第十二話



 機械音のそれは、何かのコードであろうか……帰りたいと答えたなら? 

 帰りたくないと答えたなら?

『ナラバ、コ・ロ・セ』

 ざらつく砂風のようなその音は、ある者にとっては胃が掴まれるような不快な言葉。

 ある者にとっては、蕩けるほどの甘美な誘惑……。



 ◆◇◆



 目の前にある現実に、ルエルは呆然と立ち尽くしていた。壁に半分以上入り込んでいる車体。それでも無事な自分の体。
「おかしいのは車かな……それとも、私だったりして……?」
 強張った喉は空気が通る際、いちいち痛む。それでも呟いた声に、返すものはなかった。それが、この世界に入り込んだ直後の状況を思い起こさせて、新たな恐怖心を生み出す。もう、人差し指一本を動かすことも困難であるようだった。
 そんな彼女の状況を打ち砕いたのは、離れた所から感じられたモノ。
「ガイ君?」
 赤い塔があると思われる方向に振り返ると、目玉が視界の真正面に入った。そっか、いたんだっけ……と目をぱちくりさせる。
「ガイ君、新しいヒトと遭遇して……闘ってるのかなぁ? 楽しそうな気配がするんだもん」
 「出会った時から、ずっと楽しそうだったけどね」と目玉に喋りかけるルエルは、もはや順応していた。元々機械に接する機会が多く、友人にこと欠かない彼女は、喋り相手が欲しかったのかもしれない。たとえ、何の返事も返ってこないことが解っていたとしても。
「付いてくる? て聞かなくても、どうせ付いてくるんだよね。あのね、上……」
 見知った人物の気配に落ち着いたルエルは、上方を見上げた。そこから先程会った少女の気配がすることに気が付いたのだ。
「飛んでってもいいけど、窓開けてくれなかったら困っちゃうし……エレベーターくらい、あるよねぇ」
 ロビーを見回して、エレベーターの扉を見つけると小走りで乗り込み、迷わず最上階のボタンを押した。
「どうして、こんなことになっちゃったのかなぁ?」
 至極単純な、しかし今の状況では途方も無い問い。狭い空間、自分から離れた位置で浮いている目玉に向かってぼやきながら、ルエルは今までのことを思い返し始めた……。



 ―― 今日のあなたは、見知らぬ場所で幾日の時間とも言えない時間を過ごすでしょう ――



 学都でも一番の人気を誇る店、トゥルーカフェにミニパフェが新登場した。甘い物が苦手な彼女の兄貴分でもこれなら食べられるだろう、と彼の親友と2人、買い物に繰り出したのだった。カフェに行くのも、最高等学部の教授室へ向かうのも、変わらぬ日常であったのだ。最高等学部へと続く道を歩いている途中、ルエルが朝の占い内容を不意に思い出すまでは……。
「そういえば……あのね、リハ君。今朝の占い……」
 肩までの黒髪を揺らして振り向いた先に、『リハ君』はいなかった。前後左右でなされていた喧騒も掻き消えていた。それどころか、茶色い石造りの美しい町並みが、無機質な灰色の街へと変貌を遂げていた。
「リハ……く、ん……?」
 辺りに響くのは、自分の高い声だけ。人の呼吸する気配も、自分のものだけ。歩けば、自分の靴音だけが異様に大きく反響する。看板を見ても、訳の解らない記号が並んでいるだけだった。
「ここって、どこ? 車にタイヤが付いてるってことは、大昔ってこと??? でもないよね? 一部じゃ、まだ馬車も走ってるもんね???」
 疑問符を並べる声も、一歩ずつ踏み出す足も、いまだパフェを握り締めている手も、小刻みに震えていることが嫌と言うほど自覚できた。それでも、一度歩き出した足を止めることは出来なかった。止まってしまったら足がすくんで、今度こそ動けなくなる恐怖が待っているような気がしたのだ。
 何があってもいいように一定の速度を保ちながら歩いていくと、やがて人の気配を感じられることに気が付いた。それも、結構近い。ルエルは逸る気持ちを押さえて、それに向かってゆっくりと進んでいった。動かない車で見えないが、確実に近付いていると思っていた。突然、耳をつくような音がするまでは。
 いきなりの事に驚いていたルエルは、走り出した人物を慌てて追いかけ始めた。背格好からして、男性であることが判る。無機質の世界の中で、やっと出会えた人という存在。足の長さの差に置いていかれそうになりながらも、懸命に視界から消えないようにしていたというのに。
「消えちゃうっ!?」
 頭の片隅で起こったスパーク。はじかれたように叫んだ彼女の目の前で、男性は見えないものに引き込まれるように姿を消した。
 一方、ルエルの方は彼と同じようにはいかなかった。彼のように他の空間に飛ぶことが出来なかったのか、はたまた違う空間へと飛ばされたのか。走っていた勢いのまま車道へと飛び出した彼女は、危うく暴走してきた車に轢かれそうになったのだった。甲高いスリップ音。声にならない悲鳴を上げた時には、体はぎりぎりに避けていった車の風圧で後方に軽く飛ばされており、しりもちをついていた。
「な、何あれぇっ!!」
 人を気にする様子もなく走り去っていく車に、ルエルは地に付いた部分が痛むことも忘れて、側に放置されていた車に乗り込んだ。車内に付いていたスリム缶用のフォルダーにパフェを突き刺し、背負っていたリュックと羽は助手席に放り込んで。差し込まれたままの鍵に一瞬躊躇した彼女だったが、それを回してエンジンをかけてしまえば、あとの機能は学都のゲームセンターで見たものとほぼ同じ。走り出しこそアクセルの踏み込みすぎで体が後ろに持っていかれたが、タイヤの感覚に慣れてしまえばすぐに様になった。
「追いついて、絶対謝ってもらうんだからっ!!」
 意気込んだ彼女は、ゲームセンターで磨いた腕で危なげなくハンドルを操作していく。こうして、数十分にわたるカーチェイスは幕を開けたのだった。



 ―― そこに存在する者達は、出会いと別れを何度となく繰り返すことになるでしょう ――



 2台の車のエンジン音が、ビル群に反響するようになってから40分は経った頃だったろうか。それまで一向に変わらなかった車間距離が、徐々に開き始めたのは。前を走る車が更に加速をし始め、ルエルもそれに合わせてスピードを上げたつもりだった。が、距離は縮まるどころか開いていくばかり。
「どうしてっ!? これじゃ、見失っちゃうよぉ……」
 一端は焦った彼女だったが、すっとスピードを緩めてしまった。無論、見逃したわけでも諦めたわけでもない。ただ、巻き込まれたくなかっただけなのだ。次に起こるだろう事象に。
 それまで追っていた車が少女の視界から消えようとした時、白い光が彼女の目に映った。それは現在住む場所より、故郷にいる時に馴染みのあったもの。『雷』という事象。
「あの人、無事かな〜? なわけ、ないよねぇ」
 車から降りると、2弾衿を押さえる『高等学部』と書かれた金属製のプレートがパリッといった。外気に触れている肌がピリピリする感覚に、人より敏感な自分を、この時ばかりは恨めしく思ったルエルだった。
「無事などころか、2人に増えてる……どういうこと?」
 首を傾げつつ、羽とリュックを背負う。もちろんパフェも忘れない。この世界に来て始めにやった追いかけっこで疲れていたルエルは、羽が動くことを確認すると、2つの人の気配がする方へゆっくりと飛んでいったのだった。
 軽くシェイクされてしまったパフェを気にしつつ低空飛行していくと、人の声が聞こえてきた。聞きなれない発音も混ざっていたが、かろうじて『マカ』が名前、『“風”と“天”の特殊能力者』だということは解った。声の主が、少女だろうことも。
(『特殊能力者』ってことは、さっきの雷はそのコのかなぁ? てことは、車に乗っていたのは男の人の方だよね)
 そんなことを考えながら、更に近付いていくと男の声が少女に問うのが聞こえた。
「可愛いお嬢さん、ここがどこだか知らないかな?」
 ずっと追いかけっこだのカーチェイスだのをしていて忘れてしまっていたが、ルエルも一度は考えた疑問。再び突きつけられた現実に俯くと、視線の先にはネズミの人形が……。
「やぁ、僕ミッキー♪」
「え?」
「こちらのお嬢さんの方が、何か知っていたりして?」
 驚いて顔を上げると、4つの瞳がルエルを見ていた。一対は楽しげに、一対は不思議そうに。
「あ、あれ?」
 ここまで2人に近付いていたことを、考えに夢中でいまいち認識していなかったルエルは、大きな目を瞬かせる。もちろん、何のためにここまでカーチェイスをしてきたのかだなんて、空の彼方へ消え去っている。それに呆れたように、
「警戒心が足りないな」
と言う万要に、
「ご、ごめんなさい???」
と訳が解らないが、とりあえず素直に謝るルエル。そんな両者が、見た目と中身の年齢が逆転している様にガイには映った。
「まぁ、天使の会話も面白いけどね」
 そう言う彼は本当に楽しそうで、ルエルと万要は怪訝そうに顔を見合わせた。
「僕は、ガイ=フレデリック。こっちはミッキー。一人目の天使は、マカ。はい、二人目の天使のお名前は?」
 『天使』という言葉に疑問を抱きつつも、そう言われたら答えるしかない。
「私は、ルエル。高等学部生で、占い師だよ」
 殊更明るく言ったルエルは、
「占術師か」
「占い師だって!?」
と感心したような、おもちゃを見つけたような。そんな様子で身を乗り出す2人に思わず身を引いた。何か悪いことでも口にしてしまったのか、と涙目になる。
 ところが待っていたのは否定的な言葉ではなく、
「だとしたら、この状況が少しは把握できるかもしれないな」
「帰り方とか、敵とかね。ねぇ、ミッキー?」
といった能力を受け入れたようなものだった。もっとも、万要の能力を実際に見ている時点で、いや、この世界に立っている時点で、『非現実』などという単語は意味を成さないものに成り下がってしまっているのだが。
「そう……かなぁ?」
 ルエルは首を傾げる。自身で、この状況を何も理解できずにいることを悟っているため、その表情は複雑だ。とはいえ、このまま何もしないわけにもいかないので、とりあえず朝の占い結果を語って聞かせたのだった。



 ―― 人を襲うは、いまだ見えず。人を救うは、不幸中の幸い。知らぬ誘いに注意せよ ――



「……そんなにガッカリしないでよ、ミッキー」
 その場に座り込んだルエルの側で、ネズミの人形はガックリと肩を落としていた。その隣で、万要は占い内容を真剣に考えている。そんな中、ガイだけは相変わらず楽しげだ。
「へぇ、それで僕らは今、こんなに愉快な状況に陥っているわけだ。しかも、これから更に面白くなりそうだなんて!」
 とうとう笑い出したガイに、ルエルは心の底から『今すぐ帰りたい』と思った。順応力の高い彼女でも、対処にあたるのは容易ではなさそうだ。
 一端はガイに向いていたルエルの視線も、いまだ考え込んでいる少女の方へと移される。しばらくは、そのまま覗き込んでいた彼女だったが……。
「ピース……」
 感情が篭められないまま呟かれた言葉に、2人と1体が女子高生を見る。彼女は万要の顔に目を向けながら、しかしどこか遠くを見ているような瞳をしていた。
「マカちゃんには、出会いの暗示……テンションが高い人達なのかなぁ?」
「テ、テンション……というのは何だ?」
 困ったように尋ねた万要は、
「要するに、変人さんだよ。ということは、『敵』かな。ね、ミッキー?」
とミッキーと頷き合っているガイの言葉に、更に困惑したようだった。
「ガイ君には、歪みと争いの暗示……ミッキーは見えないの。ごめんね?」
 その言葉に、ガイは「ふふv」と笑い、ミッキーはしょんぼりとする。
「皆が揃う時、何かが起きるかもしれない……その前に、最初と最後が再会すると何か起きるかもだけど。最初は私。途中は……バラバラで、まだはっきりと見えてこないかなぁ? そして……」
 ルエルは、すぅっと万要を指差した。
「あなたで最後。私とこのままいれば、何も起こらない代わりに何も変わりはしない。一度離れて再び会えば……どうなるのかな?」
 輝きの無い黒曜石を覗き込んでいた万要は、突如空中へ飛び上がり、どこかへと行ってしまった。それに驚いて目が覚めたのか、ルエルの瞳は明るい光を取り戻し、きょとんと少女が去った方角を眺めている。
「あれ??? なんで急に行っちゃったのかなぁ? ガイ君が、変態さんがどーのって脅したから?????」
 小首を傾げる彼女の足を、ミッキーがちょいちょいと突付く。
「あの可愛らしい天使は、行ってしまったけど。僕らはこれから、どこへ行けばいいのかな?」
 声はすれども、人形の口は開かない。これは腹話術なのだと、ルエルは悟ることができた。
「ガイ君の凶の方角は、あっち。歪んだ赤い塔に注意、だって」
「アンラッキーか。なかなか楽しそうじゃないか! じゃ、行こうか」
 ガイはルエルが指差す方角を確認すると、あっさりと車に乗り込んだ。
「行こうかって……え? 私も???」
「僕はどっちでもいいんだけど、ミッキーが君を気に入ったって。ねぇ、ミッキー?」
 コクコクと頷くミッキーに気を良くしたルエルは立ち上がり、制服に付いた砂を払うと、セダンの後部座席に乗り込んだのだった。この時点で自分の運勢も占えばよかった、と後悔するのは、少しだけ後の話……。



 ―― 歪みを伴う監獄に入れられた迷える羊達に、災厄と幸運があらんことを ――



 一瞬、体が浮くような感覚がしてエレベーターが止まる。ルエルは思考を中断させて、扉の外に一歩踏み出した。その後を、目玉が付いてくる。いっそエレベーターに閉じ込めてしまおうか、との考えが過ぎらなかったわけでもないが、一方的であるにせよせっかくの話し相手であることには違いない。少女は手招きすると、自分の側へとそれを導いた。
「あっちにマカちゃんがいるよ。もう一度会ったら、何が起きるんだろうね?」
 歪みが現れたり消えたりするフィールドで、しかも自分が不安定な状態とあっては、なかなか上手く未来を読み取ることができない。ただ何となくある予感めいたものに、もどかしさを感じる。
「マカちゃん達を占った時に、一緒に私の運勢も見ておけば……とりあえず、こんな所に突っ込まなくても済んだかもね」
 溜め息を吐いても、もう遅い。というより、占っても結果は変わらなかったかもしれない。感覚の赴くままに、誰もいない廊下を歩いていったのだが。
「あれは……何かなぁ?」
 足を止めたルエルの向こうには、一つの扉の前に綺麗に整列して浮かんでいる四つの目玉があったのだった。



written by 朝羽岬 2003年04月20日公開