第十三話 |
思考停止から、数秒。 「…お、おやじー?」 意外にも、一番最初に衝撃を抜け出したのは、浅海だった。 「なんだ、お前の父上か」 危険を察知して、瞬間的に思考を目覚めさせた万要は、妙な父親もいたものだと思いつつ、再びうとうとと司貴の肩に頬を乗せる。 「えぇ〜、これあたしのお父さんなの〜?や、やだなぁー…」 衝撃の第一波からは脱したものの、完全にパニック状態に陥っている浅海は、ぎょっとして口を引きつらせ、紅の背中にこそっと隠れた。 「んなわけあるかい…」 紅は眼前に浮遊する物体を唖然と見つめつつも、哀しいかな、何の利益もない突っ込み性分に従って、覇気のない裏拳をひょろーっとかました。 紅は動揺に青い目を泳がせ、ふと隣に立つ司貴を見上げた。 「…なんやおっさん、驚きのあまりに声も出ないか」 一番最初に、この状況を笑い飛ばしそうな司貴の反応がないので、紅は訝しいやら、ちょびっと優越感があるやら、やっぱり訝しいやらな、複雑怪奇な苦笑を浮かべた。 当の司貴は、じっと目の前の物体を見つめた後、唐突に「いや!」と叫んだ。 「な、なんや!?」 「アサちゃん、君は重大な間違いをおかしている!」 「えー…!?」 浅海はおろおろと、厳しい顔付きの司貴を見上げる。司貴はビシィッと目玉の一つを指差すと、ちっちっちと言いたげに、指を左右に振った。 「目玉のパパには、エレガント且つキュートな肉体があるが、彼らには目玉しかない!ということは彼らは、あの天下のゲゲゲパパなどではなく、別人…いや、別目玉!そうつまり、言うなれば親戚といったものなんだよ!アッハッハ☆」 「あ、そっかー…」 「言うにことかいて、何の話やーー!」 紅はギャーッと銀色の髪をかきむしって、そのまま頭を抱えてぶつぶつ呟き始めた。 「この世界に他に誰かおるんなら、女の子とかええから、ツッコミ役がもう一人欲しいわ…切実に頼むわ、ほんま…」 その時、東京タワーの塚本が、くしゃみをしたとかしなかったとかは、また別の話。 「アサの父上ではないのか。…ではなんだ?」 どんな状況にいようと、的確に脱線する三人を、再び目覚めた万要が現実に引き戻す。 眼前には、浮遊する四つの目玉。脳天のプロペラを回転させて、宙空をふわふわと浮かんでいる。ふわふわという可愛らしい擬音のわりに、恐ろしくリアルな造形。網膜細胞まできちんと描かれている白い眼球は、無感情に自分たちを見据えている。 正確には、目玉一つにつき、一人の人物を。 「けったいな世界やと思ったけど…きわめつけにけったいなもんが出たもんやなぁ」 この面子のありがたさは、どんなに驚くべき事態に陥っても、驚きが持続しないところだろう。ありがたいのか、驚く気力も出ないほど疲れるだけなのか、イマイチ微妙なところだが。 ぐわしゃ! そんなトホホな紅の脳天を、司貴は唐突にわしづかみ、無理やり目玉に向けさせる。気色悪い目玉が目前に迫ってきて、ひぃ!と悲鳴をあげる紅をよそに、司貴は甘いマスクをニコリと微笑で彩った。 「紅くん、そんなことではいけないよ。誰かの眼差しを受けるということは、とても光栄なことなんだからね。視線には笑顔で対応、ニコッ☆ほら、君も!」 「にこー」 「一番けったいなんは、あんたらや────!!」 いい加減ほっとけばいいのに、紅は銀色のさらさらヘアをかきむしった。 「…敵なのか……?」 渦中にいると、全員のほほんと冷静そうに見えるが、傍から見ると全員錯乱状態に陥っているように見える。その「傍」あたりにいる万要は、目の前の適当な物陰──司貴の肩を身を隠す防壁がわりにして、じっと目玉の行動に注視した。他の三人が錯乱している以上、戦闘要員は自分だけ。身を守れるのは、自分だけなのだ。 (敵、なのか…?) 万要は心中で同じ台詞を反芻し──ふと、自分の周囲を取り巻く三人の男女に横目をくれた。その灰青の目に浮かぶのは、色の読めない懸念。 (………) 四者それぞれの反応で騒ぐ彼らを、目玉はひたすらに見つめ、ただ沈黙していた。 「…あれ?」 目玉が浮遊しているのを見つけたルエルは、そちらへ近づこうとして、ふと足を止めた。 正確には、足が止まってしまった。 彼女特有の鋭利な感覚が、危険を察知した…というわけではない。本当に足が勝手に止まったのだ。まるで爪先が壁にでもぶつかったように、そこから先に進めない。 ルエルは目を瞬かせると、目の前の虚空に指を伸ばしてみた。 そして彼女はそこに、目には見えないが、何か透明な壁が存在することに気がついた。 「…なにこれ?」 一見して、何がある訳ではない。しゃがんで下から見上げてみても、光の反射で薄い硝子の壁が見えるようになる…という訳でもない。正真正銘、そこには何もないのだ。 なのに、確かに目の前に、見えない壁が立ちはだかっている。 びくびくする指で、ためしに虚空をノックしてみるが、音は鳴らなかった。ただ何かを叩いたような、硬質な感覚が指に伝わってくる。 「………」 ルエルはパフェを絨毯張りの廊下に置くと、両掌をびたっと虚空に押しつけた。しかし掌は、やはり壁に阻まれたように、押せども押せども先に進めない。 「…ふぬぅう!…だ、だめだぁ」 ずるずるとその場に膝をつき、ルエルは肩で息をする。 ふと見上げると、勝手に相棒決定な目玉は、相変わらずの無感情っぷりで、透明な壁を見つめていた。 「……あれぇ?もしかしてあなたの兄弟?」 ルエルは見えない壁の向こうに浮いている四つの目玉が、相棒と同じ形をしていることに気づいて、目をしばたかせた。 「久しぶりの再会とか?よーし、会いに行こうか!」 にこっと笑って、ルエルは相棒を見上げたまま、四つの目玉の方に歩き出し── どすっ。 当然壁に阻まれて、コケた。もはや一人漫才である。 「…ああーん、一人は寂しいよ〜!目玉君は無口だし!も〜っどうして行けないの〜!?」 ルエルは半泣きになって、拳を見えない壁に叩きつける。 もう目と鼻の先に、『最後の少女』がいるはずだ。彼女の直感はそう告げている。 『さあ、終わりを探せ!』 彼女に目的を与えた、カーナビゲーション。 車は勝手に動き出し、勝手にハンドルを切り、勝手に万要の元へと彼女を連れてきた。終わりを探せ…つまりそれは万要を探せということのはずだ。 なのに何故、今、透明な壁が行く手を阻むのか。 「…探せっていったり、妨害したり…なんなの〜!」 ルエルは怒る相手を見つけられず、本能的に上空の相棒を睨みつけた。 相棒は浮遊する四つの目玉を──或いは目玉の群れではなく、透明な壁の方を見つめて、パチパチとニ、三回瞬いた。しかし今までとは違い、その瞬きはルエルにヒントを落とさなかった。 彼女には、目玉が不思議そうに壁を見つめているように思えた。 「……あなたじゃないの?」 ルエルはぽつりと呟く。 それは自分自身でも意味の分からない、直感から来る言葉だった。 パリッ…! 突然空気がスパークを起こし、目の前に浮かんでいた目玉の一つが、粉砕して落下した。 「…!?」 驚いて目を見開く三人を尻目に、万要が司貴の背中からひょいと飛び降りる。マントがばさりとひるがえるのを手で払って、万要は廊下で火花を散らしている目玉を訝しげに見下ろした。 「…弱い」 「こ、壊してよかったのー…?」 戸惑った声をあげる、浅海。 と、万要が目玉を破壊したのをきっかけに、司貴もまた唐突に部屋の扉をバタンと閉ざした。 三つだけ残された眼球が、扉の向こうに消える。紅は不審げに司貴をふりかえった。 「おっさん?」 「パパか、お兄さんと呼びなさい」 しつこく訂正しなおした司貴は、トレードマークの楽しげな微笑を掻き消すと、背にした扉を肩越しに振りかえり、厳しい顔で眉根を寄せた。 「…僕の素敵でワイルドな微笑に、目の色ひとつ変えなかった」 「………へぇ」 「嫌な感じがした」 怒りに口元をぴくつかせる紅だったが、司貴の続けて放たれた一言に、自身もまた表情を改めた。 嫌な感じ。そんなもの、とっくの昔に感じていた。 このフィールドに入った瞬間から、嫌な感じは常に絶えずつきまとっていた。 ──まるで誰かの監視を受けているような…あの種の不快感。 そして常に心のどこかにあった、神経を逆撫でるあの不快感が、今、四つの目玉から強烈に感じた気がしたのは、紅だけの話ではなかったらしい。 誰かに、見られてる…? 「…んー?」 深く思案している様子の紅と司貴を見比べていた浅海は、何か奇妙なものを感じて顔をあげた。 それは、じじじ…という音だった。付けっぱなしの電化製品から聞こえてくる、独特のかすかな電磁波。 浅海はいつもと同様、深く考えずに音のする方へと足を進めた。 室内には豪華なカーテンのかかった巨大な窓がある。半分だけ開けられたカーテンの向こうには、東京の決して綺麗とは言えない無秩序な夜景。自分の顔が映りこむ硝子の隅っこには、赤く輝く東京タワーが伸びている。 窓を正面の壁として、その右手の壁面には、続き部屋に繋がる入り口が穿たれている。そして例の電磁波は、ぽっかりと開いた扉のない入り口から漏れ聞こえていた。 浅海は続き部屋へと足を踏み入れる。部屋はさっきまでいた部屋とは、随分風情の違う部屋になっていた。同じなのは、無駄なまでに広いスウィートであるということ。壁にかけられた高そうな額縁の絵画。床に敷かれた厚みのある絨毯。ベッドはなく、ゆったりとしたソファが置かれ、そして──砂嵐を映し出した、液晶テレビ。 「……なんで」 なんでついてるのだろう。先ほど部屋の探検ごっこを司貴としたときには、テレビはついていなかったのに。そう思った瞬間、 「…────」 浅海の意識は、砂嵐の向こうにぐんっと引っぱり込まれていた。 ── 育ち始めた信頼の種。落ちた影は、芽を蝕むか。 ── 「……!?」 浅海がテレビに釘付けになったのと同時に、廊下で一人困惑していたルエルの脳裏を、強烈な言葉の群れが駆け抜けていった。 頭が痛くなるような言葉たち。窓を爪で引っかいたような、銀紙を歯で噛み潰したみたいな、鋭く不快な感覚が、脳髄をかき乱す。 ルエルは反射的に頭を押さえ、透明な壁にずるずると額をこすりつけた。 一方の紅と司貴は、浅海が隣の部屋に消えたことには気づかずに、今見た目玉の正体を模索していた。 「なぁ、おっさん」 「パパ☆」 「…ゲームってのは、おっさんも言っとったけど、普通ラスボスとか、敵キャラがおるもんやろ。けど今んとこ、出会ってへん。最初はまぁ、おっさんが俺の菓子食ってんの見て、敵かとか思うたけど、今はただの普通のそこらにいるくだらないおっさんだってことが分かったし……敵はおるんやろか?」 無礼かつ抽象的な問いかけに、司貴は紅の向こう脛を思いきり蹴飛ばしつつ、「何すんねん!」「なんのことかな☆」、うーんと斜め横を見上げる。 「さて…ね。けれどこの不思議世界に、僕らを送りこんだ誰かがいるというのは、ほぼ確実なんじゃないかい?まさか自然現象で、異次元に紛れこんだわけじゃあるまいし……その誰かが、敵か否かはともかくとして、ね」 「ゲームマスター…か」 「わざわざ目玉という形状をとっているんだから、あれは目玉の役割を果たしているんだろう。つまり、目。…あれはゲームマスターの「目」かもしれないと、そう思っているんだね?」 僕もそう考えているのだと、司貴がちらりと紅に視線を送る。 紅は閉ざされた扉をじっと睨み据えて、唇を噛んだ。 「…不愉快やな。万要ちゃん、あれ壊したの、正解やで」 しかしそれは、果たして本当に正解であったのか。 後々、誰もが疑うことになる。 コンコン…。 「…──!?」 扉に背を預けていた司貴が、目を見開き、バッと身を離した。 突如、無人の廊下から、扉をノックする音が聞こえてきた。 司貴は本能的に扉から後ずさり、同じく立ち尽くしている万要を背後に隠す。紅もまた息を飲んで、扉を食い入るように見つめた。 「お客様」 長いような短い静寂の末に、廊下から声が聞こえてきた。 紅と司貴は互いに目配せし、万要は警戒に身を固める。 誰も何も答えられないでいると、声は気にした様子もなく先を続けた。 「お客様三名様、当ホテルへのご宿泊、真に有難う御座います。お名前の確認をさせていただきますが、よろしいでしょうか」 どうやらホテルマンらしい。義務的な友好に彩られた、柔らかな声が聞こえてくる。 だが無人の世界を歩いてきた三人には、本来ホテルにいて然るべきホテルマンの声が、ひどく不気味に思えてならなかった。 一瞬、現実世界に帰れたのかとも思う。来たときと同様、唐突に「帰って」これたのかと。だがそうでないことは一目瞭然だった。何故なら、帰る場所にこのようなホテルが存在しない万要が、側にいるのだから。 とっさに足を踏み出した万要を手で押しとどめ、司貴がかわりに一歩前に出る。 「…それでは確認させていただきます」 誰も良いと答えていないのに、笑顔じみたホテルマンの声が、名前の点呼を始めた。 「秋月紅様」 名前を呼ばれ、紅はゾクリと肌を粟立たせる。 「寅内司貴様」 「良く名前をご存知のことだ」 司貴が嘲笑に似た笑みを浮かべて、余裕たっぷりに独りごちる。 「湯ノ倉浅海様。…以上の三名様でよろしいですね」 だが最後の一名の名前が告げられた瞬間、不気味な沈黙が流れた。 「…三名?」 司貴、紅、二人の視線がゆっくりと万要に向けられる。 万要はじっと扉を見つめたまま、かすかに目をすがめた。 「当ホテルをご利用の三名様には、只今キャンペーン特典を提供しております」 室内の動揺を無視して、ホテルマンは続ける。紅は万要から視線を外すと、無造作な足取りで扉に身を寄せ、小さな覗きレンズからそっと廊下の様子を窺った。 「……誰もおらへんで」 丸く歪んだレンズの向こうに、直立しているはずのホテルマンの姿はない。 「キャンペーンの内容をご説明いたします。まず第一に、三名様には何処に滞在していても食材の配給がなされます」 扉に頬を押し付けて、見える範囲ぎりぎりまで覗き込んでいた紅は、思わぬ間近で聞こえてきた声に、びくりと扉から飛びのいた。誰も廊下には立っていないのだ。だが立ってなければおかしい位置から、声が聞こえてきていた。 同時に、ホテルマンの告げる内容が、微妙におかしくなっていることに、彼らは気づく。 「第二に──」 「………っいやぁあ──!」 と、その時突然、隣の部屋からつんざくような悲鳴が聞こえてきた。 司貴と紅はハッと顔を上げて、続き部屋に繋がる入り口をふりかえる。駆け寄ろうとするより前に、そこから浅海が飛び出してきた。 「……っあ──」 あの憎めないぼんやりとした表情が、見る影もなく憔悴し、土気色に近いほど青ざめている。目は零れ落ちそうなほどに見開かれ、身体はかたかたと小刻みに震えていた。 「浅海ちゃん?」 浅海の異常な様子に、紅が思わず近寄ろうとした。 ホテルマンが愛想良く続けた。 「三名様には何処に滞在していても、必ず武器の配給がなされます」 バタン──ッ!! その直後。 室内にある、ありとあらゆる「扉」が、凄まじい音をたてて開かれた。 クローゼットの扉、冷蔵庫の扉、ユニットバスの扉、ベッド脇の棚の引き出し、聖書の入った机の引き出し…全てが爆風で弾け飛んだように、勢いよく開かれた。 「………嘘や」 開けられた扉。 弾き出された引き出し。 その全ての中に。 信じられない数の、そしてありとあらゆる種類の、 武器が詰められていた。 「……あたたー…なんだったの?」 痛いほどの言葉は唐突に途切れた。 ルエルは透明な壁に押し付けていた額を放し、赤くなっている額をこしこしと撫でる。 「…あれ?」 そこでルエルは、扉の前に浮遊する三つの目玉──一つは多分万要だろう、青白い光が粉砕してしまった──が、しきりに瞬いていることに気がついた。 ルエルも目を瞬かせて、それをきょとんと見守る。 目玉はルエルを振りかえりもせず、何度も何度も瞬きを繰りかえした。 「この特典は、当ホテルをご利用なさった三名様のみに、今後とも与えられるものです。どうぞご自由にご利用ください」 部屋は異様な光景と化した。 クローゼットには無数に立てかけられた、日本刀。机の引き出しには、聖書を押しつぶすようにして、銃と弾丸が並べられている。ユニットバスの中には、手榴弾に似た類のものがゴロゴロと。ユーモアのつもりだろうか、開いた便器の中にも、ぷかぷかと茶柱みたいに、ナイフの群れが浮かんでいた。 「……な」 浅海に駆け寄ろうとした紅の進路を妨害して、机の引き出しが、落下ぎりぎりの位置まで飛び出して静止している。愕然と引き出しの中身を、そして部屋全体を見渡す紅には目もくれず、浅海はただ恐怖に歪んだ眼差しで、並ぶ銃の列を見下ろしていた。 「それでは」 ご親切にも、彼らの驚きが一通り通り過ぎるのを待ってから、ホテルマンが再び口を開く。 「どうぞ、ごゆっくり…」 そして不気味な挨拶は、そこで唐突に終わった。 じじじ……。 沈黙の降りた室内に、続き部屋から聞こえてくる、かすかなテレビのノイズ音が響く。ノイズと自分の息遣い以外は何も音がない。耳が痛くなるほどの静寂が、緊迫した空気を後押しする。 「……ふむ」 不吉な静寂を打ち破って、司貴がおもむろに部屋の扉を開いた。 もしや開かないかとも思ったが、予想に反して頑丈な扉はあっさりと開いた。そしてさらに予想外なことに、また目が合うだろうと思っていたあの三つの眼球が、すっかりその場から消えてなくなっていた。 見下ろしてみれば、万要に壊された目玉だけが、廊下にゴロリと転がっている。 司貴はしゃがんで目玉をつっつき、別にバチッとか吸い込まれたり、妙なことにならないことを確認し、ひょいと拾い上げる。再び立ち上がって室内を振りかえると、そこはちょっとした静止画みたいな有様になっていた。額縁がわりの扉の枠の中で、微動だにせず立ちすくむ三人。ありとあらゆる扉が開け放たれ、黒々とした武器が不気味に輝いている。 シュールだねぇ、と司貴は呟く。しかしその目は笑わない。 「…武器が提供されたということは、このゲームには武器が必要、ということかな?」 司貴は部屋に戻って、入り口すぐ脇にあるクローゼットを覗いた。本来、そこは衣類掛けになっているはずだが、衣類の代わりに立てかけられていたのは、日本刀や西洋剣の類だった。どれも一流品というやつで、鞘を剥いでみなくとも、その刀身が恐ろしく鋭いであろうことは想像できる。中には名前すら容易に浮かぶ刀すらある。 「せっかくの特典だし、ありがたく持っておくべきかな?事態はどうやら僕らの想像以上に厳しいもののようだ…それにタダより安いものはないって言うしね」 「……」 それまで立ち尽くしていた万要も、司貴の言葉を受けて手近な武器棚へと足を運ぶ。だが司貴が見比べている刀の形は、万要にも馴染み深いが、他の武器のほとんどが見慣れないものだった。 紅は薄暗い気分で、視線を目の前の銃へと落とした。 「…なんや、急に実感が涌いてきたわ」 そして、ポツリとこぼす。 「正直、怖なってきた」 武器という、人を傷つけ、殺めるための物体。 ゲームの中に引き込まれたのだと、そう思っていた。 だが違う。 これは──現実だ。 「…浅海ちゃん?」 不意に紅は、銃を凝視したまま立ち竦む浅海に気づき、身を屈めてその顔を覗きこんだ。 浅海はまだ呆然と青白い顔を持ち上げて──ふと紅から視線をそらす。 「どないしたん?向こうで何があったんや?」 心配げな声にも、浅海はただぶんぶんと頭を振るだけだ。紅はなおも訊ねようとしたが、浅海のかたくなな様子を見て断念し、かわりに隣の部屋を覗きに行くことにした。 (…言えないよ…) 脇を通り過ぎる紅の体温を感じながら、浅海はうつむかせた顔をぎゅっと苦痛に歪める。 (あんなルールなんて、嘘だぁー…) 目尻にじわりと涙が浮かんで、浅海はぐっと唇を引き結んだ。恐怖のあまりにどうにかなってしまいそうだった。 自分には、出来ない。 自分には──。 ぽん…。 不意に彼女の頭に、大きくて暖かな手が乗せられた。驚いて見上げると、ただ雑音を流すだけのテレビを消してきた紅が、背後で温かく微笑していた。 「大丈夫や。な?」 何があったか話してもいないし、察しようもないはずなのに、紅は明るく言う。 凍りついていた心が、ほんわりと温かさを思い出す。浅海は「うん…」とうなずき、涙目で一生懸命に微笑もうとする。 「おっさーん、こんな大量の武器どないするー?」 それににこりと笑みを返して、紅は改めて部屋中の武器を見渡す。ごく普通の、といっても一般市民の懐には少々お高すぎるスウィートルーム。そこにずらりと並んだ武器は非現実的すぎて、かえって順応が生まれる。 「まったく…とんでもないルームサービスもあったもんや。なぁ、でも何処に滞在しても、武器と食料の配給があるって…どういうことやろ。このホテルがわさわさと歩いてついてきよるわけは………」 「ハイ、紅くんゲームのやりすぎ☆」 「言うと思ったわ!あんたのレパートリーは、それだけかいな!」 「なんだい、失敬な。ゲーム以外にも、漫画とか映画とか…ほかにも色々用意があるさ!」 「それだけやろ!実のところ、その三つだけやろ!?」 「あははー」 狙い通りに反応を返してくれる司貴に、紅は遠方裏拳をかっとばす。ようやく落ち着きを取り戻しはじめた浅海が、まだ青い顔で笑うのを横目で見て、一人の親父と一人の好青年は、こっそりと微笑した。 「ま、何処に滞在しても、というのはその内分かるだろう。今の問題は、このご親切すぎる武器の提供にどう対処するか、だねっ」 胡散臭い探偵みたいに、顎に手を当てて考えこむ司貴に、紅は青い目を嫌そうに細めた。 「こういうの…嫌いなんや。出来たら持ちたないわ」 「じゃあ、持つのよそー…?」 不意に浅海が上目遣いに呟く。 その眼差しには、先ほどの恐怖に似た色が、再び宿っていた。 「…持ちたくない」 それは今までの浅海の順応ぶりを考えれば、過剰すぎるほどの怯えように見えた。気づけば、浅海は武器を視界に入れないようにと、顔を不自然に傾けっぱなしだ。紅はちらりと続き部屋を見つめ、日本刀を検分していた司貴を見やった。 「…おれも、もう少し、様子見がええと思う。何処に滞在してもってことは、これから先、どこかの建物に立ち寄るたび、武器が飛び出してくるんちゃう?出てこなければ出てこないで、必要と思うたら、このホテルに帰ってきたらいいんやし。それに」 紅は机の引き出しを元に戻すと、静かに溜息を落とした。 「武器は必要なんやなくて、武器を持った時点で、必要なものになってしまう…と思うんや。意味、分かるやろか」 目の前に、人がいる。 敵か味方か分からないとする。 その時、相手が武器を持っていれば、たとえ構えていなくても、自分は相手を警戒するだろう。そして自分にも武器が必要だと感じるだろう。 もし丸腰ならば、警戒など抱かなかった──武器という存在が、争いの種になる。 「…ふむ」 司貴は手にした日本刀を思案げに見下ろし、やがてカラッと明るい表情で、クローゼットに刀を戻した。 「珍しく紅君が真面目なことを言って…やだやだ、雹が降るに違いないよ!」 「おれはずっと真面目や!ふざけてんのは、おっさんだけや!」 「それに他の刀に浮気したら、雅に怒られてしまうかもしれないしネ☆」 「話聞けや」 きゃぴっと頬に手を当てて舌をぺろっと出す司貴に、紅は白い顔で突っこんだ。 「さてさて、とりあえず食料だけはちょろまかしてゆこうかね!コンビニ食材より、僕の口に合いそうな高級品がありそうだよ。それに、イライラにはカルシウムだ、紅くん!」 「煮干でも食えというんかいな!しかもイライラの原因はアンタや!……冷蔵庫冷蔵庫〜…ってほんまに、冷蔵庫ん中、食べ物でぎっしりや…さっきあけたとき、なんもなかったのになぁ…って煮干あるしぃ!」 「白いご飯あるー?」 「隣の部屋でも行ってみー。なんか、炊飯ジャーがある予感がするわ」 「おや、では梅干がいるじゃないか!梅干はあるかい?なかったら、紅くん、下の売店で買ってくるように!」 「だから何で俺やねん!」 「万要ちゃんは何食べるー…?」 浅海が冷蔵庫に突っこんでいた顔を持ち上げる。 そこで、きょとんと首をかしげた。 「万要ちゃん…?」 万要はベッド脇の棚の前にかがみ、じっと中を見つめていた。声をかけても返事もない、振り返りもしないので、浅海はしっかりと生チョコの箱を確保してから、少女の元へと向かった。 「万〜要ちゃん…お菓子たべるー…?」 引き出しの中に並ぶ武器を見つめる万要に、浅海はいつものぼんやり笑顔で箱を差し出す。万要は静かに顔を持ち上げると、まるで…何かを試そうとでもするように、ゆっくりと指先を箱へと伸ばした。 「……え?」 浅海は、呆気にとられて、その指を見下ろす。 万要は、静かな表情のまま、自分の指を見つめていた。 ──まるで透明な壁に阻まれたかのように、指が、第一関節から甲の方へと反れていた。 「武器も、食料も、私には取れない」 万要は呟いて、今度は棚の中の武器に手を伸ばす。 しかしその指は武器に触れる前に、再び停まってしまった。見えない壁に力をこめるように、内側に反れた指の先が、白く色を失ってゆく。 紅は立ち上がって、万要の側に近寄る。 「ちょい貸して」 浅海から菓子箱を受け取り、紅はそれを皺ひとつないベッドに置く。 「取れる?」 意を得て、万要は再び手を伸ばすが、やはり結果は同様だった。 「………なんで」 紅は愕然と呟いた。 「三名、だからだろう」 万要は動揺した様子もなくぼそりと呟き、やがておもむろに立ち上がった。 「お前たちは食べろ。兵糧は食べられるときに食べておく方がいい」 「万要ちゃん?どこに…」 「………」 万要は答えず、ひどく無表情に部屋を横切る。 しかし翻るマントのフリンジを、浅海がぐっと掴んで止めた。 「万要ちゃんが食べないなら、あたしも食べないよー…ご飯はみんなで食べるのが、おいしいんだから…」 「かまうな」 万要は静かに首を振って、無理やりにマントを浅海の手からもぎ取ると、そのまま再び足を歩かせ始める。しかし物言いたげな浅海の視線を受けて、少女は溜息まじりに立ち止まる。 「………どこにもいかない。私は少し休んだから、紅のかわりに壁に刺さったモノを見てくる」 何故か辛そうに顔をゆがめ、万要はぼそぼそと呟く。そして、自分の手の中の食料と万要の背中を見つめ、何も言えずにいる三人を残して、万要は部屋の外へと出た。 ──これは命がけの戦いだ、万要。 無人の廊下に出た万要は、ひとり足音を吸収する絨毯の上を歩きながら、「あの時」のことを思い起こす。 ──この世界には敵と味方がいる。 それは、赤く歪んだ塔。 風を切って進む万要に、囁かれた「まほろば」の言葉。 ──見誤るな、万要。 「…私は」 万要は足音のしない靴先を見下ろし、まだ幼い唇を噛む。 ──彼らは、敵だよ。 「…私はこの世界に敵がいると聞いて、それでお前たちの元に来たんだ」 言い訳をするように、万要は独り喋る。 聞く者は誰もいない。紅も司貴も浅海も部屋に置いてきた。 しかし誰もいないように見えて、実は誰かが聞いている。 『そんなところで何をしている』 蘇る、自分の怒号。ふざけた答えを返した彼らは三人。 『アサって呼んで。…ねぇ、一緒に行くー?』 温かな誘いの言葉、差し出された手。 『知らぬ誘いに注意せよ』 占術師の忠告。 『要するに変人さんだよ。ということは、敵かな』 奇妙な男の推測。 ──彼らは、敵だよ。 やはり……敵だったのか。 「………」 様子を見るつもりで、監視のつもりで、警戒は怠らず、彼らについてきた。 彼らの行動は奇妙奇怪ではあったが、危険なものではなかった。 だが、全ての事象が彼らを「敵」と告げている。「まほろば」の言葉、占術師の忠告、奇妙な男の推測。全てが彼らを「敵」だと断じている。 彼らは互いの言葉をわかりあえるのに、自分にはわからない。 彼らはこの世界の地理を多少なりと把握しているのに、自分にはわからない。 彼ら三人は仲間だ。自分だけ異質だ。 そして…彼ら三人は物資の援助を受けた。あの目玉、自分が敵だと判断した相手から。そして自分に物資の援助は与えられなかった。その差。 おそらく目玉を壊したからだ。有無の差位は、ただそこから生まれた。だが果たしてそうだろうか?目玉を壊さなくても、彼らだけが援助を受けただろう可能性を、どうして否定できる? すべてが彼らを敵とみなす。 彼ら以外の、すべてが…。 万要はぎり…っと拳を握りしめた。 ──疑え、万要。敵を味方と見誤るな。 厚い絨毯はやがて、冷たい色をした扉の前で終わる。それは紅たちが「下降具」と呼んでいたものだったが、万要には使い方が良く分からない。しばらく悩んだ末、万要は脇にある階段をとことこと降り始めた。 無人の階段は、まるで底知れぬ暗黒へと導くように、下へ下へと伸びている。 「…疑え」 万要は呟き、階段に足を下ろした。 「…油断するな」 何故だろう。 暖かな背中と、揺られる心地よさが脳裏を過ぎる。 「…疑え」 呟くたび、胸が締め付けられるように痛んだ。 ── 育ちはじめた信頼の種。落ちた影は、芽を蝕むか。 ── 「……ぁああ!」 ルエルは透明な壁に頬を押し付けて、扉から出てきた少女の姿に、声をあげた。 「マ、マカちゃーん!」 だんだんと壁を叩いて、声を張り上げるが、万要はまるで気づいた様子もなく、何かに思い悩んだ背中で、向こうへと歩いて行ってしまう。 「…んもー!もーもーもー!」 ルエルがパフェを持ったまま、苛々とその場でジャンプする。パフェはもはや散々にシェイクされていたが、彼女はそれに気づかない。食べる瞬間が楽しみである。 「…いいもん!方法はいくらだってあるんだからね!」 ルエルは万要の姿が階段の方へと下がってゆくのを確認すると、ぱっと身を翻して、自分も再びエレベーターに飛び乗った。 「目玉君、置いてっちゃうよー!」 置いてけばいいのに、ルエルは律儀に目玉を待つ。 目玉はしばらく意味ありげに透明な壁を見つめた後、ルエルを追って、くるっと回転した。 ◆◇ 「…俺、やっぱり追うわ」 紅は簡易リュックを背負って駆け出す。 「あたしもー…!」 珍しく意気ごんで、浅海も紅の後に続く。 扉がガチャリと開かれ、彼らは無人の廊下へと飛び出した。 「おっさん、置いてくで〜!」 あっという間に遠ざかってゆく声を背に、司貴は一人、机に向かった。 机の上に置かれているのは、ホテルなら大抵に置いてある『お客様ご意見アンケート』。 「…ふーんふーん♪」 一人息子がお気に入りの現代音楽を口ずさみながら、司貴は備え付けのペンを取り上げ、アンケートにペン先を滑らせる。 ──…司貴さーん!エレベーター来たよ〜…! 「はいはーい♪」 司貴はご機嫌に笑ってペンを置き、しっかり一つ残されていたリュックを、ひょいと肩に背負った。 司貴の姿もまた、やがて部屋を出て、右に曲がって消えてゆく。 鼻歌は徐々に遠ざかり、「暢気に演歌歌ってんな、おっさん!」という叱咤と、「君は少し懲らしめた方がいいようだねぇ…コ・ウ・君?」「ギャァ!まだ辛子持ってたんかいなー!」というやり取りを最後に、全てが無音に還る。 無人と化した室内。 デスクランプのついた机。 転がるペン、置かれたアンケート。 『ご意見等御座いましたら、ご自由にお書き下さい。 女の子苛めるなんて、サービス最悪。はらたいらさんに、マイナス五千点。 これより苦情を申し立てに行くので、覚悟しときなさい♪ 雅貴君のパパ★寅内司貴』 開けっぱなしになっていた、武器所蔵の扉や引き出しが、再びバタンッと音を立てて閉ざされる。 無音、無音、無音──。 達筆な日本語が綴られたアンケートは、ぐしゃり…と丸まり、ゴミ箱に落下した…。 |
written by 翁千尋 2003年05月20日公開 |