眠る前のあの歌を…
07
舵輪の下に座ること数時間。
昨日完成したはずの歌詞を見つめ、真剣に考え続けてた結果、ついにバザークは歌詞をまるまる破棄することにした。
紙を両手に持ち、躊躇いを打ち消すように目を閉じて、中央から破いてやる。勢いのまま小片になるまで破りまくると、彼は紙くずとなった「思い」を空めがけて放り投げた。
穏やかな海風が紙片を拾い、ゆっくりと上空へと運んでゆく。バザークは少しの落胆を織り交ぜた達成感の溜息を吐き出した。
昨日の夕方のことを思うと、心の奥がざわざわと不穏に揺れ動いた。
『ホーバーのことを羨ましく思っている』
無意識に、ずっと気付かないふりをしていたのだろう。クロルを純粋に想っていると言いながら、心の奥底で感じていた親友への羨み。
クロルを想うがゆえの羨みには違いない。だがそんな感情を持って書いた歌など、きっとどこか言い訳くさいに違いない。そう思って改めて見返した歌詞は、実際、今のバザークにはただの利己の塊に見えた。
こんな歌、クロルに捧げることなどできない。ホーバーとのことはクロル自身には関係のないことだ。クロルにはもっと一番大事なことを伝えたい。飾った言葉などではなく、ただ本当に伝えたい想いだけを歌にのせたい。
伝わるのなら、一言でいい。
今まで散々くさい台詞を駆使して、クロルを口説いてきたバザークは、初めてそう思った。
「さぁ、やり直しやり直し」
いっそすっきりした気持ちで微笑むと、バザークは紙とペンは傍らに置いたまま、静かに目を閉じ、浮かんだ旋律と言葉を音にしていった。
紙片はやがて太陽の中に吸い込まれ、見えなくなった。
とはいえ、普段のバザークはやはりバザークである。
「美しい薔薇には棘があるって言うけど、なんて可愛らしい話だとは思わない?」
休暇五日目ともなると、さすがに掃除をする場所もなくなる。暇を持てあました居残り組は、自然と食堂に集まっていた。
「そんな酒の肴にもならない話、思ったこともないし、深く考えたこともないね」
キラリと白い歯を輝かせる色男の顔を、クロルは鼻の穴膨らませながら、ブサイクな半目で見上げた。そんな顔すら美しいよ、おてんばお嬢さん! と思いながらも、バザークはわざとらしく首を横に振った。
「お茶目な黒猫の尻尾さん。いいかい? 薔薇はただ恥ずかしいだけなのさ。惨めなほどに弱い心をさらけだすのが恐ろしくて、どうか見ないで、触れないでと、棘の奥で震えているだけなんだ。愛する人の前では、人は驚くほどに臆病になる……ああ、なんて愛らしい話だろう」
「私ゃ単に、害虫とかから身を守るために、生えてるんだと思うけど。棘」
「甘い、甘いね、クロル! まるで砂糖菓子のよう……!」
「というかもっと楽しい話はないのかい! せめてその話にオチつけとくれよ、笑えるオチをさ!!」
「オチはつまり、その薔薇はクロルのことだよ、ってことをね」
「へぇ……笑えるね」
「ああ……! 朝露に濡れた僕の薔薇……君は僕のために笑ってくれるというのかい……!」
「このアホにつける薬はないのかい!」
クロルは両腕で頭を抱えて、ガバッとテーブルに突っ伏す。その腕をバザークは、ららら~と歌いながら、執事が贈り物のリボンでも開けるような手つきでほどいてゆく。
と、じゃれているとしか思えない二人のやり取りを完全無視し、紙束と睨めっこしていたホーバーが唐突に席を立った。思わず動きを止めるバザークの視線の先で、彼は食堂の入口目指し、のろのろと歩きだした。
「なんだい。また寝るのかい、あんたは」
クロルが呆れ半分で声をかけると、ホーバーは半分閉じている目を瞬かせて首を振る。
「いや……昼寝」
「いや、の意味がさっぱりだけどねぇ。おやすみー」
「え、ホーバー」
背を向けたまま、書類の束を頭の上でひらひらさせるホーバーに、思わずバザークは声をかけていた。
ホーバーが眠たげな顔で振りかえってくる。
その「なに?」とでも言いたげな表情。
バザークはひどく困惑し、彼には珍しく口ごもった。
「いや……えっと」
「……おやすみ」
だがホーバーはまるで話を断ち切るかのように言い放つと、固い足音と一緒に入口をくぐり、廊下へと消えていった。
「……おや、すみ」
残されたバザークはぽつりと立ち尽くし、無意識に伸ばしていた右手で頭をぽりぽりと掻く。背後でクロルが、気力のない声でぼんやり呟いた。
「さぁて。一人でバザークの相手するのもかったるいし、あたしも寝るとするか」
「……そうだね」
物凄い失敬な言葉に、幸か不幸か上の空で答えて、バザークはただ親友の去っていった廊下をいつまでも見つめていた。
はっきりした形を持っていなかった疑念は、昼を過ぎる頃には確信へと変わっていた。
ホーバーが、邪魔してくることをやめた。
「何だよ、何だよ」
ぶつぶつ言いながら、舵輪の中央に嵌めこまれた造船社名の刻印金属プレートを、丹念に磨く。そのうちだんだん腹が立ってきて、バザークは造船社憎し!とばかりに、両手でもってプレートを擦りはじめた。
「調子が狂うじゃないか!」
朝から昼までのわずか数時間。
その短い時間の間ではっきりそうと実感するほど、クロルと二人きりの時間が増えた。
つまりホーバーが彼らといる時間が、減ったということだ。
それまで散々邪魔してきたくせ、突然、邪魔をやめた。クロルといるバザークを見ても、特に何をするわけでもなく通りすぎてゆく。それだけなら、まだ新手の嫌がらせかと思いこむこともできたが、それ以外ではほとんど船長室か武器庫の屋上で、書類の整理なんぞしているのだ。
ここ数週間、船長、副船長をはじめとしたバクスクラッシャーの頭脳陣は、何かと忙しそうにしていた。黄金休暇中の散々さぼったツケを、今になって慌てて処理しているのかもしれないが、それにしても無反応すぎる。
避けているという風ではない。ただ休暇以前の態度に戻ったようなのだ。
バザークが焚きつける前の。邪魔すると宣言する以前の。
クロルへの想いを完全に隠した、以前のあの状態に。
(でも何で急に)
理由は何であれ、放っておくべきだというのは分かっていた。
元々バザークが無理やり動かしたようなものなのだ。邪魔をやめることにしたのなら、当然、それを尊重すべきだ。
だがバザークにはどうしても、そうすることが出来なかった。
『……もったいない』
自分で言った言葉が、呪いのように頭の中で繰りかえされる。
「気付かなきゃ、よかったのに……」
バザークは低く独り言を漏らし、ふと頭上に広がる蒼天へと目を向けた。
──あの日も、こんな目に染みるほどの青空だった。
身も凍る落下音。誰よりも速くに駆け出した足音。
気付かなければ良かった。
親友もまたクロルを想ってることに、気付かなければ良かったのに。
そうすれば、自分に対する劣等感に気付くことだってなかった。
「……あー! 自分に腹が立つー!!」
バザークは苛々と歯噛みすると、磨き粉の染みこんだ布で、頭をバシバシ叩きはじめた。
そしてそれを、前触れもなく船長室から出てきたホーバーに思いきり見られてしまった。
「何してるんだ?」
ホーバーは船長室の屋上部分にあたる舵台の上で一人大暴れしているバザークを、呆気と見上げた。バザークは考えていたことが考えていたことだけに、ギクリと肩を震わせると、布を頭に乗っけたまま、声もなく口を開閉させた。
「禿げるぞ」
見かねたのか、ホーバーがぽつりと忠告してくる。
そこでようやく我に返り、バザークは大慌てで布を頭から引っぺがした。しかし時すでに遅し、柔らかな黒髪には、磨き粉が大量についてしまっていた。
「っああ!」
わたわたと粉を払い落とすと、ホーバーが呆れた様子で舵台に背を向けた。
「あ、ちょ──ホーバー!」
去ってゆく背中を見て、バザークは反射的に焦燥を覚えた。
それは朝からずっと見つづけてきた光景だった。何の説明や解釈をしてくれるでもなく、無言で去ってゆく親友の後ろ姿。バザークの動揺や困惑など完全に無視して、まるで突き放すみたいに。
そして再びそれを目にしたバザークは、何を考えるよりも先に、舵台脇の階段を跳ぶように駆け下りていた。
せめて理由を知りたい。
何故、唐突に態度を変えたのか。
何故、邪魔することをやめたのか。
クロルへの思いは、伝えぬままで終えるつもりなのか。
『……もったいない』
交錯する様々な思いを歯を食いしばって押し隠し、バザークは甲板を横切った。
背後から飛んでくるバザークの呼び声に、ホーバーは武器庫の手前で足を止めた。
ほんの一瞬、ホーバーは何かを躊躇するようにうつむく。
だがバザークがそのことに気付くより先に、彼はいつもと変わらぬ顔を持ち上げていた。
ホーバーに追いついたバザークは、軽く息を整えると、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「おまえ、何で、なんで──っ」
だが女の子たちを前にしたときの饒舌さはどこへやら、バザークの舌は適当な言葉を見つけ出せず、虚しく空回った。
ただ黙って先を促すホーバーにどうしようもない焦りを覚えて、結局バザークは悩みまくったすえに、思いきり直接的な聞き方をするしかできなかった。
「なんで、いきなり邪魔すんのやめたわけ!?」
つまり、相手の返答すら詰まらせるような聞き方である。
「……なんで、って」
ホーバーは直球すぎる質問に言葉を失い、やがて呻くように反芻した。
「……前も言っただろ。俺は動く気はないんだって」
「それは知ってる、でも動いただろ? なのに何で急に、それをやめたんだって……」
執拗に問いを重ねるバザークから視線をそらし、ホーバーは決まり悪そうに答える。
「いや、それが……さんざん邪魔して回ってたせいで、仕事がたまりまくって。休暇中に仕上げとかないといけない仕事だったのに、すっかり忘れてたんだ……阿呆な話」
それは、バザークが先ほど予想した通りの答えだった。
「……そう、なんだ」
バザークは拍子抜けした気分で、曖昧に切りかえした。
「そ……か」
これで納得すべきだった。欲しい答えはもう得られたのだ。
けれど、まるであらかじめ準備していた答えを聞かされたような気がするのは何故だろう。
心の霧は晴れるばかりか、さらに濃さを増してゆく。困惑するバザークに気がついたのか、ホーバーは自嘲するように苦笑って、つけくわえた。
「それに……邪魔したいわけじゃなかったんだ。悪かった」
「…………」
「もう邪魔はしない。お前は好きにやれよ。休暇は残り二日だろ?」
そう、休暇はもう残り二日しかない。二日後にはやかましい船員たちが戻ってきて、雰囲気作りはおろか、クロルと二人きりになる機会すらなくなる。
分かっている、そんなこと。
「……じゃ」
話は済んだとばかりに、ホーバーが再び彼に背を向けた。
バザークは返す言葉を見つけられぬまま、ホーバーの横顔を見送る。
そしてその瞬間、彼は気がついた。
いつも真っ直ぐに前を見ているホーバーの蒼い瞳が、話している間、ただの一度たりともバザークを直視しなかったことに。
ホーバーは、嘘をついている。
「……好きにやれ? 残り二日?」
そのことに気づいた途端、口から無意識に言葉があふれ出した。
「お前に……っそんなこと言われたくない!」
そして気付けばバザークは、親友の背を睨みすえ、罵る勢いで吐き捨てていた。
「邪魔したいわけじゃないなら、やりたいことやればいいだろ! 好きなら好きって伝えろよ! お前になんかやるかって言えばいいだろ! なんでそんな逃げ回るような真似するんだよ! 好きにやれ? 残り二日だ? 無理して気取りやがって──余計なお世話だ!」
その挑発的な言葉と口調を受けて、ホーバーはぴくりと痙攣したように足を止めた。
「……余計なお世話?」
彼は目だけでバザークを振りかえる。
そこには、微かな苛立ちが混じっていた。
「どっちがだよ。何なわけお前、この間から。俺がどうしようと、お前には関係ないだろう」
「……関係ない、って」
そしてバザークは短慮な反応を返してくるホーバーに対して、瞬間的な怒りを覚えた。
「そんな言い方ないだろ!」
嫌な沈黙が流れた。
二人はそのまま、無言で睨みあう。
だが、どちらかが第二声を発するより先に、ホーバーが視線を逸らし、バザークに背を向けた。
朝からずっとそうだったように。
「ちょっと待てよ……!」
それで最後の躊躇いが吹き飛んだ。
バザークは気付けばホーバーの肩を背後から鷲掴んでいた。そして強引に自分の方を振り向かせると、その肩を思い切りどついてやった。
ホーバーが背後に数歩たたらを踏む。体勢を立て直すより一瞬遅く、喧嘩を売られたことに気がついたホーバーは、怒りに任せてバザークの胸倉を掴み上げた。
「……だから、何だって聞いてるだろ!」
その腕を、バザークは力任せに振り払った。
「何だ、って聞くなら何でいつも逃げるんだよ、本当は分かってるから逃げるんだろ!?」
「分からないから聞いてるんだ!」
「分かれよ、何で分からないんだよ、本当は分かってるくせに!」
怒鳴りつけると、ホーバーは話にならないとばかりに大仰な溜息を吐きだして、顔をそむけた。
馬鹿にしくさった態度に、バザークの中で何かが爆発し、気付いたら彼はホーバーの左頬を思い切りぶん殴っていた。
「──」
「……あ、ごめん」
自分でも無意識の行動だったので、バザークはまともに拳を喰らってよろめくホーバーと、じんじん痺れている自分の右拳と唖然と見比べ、間抜けな口調で謝った。
それで和解できるなら、世の中もっと平和だ。
当然のように、ホーバーはぶちキレた。
「──!」
容赦の欠片もなく、拳が吹っ飛んでくる。まだ自分の行動にぽかんとしていたバザークは、思い切り拳を頬に受けて、右後方に大きくよろめいた。
「あ、謝ったじゃないか!」
バザークは怒りで顔を赤くすると、体勢を立て直した勢いそのままでホーバーの胸倉を掴みにかかった。
「それで済むと思ってるのか!」
ホーバーは逆に、向かってくるバザークの胸倉を鷲づかんで、乱暴に引き寄せた。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ!」
「それはこっちの台詞だ!」
明らかな身長差が縮まって、二人は至近距離で怒鳴りあった。
「何だよ本当はクロルのことが好きなくせに、何で理由つけて動こうとしないんだふざけんな!」
「だから関係ないって言ってんだろ!」
「そういう言い方ないだろって言ってるだろ!」
「じゃあどういう言い方しろっていうんだ! 第一、関係ないのは事実だろうが!」
「……っそうだよ! 関係ないさ! こっちの方が余計なお世話だなんて、そんなの分かってる!」
「だったらほっとけよ、俺は動きたくないんだよ!」
「──っ仕方ないだろう!」
ほとんど中身のない言い争いのすえ、バザークが詰まる思いを吐き出すように、裏返った怒声をあげた。
「おれだってこんな格好悪い真似なんて……、なのにお前がそんな……卑怯だ!」
喧嘩の時ですら柔らかな彼の言葉が不可解に空回る。
ホーバーが不審げに眉根を寄せる。
そしてバザークは、気付けばがむしゃらに叫んでいた。
「だから……っもったいないって言ってるだろ!?」
その言葉が、ホーバーの動きを完全に止めた。
たった一瞬前まで確かに浮かんでいた怒りを表情から消し去り、そのかわりに困惑を宿して、彼はバザークを見上げる。
バザークは肩で息をし、悔しげに唇を噛んで、自分の黒い影を見つめた。