ〜」 唯一『本物』の展望室に昇った経験のある浅海が、目を丸くするルエルに並んで、遠足に来た小学生のような無邪気な顔でタワーを見上げ、くるりとターンして、後からやってくる年長組の二人を呼んだ。 「はーやーくー、紅さん、司貴さ〜ん」 「元気やなあ、若者たち」 すっかり疲弊した様子で一歩一歩坂道を登りながら、苦笑する紅である。その更に後ろを、こちらはまったく余裕のお散歩状態で司貴が歩いてきている。 「ほんとだねえ。すっかりおじいさんな紅くんとは大違いだ」 「俺がジジイやったら、あんたはどないやねんオッサン」 「ほら、僕はそんな下らない枠組みなんてとっくに超越してるから?」 「ついに時の流れまで無視かい、人外魔境人め」 使えるようになった地図を頼りに、延々1時間か2時間か。歩いて歩いて、ようやく辿り着いたその場所を、紅はぐるりと見渡した。 「ほぉ〜。こんなとこやったんなぁ。わりと広いやん」 「あ!!」 ぴこぴこ☆と、やたら可愛いらしく(さっきの破壊魔人っぷりはどこへいったのか)辺りを歩き回っていたイッコが、何かを発見して指差した。 「真也のバイク、見っけ!」 嬉々として走っていく先には、黒塗りの原付が一台、メットをハンドルにぶら下げてスタンドされている。 「マサヤ?誰や、知り合いか?」 「うん。ルエルと会うちょっと前まで、一緒にいたんだ」 後からついてきた紅に答えながら、イッコは、がぼっ、とバイクの座席を持ち上げる。 「あ。やっぱ忘れてるよ真也ったら。ま、いっか‥‥‥はい、紅!これ返すね!」 シートの下にあった簡易収納スペースを覗き込んで呆れ顔を作ったイッコだったが、すぐに笑顔に戻ると、中にあった紙袋をつかみ出して、紅の手元に押し付けた。 「あぁ?‥‥‥なんや、見覚えある袋やな‥‥‥って、俺の景品かーーーー!!」 「そうだよ。だから返すね!ありがとう!」 「ありがとって、あ!中身しっかり減っとるし!」 「えへ。ちょっと食べちゃったv」 「食うな人のモン!!‥‥‥って、食ったぁ!?待て、モノ食えるんかいなお前!?」 「うんvけっこー実は食べるの好きなんだvでも別にエネルギーにも何にもなんないんだけどね!あっはっは!」 「あっはっは!やないわ!!意味なくヒトの食料消費すんなや!」 すぱこーん!と軽快に青い頭をひっぱたくと、紅は鼻息も荒く仁王立ちになって頭上を仰いだ。 バイクの止められていたのは、丁度タワーの入り口の、すぐ傍だったのである。 「ほな、行くで。」 覆いかぶさるような赤い塔を見上げて、一言。 とっくに追いついてバイクの近くに集まっていた浅海、ルエル、そして司貴にもニヤリと笑いかけ、紅は白衣の裾を翻した。 「‥‥‥なーにを格好つけてるんだかねえ」 司貴は笑い出しそうなのを押さえた口調で青年の行動を評し、 「じゃ、僕らも行こうか」 すっかり仲良くなって手を繋いでいる少女たちの背を押して、悠然と入り口をくぐる。イッコがそれを追い抜いて、 「エレベーターはこっちだよ!」 と、ぶんぶん手を振って先導した。 「そや、ルエルちゃん腹減ってへんか?これ食うとき?」 「え!もらっていいの!?うっわー、嬉しい〜vvv実はお腹ぺっこぺこだったんだぁ〜vvv」 「ボクも!ボクもちょーだい、紅!」 「誰がやるか、ロボ助。油でも食っとけ!」 「やだよマズイもん」 声は吸い込まれ、角を曲がって消えていく。 自動ドアが閉まる。 『ピース』は、確実に揃い始めていた。 この、『塔』の中に。 +++ まどろんでは目を覚まし、また眠って。 何度目だろう。 「‥‥っくそー。全然開かねぇし!」 ガン、と何かを蹴る音に、万要は閉じていた目を開けた。 「‥‥‥まだやっているのか。騒々しい」 「あvおはようマカちゃーんv」 ひょこ、と顔を出したラッキーは、小さな手で口を押さえて欠伸を漏らす万要を見て蕩けまくった笑顔を浮かべ、尻尾を揺らしながらいそいそと彼女の元へ戻ってくる。 万要は毛布がわりにしていたマントを手繰り寄せて肩に羽織ると、一面の硝子を鏡がわりに、軽く乱れた髪を直した。 「よく眠れたかい?おいらのちっちゃな眠り姫ちゃーんv」 「寝直しも三度目ともなると、さすがに浅いな。首が痛くなる」 「だから、おいらが枕になったげるって言っ‥‥‥」 「いらん。」 「‥‥‥しくしく‥‥‥」 いぢいぢといぢけて床に“の”の字を書き始めるラッキーの背中を、同情の欠片も無い視線で一瞥し、万要は眠りに落ちる前と変わり映えのしない、その空間を眺め渡した。 窓の外は少し変化したようで、東の空の色が夕暮れに赤く染まり始めている。 だが、内側は、昨夜遅く彼らがそこに入った時のまま。何一つとして変化はない。 「万要ちゃーん、おいらもう限界だよー‥‥‥気ィ狂いそう」 ラッキーがそういって手足を投げ出すのも無理はない。 彼らは昨夜以来、この『特別展望台』から一歩も出られないでいるのだから。 「よりにもよって最上階で、下行きのエレベーターが故障しなくてもいいんでない!?腹は減るし、どーにもなんねーよ!!」 「堪え性のない男だ」 「そーゆー問題超越してるってー!冷たいこと言うなよ〜」 万要はため息をついてラッキーを振り返った。 デンキというものの正体はわからないが、おそらくそれで動いているのだろう“箱”を、男は何度も調べているようだったが、どうしても故障の原因がわからないらしい。 (‥‥‥本当にデンキの故障なのか?) 万要は考える。 そういえば、以前自分の持つ“雷”の力を、デンキと似ていると言われた。 もしそれが嘘でないとしたら、あの箱に自分が“術”をかけることで動いたりはしないだろうか? 「‥‥‥やってみる価値はあるな」 ぼそ、と呟いた万要は、ラッキーを残し、一人エレベーターのある方へ向かった。 風もないのに、肩にかけたマントがふわりと浮き上がる。 一歩足を踏み出すごとに、ぱりりと小さな光の筋が彼女の周囲を踊り、守るように寄り添った。 「“箱”よ」 万要は、人の命令を忠実に聞く、あの妙な箱をどこかに仕舞い込んでいるはずの扉に、ぺたりと片手を乗せた。 「動け」 バリ‥‥‥ッ!!! 「ぅおおっ!?」 背後からいきなり耳を襲った大音量に、ラッキーは尻尾の毛を逆立てて飛び上がった。 「な、何だ何だァ!?何やったよ、万要ちゃんてば‥‥‥」 彼は重い腰を上げて、音のした方へ歩いていく。 「まーかーちゃーん?大丈夫ー?」 ぼりぼりと頭を掻きながら覗き込んだラッキーは、その光景を見て思わず、一歩二歩と身を引いた。 エレベーターは、無数の光―――否、小さな雷と言っていいだろう、明らかにエネルギー性の光の筋を纏って、不自然な点滅を繰り返していた。エレベーターだけではない、その周囲の設備、パネルはおろか天井、壁、絶縁体であるガラスでさえ、バリバリと震えて時折稲光を発している。 「‥‥‥お前か」 その異常現象の中央で、自らもスパークに包まれている万要が、こちらを振り返った。 「万要ちゃん、あんた、それ‥‥‥死ぬぜ普通?」 「それがどうしたんだ。わたしは生きているぞ」 ふん、と嘲笑に似た笑いを漏らし、万要はゆっくりとその手を扉から離す。それを合図に、一画を包んでいた電光が、徐々に勢いを弱め、やがて僅かな放電を残すだけになった。 「‥‥‥これ、万要ちゃんがやってたンデスカ」 ラッキーは空恐ろしいものを見る目つきで、愛らしい顔をした小さな彼の“お花ちゃん”を見下ろした。少女はうっすらと笑って、ラッキーから自分の両手へ視線を移す。その両手を目の高さまで挙げて、手の平と甲とを交互に見比べ始めた。 「ラッキー‥‥‥」 「は、はい?」 「デンキを使って、人に幻覚を見せることは可能か?」 唐突な質問だった。 ラッキーは疑問と逡巡の混じった表情で、視線と尻尾とを虚空に彷徨わせていたが、やがて、 「ああ。可能だよ」 と答えた。 万要は相変わらず自らの手を眺めたまま、そうか、と呟く。 「では、デンキは、他に何に使われる?」 「へ。‥‥‥んん〜〜〜、色々ありすぎてなあ‥‥‥ええと、物を動かす。情報を伝える‥‥‥」 「ジョウホウ?」 「あ、えと、声とか?映像とか‥‥‥文とか」 「‥‥‥なるほど」 少女の声を聞きながら、ラッキーは注意深く状況を観察した。 出入り口はひとつ。その前には少女がいる。窓から見た高度は、とてもじゃないが飛び降りられる自信もない。梁を伝っていくにも、この高度では風が激しいし‥‥‥ (どーすんだ、おいら?) 「もうひとつ聞く」 「はい!?」 裏返った声を上げ、慌ててラッキーは少女に意識の焦点を戻した。 「これを、お前はデンキだと思うか?」 バリリリリ‥‥‥ッ!! おさまりかけていた電光が、少女の科白と共に復活し、ラッキーは今度こそ尻尾を丸めて硬直する。 「な、なんか違うよーな気もすっけど‥‥‥っ」 「違うのか?」 「おっ‥‥‥おおむね同じなんじゃないかなぁーっ!?」 「そうか」 室内を白く染め上げていた電光が、また徐々に弱くなる。 パリ、とスパークを走らせる指先を目を細めて見つめた万要は、くすりと、初めて少女じみた笑いを見せた。 「それで、わたしを選んだか‥‥‥『まほろば』」 『シタガエ。』 「ふふ。いいだろう」 微かに胸に響いたその声に、万要は微笑んで目を閉じる。 幻は心地よく、そうとわかっていても、砂漠のように乾いた今の万要には必要なものだった。 「‥‥‥ま。まかちゃーん?おーい?」 しばらく壁際に寄ることもままならずにいたラッキーが、おそるおそるといった感じに首を傾け、長い尻尾を伸ばして、万要の横でその先をちょいちょいと振った。 やがて目を開けた万要は、ふわりと身を浮かせ、びくぅ!と再度背筋を粟立てたラッキーの頭上まで移動し、それからゆっくりと―――それはまるで羽の無い天使のように、彼の目線と同じ高さまで舞い降りた。 「お前、何か面白い装置を持っていたな?」 「あ‥‥‥ああ?えっと、こ、これのこと?」 ラッキーはポケットをまさぐって、試験管によく似たその装置を取り出す。 それは、空間の捩れを察知する、彼の世界の道具。 万要はそれを指先でそっと取り上げると、しげしげと眺めてから、またラッキーの手の中に戻した。 「へ」 てっきり取り上げられると思っていたのだろう、間の抜けた顔をする彼の鼻先に、浮遊する少女は微笑を貼り付けた小さな顔を寄せて、それはそれは甘く、囁いた。 「この世界を抜け出す最短の方法を、知りたくはないか?」 とぼけたようなラッキーの瞳に、ほんの僅か、狡猾な光が宿る。 ステージ・エンドへのカウントダウンが、始まる。 +++ 上昇していくエレベーターの窓から、塔の赤い骨組みが見える。 下へ下へと飛び去っていく朱色の鉄骨は美しく、西日の空に映えて芸術的な幾何学模様を描いていた。 「きれえだねぇ、ルエルちゃん」 「そうだね、アサちゃん」 ぺたりと冷たい窓に張り付いて浅海と並び、ルエルは感嘆しながらも、言い様の無い不安に襲われていた。それはごく微かで、波の様に強弱を繰り返しながら彼女の背筋を粟立てさせていたが、ルエルはあえて無視しようと、眼下の絶景に没頭しようとしていた。 上には、終わりがある。 一体何が起こるというのか、それはいくら『内なる声』に問いかけても答えてはくれない。 予想のつかない先行きに向かう彼らに最早戻る道が無い事を、足下へ消えていく鉄骨たちが暗示しているかのようにも思えた。 ぼんやりと赤い骨を見送る浅海の横顔を見やり、ルエルはその肩にことんと頭を預けた。浅海は驚いた様子もなく、同じ様に首を傾げて、肩に乗ったルエルの頭の上へ頬を乗せてくる。 「ねえ‥‥‥こわいね、ルエルちゃん」 「‥‥‥そうだね。アサちゃん」 不安は相変わらず、朱の格子の向こうでぱっくりと口を開けていた。 「そろそろ着くよ」 支え合うようにして立つ少女達の後ろ、丁度中央のあたりに突っ立っていたイッコが言った。其の声に、壁から身を起こした紅と司貴が、示し合わせたわけでもなく揃って扉の傍へ寄る。 エレベーターが、僅かに速度を落とした。 「‥‥‥待って!」 瞬間、ぐるん、とイッコが首を回した。つられて全員が天井を仰ぐと、溶接されているはずの合わせ目から染み出すように、何か黒くて丸いものが現れ、ボタリと落ちた。やがて球体は中央から横一文字に裂け、そこから覗いたのは――― 『目玉』、だった。 「う、嘘ぉ‥‥‥」 「ぎゃー!!なななな何やねん何やねん!?」 「まだ出てくるよっ!!」 落下したひとつを皮切りに、上昇する箱のあちこちから、目玉を模した見覚えある物体が湧き出してくる。壁から、天井から、操作盤の隙間から、次々と滲み出てくる『目玉』たちは、互いの眼球をプロペラで押し潰しその粘液で滑り衝突して弾き飛ばされながら、じわじわと狭い空間を侵食していく。五人はあっという間に足の置き場を奪われ、中央に追い詰められた。 「クソッ、またかいな!毎度毎度、どっから沸いて来とんねんこいつら!?」 「潰しても潰してもキリ無いし‥‥‥。レーザー撃っていい?」 「いいわけあるかボケェッ!!」 「目玉に埋もれて窒息死。うーん、あんまりステキじゃない死に方だねぇ」 「やめてよ司貴さんシャレになんないよーっ!」 「き、きもちわるう〜‥‥‥」 パニックに陥った五人の衣服にまで、『目玉』が張り付いたその時。 ちーん。 「助かった!!」 非常に間抜けな音を発して、エレベーターが展望台への到着を告げる。 「出てもーたらこっちのもんや!」 「す、すべるぅぅ〜」 「掴まって!」 同時に開いた扉を転がるように、彼らは次々と飛び出した。 「ううっ、けほ、けほっ‥‥‥!」 「あー‥‥‥エライ目おうたー‥‥‥」 「ははは‥‥‥さすがにピンチだったねえ〜」 そのままぐで〜っと床に伸びる彼らに、別の足音が近づいてくる。 「‥‥‥イッコ!?」 一人立っていたイッコがそれに気付いて、窓の方を振り返った。 「あ、真也だー!!やっほー!」 「やっほーって‥‥‥お前、下にいただろ?ちょっと遅すぎじゃねぇ?あのサルみたいのはどうしたんだよ」 「いやーそれがさ、なんか気付いたら空飛んでて落ちて別んとこにいたんで、また歩いてきたんだよね。ウッキーもそういえば見なかったな。まだ来てない?」 奥の方からこちらへ駆け寄ってきたのは、どことなく地味な印象の、おそらく日本人青年だった。マサヤという名前らしい。 「いや?ここには俺と、あと二人。お前とそこの人たちを入れて‥‥‥全部で7人しか来てねーよ」 「‥‥‥7人?」 8人でしょ、と眉を顰めたイッコの後ろで、悲鳴が上がった。 「ルエルちゃんが‥‥‥ルエルちゃんが出てこないよぉ〜!!」 「ルエル!?」 ばっ、とエレベーターを顧みたイッコの眼に映ったのは、空の箱。 あれだけの『目玉』を詰め込んでいたエレベーターの中は、何事もなかったかのように空っぽになっていた。 中に取り残されたルエルごと、すっかり消失してしまっていたのである。 「やだぁぁっ、ルエルちゃん!ルエルちゃん、返してよぉぉ〜〜〜〜〜!!」 「‥‥‥大変だ」 「どうなってんねやこれ‥‥‥っ」 立ち上がれず悲鳴を上げる浅海を支え、低く呟く司貴。立ち上がった紅がその脇を通り過ぎて、空のエレベーターへふらふらと近付いていった。 「イッコ。誰か、もう一人一緒だったのか?」 尋常でない様子に、迎えに来た青年―――塚本は、表情を強張らせて尋ねる。イッコは頷き、エレベーターを見つめて、青い睫毛に縁取られた両眼を眇めた。 「ルエルっていう女の子だよ。‥‥‥タワーに嫌われてるんだ」 「嫌われてる?」 「でも、おかしいな。『目玉』までないなんて。ノイズは確かに、まだ‥‥‥」 エレベーターの扉は開け放たれたまま、空虚な中身を晒している。 紅は呆然とその前に立ち尽くし、からっぽの箱を眺めた。 「ここまできて、まさか飛ばされたんかいな‥‥‥そんな」 長かったよ、と嬉しそうに歓声を上げていたのは、ついさっきだ。あんな小さな体で、何度も危険に晒されながら、めげもせずに笑っていたというのに。 「嘘やろ‥‥‥?」 無意識に中へ入ろうとして、彼は更に前へ出た。 「ぅぶっ」 「‥‥‥紅くん?」 びくっと肩を震わせて妙な声を上げた紅の背中を見て、司貴は片眉の根を上げる。 紅はゆっくりと瞬き、反射的に打った額へ当てた片手をそろそろと裏返した。そして、それを自分の鼻先にある空間へ伸ばしていく。 ひたり。 伸ばした手は、丁度フロアとエレベーターの境目で止まり、指先がゆるく反り返る。 「カモフラージュだ!」 瞬間、背後からイッコが声を上げた。 「まだその中に、いる!!」 その場の全員が、一斉にエレベーターを振り返った。 紅は地面と垂直に静止した自分の手を見、それから、足元から上へ、エレベーターの枠までを目で辿る。 そこにあるのは、不可視の壁。 「‥‥‥―――ルエルちゃんッッ!!」 逆の手に握った拳を振り上げ、紅は目の前の『壁』に叩き付けた。 目の前に拳が叩き付けられる。 「コウくんーーー!!」 ルエルは微動だにしない『壁』の向こうで何かを叫んでいる紅を見て、既に枯れかけてきた声を張り上げた。 「みんな、気付いてくれたの!?ここだよー!!ルエルちゃんまだここにいるよーっっ!?」 届かないとわかっていても叫ばずにはいられない。同じように向こう側の声もまたこちらからは聞こえなかったが、姿は見える。だが、今のルエルにとっては、それが逆にもどかしくもあった。 「すぐそこにいるのに‥‥‥っ何で私だけいつもいつもこうなのよー!もー!!」 自棄になって弱い拳を何度も『壁』へ叩き付けているその間にも、増殖を緩めない『目玉』たちがルエルの居場所を奪っていた。 ボコボコと奇怪な音を立てて、泡のように隙間を埋めていく『目玉』に押されて、ルエルの身体はどんどん『壁』に押し付けられていく。 「いったたたたた‥‥‥痛いよ『目玉』くんたちっ、もうちょっと向こう行っててくんないかなあっ」 軟らかいとは決して言えないそれらに押された関節がきしむ。 ルエルは汗の滲んできた顔を歪め、『壁』に身をこすりつけながら、ついに膝を折った。 『壁』の向こう側では、皆が何か言い合っている。ついさっき知り合ったばかりのアサミという少女が、その中から這うようにこちらへやってきて、何か必死に語りかけてきていた。 「アサちゃん‥‥‥っ」 座り込んだ彼女の顔は、丁度ずり落ちたルエルの目のあたりと同じ位置にあり、ルエルは思わず手を伸ばした。 『コ・ロ・セ!』 びくり、と思わず指を止める。 まるで浅海の口から漏れたかのように聞こえたその声は、だが、脳内に直接語りかける『あの声』だった。ルエルはすぐに気付いて、全身を硬くする。 『まほろばに、したがえ』 「‥‥‥いやだよ。」 ゆっくりと、しかしはっきりと、ルエルは拒絶した。 「あなたには従わない。私、誰も殺したりしない」 『一つで良い他を消せば良いさすれば自身は外へ』 「誰も消えていいヒトなんていない」 『目玉』は髪にも衣服にも密着してきており、空気は食い潰されて、ルエルは呼吸が浅くなっていくのを感じた。それでも、『壁』の向こうに張り付いている浅海に指を伸ばし、ぺたりとついた手に手を重ねた。 「絶対ダメ。させない」 司貴がイッコと何か話している。一人、知らない顔の青年が隣からこちらを見ていたが、何か気付いたのか、後ろを振り向いた。 「あ」 視界に、また新しい人影がやってくるのが映った。一人は、なんだかすごく真っ白な女の人だ、とルエルは思う。その肩に留まっていた、なんだか丸いものが離れて、ふよふよとこちらへやってくるのが見えたが、女の人にも丸い物体にも見覚えがない。 しかし並んでやってきたもう一人には、反対にとても見覚えがあった。 可愛い機械のネズミを連れた、縞馬帽子の男。 「‥‥‥ガイ君、やっぱり先に昇っちゃってたんだ」 呆れて呟いても聞こえるはずもないが、凶だって言ったのに、とルエルは肩を落とした。 そして浅海はまだ『壁』の傍で、時折それを叩いている。 「あーっ、ダメだよアサちゃん!赤くなってるじゃん、もう‥‥‥っ」 しょーがないなあ、と苦笑しようとした口の前を『目玉』が塞ぎ、ルエルは息を吸うのに失敗して盛大に咳き込んだ。手を振り回してそれを叩き落し、せめて、と顔を身体ごと『壁』の方へ向けて、呼吸を確保する。 「死にたくない‥‥‥ってゆうか、死ねないよ。私がここで死んじゃったら、『全員クリア』できなくなちゃうもんね‥‥‥!」 心に思ったことを、口に出す。 現実にするために。 「『他には』」 『ジグソーパズルだ 揃うしかない』 その声は、『目玉』に押されてひどく遠くから聞こえたような気がした。 「‥‥‥待ってたよ、『コトホギ』‥‥‥」 ルエルは小さく微笑んだ。 『コトホギ ノ コエ ヲ キケ』 声を追おうとしたルエルの脳裏に、あの『言葉』の群れが襲い掛かってきて、声が声を食い潰そうとする力が頭痛となってルエルを襲う。 『マホロバ ニ シタガエ!』 「ぜ〜〜〜〜〜ったい、イ・ヤっ!」 だん!と音さえしそうな勢いで、ルエルは力いっぱい『壁』を叩いた。 「いーかげんどいてっ『マホロバ』!あなたには絶対従わない!」 空間を埋め、圧迫していた『目玉』の力が、弱まった気がした。頭の中に注ぎ込まれる膨大な『言葉』の渦に埋もれそうになりながら、ルエルは渾身の力を込めて、全身全霊で『どこか』へ叫ぶ。 「私はあなたを聞くよっ!『言祝ぎ』!!」 その時。 ブゥンと辺りを飛行していたその丸い物体が、くるりとエレベーターへ赤い目を向けた。 「‥‥‥?」 ガイがそれに気付いて、サングラスの下の双眸をそちらへ向ける。 「何や、どした」 「あ‥‥‥」 「ノイズが!」 瞬間。 音も無く、ガラスが砕けるようにして、空間が割れる。 「‥‥‥ルエルちゃん!!」 何もなかったはずのそこから、大量の壊れた『目玉』と共に、ぐったりと見るからに消耗しきったルエルの細い肢体がフロアに零れ落ちた。 雪崩のように溢れ出した『目玉』の残骸に自らも溺れそうになった浅海がそれらを掻き分けて、黒い球体の中から制服に包まれた袖を引っ張り出す。 「へへ‥‥‥たーすかったー」 「るえるちゃ‥‥‥っルエルちゃん〜〜〜よかったよぉ〜〜‥‥‥っ」 「わはは!生きとったー!いや、めでたいわー!」 「よくがんばったねえ☆」 「ルエルってば悪運強いからねえ」 「イッコ、お前なあ‥‥‥」 えへら、と笑ったルエルの表情につられて、わいのわいのと集まってきた面々が、それぞれに手を貸して少女を黒山から引き起こす。 それを遠目に見やっていた阿小夜の肩から、あの丸い飛行体がふい〜っと飛び立ち、もみくちゃにされているルエルの頭の上までやってくると、いきなりぽとんと落ちて止まった。 「あーあ、ほら阿小夜。君があんまり冷たいから、あの子も天使の方へ行っちゃったじゃないか」 「‥‥‥やかましい。どうでもいい」 ひやりと突き刺さった阿小夜の視線をものともせず、ガイはくすくすと笑いながら、顔いっぱいに?マークを浮かべて球体を頭から手に移したルエルに近寄っていった。 「やあ。またお目に掛かれて嬉しいよ、天使さん。ミッキーもご挨拶は?」 「ガイ君!ミッキー!」 きゃあvと嬉しそうにルエルは飛び跳ね、飛び出したミッキーを腕に抱えて頬を寄せた。 「もー!心配したんだよー!」 「ミッキーは君の事の方を心配してたけどね。‥‥‥おや。恥ずかしがらなくてもいいよミッキー」 「あはは!ありがとミッキーv」 ネズミはぽかぽかとガイの脚を叩き、そのポケットに潜り込んだ。 「ねえガイ君。ところで、この丸いの何?」 「ああ、それ?ちょっと作ってみたんだよ。よかったら、いるかい」 「くれるの!?vvv」 「どうぞ」 瞳を輝かせて球体を抱きしめるルエルに、ガイは唇の端で笑う。やったあ!とルエルは跳ね回って喜んだ。 「見て見てアサちゃん〜vもらったー!v」 「あ〜!いいなあルエルちゃん〜っ。って、なあに?これ?」 「わ、わかんないけどかわいいからいいっvあ!ねえねえガイ君!この子のお名前は!?」 ガイはにっこりと(目はサングラスで見えないが)笑った。 「ミッフィーっていうんだ」 「みっふぃー?」 ルエルは首を傾げたが、浅海は「あ〜」と頷く。 「みっふぃー‥‥‥かわいーかもv」 擦り寄ってくる銀色赤眼の球体を、ぎゅvと抱きしめ、ルエルはその名前を気に入ったようだ。 ガイがぽそりと付け足す。 「実はそれ、あそこのお姉さんをモデルに作ったんだけどね」 「「‥‥‥ぶっ」」 名前の英語的意味を正確に知っている紅と塚本は、同時に吹き出す。 ガイの逸らされた視線の先では、阿小夜が仏頂面であらぬ方向を向いていた。 「ねえねえ、あったよー!!特別展望台行きのエレベーター、見っけ!!」 と、その時奥からイッコがぴょんと飛び出して一同を呼んだ。同じ場所から顔を覗かせたのは、いかにも楽しそうな司貴だ。 「とりあえず“開”ボタン押したけど、行くかい?」 え、と塚本は阿小夜に視線をやる。 今の今まで、エレベーターどころかそこへ通じるエスカレーターさえも、全く作動していなかったはずだ。 阿小夜は塚本の戸惑ったような目を見返すと、ちらりとガイを見やった。 ガイはニィと口の端を持ち上げ、 「‥‥‥ほら。カギは、開いた」 と、言い、何食わぬ顔でルエルの背を促した。 「先にお行き。お嬢さん達」 「うん!ありがとガイ君」 「まってぇ〜」 「俺らも乗り遅れるで」 「あ、はい」 紅と塚本、そして阿小夜がそれに続く。 ガイは最後から悠然とその後を追い‥‥‥ 「うん?」 ぴぴ、とポケットを引っ張られて立ち止まる。 腰のあたりから顔を出したミッキーが、「あれはどうするの」とでも言うように、窓際に捨てられた昨日の作業くずを指差した。 「ああ、あれはもう使えないパーツだから。ほっといていいよ」 そう?と飼い主の顔を見上げたネズミは、大人しくポケットに潜り込む。 ガイはとても楽しそうに歩き去る。 取り残された作業跡には、本当にくずしか残っていなかった。 原型も留めないような金属片と、焦げて曲がった螺子のようなものと、ラバーらしき断片と、 あとは、折れたプロペラ。 それだけである。 +++ 特別展望台。 夜の帳が落ちる直前の猛烈な赤に染められて、万要はむくりと起き上がった。 「‥‥‥来た‥‥‥」 「ん?あ、そう」 万要の手の中で散々遊ばれていた尻尾を回収したラッキーが、投げ出していた手足を縮め、反動を利用して立ち上がる。 「さーて、お花ちゃんはいるかなv」 「いるだろうよ。お前の好みまでは知らんが」 「えり好みはしない主義なの♪」 ニィ、と口角に笑みを浮かべたその時、エレベーターの口が開いた。 万要がゆっくりと瞬き、そこから現れる“彼ら”をその視界に、入れる。 「あ‥‥‥万要ちゃんだぁ〜」 扉が開くなり、そこに小さな少女の姿を見つけた浅海は、嬉々としてフロアに降り立った。 「やあ、無事でなによりだ!」 「ウッキーもいる!元気だった?」 「ウッキー言うなっつの!‥‥‥ああっそれにしてもお花ちゃんがこんなに‥‥‥っvおいら幸せすぎて昇天しそうvvv」 次々と朱の空間へ足を踏み入れる面々に、ラッキーは何ら変化のない態度で混じっていく。 だが、万要だけは。 「‥‥‥どうした?」 最後にエレベーターに残った一人の少女に向かって、静かに問いかける。 「早く来るがいい。扉が閉まるぞ」 最後の、いや、『最初の』少女―――ルエルは、『最後』である万要の迎えの言葉に、何か痛ましいものを見るような視線を送る。だが、意を決した様子で、やがて一歩を踏み出した。 『 CONGRATULATIONS! 』 「な‥‥‥」 「何や何や何やーーー!?」 彼女が最後の線を越えた瞬間、東京の夕暮れを映していた窓一面を祝福の言葉が埋め尽くし、スピーカーから盛大なファンファーレが鳴り響いた。 総勢、10名。 その空間に足を踏み入れた者たちは、ざわりとそれぞれに周囲を見渡す。 万要とルエルだけがその中で見つめ合ったまま、互いの距離を計っていた。 窓に映された光の文字が新たなメッセージを流す。 『 THANK YOU for your playing! You completed ALL of CHARACTORS! 』 「‥‥‥全員、揃った‥‥‥!?」 塚本は思わず口に出して驚愕を表した。 「ぃやったーーーー!!!これで帰れるよ!やっほーーーー!!!」 歓声を上げたイッコが飛び跳ねる。 しかし、一番ノリノリで喜びそうな紅が、いぶかしげな顔つきで文字を見つめて動かない。 「こんなにあっけなく終わってええんか‥‥‥?」 「同感だね。」 呟かれたその科白に同調したのは、これも意外なことにガイである。いや、逆に予想通りと言うべきか。 「だって、つまらないよねえ?ミッキー?」 ポケットから顔を出したネズミが鼻先を押さえてクツクツと笑う仕草をする。 「確かにつまらないねえ〜」 「おっさんまで同調すんな!‥‥‥って、実は俺も同じ意見やねんけどな」 紅は、ディスプレイト化した巨大な窓を横目に睨んだ。 「俺がゲームマスターなら、こんなとこで終わらせへんと思うで」 「勘がいいな、コウ」 感心したように言ったのは、ルエルから視線を外した万要だった。 「その通りのようだぞ」 夜の闇と太陽の残光がせめぎ合う、黒と赤と紫の競演。 その壮絶な色彩を背景に、文字と音は現れる。 『 ARE YOU READY TO THE NEXT STAGE ? 』 ルエルは両手を握り締める。 イッコはレンズを限界まで見開き、 塚本は諦めに瞼を伏せ、 紅は舌打ちして柱を蹴り飛ばす。 浅海の膝が力を失い、 司貴は微笑みの形のまま双眸を細め、 ガイは口笛を吹き、 阿小夜はひそかに歯噛みし、 ラッキーが肩を聳やかし、 そして、万要は表情もなく、口を開く。 「お前たちは、どちらの道を選ぶ?」 「‥‥‥マカちゃん‥‥‥っ」 ふわり、と浮き上がって、展望台の端に降り立った万要を、丁度逆の端に立つ形になったルエルが苦しげに呼ぶ。だが、万要は制止にも聞こえるその呼びかけには一瞥すらくれず、彼女に注目した8人の姿を、順番に見据えていった。 「お前たちの選択肢は、二つ。狩る者になるか、逃げる者となるかだ」 「‥‥‥それは、どういうことだい。万要ちゃん。」 司貴が柔らかく、だが低く問いかける。顔は笑顔だが感情を押し殺したような響きに、それでも万要の方は何の色も浮かべず、人形のような面を彼に向けて、淡々と回答した。 「この『領域(フィールド)』から抜け出す方法は、二つ。 誰かを殺すか、全員を集めるかだ。 だが、誰を殺すのか?全員をどこに集めるのか? その回答を、わたしと―――そこの、ルエルが持っている」 指差されたルエルは、身体を硬くして全員の視線を受け止め、やがて両手を握り締めると、俯いていた顔を持ち上げる。 万要はそれを見やり、更に続けた。 「だが、回答を持っているといっても、完全な正解ではない。 その断片を、わたしとルエルがそれぞれ受け取る術を知っているだけだ」 「‥‥‥誰がその『断片』を?」 阿小夜が聞く。 万要は初めてそこで、感情を現した。 「わたしにそれを教えるのは、『真秀ろば』」 愉悦にも似た表情は、だが一瞬で消えうせる。 「『まほろば』に従うことを選んだ者は、 私と共に『狩る者』となり、『領域』のどこかにいる『兎』を見つけ出し、殺す。 『兎』を探し出しさえすれば、つまりこの下らない遊戯を終わらせることが出来るわけだ」 「でも、『兎』にされた誰かは死んじゃうんだよっ!」 それまで口を噤んでいたルエルが、弾かれるように叫んだ。 「そんなの、そんなのってないじゃない!?」 「‥‥‥では、お前が救え」 万要は冷たく言って、マントのフリンジを払いのける。 「お前の『声』に従えばいいさ」 「‥‥‥。」 万要ちゃん、と、誰かが呻く様に言ったのが聞こえた。 ルエルは唇を噛んで、強く目を閉じた。 「私に‥‥‥教えてくれるのは、『言祝ぎ』。 『言祝ぎ』と一緒に行くなら、『領域』にいる全ての『登録者』を集めて、 最後のステージまでをクリアしなきゃいけない。 でも、誰も殺さずに、殺されずに、ここを出ることが出来るんだよ」 沈黙は、限りなく重くのしかかる。 「‥‥‥究極の選択、やな」 ぼそ、と紅は漏らした。 「そっか〜?簡単な選択だと思うぜぇ?」 正反対の軽い口調で言ったのは、ラッキーである。 軽薄なうすら笑いを浮かべて尻尾をくねくねと揺らしながら、彼はさっさと展望台を横切り、ポンと万要の肩を叩いて、少女の腰に尻尾を絡めた。 「一匹殺せばその場で助かるんだろ?別に自分でヤんなくたっていいわけだし、おいらはこーっちv」 「僕もそっちかな。『狩る』側の方が、このゲームは楽しそうだ。それに、可愛い可愛いマカちゃんがいるしねv」 ガイもまた、あっさりと身の振りを明らかにし、ムッとするラッキーに帽子を掲げてみせつつ、万要の隣に立った。 万要は横目で交互に二人を眺めやり、そして、緩慢に残りの者を見やる。 「さあ。お前たちはどうする?」 ほな、と、その中から真っ先に動いたのは、紅だった。ちらりと万要の姿を見やって愁眉を寄せたが、息をついて結局言い切る。 「俺は『ことほぎ』につくわ。どういう理由にせよ、人殺しもその手助けもしたないねん」 「‥‥‥俺も」 便乗して塚本もまた手を上げた。 「それじゃあ、僕もそっちに行こうかねぇ」 はーい☆と司貴が手を上げる。が、同時に何かカエルの潰れた様な声がした。 「‥‥‥紅くん。今の“ぐえ”っていうのは何かな?ん?」 「気のせいや、気のせい!!‥‥‥それより、意外やわ。けっこー、『まほろば』につくかと思とってんけどな、あんたみたいなんは」 司貴はにっこりと笑う。 「だって、僕が向こう行っちゃったら、あっという間にお話終わっちゃうからね☆」 「そういう理由かい!!!」 紅の突っ込みは爽やかな司貴スマイルに吹き飛ばされた。 「私は『まほろば』につかせてもらう」 ひんやりと玲瓏な声で宣言し、阿小夜は騒がしくどつき合う彼らに背を向けた。 「異世界の人間などど馴れ合う気はないからな‥‥‥救われる可能性の高い方を選ぶ」 「いやっほーvvvお花ちゃん、いらっさーいvvv」 必要以上に喜ぶラッキーに“お花ちゃん”呼ばわりされて一瞬鼻白んだようだったが、それで決意が覆ることはなかった。 早くはないが次々と意思を決定していく人々を見比べていたイッコは、 「やっぱ真也はそっちか。だよね」 はあ、と形ばかりため息をついた。 「折角一番最初に話したヒトだし、殺したくないんだけどなあ‥‥‥でも、ボクは『まほろば』につくから。じゃーね!真也!紅も!」 「俺はついでかい」 突っ込みを入れる紅に笑い返したイッコは、ぽんぽん、と塚本の肩を叩いて踵を返そうとした。 だが、思いもかけずその手を掴まれて、ぴたりと足を止める。 「‥‥‥ちょっと真也。手ぇ離して」 「お前はこっちだ」 ―――たとえ短い付き合いでも、塚本真也という人間が熱血漢に程遠い人種であることはわかる。しかし、どういうわけかこの時の彼は、有無を言わさぬ強引さ、とでも表現するしかない強さでヒューマノイドの片腕を捕まえ、睨み据えていた。 「もう一回言うよ、真也。離して」 イッコは何ら動揺するはずもなく、駄々っ子をたしなめるような口調で言うと、腰のレーザーを彼の眉間に突きつける。 「‥‥‥っ」 「別に、一人ぐらい殺したって支障はないんだから」 さすがに息を呑んだ塚本に、笑顔で言い放つ。 当然、イッコの圧勝、に思えた。 が。 「そーなんか?ロボっち」 とぼけた声で、紅が異論を唱えた。 「ロボットっちゅーんは、お前さんとこの世界じゃ、そんな簡単にヒト殺せることになっとんのか?」 ぴた。 「‥‥‥うん、まあね」 ギギギ、と音のしそうなぎこちなさで紅に首を向けるイッコ。 その横顔を見ていた塚本が、ぼそりと呟いた。 「‥‥‥なあ。宇宙警備なんたら会社の所属って言ってたけど‥‥‥会社ってことは、民間だよな。仮にロボットでも殺人がありうるとして、民間企業にもそれって許可下りてんのか?別に、軍隊じゃないんだろ‥‥‥?」 「う、ううう、うん!もちろんサ!」 「ほほー‥‥‥?」 紅はあさってな方向を向きだしたイッコをじーっと見つめた。 「嘘やろ。」 「‥‥‥う、ううん?」 もしも汗が出るならば冷や汗ダラダラ状態であろうイッコに、紅はびしい!!と指を突きつけ声高に言い放った。 「はーっはっはっは!イッコ!お前に人間は殺せんわー!!大体、地球発祥のヒューマノイドな時点で“ロボット三原則”が働いてへんはずがない!よしんば働いてへんかったとしても、民間企業に殺人ロボ置かす政府がどこの世界にあるかボケー!!」 「うっわー!見抜かれたくそー!!」 「はーっはっはっは!!というわけでおまへは『ことほぎ』じゃー!」 頭を抱えてうずくまったイッコだが、勝利の踊りを踊り始める紅を上目遣いに見上げると、やおらニヤリ‥‥‥と嫌な笑いを浮かべた。 「‥‥‥なーんてね。」 「へ」 「どーせここ、異世界だしさあ‥‥‥バレなきゃいいと思わない?」 じゃきん。 花の笑顔を満開に、構えられたレーザー銃。 (ヤられる‥‥‥っ) 紅は阿波踊りの格好のまま固まった。 「じゃあやっぱりバレたら困るんだね?」 「うわあっ!!」 にゅっ、と間に現れた司貴(体育座り)を、イッコは反射的にのけぞって避けた。 「司貴っ!いきなり出てこないでよ怖いなあ!!」 「あっはっは。さーて、そんなイッコちゃんに質問です!」 「どんなや」 「はいっ☆これなーんだ♪」 どーん。 と、イッコの目の前に突きつけられた、ヘンな四角い物体。 「‥‥‥なにそれ。ひげそり?」 「ぶぶー!はい紅くん正解はっ!?」 「俺のケータイでーす!‥‥‥って何であんたが持ってんねん!?」 「細かいこと気にしちゃダメ☆」 「いやそこは気にするし!!」 「だから何なの!?」 いらいらとイッコが怒鳴り、親父と青年は漫才をやめた。紅がディスプレイを覗き込み、司貴を横目に見やってニヤリと笑う。 「よお録音ボタンわかったな」 「いつの時代も赤いんだね☆」 「どれどれ‥‥‥今まで散々『殺す殺す』言うてたしな〜イッコちゃんてば‥‥‥お。ちゃんと映像もばっちりやんか。ほなこれ、どっか送信してみよか」 「電波は届くかな?」 「さあ、知らんなあ。けど、“どこに届くか”わからんわなあ〜。ひょっとして、“どっかの宇宙戦艦”とかが拾ってくれはったりして〜?」 「『ここ』から飛ばしたら、ひょっとして時空ぐらい平気で超えてくれちゃうかもしれないねえ〜?」 「ふっふっふ」 「はっはっは」 「〜〜〜〜〜ぶち壊すっっ!!」 がば!!と飛び掛ってきたイッコをひらりと避けた二人は、ひゃっひゃっとばかりに携帯電話をキャッチボールしはじめる。完全に錯乱状態に陥ったイッコは重心制御にあっけなく失敗し、ずざーっとルエルの足元にスライディングした。 「‥‥‥ルエル‥‥‥た、たすけて‥‥‥」 何だか筋違いだが、イッコはちょこんとしゃがみこんできた彼女を見上げて懇願した。 しかし、ルエルはにーっこりvと笑って、大型爆弾を打ち込んできたのである。 「ねえイッコちゃん。ブラック・ボックスって持ってる?」 「へ?そりゃああるさ。ボクの回路とは別に繋がってるから、どこにあるのかわかんないけど、大事な記録媒体だからきっと頑丈に‥‥‥っ」 そこまで律儀に答えて、ぴた、と静止する。 「‥‥‥じゃ、私を殺してくれちゃいそーだった記録も、たぶんそこに残ってるよねv」 「う‥‥‥うーーわーーーーーっっ!!!」 今度こそ、イッコは完全に頭を抱えた。 「そーだったどうしようスクラップ決定だよ‥‥‥!!ってか、その前にたぶん別件で私的にころされる‥‥‥っいーやーだー!!」 その耳に、紅が最後のダメ押しを入れる。 「それ、取ってやれるかもしれへんで」 「‥‥‥え‥‥‥?」 「または、書き換えられるかもしれへんし。『登録者』に、そういう専門職の奴がいるかもしれへんやろ」 「そうそう。いざとなったら、僕らが取ってあげるって手もあるしねえ〜。なに、中開ければ大体わかるもんさ☆ねえルエルちゃんv」 「そーだねーvでも、残念だなあ〜イッコちゃん、『まほろば』に行っちゃうんだよねー?助けちゃったら『ことほぎ』が怒っちゃうかもー」 「じゃあ放っとく?」 「どーしよーかなー?」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ」 ―――この時点でイッコの負けが確定した。 「‥‥‥『ことほぎ』、でお願いします‥‥‥」 「「「んん!よーし!」」」 がくっ、と床にオチるイッコの後姿を離れたところから見ながら、塚本は頭の隅で思った。 (そういやイッコ、ガイが機械マニアだって知らないんだっけ‥‥‥) もちろん、そんなことを知らせてやる気は全くないが。 「長い漫才だったな」 抑揚のない万要のツッコミで、ハタと全員が我に返る。 「‥‥‥残るはお前一人だ、浅海」 浅海はフロア中央の柱に寄りかかり、ぼんやりと万要を見つめていた。 「アサちゃんは決まってるがな〜。ほれ、はよこっち来ぃな」 こいこい、と手招きする紅。 だが、浅海は緩慢にそちらを向きはしても、身体は万要の方を向いたままだ。 「アサちゃん」 ルエルが呼ぶ。 それは招くための声というより、引き止めるための呼びかけに聞こえた。 「‥‥‥あたしは〜‥‥‥」 浅海は床に視線を落とし、そのまま、身体を柱から離した。 「‥‥‥あたしも、『まほろば』に入れてもらって、いい〜‥‥‥?」 「浅海ちゃん!?」 「アサちゃん!!」 紅とルエルが信じられないといった表情で呼び止める。 「お前が?」 意外そうに万要もまた眉を上げる。 その隣で、今まで浅海には全く興味を示さず、視線をよこすこともしなかったガイが、初めてサングラスをかけた顔面を彼女の方へ向けた。 「君が、こっちへ来るの?“どうやって”?」 それはまだ、色のない声だ。 「‥‥‥」 浅海は柱から一歩、二歩と離れ、後ろ手に回していた両手をゆっくりと前に回し、胸の前に掲げた。 「‥‥‥これでも、ダメかなぁ‥‥‥?」 その手には、いつの間に現れたのか、黒光りする小型銃がしっかりと握られていた。 ガイは、銃と、それを握る少女とを見比べる。 そしてニィィ、と、それは楽しげな笑みを浮かべた。 「銃の撃ち方は知ってるかい」 「‥‥‥ううん」 「そう。じゃあ、おいで。教えてあげよう」 ぴょん、と飛び出した機械ネズミに導かれて逆端へ向かう浅海を、銃の出所の予測をつけた紅が悲痛にも聞こえる声で呼び止めた。 「アサちゃんどないしたん!?あんなに嫌がってたやないか!!」 隣から、司貴が首を傾げて低く言う。 「やめておきなさい、アサちゃん」 ネズミを抱き上げて、迎えに出たガイに片手を預けた浅海は、 「‥‥‥ごめんねぇ?」 くるりと首だけを後ろへ向けて、弱く笑った。 「決まったようだな」 ふわ、と、万要が風を孕んで宙に浮かび上がる。苦笑の表情を浮かべ、足元に視線をやった。 「満足か?ラッキー」 「おうっ、だーい満足vお花ちゃんは、やっぱ多い方が幸せさ〜♪」 「それは良かったな」 「‥‥‥そっちのお花ちゃんも、こっちだったらなおサイコーだけど」 ちろ、と見やった視線は、ルエルの姿を捉えている。 「ま、我慢しとくわ」 「賢明だ」 万要は、ふわりとマントをはためかせて、綺麗に二手に分かれた彼らの、丁度間に降り立った。 「わたしは、『最後』」 そう口にし、大きな目を眇めて、「来い」とルエルを促す。 ルエルはこくんと喉を鳴らし、こつん、こつん、と靴音の響く中を、中央へ歩み寄った。 「お前は『最初』だ」 万要が言い、ことりと小首を傾げて自分より背の高いルエルを下から見上げる。 「『最初』と『最後』がもう一度会う時、何が起こる?占術師?」 「‥‥‥『物語の幕が閉じ、次の舞台が目を覚ます』‥‥‥」 ルエルは強い目で万要を見下ろした。 「マカちゃん。私たちの集める『全員』には、マカちゃんも入ってるんだよ。お願い、『まほろば』なんか忘れて、一緒に行こう?」 万要はしばらくそんな彼女を見上げていたが、やがて、フと微笑を滲ませた。 「‥‥‥この世界で私に、他の何を信じろと言うんだ?」 「‥‥‥‥‥‥」 「お前は『ことほぎ』の声を聞き、私には『まほろば』がやってきた。そういうことだ」 「マカちゃん」 「これ以上話すこともないだろう」 万要は微笑みを引っ込め、マントの下から小さな右手を突き出した。 「さあ。手を出せ。早く」 「‥‥‥」 ルエルは、ぎゅ、と握り締めた右手を、その手に向かって伸ばす。 その瞬間、誰もが何かに祈った。 二人の少女の指が触れた瞬間、まるでガラスが割れるように世界が壊れ、足元からバラバラと奈落へ落下していく。 ルエルはすぐそばに万要の声を、―――いや、何者でもない声を聞いた。 「わかるか?今やお前たちは、『世界』の敵だ」 崩れていく『領域』に呑まれて、最初の“10人”は、なす術もなく落ちていった。 +++ 時を刻む音が聞こえる。 「‥‥‥うぅ‥‥‥」 身体に纏い付くような寒さに、ルエルは目を覚ました。 辺りが暗い。そして濃く、深い霧があたりを包んでおり、 (ああ、これは寒いはずだわ〜) と、妙に深々と納得した。 「ってゆーか、ここはどこ?なんかトーキョーと大分違うんだけど」 硬い感触の地面から身を起こしてみると、暗がりにちらちらと光る水面が見える。 「橋、かな」 思って上を見上げてみる。 「うっ、わー‥‥‥何これ、ゴージャスっ!」 まるでお城のような石造りの塔がふたつ、橋の上に向かい合わせに建っていた。 「これでカッコイイ彼氏とかが横にいたら、すんごくロマンチックなんだけどな〜っ」 あーあ、と、言っても空しいことを呟いて、ルエルは橋の柵に寄りかかる。 「‥‥‥また、一人になっちゃったかな‥‥‥」 と思った時。近くで何かブゥンという音が聞こえた。 「‥‥‥あ、あれ!?ミッフィーちゃん!!きゃー!!良かった嬉しい一人じゃないーーー!」 銀色の丸い飛行体は、驚喜するルエルに甘えるように、その肩口に寄り添った。ルエルはその冷たいようで少し暖かい機体に頬擦りをして、言った。 「さて。みんなを探さなきゃね?ミッフィーちゃん」 どこか遠くで、時を告げる鐘の音が続いている。 そこは、霧の都市。 「『ロンドン』―――‥‥‥」 地理と歴史の教科書で見たその風景を見下ろし、浅海は呟く。 巨大な時計塔の頂上に、彼らはいた。 銀色の阿小夜。尻尾をそよがせるラッキー。 そして、眼下を無言で眺める、万要。 月を背にした逆光のせいで、互いの表情はよく見えない。 「セカンド・ステージは、どうなるのかな?楽しみだねえ、ミッキー‥‥‥」 ガイは心底楽しそうに、愛玩機械に声をかける。 その周囲を、無数の黒い球体が、微かな羽音を響かせて浮遊していた―――‥‥‥ |
written by 羽室セイ 2003年08月25日公開 |