第十五話 |
自動車はもう使えない。 そのことに気付いたのが少々遅かった。 「あああああー!」 とりあえず絶叫し、ルエルはがっくりとポーチの柱にもたれかかる。 真っ白な、まるで神殿を模したかのような柱は、上気した彼女の頬を優しく静めた。心地良い、冷気。それでじっくりと体を芯まで冷やす……ことは、だがしなかった。 すい、と目玉が彼女を見下ろす位置にやってくると、ルエルは再び姿勢を正す。落ち込んでいた踵を持ち上げて、あれだけ大事に持っていたパフェを潔く振り捨てて。思い出すのは渡すはずだった人物。 「もうこんなのじゃ渡せないもんね!」 そしてなんと、彼女は走り出したのだ。 背にある羽の存在をこのパニックで忘れ去ったのか、彼女は猛然と遠い万要を追いかけ始めた。 「…追いつける所まで行けば良いんだよっ!」 自らに強く言い聞かせる。そうしないと、もう二度と上空の…おまけに先を行く少女には会えないような「予感」がしたから。追いかけてつかまらなかったとしても、良い。重要なのは「今、追う」ことなのだと。そう彼女の中の彼女は告げている。 影を落としていた。 あんな小さな少女が。 それを思い出してルエルは唇を噛み締める。頼りになるかどうかは解らないが、今はガイがいない。愛らしいミッキーもいない。ここにいるのは自分だけ。 異国の異界の異時間のある一点。自分は、そこにいる。自分しかいない。自分が動かなければどうにもならない。何も、進まない。 「万要ちゃん」 呼びかけるかのように、囁く。 夜は純粋で美しく、だが巨大で曖昧だった。 大都市であろうことだけは気付いている。把握した人数はミッキーを入れてもたったの七人。そのうちの四人は姿をちらと見ただけだが、いることだけは確かだ。それがこの大都市にいる全人数? 少なすぎる。ルエルは胸中で首を振った。 何よりも、彼女自身が告げているのだ。更なる予感を。更なる出会いを。更なる奥行きを。更なる流れを。 ゲームは開始された。 その瞬間を彼女はガイの運転する自動車の後部座席で迎えている。 この時を境に、いや、もっと以前に摂理というものは失われた。彼女の視界にもブレが生じて、目がよく利かない。先を完全に見通すことが出来なくなり、まるで世界の枠組みそのものが緩いようにすら感じられてくる。 ……実際、その通りなのかもしれない。 ふとルエルはそんなことを脳の最端で考えた。 この世界は、柱がしっかりしていないのだ。先程のポーチの柱よりも遥かに脆いか柔かくて、彼女が寄りかかるだけで容易に形状を変えて崩壊してしまうのだろう。または、ぐにゃりと曲がってしまうか。 ならば、そんな柱で囲まれた六方の面はどうなるのか? ルエルは喘ぐように息を吸い込んだ。万要は振り返りもせずに遥か先を行ってしまう。夜闇ということもあって、たとえ地上からのネオンや照明があったとしてももう不可視だ。間もなく、彼女は完全に消え去ってしまう。あの、赤い塔の先へ。 目玉が無機質にルエルの頭上を通過して、アングルを合わせた。それはまるで、悪趣味なポートレイト。 汗が頬を伝うが彼女は脚を止めない。膝が笑い出しても、心臓が悲鳴を上げても。 行くしかないのだ。 だって、万要が最後であろうとそうでなかろうと――――――…。 「離れちゃ、ダメ」 それは確かな恐怖の予感。 妖艶で、冷酷な殺気。 涼しく、美しい殺気。 型は似ているが、それは鮮やかなコントラストを描くかのように、違いを一瞬で彼に痛感させた。 後頭部に前者を。喉元に後者を突きつけられて、塚本真也は睫毛を僅かに震わせる。 脳は相変わらずストライキを起こし、けれども現実はしっかりと取り込んでいた。自分の後頭部には冷たく堅い、恐らく銃口。喉元には月光のような、確実な刀。 どちらも有り得ない、と一時は否定した。こんな東京で、おそらく東京タワーで、どうして武器が現れる? だけれども。 思い出したのはICCO…イッコとの出会い。あれは迷うことなく銃を引き抜いて、発砲した。まるでSFの物語のように。…そう、言うなればそれは映画の一場面のようだった。似たような武器を、彼は映画で確かに見ている。 武器は、存在するのだ。 武器は。 武器? 「…………俺は」 キーワードによって脳裏で再現された、あのざらつく囁き。 それを掻き消すかのように、願わくばそうなるように、塚本は擦れた息で発声した。 「塚本真也」 それが前後の殺気の望みだから。 とりあえず果たしておくべきだろうと思ったのだ。 「んー……マサヤ?」 後ろが、どこか含みを持った声音で口を開く。 「名前は解った。もう一度聞くよ? 『誰』?」 これ以上何を言えというのか。自分はただの人間で、身分も大学生というものしか持ち合わせていない。 考え直してみれば、自分とはなんて曖昧な個なのだろう。 知っていた社会を出てしまえば、名前以外に自らを確立させる手段など無い。誰、と尋ねられてどう答えれば良いのか。まさかここで性格などをつらつら並べて自己紹介ということも無いだろう。 後ろの男に、嫣然と微笑んだ雰囲気を感じる。 「言えないのかな?」 ならば? 「言えば、わかるのか?」 「何?」 塚本の答に目をすがめたのは、前方に位置する刀の人物。中性的な顔をしているが、声の調子から確実に女であると断定できる。彼女はそんな年齢でもないのに白い髪と、兎でもないのに赤い目をしていた。 白子症。 自身の専攻学問から、彼は容易にその事実を汲み取る。信じられないほど低い確率ではあるが……だがこのフィールドでは何が起こっても、最早おかしくは無いのだろう。笑い飛ばしてしまえたら、どんなに良いかと思えるほど、これは可笑しな状況。 背後よりも前面の方がまだ奥底は危険ではないかもしれない。そう直感した自分を信じて、塚本は目の前の赤を真っ直ぐに見つめた。幾らか視線はブレるが、できるだけ自分を落ち着かせる。 「俺は…少し前に、ある二人に会ってる」 「二人?」 「それは小さい女の子二人?」 意外にも、具体的に答を返したのは背後だった。一瞬ではあるが、完全に敵意が掻き消えている。 だが、塚本の持っている回答は彼を喜ばせたり、彼の敵意を解けるようなものではない。 「……片方は完全に男で、もう片方は……解らないけど、俺くらい身長はあった。だから…多分違うと思う」 「そう」 するりと、彼は退いていく。 だが冷たさは依然、残したまま。 「で? 二人に会ったから何だって?」 物理的にも、精神的にも。 …やはりまだ他にもいたのかと、彼の言った「二人」が気になりはしたが、先を促されて塚本は疑問を頭の隅へと押しやった。 「その二人と一緒に俺の知ってることを話しても、通じなかった。俺はここの地形に少しは見覚えがあるけど、二人は殆ど知らなかった。それと……その二人と俺の時間が違ってた」 「時間?」 男が呟く。女は軽く息を呑んだ。そして塚本は刀に触れないよう、頷いた。 「二人は、未来から来てた……」 赤い目は見開かれ、背後は息を潜める。 塚本が見る限り、背後は解らないがとりあえず前の女は過去の人物…。 もっとも、年代が違うだけとは思えない。イッコとラッキーの会話は明らかに、過去の歴史を取り扱っていても食い違っていた。恐らく同じ年号であったとしても、彼らの記憶には違う事象が記されているのだろう。 「それから、言うと変だけど……」 言うな。 脳の何処かが彼を非難する。それを言ってしまえば、彼の均衡は崩れる。視界に入ってはいても辛うじて保たれていたバランスが、言ってしまえば――――――。 「いや、だからこそ、俺自身のことは『言っても解らない』と思う」 だが。 喉はカラカラに渇き、目は充血していく。相変わらず前後には殺気があるし、何よりも言ってしまわなければ自身の命がない。 「ここは……あの二人や俺にとってもだけど」 これは、夢ではないのだ。 ――――――ならば、コロセ。 塚本は胸中で首を強く振った。殺せない。今の自分には生理的な嫌悪感が強くまとわりついていて。だから。 だけど、このまま黙っていれば殺されるのは、自分だ。 「世界が、違うみたいだ」 まるで喘ぐように呟かれたのは、解呪か呪縛か。 微かな笑みの気配を背後に感じ、驚愕の匂いを前に読み取る。互いが互いに。全員が全員、その意味を理解し、自らの状況を確信したのだ。 「お伽話?」 呟かれて、後頭部の冷たさが消える。そのまま塚本は一歩退いて喉元の刀を避けた。女から殺気は殆ど消えているから。一般人からも解るくらいに、残っているのはただの戸惑い。 「……だったらどんなに良いか」 色素の薄い唇から、彼女は吐息のように囁いた。但し、顔だけはどこまでも青褪めている。これは決して夜闇のせいではないだろう。 彼女の言葉に胸中で同感し、塚本はそろそろと振り返る。 「ふーん…世界、ね…」 そこにあったのは口角を美しく持ち上げ、サングラスの奥でさらりと光る双眸。縞馬柄の帽子が自分の下にあることがやけに印象的だった。そして彼の足元を動く、世界一有名な鼠も…… 「え?」 思わず塚本は目をすがめた。 スリムな体形をした、レトロデザイン。少しばかり鼻の尖り具合が緩やかで、まるで熊のようにさえ見えるそれは、フシギなほど滑らかに動いている。生きていると言われても疑わないであろ…。 …いや、疑う。心の底から疑う。 いくらあのカンパニーであったとしてもこれほどの玩具は造れないはずだ? 「なんでミッキーが……」 「あれ? ミッキーを知ってるんだね?」 縞馬柄の帽子を被った青年が、つと顔を上げた。サングラス越しに目が合って初めて、帽子の影とグラスに隠れたその顔は、実は全て美しかったのだと気付く。色香を残した、涼しい容貌。 薄く笑んで、彼は口を開く。 「珍しいや。こっちに来てから誰もこの有名人を知らないんだからね」 世界が違う。自らが口にした言葉を思い出して、塚本は納得した。そして恐らくこの男とはかなり近い世界関係にあるであろうことにも気付く。ミッキーに施された技術から、時代は大きく違っていると思うが。 「ガイ=フレデリック。僕の名前だ」 ミッキーがその様子を見つめながら楽しげに手を打って足を遊ばせた。楽しそうであることだけは解るが、行動理由はイマイチ解らない。だがミッキーはそのままトコトコ歩き、遂には白い着物の女の元へと辿り着く。 女は周囲を見定め、だが警戒だけは怠らないままに刀を鞘へと戻した。その動作だけで、空気の痛さは軽減される。彼女にはガイがにこやかに声をかけた。 「君の名前は?」 「え?」 弾かれるように、女は顔を上げる。 それを満足そうに見た後、ガイは再度口を開いた。 「おそらく、パーティーの入れ替えだ。僕達は暫く一緒に行動するんだと思うよ」 「入れ替え…」 無意識に呟かれた塚本の言葉に、ガイが軽く頷く。恐らく、彼も塚本と同様に、自分と別れた二人のことを思い出したはずだ。彼は塚本と着物の女、二人に会うまでは別の二人といたはずなのだから。そして塚本もまた、別の二人と。 「何度か入れ替えがあるんじゃないのかな? それで仲良くさせるつもりか憎しみあわせるつもりかは知らないけどね」 仲良くさせたならば、行き着く先は? 憎しみあわせたならば、行き着く先は? 塚本は知っている。後者の先を。憎しみの先の行動を達成すれば。 ――――――あの、ざらついた声…! 「そういうわけだよ」 はっとする。 声は、ガイで。向けられたのは、女だった。 「つまり僕は君達は、ピースなんだ」 「ピース…?」 さらりと呟かれた謎の単語を、だがしかしガイは艶然とした笑みで沈黙する。 これは彼の中だけに通じる言葉なのか。それとも、彼だけに与えられている言葉なのか。周囲へと分けることを、許されない…? 「私は」 不意に、白い女は観念したのか諦めたのか。とにかく重く嘆息して、口を開いた。 涼やかだけれども猛々しい赤瞳が、美しく閃く。 「阿小夜」 それが真白き彼女の名前。 ばたばたと少女の亜麻色をしたマントは翻る。 夜空の空気をその身にまとい、自らの意のままに大気を往くのだ。萌黄色をした癖のあるショートカットが抵抗を受けて大きく歪み、そして振り向いた。 彼女の灰青色の目と合ったのは、硝子越しの大理石色と茶色の目。 ライトアップされた赤い塔の中に、二人は立っていた。そして硝子にびったりと張り付いて彼女を見つめている。その視線が、嬉しそうでもあり興味深そうでもあり。つまり彼女にとって、この手の視線はかなり遠慮したいものであった。 「あー……と」 半眼で、万要は呟く。 とりあえず空中に静止し、奇妙な男二人の観察を開始した。 茶色の目をした一人は、愛嬌のある顔をしていて、何故か満面の笑みで彼女を見ている。…気のせいだろうか。彼の周囲に花が飛んでいるように見えたのは。また、後ろで尻尾のようなものが動いたのは。 大理石色の目をした一人は、男にしてはやけに綺麗な顔をしていて、じっと万要を観察している。とはいってもそこに探るような気配は無く、ただ会話途中の沈黙のように見えた。内面が読み取れない、とも言えるだろうか。……その口が、不意に開く。 「ねぇ! 君は誰!?」 声と同時に硝子がびりびりと振動した。何せ万要にまで届く大音量だ。一瞬、隣の彼が白目を剥く。彼らの間にはあれだけの距離しかないのだ。気が遠くなったのかもしれない。 「てめぇー! この野郎! お花畑が見えたじゃねぇか!」 「知らないよそんなの。不便なサルだね」 「な! 何が不便…って、サルって言うな!」 くぐもったような声で、けれども二人は言い合いをしている。 と。 突然大声の方が隣をシカトして、長い足をすいと上げた。細くしなやかなそれは、一瞬だけ収縮し。そして。 「!!」 白目を剥いていた方が、言葉にならない悲鳴を上げた。隣人の蹴りは、見事に万要との間にあった硝子窓へと叩きつけられたからだ。しかも恐ろしいことに、一度だけで亀裂は入る。硝子は多分、強化硝子であるだろうに。 ブーツのヒールは非常識な強度を持っているらしい。同時に、本人の骨格や筋力も。その証拠に、三度ほど衝撃を叩きつけられただけで、硝子窓はばりばりと細かく砕け散った。そこを綺麗に万要が通れるほど広げた後、彼はにっこりと微笑んだ。痛みなど、どこにも無いらしい。 「どうぞ」 入れ、ということだろう。 ふわり、と万要は距離を詰めた。 そこで彼らのまたも見覚えのない衣装に目が留まる。茶色の目をした金髪の男の服装は、先程まで万要が行動を共にしていた三人と良く似てはいないか? いや。 警戒だけを残して彼女は胸中で首を振る。先に出会った二人。彼らも似たような服装をしていた。ならば、こちらの方がここでは一般的であるとは思えないか? 言うなれば、大理石色をした目と空のように強烈な青い髪を持った男の服の方が……。 「ボクはイッコ。こっちはウッキー」 「ラッキー!!」 思ったが、即興的な漫才に、考える気力を軽減させられる。 二人に近付いて床へ降り立つと、自然と万要からは溜息が漏れた。すると声をかけたのはラッキー。 「お? どうしたんだ、何かあったのか?」 「……君って本当に馬鹿だね。ここに来た以上、何も無い訳無いじゃないか」 万要が渋面になると、イッコは半眼でラッキーを見据えた。二人とも完全に呆れている。 「何だと!? おいらの守備範囲じゃねぇ上に、よりによって人間に優しくしてやってるんだ。優しく、だぜ? これは破格の対応だ! もっと貴重に受け取られてもいいはずだろ! しかもお前なんかより遥かにマトモそうなお花ちゃんだ!」 「ねぇ、君? 名前は?」 「シカトするな!」 どんよりと重く、万要は嘆息した。どうして自分はどこに行っても漫才メンバーにしか当たらないのだろうか。できればもう少し真剣に考えてくれる人材が欲しい。 前やその前のメンバーとああなってしまった以上……。 ふいと思い起こされた人々を完全に追いやって。万要は呟いた。明かすのが名前だけならば、ここではさして障害にはならないだろうと考えて。 「志陰儀の、万要。万要でいい」 「マ……」 「万要ちゃんか! おいらはラッキー。会えて嬉しいぜ」 だが握手しようとしたイッコは、耳の復讐のせいだろうか、ラッキーに吹っ飛ばされる。 ぎゅっと手を握り、ラッキーは最初よりも満面の笑みで万要を見つめた。どこかイッコに対する負の気のような危ないものを感じながらも、万要はそれに応じる。 「そ…そうだな、ラッキー…」 「おう! 幸運の名を冠したイイ男だ!」 万要の頭上へクエスチョンマークが一瞬にして走りこむ。ラッキーの周囲に花と星が舞う。 その時。 「お?」 不意にラッキーは表情と手を止めた。彼のパンツポケットから、ボコボコと小さな揺らぎが聞こえてきたのだ。急いでそれを探り当てて手に取る。瞬間、彼には笑みが広がった。 「なんでここにあるんだ!」 どうやら探していたものだったらしい。灯台下暗しというところか。 赤い液体の入ったガラスの筒。メーターがついていて、ボディの色は青。くっきりと美しい色彩対比を描いたその道具は、何故か気泡を発生させていた。当然、メーターの針も触れている。 万要が覗き込んで尋ねた。 「それは?」 「これは空間探査装置っていって、兎穴に反応……いや、なんでここで反応…………え?」 ふと、彼は自身が突き飛ばした片割れを、遅ればせながら目で追った。 が。 「…………」 「……アレ?」 視線を追ったラッキーの笑顔の残滓が完全に固まる。 ここは照明の灯らない東京タワー。差してくる光は月光と眼下のネオン。ぼうっとしてはいるけれども、状況を把握するのにその光量は十分過ぎるほどある。 イッコは、忽然と姿を消していた。 勿論、もうメーターの針は完全に動きを止めていて。 「またかよ」 乾いたツッコミが、ラッキーの唇からことりと落ちた。 ぼこり、と最後の気泡が浮かんで消える。 耳障りなノイズ。 騒ぎ出すのかはしゃぎ出すのか。 とにもかくにもそれは狂宴。美しき闇夜の更に奥で燻る炎のような、それは予感。 ちりりと痛むのは耳の後ろ。毛羽立っていくのは自らのうなじ。目の神経までもがイレギュラーを訴えて、そうして赤へ辿り着く。 視線が、捉えた。 「あれが東京タワーだね」 寅内司貴は鷹揚とそれを仰ぎ見る。やっと見えてきたそれは、一種懐古的でありながらも先進的だ。昔の日本人が必死に更なる近代化を目指していた時代に建てられた、未来への指標。司貴の時代よりも前の、希望に満ちた赤いシンボル。 「初めて見るよ」 口の中で小さく呟いて、それをしっかりと観察する。するとそれは隣の青年に聞こえていたらしい。少しだけ唇を歪めると、紅はリュックサックを背負い直しながら彼と視線を同じくする。 「へーぇ? 意外やな、おっさんが見たことないなんて」 「んー、あたしはお土産にキーホルダー買ってきたよー」 二人の肩下で浅海がのんびりとはしゃいだ。 司貴は彼女には「いいねぇ」と応えたが、隣の紅にはどこか棘を含ませてけれども微笑む。 「僕は京都在住なんだ。それくらい解ろうね」 その笑みに再三の辛子の予感を感じた紅は、慌てて回想を始めた。 「えぇとそんなことよりも、あの車や! あの車! どう思う?」 「どう思うも何も…まずは万要ちゃんだろう?」 答えながら司貴は腕を組んだ。 ホテルに突き刺さっていたあの自動車。それを調べるために外へ出た万要を追って、三人は降りてきたはずなのだ。だから彼女と一緒に車を調査しようと、そう思っていたら。 車中は何故かもぬけの殻。更に、調べに行ったはずの万要の姿も無く。見事なまでに痕跡は残されておらず、完璧にそこは無人だった。 手がかりがあったとしても頭髪程度だろう。勿論、そんなものが残されていたとしても意味は皆無である。彼ら三人に、今この場での科学技術はないのだから。 「まぁ、誘拐は無いと思う」 大きく頷きながら、紅は口を開いた。 万要には出会った当初、多大な威嚇を受けた記憶がある。彼女には自らの身を護る力があるのだ。そんじょそこらの危険には余裕で対抗できるだろう。 また、誰かの口車に乗せられてついていく……というほど子供でもあるまい。外見は幼くとも、中身は大いに冷静で沈着だ。思考回路も筋道の通ったものであるはず。今までの短い付き合いの中でさえそう思われたのだから、まぁ、外れてはいないだろう。 ならば。 浅海が呟く。 「んー…、一番考えられる可能性は……」 「本人が望んで姿を消した」 「そして車の人物は出て行く万要ちゃんを追っていった、ということだね」 紅の言葉を受け継いで、司貴が相槌を打つ。 万要の失踪は他人の手によるものとは考えられない、というのが結論だ。 ……つまり彼女は、自身の意思であの場を離れた。 そして車の人物は、きっと離れてゆく万要を追ったのだろう。 未だその人物がホテル内にいるとは、考えられない。その人物は彼ら三人とは違って、恐らく「客扱い」されなかったのだから。されていたとしたら、何らかの接触があってしかるべきだ。通常の世界ならば考えられない思考経路ではあるが、この世界ならば、そんな「サービス」があってもおかしくはない。 または、客扱いされなかったが故に、あの忌々しいサービスも受けられなかった。つまりここには何も無いと判断し、さっさとホテルを出た。と仮定する。 すると彼または彼女はそこで出てきた万要の姿を発見し、追った。 車体は後部が完全に廃車と化していた。だから乗り捨てて、徒歩か……その人物に万要に通ずるものがあれば、飛んで。他の車に乗ったのかもしれないが、そこまでは考慮できない。どちらにしても、既に姿を消してしまった万要を追ったのだ。その人物は万要共々、もう捉えられないだろう。 まぁ、車を運転していたのが生命体であった場合の、全ては仮説なのだが。 そう結論付けて、三人はとにかく目的地を目指した。 万要も、三人も気にしていた赤い塔。東京タワー。彼女もきっと、そこへ向かったはずだ。そして、追尾者もまた。 「もしかして、皆東京タワーに集合するのかもね…」 不意に、ぽつりと浅海が呟く。 その余りにも独り言過ぎる予測に、紅と司貴は振り向いた。 「有り得るわ……」 「まずは顔合わせから、ってことかい? 楽しそうじゃないか。何事も一度集まってからルール説明を聞き、それからゲーム開始だからね☆」 「…おっさん、今その言葉は洒落にならん」 げっそりと紅は項垂れる。「集まる前にルール説明は既に成された」という例外に現状が当てはまっているものの、その他の予想は楽しくない。ゲーム開始と彼は言うが、この場合の「ゲーム」は司貴自身も「可愛くない」と大絶賛したほど、最悪であると判断できる代物なのだ。 ゲームが始まってまだ少しではあるが、その露悪趣味には閉口させられる。 「んー…、それとも……もうゲームは始まってるから、イベントが起こるのかもよ?」 上に位置する顔二つを仰ぎ見て、浅海は口を開いた。心なしか、表情は硬い。 「アカン……信憑性大アリや…」 彼女の言葉に、ますます紅は頭を抱え、だが司貴はにっこりと微笑んだ。そして彼女の頭を撫でる。硬い表情を、解きほぐすように。 「そうだね、あるのかもしれないけど……ゲームクリアには近付くよ」 「……うん」 幾らか、浅海の表情は緩められた。だが、まだそこにしこりは残っている。 まるで彼女一人だけが何かを見てしまったように。 彼女の頭から手を離し、意識の片隅で司貴はぽつりと自問した。 ならば、何を? 「あんた……究極的にポジティブやな」 「君は究極的にネガティブだね☆」 だが彼はさらりと自己を取り戻し、銀髪の青年へと笑いかける。気を張り巡らせておくことは必要である。しかし、それにばかり気を取られていても仕方なかろう。するならば、それと解らないよう動くべきだ。 幸い、青年の相手をすることはカモフラージュに役立っている。 「まぁ……行くしかない、ってことだろうね」 「街の住人が行け、って言うんやからな」 「だから君はゲームのし過ぎ」 びしり、と突っ込む。浅海はくたりとした柔かい笑顔を取り戻していた。紅は几帳面に反論する。 「ゲーム」は実に忌々しい。 だが、ここに引きずり込まれたメンバーまでをも、そう思うのは間違いだ。彼ら二人と、消えた万要。この三人以外に対しても、そう思うのは間違いだ。 脳裏に揺らめくのは支給された武器。 フィールドに頂点があるのならば、それはどんな思考をもってして争いを起こさせようとしているのか。起こったのならば、連鎖的に発生する事象とは? 最後のブロックが崩れていく、その落下地点には? ただ、解るのは。 「オッサン、いい加減人の話聞けやー!!」 紅が激昂した。 くるりと振り向き、司貴は満面の笑みで一瞬だけ相手をしてやる。 手には最早お決まりとなった黄色いチューブ。 ――――――ただ解るのは、これはまだ、最初のイベントでしかないということ。 それだけだ。 摂理。道理。論理。定理。理性。規則。そして秩序。 自身を構成するものを十分に意識すると、ICCOはいつの間にか閉じられていた目を大きく開けた。 意識させたのは、どこからか飛んでくる電波。補足するのは右耳のアンテナピアス。 『……理』 出所は遠すぎてわからない。近すぎてわからない。弱すぎてわからない。強すぎてわからない。 瞳孔のカメラが収縮を開始して、弱い光源の中でも周囲を十分に理解する。 月。 自分が知っているものよりもかなり小さなそれは、この大都市を美しく照らしていた。 もしかしたらこの都市の光が月を照らしているのかも……などという思考回路は元より持ち合わせていない。月は太陽の光を反射して見えるものであり、兎などは存在しないのだ。あの衛星は、無機だから。 「真也はどこに行ったのかな?」 自身の言葉を全方位に向けて発信する。音という方法ではなく、いつもの通りにアンテナを使って、電波で。「誰か」は応えるだろうか。 『カエリタイ?』 だが帰ってきたのは、イッコの言葉を完全に無視した甘い誘い。どことなく含みを持っていると感じられたのは、自身と同じくノイズで合成された声だからか。 「帰りたいよ」 それには当然の如く、強く返す。 「ボクには帰ってやるべきことがある。データを提出しないと、怒られちゃうからね」 「声」が返ってくること、どこかから届くこと。それは少しも不思議だと思わない。これが人の手による幻か、動物による幻か、もっと現実的に機械による幻かなど、イッコにしてみればどうでも良いことだ。だって出入り口に位置する受付嬢が、別に人間である必要もないだろう? イッコにとって重要なのは、ここからの脱出である。扉を封鎖する受付嬢の破壊である。 この全てが幻ではなく、現実であるのならば尚更に。 『ナラバ』 空気の波紋は、びりびりとアンテナに辿り着く。 『コ・ロ・セ』 そうすれば、帰れる? しかし「声」は答えない。是であるから答えないのか、非であるから答えないのか。考えながら再び上下の長い睫毛を交差させると、月の大きさがミリメートル単位で変化していることに気付く。先程と比べて、位置が変わったのだ。つまり。 つまり先程から、イッコは遥か上空に投げ出されていた。 「重力装置は使っちゃいけないんだね」 休息に落下を始めた「体」とも言うフレームの中で、イッコは事態を一瞬で処理させる。 あのとき。 ラッキーに突き飛ばされた直後、いつものようにイッコは自身に取り付けられた重力制御装置を作動させて体勢を戻そうとした。それだけだったのだ。なのに装置が動いた瞬間、何故かイッコは空に放られていた。 恐らく、重力を一気に変化させたことに対して周囲の空間が歪み、世界のブレが発生したのだと思う。 と、報告書に書ける程度には、理解した。 だが問題はこの後だ。 まっすぐ下に降りるためには、どうすべきか。空間を移動してはいけない。しかし重力制御装置が使えないのならば、如何にして落下の衝撃を緩衝させよう。 直接落下はフレームを損傷させる。これは見た目、修理のための費用、そして後の行動に支障が出る。止めた方が良い。幾らイッコの足が強靭であっても、高度何千メートルからの落下による衝撃に耐えられる可能性は限りなく低いからだ。予測ではない。これは計算に基づく、事実になり得る可能性である。 また、落下は直線的に垂直であるわけだから、単独での軌道変更は効かない。 ならば、どうするか。 答は一つだ。 イッコはくるりと体を半回転させて頭を下にし、ようやく見えてきたビルを意識する。周囲のまばゆいネオンが、視界を不必要なほど助けた。 腰のホルダーからするりと自らの端末を抜き出して構え、レーザー銃を最大出力でビルに向けて発射。莫大な光と威力は、見事なほど鮮やかに鋭くワンフロアを撃ち抜いた。途端、真昼のような閃光がその一点にのみ現れる。光は一度だけ膨張し、そしてすぐに集束した。 イッコの目に掛かっていた光量制限のための青いスモークガラスが回収されると同時に、大型建造物は突然はっとしたように崩壊する。 轟音と爆風を立てながら基礎は失われ、窓ガラスをぐしゃぐしゃと潰していった。点いていた照明は瞬時にして掻き消えて、闇の向こうへと姿を消す。風に煽られた壁の片鱗がイッコへと向かってくるが、それは自分も吹き飛ばされながら、はためくロングコートの裾で難なく叩き落とした。 爆風のおかげで、潰したビルとは反対側のビルへイッコは辿り着く。そのまま側面へとブーツのヒールを設置。それから夢のように鮮やかに、ヒューマノイドは滑り降りた。建造物のの壁面に対して垂直にも似た、だが急角度で。 ……こつりとそのヒールがアスファルトへ着地したと同時に、ビルは完全に崩れ去った。轟々とどこにあったのか砂煙を吐き上げて、閑静な漆黒のフィールドへと音が猛襲する。視界は漆黒の夜闇の中完全に、霧に似た埃で白く染まった。 それらを無表情、無言のままイッコは裾で振り払う。何の感情も、そこには有り得なかった。 「そうか。そういえばルール説明で言ってたじゃないか」 くるりと振り向いて、熱感知で察知した背後の人物を確認する。未だ吹き荒れる暴風が、髪とコートの裾をねだるように弄んだ。 現れたのは突然の災害に目を見開いて驚愕している、黒髪の少女。 イッコより、丁度頭一つ分背が違う。彼女の膝が震えているのは、目に見えてわかる疲労のせいか。それとも状況への恐怖か。髪が風でぐしゃぐしゃにされるのさえも、知覚できていない様子だった。ぴくりとも動かず、ただ凍ってイッコを見つめている。 「『一つで良い他を消せば良いさすれば自身は外へ』」 イッコはぽつりと確認するように呟いた。少女にも、それは聞こえただろう。彼女の体が強張るのが、人型機械には充分に判断できたから。 「突然、御免ね」 言って、どこまでも無邪気に微笑みかける。一瞬気を抜かれたようだったが、少女はどこか無機質なそれに恐れを抱いたようだった。ICCOという存在の無機質さではなく、明らかに存在する、殺意という無機質さに。 「ボク、本当に帰らなくちゃいけないんだ。だから」 長い白銀の足が、するりと半歩下がって構える。ばさりと髪をかき上げると、そこに現れるのは大理石色をした瞳。美しいだけの、人に似たパーツが現れて。それが、彼女を強く捉えた。 「君を殺す」 浮かぶのは、究極的にこの場にそぐわない笑顔。 人間ではない、ただのロボットの表情だった。 「どういうことだ?」 小さな顔の小さな眉を怪訝に寄せて、万要はすらりと立ち上がる。 イッコが突き飛ばされた場所へ歩を進め、足を止めた。傍らにはラッキーが完全に諦めた様子であぐらをかく。彼に、万要は顔を向けないまま……床を凝視して尋ねかけた。 「人が消えるなど…何が起こった? あの者は、術を扱うわけではあるまい。いや…これは法術ですらない」 「……まぁ、ロボットだって言ってたから術は使えねーだろうけど…。多分、兎穴だ」 ばさりと亜麻色の、自身よりも巨大なマントを翻して彼女は振り返る。遅れて、萌黄色の短髪と裾のフリンジが宙を彩った。説明を要求する視線だ。 この場所は、やけに声がこもると。そんなことをどこかで考えながら、ラッキーは口を開く。 「空間の歪みだよ。そこを通ると、別の場所に出る。瞬間移動って言えば解るか?」 「…………」 実際はどうだか知らないが、万要の沈黙を彼は肯定と受け取る。そして視線を自身の手に落とした。 「それの発生を、さっきこの装置が捉えたんだ」 再びラッキーは手の平に空間探査装置を現す。今現在そのアイテムは完全に、メーターも水面も息を潜めていた。恐らく、塚本が掻き消えた瞬間にも実は作動していたのだろうと思う。 万要が青味掛かった灰色の、神秘的な色をした目で見上げてくる。彼女はラッキーの言葉尻を捉えていた。 「……また、といった理由は?」 立て続けに起こった消失原因は何だ? ラッキーはぐしゃりと自らの髪を握り潰す。思案に、頭が疲れてきたのかもしれない。 「さっき、もう一人ぱっとしねぇ男がいたんだけどさ。そいつも突然消えちまった」 「他に消えた者は?」 「おいらがここに来て初めて会ったのがその二人だからな。他は何も知らねぇよ」 軽く嘆息して、肩をすくめる。 万要は「そうか」と頷いて、思考の海へ落ちていく。 そのすぐ脇を、別の思考が通り過ぎた。そして彼女に引っ掻き傷をつけて、存在を確信させる。通り過ぎはしても、決して幻ではないという、証拠をつけて。 ……ラッキーは、敵ではないのだろうか。 服装の面を考慮したが、もしかしたらそんなことなど、関係は無いのかもしれない。 自分一人だけがここに放り込まれて。あとは皆、同じ枠に囲まれる。つまりは彼女の敵という…。 敵。 ……否。胸中で頭を振る。あの人が言っていたではないか。「この世界には敵と味方がいる」と。 ならばどこかに味方はいる。それは彼女に道を指し示した占術師か。それとも敵の存在を示唆した黒髪の男か。 二人とも黒髪ではある。だがこれが味方の証拠であるとは言えない。現に、敵であったと判断された……するしかなかった三人組の一人は、黒髪であったのだ。 つまり何一つ。何一つとして、見分ける方法など、皆無。 立ち居振る舞いも気性も。服装も容姿も。性別も年齢も。言葉も思考も。 あまつさえこの世界すら、何も解らない。理解できない。ここは。 「……ここは、何処なのだ?」 悲壮な想いが満ちてきて。溜まりこんだ空気を搾り出すように、万要は呟いた。 ラッキーは応えない。 聞こえなかったのかもしれない。このフロアは、広いくせにどこかくぐもっているから。 ぽつりぽつりと言葉が落ちて、ぱたぱたと吐息は硬質な床を埋めていく。 ひゅうひゅうとした空気が抜ける、イッコが置土産に開けていった填め込み式の硝子窓だけが気を紛らわさせた。街は相変わらず目に痛く、月光の光は負けている。星の光などどこにも無く、ただ白い雲がうっすらと漂っている様子が見えるだけ。そんな空は、美しくない。 「展望台、だってよ」 不意に、ラッキーがぽつりと呟いて立ち上がる。瞬時に彼は万要の目線を飛び越えた。 「え?」 「ここは、展望台。だってさ。何て言ってたっけなー……野郎の名前は覚えてねぇんだよ。とにかく、そいつが言ってたんだ」 初めに消えたという人物のことだろう。万要は頷いて、先を促した。 「ならば、これからどこへ行こうと思う?」 「特別展望台、かな」 すたすたと壁際まで歩き、ラッキーはそこに貼り付けてある看板を指差す。 「まだ上があるのか」 その看板の先にはチケットカウンターがあり、すぐ左隣には階段。それを更に行くと動く階段……知っている者ならば、容易にエスカレーターであると判別したモノがあった。 ラッキーが一番に飛び乗る。浮遊と共に後から続き、万要は彼とほぼ同時に降り立った。頭上を装飾するのは、奇妙に音が跳ね返りそうな、銀色をした鉄棒のオブジェ群。口を開いたまま見上げているラッキーとは対照的に、万要は自分の足元や周囲を凝視していた。 ふと、間延びした口調で話し、深い青をした髪の少女の言葉を思い出す。動力源は、人による法術ではなく、「電気」なのだと彼女は言っていた。 「これも…『デンキ』で動いているのか?」 「ん? なんだ?」 くるりとラッキーが振り向いた。だが万要は静かに首を振る。 「……いや、何でもない」 「ふーん? もうすぐ着くみたいだぜ」 だが上昇はここで終わりではなかった。次は動かない普通の階段があり、それを進むととうとう一つの扉に行き着いた。 美しく装飾された、金の扉。左側には操作板が付き、扉の上部には緑色をした長六角形の宝石のようなものが七つ付いていた。似たようなものを、ラッキーは知っている。さっさと操作して、扉の向こうにある「内部の箱」を呼び寄せた。 「…これは、何だ?」 「ま、見てれば解るさ」 軽い音と共に、扉はすらりと開く。 中へ乗り込んで万要を呼び、最上階へのボタンを押した。と、扉は僅かな音のみで閉じていく。 「自動で上の階に行く箱。エレベーターだ」 「便利だな」 軽いモーター音。耳が詰まりそうな、重力の流れ。 ラッキーは壁にもたれて。万要は中央に佇んで。箱の行く先を、目で追っている。 口を開いたのは、ラッキーだった。 「万要ちゃんは、ここで今まで誰かに会ったのか?」 帰ってきた彼女の視線に、ラッキーはずるりと背中を落ち窪ませた。どことなく、哀しいものがあって思わず目を背けそうになったのだ。だがそれは、彼女の意思で握り潰される。 「そうだな……お前達以外に全部で六人か」 「それってどういう奴ら? お花ちゃんはいる?」 内心で呆れつつも、万要は今まで遭遇した奇妙なメンバーを挙げていった。お花ちゃんは、確かにいるのだから。 「一人目は、熊に似た動く人形を持った…奇妙な男だ。ガイ=フレデリック」 「……え? 奇妙?」 「良く解らない」 あの彼を、美しい意外にどう形容していいのか。思考の後に眉をしかめ、とりあえず説明は省いて捨てた。 「二人目は、肩まである黒髪の少女だ。占術師と言っていた。名はルエル」 「え! お花ちゃん!?」 いちいち対応していては埒があかない。彼女はさっさと説明を続ける。 「それから、どことなく喋り方が異質で…長い銀髪、長身の男。紅。一人だけ他とは雰囲気の違った衣服を着た、黒い短髪の司貴という…同じく長身の男。この二人はどこか敵対していたな…」 「野郎にゃ興味無いね」 「それから、深く青い髪をした、湯之倉浅海という少女。のんびりしていた」 「いいね! お花ちゃんが二人も!」 「最後に」 エレベーターの階数表示ランプは刻々と変化している。美しい色をした光は、けれどもどこか不気味に思えた。最上階が、目的地が、すぐそこにまで来ている。 万要は息を吸った。 「まほろば」 チン、と軽快にエレベーターが到着を示す。同時に僅かな重圧が空間に掛かった。 「……いや、会ったのは早い時期だな。最後の三人に会う前だ」 がこ。間の抜けた音と共に扉は両開きで通路を提示し、その先には美しく白い広間を存在させた。ここが遥か上空にあったはずの、闇夜に浮かぶホール。 「まほろば?」 ラッキーは首を傾げた。自分よりも先に足を踏み出した万要に続き、床を踏みしめる。 「まほろば」とは主に「素晴らしき場所」を示す言葉である。この場合、人名のように説明するのはおかしくないか? 何か他に、または暗に意味があるのだろうか? 「実の名は明かせない。他人には『まほろば』と告げろ、と言われた。…わたしの知人だ」 うっすらと、微笑む。誇らしげに。だが、充分に哀しみは彼女を覆っていた。 この食い違いは、何故? ――――――フロアは、薄暗かった。 照明は遥か下方を照らしている。月の光は弱く、星は存在しないに等しい。 万要は歩み出た。ラッキーはそれをかなり遅れて追う。 ここは特別展望台。これ以上は無い、最上の場所。 白い室内は只唯気味が悪く、美しい。 赤い塔の最上階は、まさにこの場所だった。 かたかたかたと、周囲をミッキーが動いている。 もう何度もその様子は全員が見ていた。観察しすぎていて、一つのレポートでも作れるほどには。もっとも、内部構造は永遠の謎であろうが。 その、恐らく作者が、先程から何かを楽しそうに製作開始している。 彼はこの薄暗い中で硝子窓へと近寄り、月を光源にとって緻密な作業を行っているのだ。一体何が出来上がるのか。待っていた二人は足元を動く人形がもう一つ増えることを、一度は予測した。 だが当の大きさはその五分の一ほどでしかない。せいぜいが、青年の手の平に収まってしまうほどの。 青年が作業を始めてしまうと、残るのは沈黙だけだ。阿小夜は余り自分から口は開かないし、塚本も易々と知り合ったばかりの人間と会話を交わせるほど人見知りしない方ではない。仕方なく、残った二人は周囲を歩いて回ることになる。 眼下はいつまでも明るいネオン。都心に住んでいたら深夜でもこんなに迷惑なのだなと実感できる一瞬だ。ふと見た看板には、現在フロアの標識。周囲に人は……誰もいない。 自然、嘆息が零れ落ちた。 「そうだ、お嬢さん」 不意に、ガイの声が響く。このくぐもったホールで。 だが呼ばれたであろう本人の阿小夜は返答しない。 「……アコヤ?」 くるり。ガイが振り向くと。 「わ…私は、女ではないと言っているだろう…!」 彼を睨みつけながらも、全てにおいて動揺を隠せない様子をした女がいた。 「あはは! 可愛いねぇ」 「な…っ!」 今度こそ完全に、阿小夜は赤面する。 「ちょっとこっちに来てくれる?」 呼んだ彼女の動揺を楽しそうに目を薄めながら見て、ガイは塚本にも振り向いた。一変して、表情がごっそりと削げ落ちている。平坦な顔筋と、興味の無さそうな視線。 「ね、そこのお前」 「は?」 思わず、塚本は目を見開く。ガイが阿小夜をからかっているのは傍目にも解るが、この態度の違いは一体何なんだ? 「その看板、何て書いてあった?」 「…読めないのか?」 「遠くて、ね」 彼に気付かれないよう密かに溜息を吐き、先程目にした案内板を読み上げる。 ガイが見えないのは遠さと、それに比例する光量の減少のせいだろう。だってこれは、こんなにも大きくはっきりと記された文字なのだから。 「特別展望台」 周囲に、人はいない。来る気配も無い。 唯一の道であるエレベーターは、ぴくりとも動いていなかった。 とどのつまり、モーター音やランプの光さえ。 監視役としての勤めを果たすため、「目玉」は空中へと高く浮遊した。 それが視界に収めているのは二人の人物。否、片方は人間ではないが。ともかく、彼女達は結構な距離をおいて、相対していた。 傍らには、崩壊したビル。不思議なことに火災は発生していない。ただもうもうと白煙と粉塵を巻き上げ、落下による摩擦で生じた熱波が周囲に渦巻いているだけだ。その熱風を顔に受け、一人は美しく笑み、もう一人は恐怖と躊躇で表情を強張らせている。 その、一人。人間である方のルエルが震える唇をさえずらせた。 「……どうして」 至極簡潔に完結した質問。それに、人間ではない方のイッコが答える。 「ボクが帰るため」 半歩退いて背筋を伸ばした、突撃の構えは崩さないまま。 「ボクはあの場所で必要とされるために造られた。こんな所じゃ、所謂アイデンティティが潰されちゃうよ」 轟々と、暑苦しい暴風が吹き付ける。ルエルは尚も荒らされる髪を、確かに感じていた。けれども構ってはいられない。気を一瞬でも逸らした瞬間、あのビルと同じように自分がなるであろうことを、「直感」していたから。 「私だって、帰りたいよ」 だが、まだ直感しただけ。それは「未来」の予想ではなく、「過去」からの学習だ。占いが出来ない人間にでもできる予測。だから、自分が死ぬと決まったわけではない。そう言い聞かせて呼吸と鼓動を整える。整えようとする。 「じゃあ、勝負だね。ボクは君を、君はボクを殺せば良い」 イッコが改めて微笑んだ瞬間、びりりとした何かがルエルのうなじに走った。瞬間、反射的に彼女は背に存在する羽を起動させる。美しい純白の翼は、明らかに彼女を動かせるような大きさではなかったが、それは瞬時に役目を開始した。 つまり、夜空へと一気に上昇したのだ。 それと同時に、今まで彼女がいた場所にはイッコが一瞬で走り込み、長い足で空間を切り裂いている。剛風が、上空の彼女を煽るほどに発生。ゆらめく自身の体を何とかコントロールし、ルエルはそのまま上昇した。上へ来てしまえば、自分と違って羽の無いイッコには追撃できないだろう。 「な…何っ!? あのスピード!」 叫ぶや否や、イッコがぐるりと上空を見上げて彼女を補足した。瞳孔が超高速で収縮するその瞬間、ルエルはイッコの正体に気付く。 「ロボット!」 ロボットという存在が目の前にいる。個人的には最高に感動できる出会いだが、今は絶対にお相手したくない。彼女は更に翼を展開させた。 と。 「うん」 ルエルの言葉に笑顔で頷いたイッコは、突然彼女を見上げたまましっかりと膝を曲げた。 「まさか」 震える声で呟いた彼女の勘は、よく当たる。 ロボットはそのまま僅かな反動を使い、真っ直ぐに飛び上がったのだ。既にビルの高さにまで上昇していたルエルの元にまで。 「嘘ぉーっ!!」 半泣きになりながらルエルは反射的に斜めに急降下する。彼女の耳をかすめるように、イッコの足が現れた。体を捻って、大きな弧を描く。捕まってしまったら、間違いなくミンチだろう。 最大のスピードを出してとにかく逃げろ。占うまでもなく、やるべきことは決まっていた。 ビルの高さにまで飛び上がってもそのまま着地する事はできないらしい。イッコは壁を滑り降りてからルエルを追跡してきた。逃げるならば今のうちだ。彼女の翼は、どう考えても当初相対していた距離を一秒掛からずに縮める事はできない。だがイッコの脚ならば出来る。距離を稼ぐなら、振り切るならば今のうちだ。 「信じらんない…どうして私が追いかけられるのー…!」 「別に君じゃなくても良いんだけどね!」 「あああー! 運勢悪過ぎるよぉー!」 満面笑顔であろうイッコの声は、もう近付いていた。振り向かなくとも、解る。 残り時間はどれだけあるだろう。頭を高速回転させながら、ルエルは考えた。この現状を打開する方法を。打破する方法を。論理的なロボットを、確実に納得させる方法を。…ルエルを殺すのは簡単に決めたようだったから、もしかしたら決定打があれば、簡単に諦めてくれるかもしれない。 刹那、背筋に嫌なものを感じた。 反射的に彼女は再び上空へ跳躍する。思った通り、今まで彼女の存在していた道路は一瞬にして抉れ、消し炭と化していた。それをルエルは鳥肌を立てて虚空で観察する。今度の武器は、銃のようなものだ。 「……これだったら痛くないのに」 訳の解らないことを呟いている。おそらくは一瞬で死ねるとかそういった類の言葉だろう。痛みがあろうが無かろうが、この年で死ぬのなんて全身全霊をかけてお断りさせて頂きたい。 強張ったルエルの顔を見て、にぱっとイッコは無邪気に微笑む。その笑顔が、また恐ろしい。 「まままま待って!」 思わずルエルは、両手を掲げた。すると、生真面目にもイッコは待ってくれる。 「何?」 ならば、説得だ。それしか方法は無い。 「私を殺す以外に、ここから帰れる方法はあるはずだよ!」 「別の人を殺す、ってことだね」 「違ぁーう!」 ハートマークでもつきそうな口調に、ルエルは思わず天を仰いだ。そしてあのゲーム開始時のルール説明を、そのまま口に出す。吐き気がしそうな声と言葉と内容だったけれども、今は最後の砦だ。…悔しいことに。 「『ジグソーパズルだ揃うしかない』、って言ってたじゃないっ」 「でもそんな暇は無いんだ」 イッコが首を振ると、美しい髪が宙にばらける。するとロボットは、浮いた。 気付いた瞬間には脚が目の前に迫っていて。急いでルエルは体を屈めながら自由落下を開始させる。彼女の頭があった場所を綺麗に脚が薙いでいるのと同時に、ルエルの体は廃屋以上に無残な形にされたビルの傍らへと落下していった。そしてそのまま影へ姿を潜める。幸いにも自分の髪は黒だ。暗黒の夜闇の中で、オマケに自分のように熱を有しているこの残骸の近くならば、身を隠せるかもしれない。 落下の瞬間に、そんなことを思った。 「きゃっ!」 反射的に飛び出した悲鳴は、見逃して欲しい。 …つまり、くるりとイッコが振り向いた時、そこにルエルの姿は無かった。急な落下を防ぐためにとりあえず信号機の上へ着地して周囲を解析する。赤外線とサーモグラフィーを使った暗視。熱を持っているのは、自分が崩壊させたビルだけだった。または、自分がいつの間にか破壊した街灯群。 「……あれ」 そういえば一体どこで破壊したのだろうと、イッコは首を捻る。思えば、自分が今降り立っている信号機も、いつの間にか光を失っていた。周囲のビルも街灯もネオンも。イッコを中心としたある一帯だけは、完全に闇に沈黙している。原因は、勿論自分なのだろう。 記憶には無いが。 「ねぇ、君ー! どこ行ったのー! えーと……お花ちゃーん?」 彼女の名前を知らなかったので、ラッキーが使っていた、女性一般に対する言葉を思い出す。が、返答が無いことを知るとやっぱり駄目かと諦めた。原因は全てラッキーに押し付けて。 その時、すいとイッコの背後を一つの球体が横切る。 てかてかと光っているビリヤード程度の大きさ。奇妙で一種グロテスクな、そう、目玉。 「しつこいな…」 反応はやはり早かった。以前そうしたように、今回もイッコは目玉を叩き潰したのだ。但し拳や銃ではなく、簡単な回し蹴りで。そのスピードと破壊力により、球体はただの残骸に成り果てる。 ばらばらと部品や破片が、美しく地上へと降り注いだ。 「…ひっどーい!! 何するの!」 すると、その様子を見ていたルエルが飛び出してくる。いとも、簡単に。 「あ、見っけ」 「何で壊しちゃったのよー!」 一瞬、どうして彼女が怒っているのかイッコには理解できなかった。涙目で、ぷりぷりと怒っているその様子が、どうしてあの球体を壊した自分に向けられているのか。通らなかったからだ。 彼女は尚も恨みがましくイッコを見上げた。 「折角のお友達だったのにー!」 拳を握り締めて、彼女は訴える。けれども、それはどこか玩具を壊された、癇癪持ちの子供のようで? イッコはすっと目を細めた。口角は、上がったままであるが。 「お友達、ってそういう感覚なの?」 「……え?」 その指摘。急速に、ルエルの中の何かが冷えた。 「ボクは友達が死んだらその程度の怒りじゃないと思うな」 生暖かいはずの強風が、一瞬だけ凍るような微風に変わる。 「人間は泣くかな? それとも表情を無くすかな?」 信号機の上に立つのは、ロボット。アスファルトの路面に佇む少女は、人間。隔たりは、果たして空間と心身の構成だけか? 「そ…れは…」 「でもあれは壊しておくべきものだよ」 イッコは髪をかき上げた。涼しい双眸が、少女を真っ直ぐに捉える。瞳孔の収縮は、もう無かった。 「あの目玉はデータを採取して、どこかに送信してる。堂々としたスパイみたいなもんだね」 「なんでそれが解るの?」 ルエルの問いを耳に入れながら、軽やかにアスファルトへロボットは降り立つ。途端に縮まる距離。あるのは一歩の長さと、頭一つ分の差だけだ。 「ボクは、通信系ロボットだから。あれの飛ばしていた電波は、ボクも受信できるんだ」 そして、微笑み。 つられてルエルも思わず微笑みかける……が。 「キャーッ!!」 絶叫して、彼女は後ろへ倒れこんだ。その残像へ、イッコの脚が蹴り込まれる。 「ま、まだなのー?」 「うん。だって君を殺さなくちゃ、ボクは出られないから」 嬉々として答えて欲しくない。 「その辺は何とか諦めようよー…!」 翼を再起動させて、体勢を整える。目前に迫るロボットは、微動だにしないままだ。なのにそれは次の動きへ繋がる事を連想させる。通信系ロボットだなんて、絶対嘘だ。 「だって」 ルエルは息を吸い込んだ。イッコは脚を一度引く。そうしたら? 翼は間に合うだろうか。 「他にも手段はあるかもしれないじゃないっ!」 風が、彼女の首筋を狙う。次の言葉は、自然と絶叫になった。 「そしたら私が必要でしょー!?」 「え?」 ぶわり、と彼女の髪が掻き混ぜられる。 ぐしゃぐしゃになった黒髪は、無残にもルエルの顔を全て覆った。視界は真っ黒で何も見えない。ここが遥か彼方のお空じゃないことだけを、願おう。 「どういう意味?」 不意にその漆黒が取り除かれた。現れたのは指を抜いた手袋と、そこから覗く大理石色の瞳。スカイブルーの髪。人ではないもの。 ロボットは丁寧にルエルの髪を直すと、彼女の目を覗き込んだ。殺意は、今の所存在していない。 「私は占い師」 ルエルはゆっくりと息を吐きながら呟いた。 「言ったことは殆ど当たるよ。あなたが計算で予測できないことは、私ができるの。ね、必要でしょっ?」 だが最後は殆ど畳み掛けるようだったかもしれない。逃げてばかりだったイッコに掴みかかりそうになるくらい、彼女は自分を売りに出した。ここで買ってもらわなくては、死ぬだけだ。 イッコが、目を瞬かせる。ルエルは更に乗り出した。 「必要でしょーっ!?」 「そうかも」 突如帰ってきたのは、あっけないほどの終焉。 「うん、必要だね」 こっくりと頷いてイッコはその事実をあっさり認めた。ルエルは思わず一歩後退し、安堵に胸を撫で下ろす。心なしか、今頃になって眩暈が起こってきた。 が。 話は蒸し返される。 「でもそれは別の方法を探す時であって…」 「探すのっ! 絶対探すの! 誰か殺したりしちゃ駄目だからねっ!」 「…………」 ルエルの奇妙な気迫に押される形になりながら、イッコは首を傾げながら頷いた。ロボットの頭の中では、現在恐ろしいスピードで計算が繰り返されていることだろう。そこでエラーが出ないことを、ルエルは切に願った。 「それから二つ目の方法でも、私が皆の居場所を占えるかもしれないじゃないっ!」 こじつけではないが、それに似たものを感じる。危機迫った今のルエルは、まさに鬼気迫っていた。 「そうだね」 これには心から頷く。イッコの調査範囲は全世界に及ばない。ましてここは、歪みの発生する、一種宇宙空間にも似た世界なのだ。人間の第六感というどこまでも未知数のものに頼ることは、イッコの世界でも多々行われていて。だからここでそれを導入することは悪くない。逆に、道が開けるかもしれない。 そう処理して、イッコは頷いたのだ。 「じゃあ、どこに行けば良い?」 「あのね……」 一つ呼吸して、ルエルは顔を上げた。そして真っ直ぐに指を差す。 「あの塔」 存在するのは赤いオブジェ。 ……だったはずだが、それは忽然として姿を消していた。 「え」 指を差したまま、ルエルは完全に停止する。反対にイッコは合点がいったように頷いた。 ビルを破壊した衝撃で、空間の完全な保持が難しくなったか? 「そうか、電気が消えたんじゃなくて、電気がついてない所に来たんだ。やっぱりボクは壊してなかった」 「それってどういうことーっ!?」 半泣きのルエルを撫でてやりながら、イッコは結論に辿り着く。だがあくまでもスタートを仮定と位置づけた上での、お粗末な結論だ。軽い口調がそれを雄弁に物語っている。 「ボクか君が嫌われてるってことかな?」 あの、赤い塔に。 または――――――。 「な…何や、これは……」 突如現れた惨状に、紅は喘いだ。 彼の後ろからは浅海が呼吸を引き攣らせて目を見張り、司貴はゆったりと歩を進めていく。 「凄いねぇ…。ビルがぐしゃぐしゃで、道路は抉れてるよ」 煌々と輝く街灯や、他のビルから漏れ出る光。それに街のネオン。それらに照らし出されるのは、明らかに多大な破壊行為が行われた痕だった。炭化したアスファルトは隆起し、無事な街灯を残してあとは薙ぎ倒されている。建っているビルであっても、壁面には謎の轍が刻み込まれていた。 一体何が、ここを通り過ぎたというのか。 「随分身軽な工作者さんだね。あんな高い所まで痕がついてるよ。……何かを引きずったようだ」 「それに…見てみぃ。街灯が吹っ飛んでる。人間業や無い」 光量が多すぎるため、容易に状況は知れた。 殺戮の後が無いだけ良かったが、反面、生理的な嫌悪感と戦慄を感じる。何のためにこれをしでかしたのかという、理由が全く見えてこないからだ。 「あ…」 不意に、浅海が上空を仰いだ。そして落ちてきた物を受け止めるため、両手の平を揃えて水をすくうように突き出す。 そこには。 「これ…!」 見覚えのある部品。色。素材。 受け止めてから、一瞬後。反射的に彼女は「それ」を投げ出した。途端に全てはばらばらと道路へ散らばっていく。乾いた音を立てて、艶かしく光を反射して。 「……目玉」 覗きこんだ紅が、呻くように呟く。 「それの、破壊されたものだね」 司貴が淡白に補足した。 どうしてこれが上空から降ってくるのか。 「ここで…一体何が起こったんや……」 だが、それは三人とも予測できない。 紅と司貴が周囲を見回す間で、浅海は青褪めた顔のまま静かに先を見遣った。 そこには毒々しい赤色をした東京タワーがそびえ建っている。 煌々と。ただ、確かに。 |
written by 梢凪 2003年08月15日公開 |