TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~
08
──ユキちゃん、好きだよ、ホントーにほんとーに大好きだ。
ユキがニコリと笑って、小首を傾げる。
──え? 本当かしらって? 本当だって。もぉ、めっちゃめちゃ好きだよ。
ユキはまたクスクスと笑い、後ろで手を組んで背を向ける。
──ユキ? ユキは、おれのこと好き?
ユキは肩ごしに振り返り、笑顔を──消した。
『臭いから、キライ』
「嘘だぁぁぁああああぁぁ────」
テスは泣き叫んだ。
「──────ぁぁあ!」
叫びきった。
「臭い訳ない! 臭い訳ない! ユキちゃんに限って気のせいなんてある訳ないけど敢えて言うなら勘違いいや嗅ぎ違いそーだそーだそうに決まってるやだなぁユキちゃんたらだっておれ毎日毎日海で泳いでるし臭い訳ないあ分かったそうかユキちゃんは潮臭いって言いたかったんだねそーかそーかなぁんだでもそれは海海とは即ち自然自然とは即ち母あでもその理論だとおれってユキちゃんのお母」
「ウンコ」
「そぉ、ウンコよウンコ! おれってば超ウンコ! ──……ウンコぉ!?」
テスは目を見開き、飛び起きて、
──ゴン。
何かにぶち当たって、撃沈した。
「──────っくぅー……っ」
強烈に打った額を両手で押さえ、甲板の上に尺取り虫の様にのたうち回り、
「……って、甲板?」
我に返った。
テスは辺りを慌てて見回した。
抜けるほどに青い空。雲一つない大空は、同じ色をした海にやがてぶつかる。
ここは海に浮かぶ海賊船バックロー号の甲板。
「……ユキ。いない……」
しばらくボーっと染みるような青を見つめ、ポカンと開けた下唇を何となくつまんで離す。
ユキはいない。いない。即ちつまり。
「夢かぁー! 良かったぁー!」
盛大に安堵の息を吐き出して、テスはほぉっと胸を撫で下ろした。
そうだ、夢に決まっている。だってユキは嫌いだなんて言う訳がない。
「たとえ言ったとしても、ユキなら理由も言わず、嫌いって言うだろーしなぁ、てへ!」
それで良いのか、テス。
「しかしウンコだなんて……、……──ウンコ!」
テスはハッと目を見開き、恐る恐る自分の身体を見下ろす。
ひょろりとした細身の身体。
バクス帝国の健康男児の平均身長。
女どもに無理矢理着せられてそのまんまの、似合いすぎる半ズボン。
それにべったりと付いているのは、茶色の物体。
「……う、うあ……ぁ」
ほぼ自失状態で、ぼたぼたと垂れ落ちる物体Xを眺め見送り、テスはふらりと顔を上げた。するとそこに、世にも恐ろしい光景が広がっているのが目に入ってしまった。
つい先程まで自分を取り囲んでいた悪魔の巣窟の悪魔たちは、皆白目を剥いて甲板のそこらで仰向けに倒れている。立っている者はいない。……いや、立っている者はいるにはいる。気絶しているが。皆全身、物体Yに塗れている。甲板の上にも、物体Zが散らばっている。
──突如平和な世界を脅かした、空からの来訪者、物体(初めに戻って)Aは、力を持たない罪なき人々を容赦なく襲い、今まさに世界は崩壊しようとしていた。
物体B、即ちウンコによって。
臭い匂いに包まれた世界を救えるのは、そう、彼しかいない。
今こそ彼の立ち上がる時。
さあ行け、我等が勇者、便所マン!
──次回につづく。
「……っうわぁぁ──! 頭の中でエンディングテーマが流れてるぅー!」
現実逃避しかけていた罪なき人々その4、……いや、テスは、夕日を背に仁王立つ、勇者のシルエットを頭から追い出して、必死にあっちの世界から戻ろうとする。
自分は今、空から降ってきたウンコに塗れている。つらい現実だが、それは認めなくてはならない。そして今しなくてはならないのは、このウンコを洗い流すことだ。そうでないと夢が現実になってしまう。これからユキに会いに行くというのに、臭いまんまで会いにはいけない。
洗い流そう、排泄物。
深い意味もなく標語を作って、テスは固い決心の眼差しで、船べりの向こうの海を睨み据えた。
一歩足を踏み出し、そのまま走りだ……
「……いい加減、無視すんのヤメロ」
……そうとして、足をひっかけられ、
──ゴン。
転んだ。
「──あう……っ」
強烈に打った額を両手で押さえ、甲板の上を尺取り虫の様にのたうち回り、
「……って、甲板?」
我に返った。
テスは辺りを慌てて見回した。
抜けるほどに青い空。雲一つない大空は、同じ色をした海にやがてぶつかる。
ここは海に浮かぶ、船バックロー号の甲板。
「……ユキ。いない……」
しばらくボーっと染みるような青を見つめ、ポカンと開けた下唇を何となくつまんで離す。
ユキはいない。いない。即ちつまり。
「夢かぁー! 良かったぁー!」
盛大に安堵の息を吐き出して、テスはほぉっと胸を撫で下ろし、……フと我に返る。
「……あれ? デ・ジャヴュ?」
「アホかぁぁああ!」
突如上がった声に、テスは慌てて首を巡らせた。ぐるりと見渡すと、少し離れた場所に額を赤くした子供が、片足だけを前に伸ばして座っていた。
もぎたてのオレンジ色をした髪の毛。褐色に焼けた肌。特徴的な三白眼を、今は涙目に釣り上げて、こちらを睨み据えている。
「あ、あれ? キャエズじゃーん」
「じゃーん、じゃなーい!」
甲高い声をわめかせて、船大工見習いの少年キャエズは、オレンジの頭をばりばり掻きむしった。
「人がせっかく気絶してたところを起こしてやったのに、いきなり頭突き食らわせて、それだけならまだしも、おれをとことん無視して一人芝居しやがって……、あげくにデ・ジャヴゥだと……っ!? おれの超虚しい無視され三分間を、一人でなかったことにするなぁ!」
「??? え、えっと、ごめん……」
良く分からないが圧倒されて、テスはとりあえず謝っておいた。こちらの怒りに反して、あっさり素直に謝られ、キャエズは気まずげに口ごもる。
「……いいけどさ、別に。……どうでもいいけど、何で海に飛び込もうとしたわけ?」
「え──」
答えようとして、テスは言葉を失う。
そうだ、何をやっているのだ。自分は身体にまとわりついた、このおぞましい物体を洗い流すつもりだったのではないのか!
こんな所で、呑気に雑談している場合ではない!
「とぉ……!」
テスは気合一発跳ね上がり、唐突に海に向かって走りだした。
待っていておくれ、カラ・ミンス!
「おれを、受け止めてぇぇ……っふぎゃ!」
──ゴン。
「だから無視すんなっちゅーに」
本日二度目の足払いを強行したキャエズは、見事にスッ転んだテスの後頭部をチョップした。
とどめをさされて、テスは甲板にうつ伏せに倒れたまま、しくしくと泣き出した。
「あ、あんまりだ。これからユキちゃんとデートなのに……」
「デート?」
「ああ! 神様の意地悪! 愛する人とのめくるめく愛の時間に、く……っ臭いまま行けって言うんですねぇ!? いくらおれたちの深い深い熱ーい愛が、妬ましいからってぇ!」
「……どうでもいーけど、ソレ、ウンコじゃないぜ」
「ああっ、おれのこのバーニングな思いを、打ち砕……?」
ようやく正気を取り戻して、テスはキャエズを振り返る。キャエズは「やっぱり」といった顔で、チラリと見晴らし台の方を見上げた。
「ラギっちゃんのイタズラでしょ、今のは。匂いもしないし、単なる泥」
「……も一回言って」
「ド・ロ」
「……」
どろ【泥】=水が混じって軟らかくなった土。
「泥……。ほんと……?」
「匂い嗅いでみろよ」
「……──うわぉー! ユキちゃーん! おれってば、いい匂いー!」
テスは安堵の余り、よろよろと甲板に膝を落とした。
「よかったー! ああー、もう、そーだよなー、ウンコなわけないよなー! 誰のウンコだっつーの!」
てへてへ笑って、テスは自分の頭をぺしっと叩いた。まったく、気絶までして恥ずかしい限りだ。こんなところをユキにでも見られでもしていたりしたら、どうなっていたことか……。
「はぁ。良かったよ、ほんと……」
「ところがあんま良くないんだな」
渋い顔のキャエズが、テスの安堵に水を差す。
あんま良くない?テスは不思議そうに少年を見返し、そして彼の指さす方に首を巡らせた。
テスはいきなり正気に返った。
「実はさ、舵手も気絶しちゃって」
少年の指さしたのは、舵台。舵輪の側には誰もいない。誰もいない。
「誰も船、制御していないんだわ」