TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~

03

AM8:55

 その頃医務室では、ログゼが突き指をして腫れてしまった指を氷水で冷やしていた。
「てなわけでさ。今頃テスの奴、ショックで倒れてんじゃねぇかな……って思って」
 時々指を洗面器から出しつつログゼが呟くと、医務室の住人たちはそれぞれの感情の度量でもって反応を返してきた。
「可哀相に。楽しみにしてたでしょうに」
 洗ったばかりの包帯を手慣れた様子で巻きながら眉根を寄せたのは、船医長のフィーラロムだ。
「……本当に……」
 天使のように美しいその横顔をぼんやりと見つめ、薬品棚の整理をしながら、真面目実直な船医クステル=フォルロイツ=リーフェント=レムアが適当にうなずく。そのうざいほどに長い名前から、「うざ太郎」などと皆から呼ばれている彼が、実はフィーラロムに惚れているらしいことは公然の秘密だ。
「テス、かわいソウ」
「甘いっちょ! 本当におなごが大事なら、泳いででも帰るべきっちゃろ!」
 同じく船医の二人、ミンリーとカヴァスじいが、片言のリスト語、妙な方言で続く。
「ま、奴の不運は今日に始まったことじゃないし?」
 結局どうでも良さそうに、そうログゼがしめくくった時である。
 ばきぃ! と音をたてて、唐突に医務室の扉が吹っ飛んだ。
 全員が呆気にとられて注目する中、もうもうと立ちこめる埃の中から現れたのは、白目を向いて泡を吹き、奇怪な言葉を呟いているラヴ……を担いだテスであった。
「た……っ助け……っ」
 テスはぜぇぜぇと風のような悲鳴を上げて、ラヴとともに床に倒れこむ。
「……ラヴじい、血が! ミンリー、お湯を用意! カヴァスじいは寝台整えて! クステル、薬!」
 フィーラロムの指示で皆がテキパキと動きだす。
 医学の知識などからきしなログゼは一人手持ち無沙汰に、倒れ伏すテスの元へと歩み寄った。
「どったの? テス」
「し、知んないけど、リズが追って来るんだ……!」
「へぇ?」
 ログゼは首を傾げ、壊れた扉を踏みつけて、廊下を見渡した。
「……歳だな。おっさんも、廊下の向こうで倒れてるぜ」
「へ? ほんと? ……たはぁ……」
 テスはガックリと頭を落とした。ログゼはぽりぽり鼻の横を掻いて、その側にしゃがみこむ。
「思ったよりはるかに元気そーだぁね。今みんなで心配してたとこなのに」
「ああ……、……ああ! そうログゼ、頼みがあるんだ!」
 テスは勢い良く顔を上げる。ログゼはキョトンと首を傾げた。
「頼み?」
「そう! 錠開けをやってほしいんだ!」
「……そりゃまた、随分唐突な」
 テスは必死の思いでログゼにしがみつく。そのあまりの真剣さに、ログゼはたじろいだ。
「頼む! 今度、ドーナツおごるからっ!」
「……い、いや、別にドーナツはいいけど……。オレが錠開けしたら、テスは助かるわけ?」
「そう! 助かる助かる、命懸けるほど助かる!」
「……いや、別に懸けんでいいけど。……何か知らんけど、いーぜ?」
 ──いーぜ。
 テスは信じられない思いで、ログゼの言葉を反芻して目を見開いた。
「本当に……?」
「おう、どこの鍵だろうが、開けてやるよ」
「……地獄の間の鍵でも?」
 上目遣いに尋ねると、ログゼはなにか事情を察したらしく、一瞬その顔をしかめた。しかし彼は口をひん曲げつつうなずいた。
「ま、別にいいけど?」
 パアァァァァァァ……!
「ログゼェェェェェ……ッ!!」
「げ! な、何だよ!」
 あまりの感動に、テスは涙と鼻水を流しながらログゼを抱きしめた。
「やっぱり持つべきものは友達だぁ……っ」
「おま、っ鼻水! 汚ねぇっての!」
「てへ。……んじゃ、んじゃ! 早速だけど!」
 だが未来への展望が見えかけた、その時である。
「──ログゼ?」
 ログゼが突如奇妙な顔をし、そのままゆらりとこちらに倒れこんできた。テスはとっさにログゼを抱きとめる。ログゼはテスの腕の中で、一つ痙攣をすると、そのままぴくりとも動かなくなった。
 おそるおそるテスは顔を巡らす。室内の方へ、すなわち、救急箱の飛んできた方へ。
「話を聞くところによると……ラヴちゃんを傷つけたのは、テス、ぬしっちょね?」
 救急箱を投げましたー! という姿勢のままでこちらをじっと睨んでいたのは、ラヴじいさんの親友であるカヴァスじいであった。テスはわたわたと後ずさる。
「ご、ごめんなさい。おれの不注意ですっ」
 カヴァスはふふと笑うと、白衣のポケットからメスを取り出す(ポケットにメスを入れないように)。ラヴの治療で手一杯な他の船医たちは、新たなる怪我人が出ようとしていることにまったく気付かない。
「素直で結構っちょ。しかーし、偶然の事故など、この世に存在しなーい! っかぁあくごするっちょ、テスぅう!」
「うっそおおー!?」
 テスは腕の中のログゼを放り捨て、身を翻して逃げ出した。それをカヴァスがメスを振りつつ猛追してくる。
 ──再び三十分に渡って、追走劇が繰り広げられた。

「……はぁ、っはぁ……っ」
 海賊船中を散々走り回った末に、ようやくカヴァスが追ってこなくなった。テスは樽の影に逃げこんで、荒い呼吸を繰りかえす。
「元気すぎだよ、じいさんってば……!」
 へとへとである。何だか情けなくて泣きたくなる。
 風が吹き、テスの汗を冷やしていった。気持ちは良いが、しかし嫌な風だ。──この風はどんどんユキちゃんとの距離を拡げていているのだから。
(せっかく上手くいきそうだったのに)
 ログゼはあの調子では当分昏睡していることだろう。
(おれはただ、ユキちゃんに会いたいだけなんだぁーっ)
 テスはバンバンと甲板を叩き、ぐるぐると転げ回る。
(挫けそう……)
 そう思った一瞬後、すぐにテスはぶんぶんと首を振った。
(くじけるな、おれ! ユキちゃんが待っているんだぞ、おれのことを!)
 そうだ、ユキちゃんのためなら、どんな試練にも耐えてみせる!
「ようし! やるぞぉ!」
 こうして再び、テスは青い空に誓いの拳を振り上げるのだった。

AM9:40

 鍵は駄目。ログゼもいない。
 となると、残るは一つ。
(やりたくないけど、やりたくないけど、ユキちゃん、許してくれ……!)
 テスはぐっと拳を固めると、目の前に立ちはだかる船長室の扉を、勢いよく開けた。
 バターンッ!
「……っびっくりしたぁ! どうしたのさ? テス」
 室内にはお馴染みの顔触れが揃っていた。
 ボンバー美人な姐御クロルと、丸眼鏡のおとぼけ兄さんシャーク、フェミニストで美男子でたらしのバザーク、愛らしい船長のラギルニットと、そして、
「ああ、もう地獄の間から出たのか。おつかれ」
 平穏な笑みを浮かべる、副船長ホーバー。
 テスはポカンとした様子の他の四人には目もくれず、ズカズカと一直線にホーバー目掛けて歩を進めた。
 そして、ぴたりとホーバーの前で立ち止まる。
「? テ……」
 ホーバーがきょとんと口を開く。
 が、その前にテスはホーバーをきゅっと抱きしめた。
「副船長ー! 好きだぁぁぁ!」


「だから、セインたちを釈放して?」


 優に五分は経過した気がする。
 白く染まっていた室内がようやく色を取り戻したころ、何か音がした気がした。
 ブチッ、っと……。
「……テス……」
「なんだい? 副船長、いや、愛しのホーバーっ」
 腕の中でホーバーが小刻みに震える。本能的に恐怖を感じ身を引こうとしたテスだったが、それは叶わなかった。ホーバーの両腕がテスの背に回り、がっしりと抱きしめられる。
「……ホ、ホーバー、苦しいデス……」
「ふふ、ごめん。でも一言だけ言わせてな」
 チャキリ……。
 背中の方で、なんだかとても聞き慣れてしまった不吉な音がする。
「あのさ……」
 バクスクラッシャーきっての剣豪は、テスの耳元に口を寄せた。

「そんな寝言は、寝てても言うなー!!」
 ざく!!

 うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!!

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