眠る前のあの歌を…
09
食堂には、ただ食器の奏でる高い音ばかりが響いていた。
休暇最後の晩餐は、やけに静かに進む。
黄金の休暇、六日目。
「ごちそうさん」
無言の食卓のさなか、おもむろにクロルがフォークを置いて、席を立った。
バザークとホーバーは食事の手を止め、思わず不審の視線を彼女に向ける。
「もういいのか?」
「全然手つけてないじゃないか」
クロルの皿はほとんど手付かずだった。大食いはないが、出されたものは残さず食べるのが常なので、それはなにやら奇妙なことに思えた。それに何よりも、酒を一口も飲んでいない。
「あ、もしかして口に合わなかった?」
「なに言ってんだい! 今日の料理はあたしが作ったんだよ」
皿を片付けに厨房へ行くついでに、クロルがバザークの頭を皿の底で叩く。
「いやさ、ちょっと、夕飯前につまみ食いしちゃってねぇ」
「つまみ酒だろ」
「少し外の風にあたってくるよ」
ついでに、ホーバーの足も踏んでおく。
皿を片し、食堂を廊下へと向かって横切るクロルを、バザークはひょいひょいと腸詰肉付きのフォークを振って見送った。
「暗いから気をつけて、ハニー。海に落ちて、お星様にならないように」
「ふふ。あたしが星になったら、一等星ぐらいに輝くよ!」
クロルはにやりと微笑み、廊下の闇へと消えていった。
バザークはその姿が見えなくなるまで見送り、浮ついた溜め息を落とした。
「やっぱ、いい女だなー」
改めて感嘆し、口の端っこで腸詰肉に齧りつく。
「六日目、か」
プチッと皮が弾け、肉汁の旨みが口の中に広がる。
「勝負をかけるなら、今夜か、明日」
それをもごもごと食べながら、バザークは隣の席へと横目を向けた。
先ほどの一件が気まずいのか、あるいは考え事でもしているのか、ホーバーはバザークの喋りを無視し、だんまりを貫いている。
それを視界の隅に見つめ、バザークはふと、笑った。
「……ホーバー。俺さ、実は前に一回だけクロルに告白したことあるんだ」
ホーバーは、思いもよらぬ暴露にようやく顔を持ち上げた。
バザークは肩をすくめると、その細めた眼差しの奥に憧憬を宿らせた。
「って言っても、クロルは、俺が本気なんて思わなかっただろうけどね」
曇天から舞い降りた、白亜の鳥。
手紙を足に巻きつけたそれは、欄干の上で軽やかに踊る。
手紙に書かれた内容になど、まるで無頓着な様子で。
『バザーク?』
手紙を握りしめ、懸命にこらえた涙は、柔らかなその呼びかけ、ただそれだけで堰を切ったように溢れだした。
『どうかしたのかい?』
もう、何年も昔の話だ。
「船を、下りたい……」
バザークはこみ上げてくる涙を堪え、その時たまたま近くにいたクロルへとそう漏らした。
いつも快活なバザークからは想像もつかない哀しげな背中に、背後に立ったクロルもまた心配そうに声を落とした。
「どうして……」
「ばあちゃんが危ないって、手紙がきた」
バザークの両親は幼い頃に他界している。そのため、彼は物心がついてから、ずっと祖母と二人きりの生活をしていた。
祖母には、どれだけ感謝をしても足りない。どれだけ頬にキスを送ったって、愛してるを伝えきれない。バザークが公的海賊となったのは、病気で臥せるようになった祖母を高名な医者に診せるため、その医療費用を稼ぐためだった。
だが戦争が終わると、バザークは国を追われる身となっていた。
国を追われて数年、この果てない大海原を逃げつづけて数年。国に帰ることなど夢のまた夢で、あの時からただの一度も祖母の元へ帰っていない。
それどころか、逃亡の果てにバクスクラッシャーは、別の海賊によって船を乗っ取られ、バザークは自由に船を下りることすら許されていなかった。
船を、下りたい。それは叶うはずもない、渇望。
「約束したのに……。病気が良くなったら、ばあちゃんの好きだったダンスを一緒に踊ろうって。毎日、ずっと踊ろうって……っ」
バザークは声を押し殺して、抱えた膝に顔を埋めた。
その震える肩に、労わるように温かな掌が置かれる。
しばらくして、それは静かに去っていった。
散々涙を流したせいで、少しだけ落ち着きを取り戻したバザークの元に、クロルが戻ってきたのは、数分後のことだった。
「悪いねぇ。やっぱりダメだってさ、あの堅物」
最初は、彼女の言う意味が良く分からなかったバザークだったが、クロルの頬、ひどく腫れた左頬に気がつくと、彼はハッと顔を強張らせた。
「まさか、ハーロン船長の所へ? 殴られたのか!?」
必死に詰め寄るバザークには答えず、クロルは右手に持った酒瓶を掲げて見せた。
「そのかわり! 酒をちょっくらかっぱらってきたよ! 一緒にどうだい?」
それが、最初のはじまり。
クロルは笑う。悲しみなど全て吹き飛ばしてしまう、豪華な笑顔で。
気づいたら目で追っている。彼女の笑顔から目を離せない。
それが恋だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
「君の瞳に、俺の姿は映ってないのかい?」
船縁に手を置き、海を眺めるクロルに、バザークは思い切ってそう囁いた。
だが本気に取らなかったのだろう。
クロルは小さく笑って、答えた。
「映ってるさ。友人としてね?」
あの時の落胆を思い出し、バザークは情けない笑顔で鼻を掻いた。
「あのとき決心した。いつか時が来たら、もっとはっきり自分の思いを伝えようって」
告白の顛末を聞き終えて、ホーバーは何とも言えない顔で、肩を落とした。
「……確かにそれだと、冗談にしか聞こえないな」
「本気の告白だったんだけどな……」
「…………」
一度、告白を冗談と受け取られたバザークは、慎重になった。
また同じように告白をしても、本気では受け取られないだろう。真剣さを伝えるためには、違うやり方をしなければ。
言葉では駄目だ。態度でも伝わらない。それはいつもやっていることだから。
自分にとって、一番想いを的確に伝えられるのは、どんな手段か――。
バザークはニッと笑うと、フォークで皿をカンッと叩いた。
「というわけで作ったのが、愛の歌ってわけだ! あぁ、今度こそ、俺の身もだえするほどの熱い想いは、きっとクロルに伝わるに違いない!」
「……それでも、あくまでその路線なわけか」
普通に告白するという考えは、そもそもバザークには存在しないらしい。これは今回も真剣に取られないな、とホーバーは呆れかえる。
が、しかしその考えは、一瞬にして霧散した。
前にクロルが言っていたではないか。
バザークの歌声を聴きながら、やけにぽーっとした目つきで。
心が落ち着くよ。
「……でー?」
バザークは整った顔立ちに毒のある笑顔を浮かべた。
「今でも愚鈍男の考えは変わらず、クロルが幸せなら誰でもいいなんてほざいちゃうんでしょうかね?」
そんな顔をしておいて? と、挑戦的に顎を反らすバザーク。
ホーバーは憮然と眉根を寄せ、手にしたままのフォークを見つめた。
そして彼は何かを決心したように目を細めると、フォークを皿へと放った。
甲高い音は、まるで始まりを告げる鐘の音。
ホーバーは決して見ようとしなかった親友の顔を、今度こそ真っ直ぐに見返し、
「……!?」
不意に、顔を上げた。
廊下の奥の方で、何かが倒れるような音がした。
二人は不審げに顔を見合わせると、同時に席を立った。
廊下へと走ると、冷たい床の上に、クロルが身動き一つせずに倒れていた。
その夜、突然の雨が、無人島に降りそそいだ。
生温かい雨が、船窓を激しく打ちつける。外の様子はまるで見えず、ただ窓をひっきりなしに伝う雨の雫だけが、外の暴風を物語っていた。
室内にカンテラの灯油の匂いと、湿気の匂いとが漂っている。船が揺れるたびに明かりもまたちかちかと揺れ、緋色の光が物影を、大きく、また小さくと変化させる。
影が二つ揺らめいた。それは部屋の扉を開けると、やがて外の闇へと溶けてゆく。
雨漏りでもしているのか、水の滴る音が聞こえていた。
バザークとホーバーは、船内をただ無言で歩く。
雨脚はどんどんひどくなっているらしく、船壁を叩く音がやけに耳につく。
前を歩くホーバーが足を止めた。
つられてバザークも足を止める。
「……悪い」
「……え?」
「もっとちゃんと気をつけていれば、すぐに気づいたことだった。それを倒れるまで気づかなかったなんて」
「やめろよ。……お前より、俺のほうがクロルといたんだ」
「変なところはあったんだ。やけにぼんやりしてたっていうか、だるそうだったっていうか。食欲もなかったし、酒だって……気づいてたはずなのに」
「やめろって」
力なく制し、制したくせに、バザークもまた言葉を失った。
クロルが倒れた。
ひどい熱を出していて、廊下で倒れたまま、名前を呼んでも意識が戻らなかった。数時間の看病のすえにようやく熱は引いたが、今も、クロルは自室で眠りつづけている。
ずっと、気づかなかったなんて。
バザークとホーバーは暗い顔でうなだれる。
そして同時に、ガバッと頭を抱えた。
(一歩リードって……!)
バザークは、最初の朝にホーバーへと投げかけた言葉と、そして自分の勘違いを思い出し、赤面死しそうになった。
何が一歩リードだ、何が脈ありだ、勘違いもいいところじゃないか!
今思えば、クロルは具合が悪かっただけなのだ。よろめいたのも熱があったからで、足元がふらついていたからだ。そして自分を見つめてきたのだって、視界がぼやけたからだとかそんな理由に違いない。
「は、恥ずかしい……!!」
悲鳴を上げるバザーク。
その手前では、ホーバーもまた青ざめていた。
心が落ち着く、バザークの歌声を聞いて呟いたクロルの声、クロルの目。あれはただ熱に浮わついていただけだったのだ。バザークを見て頬を紅く染めたのも、そのせいだろう。ただ光の角度の問題で、それまでだって赤かったのに気づかなかっただけで。
それを自分ときたら!
「なんて根暗な……!」
やっぱり悲鳴を上げるホーバーである。
二人は無言になって、どっぷりと暗い溜め息を落とした。
「何が愛の告白だよな」
バザークは自嘲の混じった笑みを浮かべ、呟いた。
「好きな人が具合悪いのにも気づかないで、なにが愛の歌だよ」
だが無理やり浮かべた笑みはやがて儚く消え、ふたたび、重い息が零れた。
「最低だ」
くぐもった雨の音だけがする廊下に、彼の声はひどく鈍く響きわたった。そしてそれは同時に、二人の心の奥底にまで響いて聞こえた。
ホーバーがうなだれたまま、また廊下を歩きだす。
バザークもまた似たり寄ったりに肩を落として、その後に続く。
引きずるような、重たい足音。
亡霊のように、薄暗い顔で歩く二人の男。
――立ち止まったのは、まったくの同時だった。
二人は一秒の差もなく、くるりと半回転すると、今来た道を早足で戻り始めた。
「……おい、お前の部屋はあっちだろ」
並んで足早に歩きながら、ホーバーが隣のバザークに言う。
バザークは負けじとばかりに足を速めると、目を険悪に細め、鼻で笑った。
「そっちこそ、船長室は上だろ?」
スタスタスタスタスタスタ……。
ズダズダズダズダズダ……ッ。
ダダダダダダダダダッ! !
「……! 何で追ってくるんだよ!」
「たまたま同じ方向に歩いているだけだ!」
「歩いてるだあ!? ふざけんな! それは走るって言うんだよ!」
「速歩だ! 馬鹿!」
二人は互いに牽制しあいながら、廊下を大爆走する。
船室を何部屋も過ぎて、廊下を奥へ奥へと走り、ついに一番奥まで走りつく。
そこで、彼らはピタリと足を止めた。
目の前には扉がひとつ。
それは、つい先ほど、開けて出てきたばかり部屋。
「…………、ついたぞ。俺の目的地」
ホーバーが横目で睨むと、バザークもまた剣呑と目を細めた。
「奇遇だな。目的地も同じか」
扉を前に、二人は互いにジリジリと睨みあう。
だがそれは長くは続かなかった。
どちらともなしに口端を緩め、二人は堪えきれずに吹き出した。
「ガキか、俺らは」
「まったくだな」
同意して、バザークは扉のノブに手をかける。
そして穏やかな微笑みを浮かべると、ぽつりと呟いた。
「お前に勝つことばかり考えて、大事なことを忘れてた」
見つめてくるホーバーを見返して、バザークは微笑を苦笑に変えた。
「別にさ、お前に勝ったって、クロルは俺を見るわけじゃない。お前と俺と、どっちがクロルを強く想ってるかなんて、比べられるわけもないし、比べるべきものでもない。……俺自身がクロルを想ってる、それだけでよかったんだ」
クロルを大切に想う気持ち、愛しいと想う気持ち。
周りにどんな強敵がいても、一番大切なのは、自分自身のクロルへの気持ちなのだ。
見失ってはいけない。本当に大事なのは、ただこの恋心。
「今回はちょっとそれ、忘れてた」
バザークは独り言のように呟くと、不意に、ホーバーの肩を豪快に引っぱたいた。
「……おし! 反省終わり! さ、お見舞いお見舞い!」
「……おう」
ホーバーもまた、苦笑まじりにうなずいた。
そっと扉を開くと、カンテラの仄かな明かりが目にはいってきた。
「あんたたちかい?」
二人はぎくりと体を縮こませた。驚いて見ると、眠っているはずのクロルが、寝棚に横たわったまま顔だけをこちらに向けていた。
「クロル、大丈夫か? 具合は……」
ホーバーは声音を落とし、足音をひそめて寝棚に寄る。
クロルは傍らに立ったホーバーを、困ったように笑んで見上げた。
「すまないねぇ……」
「びっくりした。いきなり倒れるから」
「ずっと熱っぽいとは思ってたんだけど、まさか倒れるなんて。自分でもびっくりしたよ。廊下歩いてたら、いきなりくらっときて……」
「風邪だろうな。最近、気温の変化も激しかったし……」
申し訳なさからか口早に説明をするクロルに、ホーバーは安心させるように笑いかける。
「悪かった、気づかなくて。でも今度からは無理しないで、ちゃんと俺たちに言えよ」
「ごめん、うん、……ありがとう」
「……少し寝ろ」
ホーバーが明かりを消そうとカンテラに手を伸ばした、
そのとき。
静かだが優しい歌声が、クロルとホーバーの耳に入ってきた。
バザークが扉の前に立ち、静かな声で歌っていた。
いつか船員たちの前で歌っていた、あの歌を。
風のつよい夜は きみにひとつ歌をあげよう
そよ風のように穏やかで しずかな音色を奏でよう
今宵 きみを包む風は 揺れるゆりかごのよう
揺れうごく籠は
きみをのせて歌う あの歌を……
クロルは穏やかな眠りの中へと入っていった……。
暴雨は翌日の昼には過ぎ去り、空は昨夜の暗雲が嘘のように、青く澄みわたっていた。
もうすぐ、船員たちが戻ってくる。
満面の笑みを浮かべ、居残りご苦労と嫌味ったらしく声をかけて。
黄金の休暇、七日目。
雨もすっかり乾き、ほどよく熱せられた甲板の上にデッキブラシを放り投げて、ホーバーとバザークは大の字に寝そべっていた。暑いのに、なんだか眠ってしまいそうな陽気だ。
「……七日目だな」
「……七日目だな」
眩しいぐらいの空の青。
磨かれた甲板が、真っ白に反射して目が痛い。
ホーバーは逃げるように、バザークへと視線を向けた。
「……どうするんだ? バザーク」
バザークは微かな風に髪を揺らしながら、目を閉じて答えた。
「……また今度、頑張るさ。歌も未完成だしね」
「そうか」
「それに、今回はもっと大切なもん見つけた」
「……へぇ、何?」
「人を愛するという幸せ」
一瞬の沈黙。
ホーバーは顔を空へと戻して、呟いた。
「……応援はしない」
「分かってますとも。ま、地道にいけ」
「……お前もな」
七日目の青空に、溜め息が落ちる。
「なぁ。黄金だったかな」
「さぁ。黄金だったかな」
ふと遠くで二人を呼ぶ声が聞こえた。
いつもの、元気なクロルの声だ。
二人は、笑った。
「黄金だったな」
「ああ、黄金だった」
数時間後、誰かがうるさいほど船鐘を鳴らした。
空一面に響きわたる、高く澄んだ鐘の音。
バクスクラッシャーの黄金の休暇は、終わりを告げた。