嵐を支配する男

02

 正午をわずかに回ったころ、船鐘が激しく打ち鳴らされた。
「嵐が来るぞー……っ」
 まだ東の空が明るいうちに上がった警告を受けて、怒号と足音とが第一層から第三層までを駆け抜けてゆく。
「持ち場につけぇ!」
 廊下の向こうから聞こえた指示に、寝棚で休んでいたルイスはぎくりと肩を震わせた。
 すぐさま飛び出してゆく仲間を追って船室を出たルイスは、廊下の丸窓から見える西の空を見やった。
 東の空とは対照的に、西の空からは暗雲が急速に近づいてくるのが、肉眼でも確認できた。

「海賊島はもう目の前だ、このまま嵐の中を突っきる。全員配置につけ!」
 甲板へと集まった船員たちに、キースの号令がかかった。風は刻一刻と強まり、髪が激しくなびいて視界をちらつかせる。船員は一斉に持ち場へと走り、甲板はあっという間の騒動となった。
 そんな中、ルイスだけはいつまでもその場に立ち尽くしていた。
 彼は震える顎を持ちあげ、動揺に揺らぐ目を舵台へと向けた。
 舵台には、誰もいなかった。
 船員たちは次々と配置についてゆくのに、舵台にはただ無人の舵輪だけが立っている。
「……どうした」
 後ろから誰かが肩を叩いてくる。
 キースだ。含み笑いですぐに分かる。
「早く持ち場につけ、ルイス」
 持ち場。その言葉を聞いた彼の視界の中で、まるで誘うように、舵輪がぐるりと捩じれた。呪いにも似た強烈な力が、舵から発せられている気がした。

 ――ルイス……。

「……!」
 舵輪の向こうに誰かの姿を見た気がして、ルイスは固く目を閉じ、顔をそらす。
 今、自分はどんな顔をしているだろう、そんなことを麻痺した頭でぼんやり考える。きっと死人のような顔をしているに違いない。キースが体調が悪いのだと諦めてくれたらと、そんなくだらないことを願う。
 だがそんなこと、ありえるわけがないことはよく分かっている。
「ルイス」
「で、出来ません。俺は、舵なんて……」
 うつむいたまま、ルイスは消え入りそうな声で呟いた。
 キースは嘲笑に頬を持ちあげた。
「では全員、波に呑まれて死ぬな。おまえ以外に舵を取れる者はいない」
「そんなの――嘘だ……!」
 瞬間的にルイスは激昂した。肩に置かれた手を乱暴に払いのけ、キースを憎しみをこめて振りかえる。
 キースは相変わらず不穏に笑っていた。
「嘘、と?」
「俺以外にいないなんて……さっきまでほかの船員が舵をとっていた!」
「ほう、それは気づかなかったな。それは誰だった?」
「それは……っ」
 ルイスは先刻まで舵をとっていた仲間の名を口にしようとして、ハッと言葉を途切らせた。
 キースの眼が細い線を描く。
 ──それは?
 自分は今、一体何を言おうとしたのだろう。
 舵を握りたくないから、他の者にその役割を押しつけようと?
 大切な仲間にその役割を押しつけようと?
 友人に、死に役を押しつけようとしたのか!?
「……!」
 唇に痛みが走る。歯の隙間を抜けて、口内に血の味が広がった。
「ルイス、カラの御加護がありますように」
 キースはさもおかしそうに笑い、立ちすくむルイスに背を向けた。
 やがて降り出した雨に、ルイスは涙を流すように顔を濡らして立ち尽くした。

 それは想像を絶する嵐だった。
 ロフェスを死に追いやった嵐とは比較にもならない。
 風は甲高い悲鳴をあげながら、船を横倒しにしようと、慈悲の欠片もなく叩きつけてくる。雨は視界を白くし、必死に働く船員たちに痛みを覚えるほどの強烈な礫を喰らわせる。波はことごとく船べりを越えて甲板に侵入し、船は辛うじて沈まずにいるといった風体であった。
「たいした腕じゃないか、ルイスは」
 作業の手を止め、舵台を見上げていたホーバーに、背後からキースが声をかける。
 ホーバーはあからさまに顔をしかめ、横目で船長を振りかえった。
「意外だったな。まさかこれほど腕の立つ舵手だったとは」
 それを意に介した様子もなく、キースは何が可笑しいのか、肩を小刻みに震わせた。
「捨て駒のつもりだったんだが……使い捨ては惜しかったか」
 それを聞きとがめ、ホーバーはようやくまともにキースを振りかえった。
「捨て駒?」
 雨に濡れたキースの顔が、壮絶な微笑を宿す。
 稲光が空に走り、檸檬色の双眸が冷たく輝いた。
「やはり所詮は帝国の犬、生粋の海賊とは違う。知らないのも無理はないか。……ルイスは知っていたようだが」
 ホーバーは眉をひそめた。
「捨て駒、そのままの意味だ。この辺りは世界でも屈指の暴風海域。カラの加護から完全に見放されている。いや、あるいは見初められたのか……」
 嵐の海は背筋が震えるほどに美しい。海面を打ちつける落雷、怒涛に渦まく海面、押し寄せる高波。ひとつ判断を誤れば、船はたちまち海底へと引きずりこまれてしまう。
 海の女神カラ・ミンスは二面の顔を持つという。ひとつは穏やかなる静寂の海を、いまひとつは荒れ狂う嵐の海を。女の悲鳴にも似た強風は、カラの悦びに震えた歓喜の絶叫なのかもしれない。
 キースは顔を雨降らす天へと向け、その腕を優しく開いた。
「この海は呪われている。どんなに有能な舵手であろうと、この嵐を制することは不可能だ。……獣も食えぬほど不味くなければ、な」
 ホーバーは本筋をわざと隠しながらしゃべるキースに苛立ちを隠せず、拳を握りしめた。嵐はすでに逃れがたいほど激しさを増し、二人の周囲では船員が必死の面持ちで駆けずり回っている。
 というのに、対照的なこの男の余裕が腹立たしい。
「本当に知らないのか、この海域のことを。魔の海域と恐れられるその由縁を?」
「知らないから聞いているんだ」
「この嵐には理由がある」
 キースは笑い、そして言った。
「地底のそこら中に、ファレオバウスの巣がある」
 ホーバーは目を見開いた。
「ファレオバウス――人食いの海獣!?」
 それは船乗りならば一度は耳にする魔物の名だった。
 ある特定の海域にのみ棲むという、ほとんど伝説に近い魔物だ。普段は海底に造った巣に身をひそめているが、捕食期に入ると、獲物をとるため、海に強烈な嵐を巻き起こすと言われている。
 キースは恍惚とした表情で、灰色に霞む水平線を見つめた。
「そう。奴らがいるから海賊島は、海軍の干渉を受けずに済んでいる。何故か知らんが、奴らは「舵手」という生き物をひどく好物にしている。舵手を一人食らえば、嵐は見る間に静まるんだ。海賊島に行く時には、いつも町で適当な舵手を浚って舵台に立たせるのだが、今回はあいにくと仕入れが間に合わなくてな。おかげでロフェスには死んでもらわなくてはならなかった」
 キースの優美で無骨な手が、芝居がかった動作で空を切る。
「ロフェスには悪いことをした。すすんで生贄となった奴を、俺は生涯忘れないだろう。……カトラスを下腹に生やし、操り人形のように舵をとった奴の姿をな」
 船が泣くように軋んだ音をたて、彼は哀れみに目を細めた。
「ロフェスの犠牲は実に痛かった。俺は優秀な舵手が死んでゆくのを黙ってみていられるほど太っ腹じゃない。無能な人間ならいくら死のうとかまいやしないが、役立ってくれる者が死ぬのは、あまり嬉しくないことだ。ならば有能な舵手が舵をとるよりも、無能な舵手が舵を取った方が効率が良いだろう? どちらにしろ、結果は同じなのだから」
 沈みゆく船の上で、彼の微笑はあまりに不自然だった。
 キースの言っている意味がようやく分かり、ホーバーは愕然と立ち尽くした。
「食わせるのか、ファレオバウスに」
 伸びた腕が、微笑みつづけるキースの胸倉を掴みあげる。
「ルイスに死ねと命じたのか、キース……!」
「ならばお前が代わるか? 副船長殿」
 言うなり、キースは疾風の速さで腰からカトラスを引き抜いた。鞘の立てる一瞬の音を聞くと同時に、ホーバーもまた自らのカトラスを抜き放ち、眼前に迫る刃を紙一重で受け止めた。
 刃の重なる甲高い音は、雨音に飲まれて消える。
 ホーバーは冷笑を浮かべる金髪の男を、憎悪をこめて睨みつけた。それを笑みだけで受け流し、キースはホーバーの刃を弾いて、あっさり構えをとく。
「言っておくが、ルイスを止めるなどと言うなよ。今さら奴を舵台から引き離せば、嵐に飲まれて全員が間違いなく死ぬ」
 キースは忌々しいほど鮮やかに笑い、ホーバーの耳元に顔を近づけた。
「おまえの判断が、船員の命を生かしも奪いもする」
 キースは微笑を浮かべたまま、ホーバーの側から去っていった。
 ホーバーはただその背を睨みつけることしか出来なかった。
『二度と取りたくはなかった』
 ふとルイスが零した言葉が耳によみがえった。
 あれは一体どういう意味だったのだろう。
 まるでルイスはファレオバウスに食われることより、舵そのものを取ることに恐れを抱いているようだった。
 舵を取るルイスの姿が、ひどく小さく見えるのは気のせいだろうか。

 ルイスの意識はほとんどなかった。
 嵐に翻弄される船を支配するため、震える手で舵を取り、死に物狂いでそれを繰った。瞬きひとつしない見開かれた眼は、帆の様子を、波の向きを、風の具合を必死で探り、腕はままならない舵を左に切っては、また戻しを繰りかえした。
「うう、う……っ」
 無意識にルイスは呻き声をあげる。
 恐怖で足がすくみ、彼にはもはや船員たちの怒号すら聞こえない。
 強風のうなりが、悲鳴に聞こえた。
 あの日の、あの時の、悲鳴に聞こえた。

 ――ルイス……!

 もう何年も前の話になる。
 わずかな貨物と乗客を乗せたその小船は、ルイスと、親友レイバルの手によって、ケナテラ大陸へと向かっていた。
 航海はじめの数日は、ほかの船員も乗客たちも、ほとんどの時間を甲板で過ごすほどの穏やかな天候がつづいた。
 しかしその天候は、ケナテラ大陸上陸直前に崩れ去った。
 それは近年、稀に見る大嵐であった。
 高波に呑まれた船は、急速な浸水に見舞われた。沈没は免れてはいたが、それも時間の問題に思われた。
 その日、舵手を務めていたルイスは、これ以上の操舵は不可能だと判断した。緊急用の小船が海上へと落とされ、乗組員の指示で、乗客はみな海上へと逃げだす。
 船はいよいよ海中へと呑まれはじめる。ルイスは乗客全員がすでに小船に移ったことを確認した。いや、それが本当に「全員」なのか、もはや数える余裕すらなかった。
 ルイスは自らも小船に移る前に、親友レイバルの姿を甲板に探した。しかし甲板に彼の姿はない。どうやら彼もまた小船へと移ったらしい。
 ルイスは安堵に息をつき、ついに舵輪を手放した。これで船はあっという間に傾くだろう、それまでのわずかな間に逃げなければならない。ルイスは船べりへと向けて、雨に濡れる甲板を駆け出した。
 そのときだった。
『ルイス……!』
 レイバルの叫び声が、暴風にまぎれて聞こえてきた。
 驚いて首をめぐらせると、傾斜した甲板の奥、船室へと続く扉にしがみついているレイバルの姿が確認できた。
 強風に必死で耐えているその姿が、声を張りあげる。
『ルイス、舵を取れ!』
 ルイスは耳を疑った。一瞬、自分が幻覚を見ているのだと思った。
 舵を取れ?何を言っている。もはや舵を保つことは不可能だ。これ以上、船に留まれば、自分たちは確実に船とともに海底へと引きずりこまれる。
『何を言っているんだ! おまえもはやく逃げろ!』
 必死の忠告は、しかし予想だにしなかった言葉に打ち砕かれた。
『駄目だ! 船内にまだガキがいるんだ!』
 子供――?
 ルイスは海上に浮かぶ小船に目をやる。だがその意識は舵輪へと持っていかれた。
 もう時間がない。
 ルイスは焦りに唇を噛み、口早に叫びかえした。
『……もう全員避難した! 俺たちも行くぞ!』
 そしてルイスは海へと飛びこんだ。
 そうすればレイバルもついてくるだろうと思った。
 すぐに。きっとすぐ後を追ってくると。
 だが、レイバルは来なかった。
 親友の姿を求めて背後を振りかえったルイスの目に飛びこんできたのは、レイバルの悲しげな顔だった。
「レイバル?」
 思わず泳ぎを止め、ルイスは聞こえるはずもない呼びかけを口にする。
「――レイバル……!」
 レイバルはルイスから顔をそらすと、あろうことか船室へと、恐らくはもう水で満たされただろう船室へと飛びこんでいった。

 それきりレイバルは戻らなかった。

 殺したのだ、自分が。
 見殺しにしたのだ、船室の子供たちを。
 そして、レイバルを。

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