物語の断片集
帝国脱出
四方を焔に囲まれ、ようやく二人は立ち止まった。
逃げ場はもうどこにもない。これで絶対絶命だ。もう港はすぐそこだというのに。
「……囲まれちまったね」
クロルは乱れた呼吸の隙間から、どこか笑いまじりに呟いた。全力で疾走し続けた脚は惨めなほどに震え、その場に膝から崩れ落ちる。
ホーバーは掴んでいたクロルの手首を離し、自らもまたその場にへたりこんだ。体が重くて何をするにもけだるい。
「……ああ、囲まれた」
鸚鵡返しの返答にクロルはクツクツと笑い、立てた膝の上に腕を乗せてそこに顎を埋めた。
「……馬鹿だね、あんた」
二人の周囲では炎が燃えさかり、そのさらに向こうでは爆音や無数の悲鳴が交錯していた。
誰かの断末魔が聞こえる。同時に、狂ったような嘲笑。死の足音は突然で、けれど着実に近づいてきていた。
それでも不思議と怖くはなかった。
「さっさと逃げてりゃよかったのに。そしたらとっくにバックローにたどり着いてたはずなのにさ。……何であたしなんかのとこに来たんだい」
多分、恐怖よりも驚きの方が強かったからだ。何せこの男の行動ときたら、理解の範疇をまるで超えている。あれほどクロルを毛嫌いしていたくせ、何故この土壇場になって自分を迎えに来たのか。それももうとうの昔に軍隊を抜けた自分のことを。
まるで理解できなかった。はじめて会った時からずっと、この男は不可解だ。
けれど一つだけ、今になってようやく理解できることがある。
ホーバーとはもっと早くに、友達になることができた――。
疲れ果てた息の底からの問いかけに、ホーバーはただ無言で首を振った。それがクロルには可笑しい。
「あんたはねぇ、本音を言わなすぎるんだ!だからあたしは全くあんたが理解できないんだよ!それで嫌われたって、そんなのあたしのせいじゃないじゃないさ!全部全部、あんたが悪い!」
死ぬ間際になると人は開き直るのかもしれない。今さら仲直りしたところで何もならないが、それでも自然と口をついて出た。クロルにとっても、はじめての本音が。
ホーバーは憮然と口を引き結び、飛んでくる火の粉に目を細める。
「……嫌ってたのはそっちだろ」
「なーにをーう!?あたしゃ確かにあんたなんか大嫌いだったけど、でも、嫌ったのはあなたが先だったね!絶対、あんたが先にあたしを軽蔑したんだ!だからあたしも訳分からずにあんたのこと毛嫌いしたんだよ!」
「違う。そっちが先だ。絶対そっちが先」
「頑固だねぇ、あんた……」
「そっちが、だろ……」
何故こんなに愉快な気分なのだろう。自分たちはもうすぐ炎に焼かれて死ぬのに。あるいは煙に巻かれて、あるいは怒り狂った海軍たちの手にかかって。
なのに何故こんなにも、心が踊るのだろう。
クロルは傍らのホーバーに視線をやった。
ホーバーは真っ直ぐにその眼差しを見返した。
誰かの断末魔。誰かの嘲笑。誰かの嘆きの悲鳴。
炎が逆巻き、街は赤く焼ける。
面白いぐらいに、絶望的。
なのに立ち上がった二人の脚は、揺らぎなく地面を踏みしめていた。
船長不在
「船長の椅子に座るのだ、ホーバー殿」
床に蹲る少年に、ヴェスドラルは叱咤を飛ばす。
しかし碧色の髪はゆらりとも動かず、やせ細った指もぴくりとも動かない。
「座るのだ!」
ヴェスはうつむく少年の胸倉をつかむと、無理やり引きずって、船長の椅子に座らせようとした。そこで初めて少年は顔を上げる。その目は頑なに拒否を示し、ヴェスの腕を振り解こうとする。
「……嫌だ……ヴェス」
しかしヴェスの腕を、少年の手は引き剥がすことすら出来ない。力の入らない指はただヴェスの肌をかすかに引っ掻くだけだ。──食事もとれない少年には、それが精一杯だった。同様に、もう何日も物を食べていないヴェスの、力の篭らぬ腕を振り解けないほどに。
この船は、痩せ衰えている。
「奴のことはもう見限れ!お前が……副船長!貴方が代わりに、この椅子に座るんだ!」
ヴェスは張り裂けんばかりの胸の痛みを無視して、少年の細い身体をずるずると引きずって、船長室を横切る。少年はかすかに呻き、何かを口走った。
そしてそれは、船長の椅子を間近にした時、爆発した。
「……っやめろ──!」
まるで恐怖に似た、悲鳴。
少年は声を振り絞って、絶叫する。
ヴェスは目を見開いた。
──少年の目尻から、今まで決して見ることのなかった涙が、伝い落ちていた。
「………やめ……ろ……ヴェス」
少年は歯を食いしばって、深く俯く。涙がぼたぼたと床を濡らす。伸びた爪がヴェスの肌を引っ掻き、かすかな声が繰り返しやめろと呟く。
ヴェスは、腕を離した。
少年が床に倒れこむのと同時に、ヴェスもまた脱力し、その場に膝を落とした。
「………もう」
涙を隠すように、頭を抱える少年を力なく見おろし、ヴェスは虚ろに呟いた。
「解放してくれ……」
それは少年への言葉ではない。
「我々を……」
ここにいない彼への──懇願だった。
血と煙の海
鼻歌まじりに船室の扉を開けたガルライズは、思わず呆気にとられた。
あの独特の熱気と匂い。船室の窓は小さい上に、今は閉め切っているようで、空気がむわっと滞留している。
左壁に設置された寝棚の一段目で、薄布の下、セインが見知らぬ女を組み敷いていた。
「……見てんなよ」
予想していなかった光景にぽかんとする彼に、セインが汗ばんだ前髪ごしに鋭い視線を投げかけてくる。しかしその口元には楽しくて仕方ないといった感じの、笑み。
「……おじゃまさーん」
ガルライズは素直にしたがって、部屋の扉をぱたんと閉じて、再び廊下に舞い戻った。
「……っつーか」
扉ごしに聞こえてくる寝台の軋みと、微かな嬌声。
ソレを背にして、廊下を甲板へと歩きながら、ガルライズはぽりぽりと頬をかく。
「女連れ込むなよ……おれの部屋でもあるっつのに」
ガルライズはふと脚を止める。
「………………」
天井を見上げた顔に、やがて浮かぶのは、ニヤリ笑い。
「………ふふーん」
再び鼻歌の続きを歌い始めると、ガルライズは船室まで戻り、その正面の壁にドカッと腰を下ろした。
見張りの交代時間になったので、二層の船室で休もうと階段を降りてきたワッセルは、廊下に腰をおろすガルライズを発見して、首をかしげた。
「……ダラ?船室の前で何してんだ?」
ワッセルの問いかけに、ガルライズはヨッ!と手をあげる。
「ヨッじゃなくてよー……何してんだって」
「え?……うーん」
ガルライズは相変わらずにやにやと笑いながら、火のついていない煙草を食み食み、チラッと意味ありげな視線を目の前の船室に向けた。
「……傍聴会?」
は?と首を傾げるワッセルは、しかしすぐにその答えを知る。
船室の扉の向こうから、微かな物音と一緒に、艶かしい息遣いが聞こえてきたのだ。
「………あー」
ワッセルは少し呆気にとられた顔で、煙草を吸うジェスチャーをする。ガルライズはうなずいて、背のでっかい奴なーとジェスチャーで返事を返す。
「……なるほどなるほど」
腕組して幾度もうなずき、ワッセルはおもむろにガルライズの隣に腰を下ろした。
そして火のついていない煙草を受け取ると、にやにや笑ってごつんと背後の壁に後頭部をあずけた。
やがて数分たって、今度はレティクが静かな足取りで廊下を歩いてきた。
「ハイッ」
「ヨッ」
二人仲良く廊下に座る海賊が、何事もないように通り過ぎようとするレティクに、指をぴたっとくっつけた掌で挨拶をしてくる。
「……ん?」
レティクは訝しげに眉根を寄せ、にやにや笑う二人を見下ろす。
こんな楽しい状況で、おいおいそんな無感情な声出すなよ……とばかりに、二人は互いの肩をおかしげにバシバシ叩きあう。
レティクはあまりに不審な様子に、首をかしげた。
「何してるんだ……?」
『傍聴会』
声を揃えて同時に答える。
何だそれは、と問いを重ねるか、あっそと言ってさっさと去るか、一瞬悩むレティクの耳に、その音は飛び込んできた。
二人の前で閉ざされた船室の扉。その向こうから、ガタンッと大きな音が聞こえてきたのだ。
「わぁお、お激しいのね、帝王さまったら……」
「船壊すなよ~」
二人は相変わらずケラケラと笑う。
火のついていない煙草を食みながら。
その瞬間──刃が鞘を擦る音が、廊下に響き渡った。
レティクがカトラスを引き抜いたのだ。
「……おい、レティク?」
目を丸める二人をよそに、レティクは抜き身のカトラスを手にしたまま、船室の扉へと駆け出した。
「おい……!?」
制止の声を無視して、レティクは叩きあけるようにして船室へと飛び込んだ。
「…………」
船室に入るなり、立ち尽くしたレティクの背中ごし。
ガルライズとワッセルは、脇から顔を出して、部屋の様子を見る。
そして、彼らは凍りついた。
船室には、天井といわず、壁といわず、ありとあらゆるもの全てに、血が撒き散らされていた。
「…………セイン?」
セインは、寝棚の上に座っている。
むき出しの上半身にはやはり血。布を引っ掛けた脚を高らかに組み、胸元から零れ落ちる血など気に留めた様子もなく、悠々と煙草を吸っている。
煙草を挟んだ指とは別の指の間には、三本の短刀。
ふぅ……と天井を見上げて煙を吐き、彼は低く、クツクツと笑った。
「なんつーの……?」
灰色の煙は天井まで上って、ぶつかって、左右に散る。
「犯って……」
セインの足元には血の海。布は血を吸い込んで、裾が赤く染まっている。
「殺って……」
その中に浮かぶ、白い女の裸体。
「ヤリまくり?」
誰も、笑い返さなかった。
異様な情況の中で、一人楽しげに肩を震わせるセイン。
爪先から、不気味な寒気が押し寄せてくる。
セインは笑っている。にもかかわらず、今だ湯気を上げる血飛沫にまみれて、セインは収まらぬ殺意を隠しもせず、部屋の空気を強烈に緊迫させている。
誰もが動けずに息を飲む中、黒髪の帝王はふと顔を上げた。
紫煙の向こうで、未だ殺気立った強烈な眼光。
レティクを笑ったまま睨み据える。
「なぁ………武器、もう下ろせば」
「………………」
「……何、武器かまえてんの」
カトラスの柄を掴んだまま、構えを解かないレティクが、その地底から響くような低声に、僅かに歯をカチカチと鳴らす。平素、滅多に表情の宿ることのない端整な顔は、不気味なほどに青ざめ、同時に激しい焦燥で険しさを帯びていた。
そして彼の手は、カトラスの柄を、血管が浮き出るほどに握りしめている。
セインはなお笑いを浮かべたまま、問いを重ねた。
ゆっくりと。
ことさらに。
「……もしかして………俺に、武器向けてるわけ?」
その瞬間、その場にいた四人全員が行動を起こした。
強烈に高まったセインの殺気に引きずられ、誰もが本能的な殺意を抱いて、目まぐるしい視線を走らせた。狙う相手を視界の端に定め、彼らの手はそれぞれの武器へと走る。
レティクはカトラスを素早く振りかぶった。ガルライズは、セインを狙ったレティクの首筋に短剣を回し、ワッセルはレティクを狙ったガルライズ目掛けて、刃の軌道を思い描いた。そしてセインは構えた三本刃をピクリと揺らし、レティクを見据える。
全員が全員、それぞれを肉塊に変える瞬間を頭に思い描いていた。
利害の一致。真の友情と、かりそめだった友情。
──誰かが動けば、全員が死ぬ。
長い、恐ろしく長い睥睨の末。
最初に殺意の刃を収めたのは、セインだった。
「………帝国」
呼吸することも忘れ、背後の殺意と、前方の殺気に凍りついていたレティクは、ドッと噴出す脂汗を頬から垂らして、それでもどうにかカトラスの柄から手を離した。
それを受けて、ガルライズが短剣を胸元へ引き戻し、握り手に添えていた手を、半ば無理やり引き剥がした。
ワッセルもまた、レティクの安全を確認すると、震える息をこっそりと吐きだして、カトラスに添えていた手を離した。
「……の、密偵」
セインは今までの緊迫感など、まるで忘れてしまったような気怠い口調で、ぽつりと呟いた。今はもう笑みは浮かんでいない。ただつまらなそうに、煙草をふかしているだけだ。
指に挟んだ三本刃をひらひらさせて、セインはちらりと倒れ付す女の死体を見下ろした。
おもむろに足で蹴って、白い死体を仰向けにする。
その肩に浮かぶのは、死した後に浮かぶと言う帝国軍部の刻印。
「お分かり?」
バクス帝国からの逃亡中の話、つまり今から十年くらい前の話。
セイン=25歳
レティク=23歳
ガルライズ=24歳
ワッセル=22歳
ダラ金が、テスと同い年の頃です。噴出しそうになっちゃったヨ……テス、なんてガキなんだ!
当時、バクスクラッシャーの船員は30人を越える程度しかいませんでした。そしてその顔ぶれは、二年間共に公的海賊として活躍した仲間ばかりではなかった。
バクス帝国を脱出する時、多くの仲間は船に辿りつけず、海軍によって惨殺されてしまった。船に乗れたのは生き残った船員と、そして混乱に飲まれるように、バックロー号へと乗船した、他船の船員たち。
そのためこの頃のバクスクラッシャーは、今よりもずっと疎遠で、互いに信頼もなく、仲間意識も持っていなかった。
そんな仮初めの「仲間」
上の四人も表面上では、仲間として握手を交わしたが、深層心理ではまるで心を赦していなかった。
特にレティクは、単純なワッセルや、彼同様に血濡れた道を行くダラ金とは違って、公的海賊時代から惨殺を繰り返してきたセインに、どうしようもない警戒心を抱いていた。
──必死に押し隠し、そして自分もがその警戒心を解いたと思っていた時、セインの恐慌はレティクの決して消えたわけではなかった警戒と恐怖を表面化させたのだ。
バクスクラッシャーが、本当の「仲間」として結束し始めたのは、実はごく最近。
ラギルニットが船長となってからの事。
今、もしも同じことが起きたなら、四人はどう反応するだろう。
セイン=25歳
レティク=23歳
ガルライズ=24歳
ワッセル=22歳
ダラ金が、テスと同い年の頃です。噴出しそうになっちゃったヨ……テス、なんてガキなんだ!
当時、バクスクラッシャーの船員は30人を越える程度しかいませんでした。そしてその顔ぶれは、二年間共に公的海賊として活躍した仲間ばかりではなかった。
バクス帝国を脱出する時、多くの仲間は船に辿りつけず、海軍によって惨殺されてしまった。船に乗れたのは生き残った船員と、そして混乱に飲まれるように、バックロー号へと乗船した、他船の船員たち。
そのためこの頃のバクスクラッシャーは、今よりもずっと疎遠で、互いに信頼もなく、仲間意識も持っていなかった。
そんな仮初めの「仲間」
上の四人も表面上では、仲間として握手を交わしたが、深層心理ではまるで心を赦していなかった。
特にレティクは、単純なワッセルや、彼同様に血濡れた道を行くダラ金とは違って、公的海賊時代から惨殺を繰り返してきたセインに、どうしようもない警戒心を抱いていた。
──必死に押し隠し、そして自分もがその警戒心を解いたと思っていた時、セインの恐慌はレティクの決して消えたわけではなかった警戒と恐怖を表面化させたのだ。
バクスクラッシャーが、本当の「仲間」として結束し始めたのは、実はごく最近。
ラギルニットが船長となってからの事。
今、もしも同じことが起きたなら、四人はどう反応するだろう。