第一話 |
渋谷まで出るのに、電車で一時間以上はかかる。 大学の友人に引っ張り出されて出かけた先で、うっかり携帯電話を置き忘れたばかりに、塚本真也(ツカモト・マサヤ)は春休みの貴重な一日を潰す羽目になってしまった。 いや、用だけ済ませてとっとと帰っていればそんなこともなかったのだが、往復三時間もかけておいて、そのまま帰宅というのも何だか癪に障る気がして、昨夜の二次会先のカラオケ屋から取り戻したケイタイ(機種変更直後でなければ取りにも来なかっただろう)をポケットに放り込み、センター街の裏の裏からぶらぶらと抜け出した。 「忘れ物」に気付いたのが(つまり目が覚めたのが)昼過ぎになってからだったので、時刻はもうすぐ三時になろうとしていた。 春とは行ってもまだ三月も上旬。むしろ恐ろしいくらいに晴れ上がったこの空も、あと小一時間もすれば薄赤く染まり始めるだろう。 (‥‥‥タワレコぐらい覗いてから帰るか) スターバックス・コーヒーの列に並びながら、塚本はこめかみをぐいぐいと押した。 微妙に二日酔いが残っている。 「お次の御客様いらっしゃいませェ」 茶髪を二つ結びにした店員の甲高い声に、アイスコーヒーのショート、と短く答え、ため息をつく。女の子の声がどうにも頭にツラいということは、昨日、自覚していたよりも飲み過ぎていたのだろうか。 「はいこちらお返しになります商品の方あちらのカウンターからどうぞォ」 レジ隣から出てきたプラスティックカップを受け取って、外していたMDのイヤフォンをかけなおし、 (あー‥‥‥何飲んだっけな昨日?巨峰サワー?) ストローの包装をぴりりと破いた。 「ありがとうございましたいらっしゃいませぇ!」 前後一緒くたになった店員の挨拶を背に、咥えた緑色のストローをカップへ差した。 自動ドアが開いて、閉まる。 ───しかしそれは彼の出口ではなく、入り口だったのだ─── 塚本は立ち止まった。 イヤフォンから流れるエアロ・スミスの「ミス・ア・シング」が、耳を占領している。 ‥‥‥喩えではない。本当に、それしか聞こえない。 MDの音量をどんなに上げても必ず入るはずの雑音、80ホーンはあるはずの渋谷の雑踏が、全く聞こえないのだ。 耳からやってきたとてつもない違和感は、次第に全身を支配しはじめる。 顔を上げた塚本は、その一瞬にして視界に焼きついた光景を否定するかのように、身を翻して今出たばかりの店内へ飛び込んだ。 そして、 「‥‥‥嘘‥‥‥だろ‥‥‥?」 何十人と並んでいたはずのレジ前。 女子高生だらけだったはずの客席。 カウンター。 その向こうの厨房。 「おい、誰か‥‥‥?」 ──────いない。 人の影どころか気配すらも全く無い店の中、注入機の口からポタリポタリと、コーヒーの雫が中途半端に落ち続けている。 「‥‥‥誰かいねェのかよ!!」 投げ出したアイスコーヒーが床に飛び散る。 塚本は半ば蹴破るようにして、自動ドアを飛び出した。 店内だけではない、ビルの窓にも百貨店の入り口にも今走っている道の脇にも、目に映るところ全て何処にも、人間の姿はひとつも見えない。 不気味に静まり返った駅前、どれもこれも赤い信号を無視して、道路の途中で止まったままの車の横を駆け抜ける。 「何が‥‥‥どうなってんだよ‥‥‥これ‥‥‥っ」 スクランブル交差点の中央で、限界まで息を切らせた彼は身体を折った。 蒼白の顔を片手に埋めて、大きく酸素を吸う。が、上手く深呼吸できずにむせ返る。 嫌な汗をかいた額を拭い、無理矢理ながらゆっくりと上体を起こして、ようやっと、とても基本的な事に気付いた。 ───ここは、『どこ』だ? 横の車は鍵もついたまま、道路のど真ん中に駐車してある。高架の上に見えるガラ空きの電車も、先程からぴくりとも動かない。 そう、動かす「人間」がいないだけで、「物」は存在している。おかしな事に、ヒトがいないのにゴミはある。カラスもいる。音楽はない。‥‥‥有線を流す人間がいないからだろう。電気はある。自動ドアが開いた。しかし信号は赤のまま。 ───アンバランスだ。 塚本は指の間から、足元のアスファルトを見つめた。 全く同じようで、どこか違う。 元居た「世界」とは─── (「いなくなった」のは、「皆」じゃない‥‥‥) 自分だ。 その答えに辿り着いた瞬間、 「!?」 塚本は後ろを振り向いた。 固まったまま動かない、自動車の列の向こう‥‥‥ 彼ではない誰かがコツコツという靴音をビル群の間に響かせて、無人の交差点を渡って来るのが、見えた。 |
written by 羽室セイ 2002年03月01日公開 |