Silent voice
第三話「お兄さん、心労に倒れる」
ホーバーは朝から機嫌が悪かった。
朝っぱらから家の前でトラップと格闘し、セインと大喧嘩したせいだ。しかも、ラギルニットはあれだし、ウグドはなぜか来ない。そのせいでラギルニットは元気なフリをしているが、やはり落ち込んでいるのが痛いほど分かる。
一年ぶりの島下りを楽しみにしていたというのに、何故こんなことに……。
ただでさえ船の上では苦労が絶えないのだ。二号船の船長キースにいびられまくり、問題が起きぬように暗躍し……。やっっっと暇が出来て、しかも運命の神様万歳、くじにも当たって、ラギルニットと本当に久しぶりに会えたというのに。
「だる……」
ホーバーは鉛のような体に鞭打って作った昼飯を一人で食べる。
ラギルニットはセインに引っ張られて、外で仲良くお散歩らしい(仲が良いかは、はなはだ疑問だが)。
ともかく止める間もなくいなくなってしまった。
味のしないスープをのろのろとすすりながら──味がしない。感じられないだけだろうか。味付けが薄いのだろうか。後でセインに文句をつけられるのも癪だし、もっと濃くしておくべきだろうか──、ホーバーはウグドのことを考える。
何故ウグドは来ないのだろう。ラギルニットの様子もおかしかったし、以前に喧嘩でもしたとか……。
それでウグドが来ない? それはいくらなんでも、大人気なくないか?
(奴の考えていることはさっぱり分からん)
ホーバーはもう一度嘆息して、味のしないスープをどうにか平らげた。
「……疲れた」
机の上に突っ伏すと、ひやりと冷たくて気持ちよかった。
タネキアの気候は暑いことこの上ないが、今日はいつもよりさらに暑い気がする。色々とやらなかればならないことがあるのに──前回ここに来た奴らが大量の洗濯物と、大量の埃を残していって、家中ひどい有様なのだ──、どうにも動きたくない。
「はあ」
呻いて、本日すでに二十回目の溜め息を落とし、無理やりに立ち上がって、はっきりと自覚症状のある苦労性を満足させるために、皿洗いを始めるのだった。
「もーお昼だよ、セーイーンー!」
ラギルニットじゃ疲れた声を上げて、眠りこけるセインを揺する。
ぐがー、ごっごごご、んがー!
「起きてよ、ホーバー、まってるよー!」
「んー……、うさぎさんとうふふふふー」
こりゃダメだ。
今二人は浜辺にいる。ホーバーとさんざん喧嘩したセインは、嫌がるラギルニットを引きずり、ここまで来て、何か歌え! と命令し、ふざけんなと文句をいうラギルニットに笑い転げ、ひとりきり笑うと眠りの妖精にあっちの世界へ連れて行かれてしまった。
波の音がセインの高いびきと、わけのわからない寝言をさらってゆく。
「もー、一人で帰っちゃうよー!」
「……ふへへへ。プリプリヴァニーちゃん……」
「帰るよ! 帰るからね!」
「……酒池肉林……ぐは」
ラギルニットはもはや何もいう気になれず、とりゃっとセインの頭を蹴り飛ばすと、タッと駆け出した。
気分は今だに一度たりと脱獄者成功者の出ていない、民間人は存在すら知らない国家機密刑務所から抜け出せた無罪受刑者のような感じだ。──今回のセインは本当に気持ち悪い。
いつもなら近づいても来ないのに、何故今回に限って自分を引きずりまわすのだろう。死にそうなほど笑いながら。
ホーバーと遊びたいのに。こんなこと生まれて初めてではないだろうか。
「あれ? 違うや。もっと小っちゃいときはよく来てた気がするな」
そう、昔はもっとよく遊んでくれた。気がする……。
この花の名前は○○○だよーとか、色々なことを教えてくれた気が。さっきのようにおかしそうに笑いながら。
「は、花の名前を教えてもらった!?」
自分で思い出しといて、ラギルニットは身震いした。
セインと花なんぞ、むさくるしいムキムキおじさんとピンクのリボンとレースで縁取られたエプロンドレス並に、結んでも結びつかない連想部品ではないか。
ラギルニットはそれでも無理に迷想してみる。
うららかな春の陽射し。互いを競うように咲き乱れる色とりどりの花たち。華やかな色彩の蝶が、香しい香りにぼんやりとかすむ空気の中を、遊ぶように舞っている。
タンポポの綿毛が緩やかな風に吹き上げられ、花の中で寝転んでいたラギルニットの鼻先に、そっと舞い落ちた。
──くしゅん!
くしゃみをすると、綿毛が驚いたように離れてゆく。すぐ隣で笑い声が上がった。
──あははは……。
ラギルニットはぷうっと頬を膨らませて、そちらの方を見る。視線の先には背の高い男が、やはり花に囲まれて寝転がっていた。
──笑ったなぁ! だってあれ、くすぐったいんだもん!
ラギルニットの文句の声に、男が顔をこちらに向け、穏やかに笑う。
──あれは、タンポポって言うのさ。タンポポはあの綿毛に子供を乗せて、遠い遠い世界まで旅させるんだ。
男の顔がほころぶ。彼の名前は、セ……
「っぶ!」
たまらずにラギルニットは吹き出した。そのまま野原に転がって、足をじたばたさせて笑い転げる。
「おっかしー! タンポポって言うのさ、だってー!」
セインの口調と表情を真似しつつ、再びゴロゴロと転げまわる。
散々笑った後、ようやく立ち上がり、草を体中につけたままスキップで走り出した。
「まっさか! 想像すら出来ないや。誰かとごっちゃになってるんだ。──あー、お腹すいた! はやく家に帰るぞ! おもかじ、いっぱーい!」
干したてのシーツを、形を整えるため両側から引っ張ると、小気味良い音とともに、わずかな水気がキラキラと舞った。木と木の間に張られたロープには、服やら敷き布やらが大量にかけられている。風が吹いて、洗濯物が、青い空を泳ぐようにたなびいた。
「ふー」
今のが最後の洗濯物だ、そして今のでおおかた家の中は片付いた。ホーバーは大きく伸びをして、かがんだり伸ばしたりした腰を回す。そしてそのまま地面にぶっ倒れた。
「疲れた……」
ロープを張った木の下に上手いこと倒れたので、タネキアの太陽の直射日光は避けられた。地面がひんやりとして気持ちよく、涼しい風が汗の滴をぬぐってゆく。
どっと眠気が襲ってきた中で、ホーバーはぼんやりと考える。
今のでとりあえず家の仕事は終わったし、ラギルニットと、腹が立つがセインの分の飯もちゃんとテーブルの上に出しておいたし──セインの分を出しておかないと、ラギルニットの分がとられてなくなることは目に見えているのだ──、疲れていることだし眠ってしまおう。最近自己管理が怠り気味で、しっかりしないとクロルやシャークやらに怒られるのだ。
──眠い……。
だんだん閉じてゆく視界には、目も覚めるような鮮やかな空と、頭上でたなびく白いシーツだけだ。何となくそれを確認して、ホーバーは知らず知らず眠りの海へともぐっていった。
いきなりだが、ホーバーは夜道を歩いていた。
狭い土の道で、街灯が道の片側にだけ並んでいて、ぼんやりと地面を照らしている。
道は前を向いても後ろを向いてもひたすら一直線で、やがて闇に没している。街灯以外は全て闇だ。だから、この狭い道がまるで闇の中に浮かんでいるかのように見える。
ブーン。
そんな音に、ホーバーは顔を上げた。見ると街灯にたくさんの羽虫が群がっていた。
『飛んで火に入る夏の虫ー!』
唐突に背後で声がして、バッと後ろを向き、ホーバーは硬直する。
いつのまにか背後の道筋の果てに、巨大な黒光りした壁が、どでーんと音を立てそうな勢いで立っていた。
いや、壁じゃない。信じたくはないが、壁じゃない。
このどでかい、油っぽく光る茶色い物体は、
『ゴキブリだよーん!』
「ぎゃあああ!」
ホーバーは絶叫した。どでかい壁はまさしくゴキブリだった。しかもなぜか二本足で直立していて、加えて、その腹に小さくセインの顔がある。
『小さな虫けら発見補足! つぶしたいなーつぶすぞー! だってこれは軍事社会だからっ』
まったく意味の通らないことを言って(エコー付き)、ゴキセインがいきなりダンゴ虫よろしく、ぐるんっと丸くなった。そして、ドドドドッと音を立ててこちらに転がってくるではないか!
「ひぃぃぃぃぃぃ!」
ホーバーは走り出す。狭い小道を走る、走る、走る!
と、いきなり道の先にお坊さんの後姿を見つけた。
「もしっそこのお坊さん! お助けを!」
必死に叫んで手を伸ばすと、お坊さんがぐるりんっと首を180度回転させて、こっちを振りかえった。
『お坊さんって、こんな顔ー?』
お坊さんは、真顔のまま割り箸を二本鼻の穴に刺して、もう一方の先端を下唇と下前歯の間に差し込んだ、ウグドであった。
「ぎゃああぁぁぁぁああー!?」
ホーバーはついつい足を止める。
ゴゴゴゴゴ……!
地響きが近づいてきて、ホーバーはしまったと振り返った。
目の前にはもうゴキセインが迫っていた。
『起きろおおー!』
そんなことを叫びながら、ゴキセインは意気揚々と高笑った。
ゴゴゴゴゴッ!
ぐちゃ!
「……ぐえぇ!」
ホーバーは叫びながら目を見開いた。
そのまま腹を抱えて、ごろごろと地面を転がりまわり、ごほごほと吐く勢いでむせこむ。それがどうにか収まると、ホーバーはバッと垂直に飛び上がって、ずんっと両足で着地し、予断なく辺りに視線を走らせ──あれ? と我に返った。
「……白い」
世界が白い。真っ白だ。直感のようなものが働いて、その白いものを手で払いのけると、案の定それは干したてのシーツであった。シーツは再び風の流れに身をゆだね、青い空を柔らかに泳ぎだす。
「…………」
「…………」
ホーバーは、ポカンとしてこちらを見つめる、赤い双眸と目が合った。低い位置からこちらを見上げるその大きな瞳は、呆気にとられて丸く見開かれ、
「ホーバーって実は愉快な人なんだね」
しみじみとラギルニットに言われ、少なからぬショックを受けつつ、先ほどのあの悪夢のような出来事は、なんのことはない、本当に単なる悪夢であったのだと知った。
(夢くらい安らかに見させてくれ)
疲労感にどっと襲われ、ホーバーは肩を落とした。そんなホーバーに気づきもせず、ラギルニットはいきなり表情を変え、何事もなかったかのようにホーバーにしがみついてきた。
「お腹へった!」
実際ラギルニットにとって、ホーバーの苦悩など、食欲という基準において何ほどでもないのだろう。子供なんてそんなもんだと十分理解っているのだから深く考えなきゃ良いのに、俺の悩みは食い気以下かなどと、疲労から深く考えてしまって、精神的ダメージをさらに深めるホーバーである。
「……食事は用意してあるよ」
「わーいっ」
よろめく指で家を指し示すと、ラギルニットは邪気のかけらもなく、両手を振り上げ駆け出そうとする。
「……?」
ふとホーバーは一つ腑に落ちないものを感じ、首をかしげた。家のほうにさっさと走ってゆくラギルニットを、思わず呼び止める。
「ラギル、いつ帰ってきたんだ?」
きょとんとラギルニットは振り返る。
「え? ホーバーが寝てるときだよ?」
言うとまた駆け出そうとするラギルニットを、今度は特にはホーバーは呼び止めなかった。
しかしまるで何かに足止めされたように、ラギルニットはびくりと立ち止まり、恐る恐るホーバーを振り返って──ピキッと音を立てて固まった。
「ラギルニット、お前……」
何故一歩一歩後ずさってゆくのだろうと思いつつ、ホーバーは一歩一歩恐怖に顔を引きつらせるラギルニットに進攻いてゆく。
何気ない口調、のつもりで、純粋に疑問をぶつけた。
「さっき、俺の腹にタックル入れなかった?」
「ごめんなさい! うわーん! 食べないでー!」
一体どうしたというのか、ラギルニットはばっと背を翻して、泣きながら去っていってしまった。
「……?」
豆粒のように小さくなってゆくラギルニットの背を見つめ、ホーバーは首を傾げて、額に浮かんだ青筋をポリポリを掻くのだった。
「勝手に食ってやってるぞー」
ガクン。
家に入ってホーバーはまず膝から崩れ落ちた。次に手をついて、げしげしと地面を叩いてみたりする。
「な、なにしてんの? ホーバー」
どうやら立ち直ったらしいラギルニットが、少し遅れて家の中に入ってくる。
「地面と殴り合っている……」
「合ってるの?」
ホーバーの暗い声音に──しかも地面と殴り合い(?)つつ発した声音に、ラギルニットはとりあえずつっこんでおいて、顔を家の中に向け、「あ!」と声を張り上げた。
「セイン! いつのまに……て、あー! おれのごはん!」
そう、家の中にセインがいた。いすにどっかと座り、テーブルに長ったらしい足を放り出して、……用意しておいた料理を、きっちり二人分食べている。
「返してよー!」
ラギルニットはほっぺをぷくっとふくらますと、テーブルの方に駆け寄った。
「もう腹ん中だよーん! 吐けってんなら吐くぜ、でもちゃんと食えよ、残さずな! おら、ゲロー! さぁ、食え!」
「吐いてないじゃーん!」
「この俺様のゲロはなぁ、正直者で金持ちにしか見えねぇんだよ!」
「じゃあセイン、全然見えてないじゃん!」
「俺様には見える。この輝かしいばかりの光沢を放つゲロちゃん! 何故ってそれは俺様が神だから!」
「うう、確かにゲロの創造主ではあるかも……」
食事中の人ごめんなさいな喧嘩を繰り広げるラギルニットとセインをぼんやりと見上げ、ホーバーはゆらりと立ち上がる。
「……あ! でもスープが残ってる! わーい、しかも二人分!」
「あ、待てコラ。俺様の好物ナスビが入ってるから、最後にとっておいたんだ! うらぁ!」
「あ、ひどーい! 返してよー!」
「うっせぇ、ガキがガタガタと……。必殺スープ飲み干しー!」
「うわーん! 飲んでるー!」
「────」
「……? どーしたの? スープをほっぺにためたまま固まって」
ぶしゅー!
「ギャー! きったなーい! 吹き出した!」
「……なんじゃコリャー!」
ご親切にも説明的な喧嘩をやめ、セインはキッとホーバーを向き直った。半泣きで舌を出して。
「コ、コショウの入れすぎだぼけー!」
セインは皿二枚をホーバーに向けて投げつけた。当然避けるだろうと考え、さらにフォークとナイフも引っつかみ、パンの乗ったままの皿まで口にくわえようとして……、ぎょっとする。
皿が割れる。
ホーバーの頭にぶつかって。
「…………」
「…………」
「──――」
ホーバーはしばらくフラフラとたたらを踏んで、どさっと倒れた。
セインとラギルニットはポカンとそれを見守る。
「うわぁ! ホーバー!?」
それが起こってからゆうに一分後、ラギルニットはようやく事態を理解し、慌ててホーバーの側に駆け寄った。うつ伏せに倒れたままでいるホーバーの肩をぶんぶんと揺さぶり、ぺんぺんと頬を引っ叩いてみても、反応がない。血の気の失せた顔はぴくりとも動かない。
「セ、セイ……」
助けと非難の眼差しでセインを振り返ると、──セインはこちらの状況など眼中にない様子で、タバコをふかしていた。
「──セイン! ホーバーが死んじゃう!」
「フフフ、わが下僕ながら、愉快で楽しい死に様だぜ」
「まだ死んでないってば!」
まだという表現が気になるところだが、とりあえず二人は気づかない。ふとセインが不審気にこちらを振りかえった。
「……死んでない?」
「そうだよ!」
ゆらりとセインが立ち上がる。音もなくこちらに向かってくる。椅子を引きずりながら。
「セ、セイン?」
みるみる近づいてくる長身から、無意識に後ずさると、セインが無造作に椅子を振り上げて──振り下ろした。
「マイルドな完全犯罪だ。パーフェクトだよ、俺」
「うわぁ! ホーバー!」
恍惚と目を伏せ、胸元に手を当てて感涙しているセインの横で、ラギルニットはおろおろと手を振ったり握ったりする。分解した椅子の破片を体中に散乱させ、ホーバーは気絶よりさらに深い昏睡の海にいってしまった。
「セインのかば! セインのせいで、ホーバーが!」
「俺のせい?」
ラギルニットの言葉を聞きとがめ、セインが我にかえる。
「俺のせいだと? よく見ろ、ガキ。ホーバーのおまぬけちゃんは、頭から血を流している」
頭をつかまれ、ぐりんっとホーバーの方に向けさせられ、ラギルニットは笑いながらうなずく。
「そんなわけで、奴は心労だ」
何でそういうわけなのかさっぱわからないが、ラギルニットはむしろそれよりもはじめて聞く言葉に戸惑い、「しんろう?」と聞き返した。
「新郎新婦とかぬかしたら、いくら人の好い俺でも殺すぞ。ま。心の疲れっってやつ?」
「し、しんろう……」
「そうだ。ホーバーは心労で倒れたんだ。なんか色々悩んでたろ?」
そう、ホーバーは悩んでいた。それはよく知っている。
「う、うん」
「ほぉーら、俺のせいじゃない。だろ?」
「う、うん」
「今までの過程を、俗に洗脳って言うんだな、これが」
「う、うん」
「んじゃ、後頼むわ」
「う、うん」
セインは口笛を吹いて家を出て行く。
ラギルニットはしばらくポカンとして──五分もたってからようやく呟いた。
「あれ?」
何となく助けを求めホーバーを振り返り、頭から血をダラダラ流して昏睡するホーバーの様子に、やっとこさ"心労"なわけないと、思いつくのだった……。
う、うーん。
ううーん。うう……。
ホーバーは夢の中で唸っていた。先ほどとは違い、はっきり自覚があるが、夢の中である。
なんだかひどく頭が重い。だがそれ以上に、体が重い。
うーん。重い、重い。
「重ーい!」
ホーバーはバッと目を見開いた。
「ダイエットしますであります、はい」
「────」
「りんごダイエットであります、はい」
ホーバーはしばしソレと見つめ合った。もとい、視界いっぱいを覆っている──ウグドの顔と。
「ひぃいいいい……!?」
本能的に逃げようとしたが、それは叶わなかった。
ウグドが腹の上にどっしりと正座している。そして身を乗り出して、自分の顔を(色々な意味で)寸前から見つめている。
「どうしたのでありますか?」
苦吟を重ねた渋い顔が、眼前で真面目くさって訊いてくる。セインのとき以上にカトラスが必要とされる状況だが、あまりの恐怖に、身動き一つ取れなかった。
「ど、どど……」
「♪どーしてあなたーアタシを見捨ててー」
「どけぇ!」
ゴンッ!
ホーバーは最終手段で頭突きを喰らわせた。ウグドはあっけなく腹から落っこちて、危機は去ったが、自分の頭も死ぬほど痛い。慌てて頭に手をやると、包帯が巻かれているのが分かった。
「……?」
辺りに目を配ると、そこは自分が使っている部屋で、自分は寝台に横になっていた。薄暗いことに気づき窓の方を見やると、強い日光はフタで遮られている。
何故、自分は寝ているのだろう。
確か食事のことでラギルニットとセインが喧嘩をして、そこから記憶が抜け落ちている。
もう一度包帯に手をやると、それはやけに不器用に巻かれていた。
──もしかして、自分は倒れたのだろうか。
心労で倒れるのは、ホーバーの得意技だ。最近はしばらくなかったが。
とすると、包帯はラギルニットがやったのだろう。きっと自分をここまで運んで……。よくよく見ると、足が片方寝台からはみ出している。
(重かっただろうに。──あれ? ラギルニットはどこに……)
なぜか包帯には疑問を抱かず、ホーバーはきょろきょろと部屋を見回した。
「……おはようございます」
ふと、ウグドが寝台の端から顔の上半分だけを出して、こちらを見ているのに気づく。何となく気圧されて、ホーバーはひかえめに聞いた。
「何で俺の腹に正座してたわけ?」
するとウグドはスッと立ち上がって、手近な椅子を引き寄せ、寝台の側に座った。
「実は、悩んだのですが、相談があって来たのであります」
「それは、俺の腹に正座してた理由にはならないが?」
「悩んだのです。それはそれはハゲるほどに心底」
「今、無性にお前のそのターバン剥ぎ取ってやりたくなった」
「ラギルニット殿のことでご相談が……」
ホーバーはそこでやっと真剣にウグドを向き直った。ウグドはいつもの真面目くさった表情で、それを受け止める。
「やっぱりラギルと何かあったんだな」
「……」
「変だと思ったんだ。何でいつもは真っ先にラギルのところに来るお前が、いつまでも来ないのかって」
ラギルニットはラギルニットで落ち込んでいる。
「一体何が……」
そう言ったときだった。
ウグドがハッと顔を上げて、慌てて立ち上がる。かと思うと、止める間もなく窓の蓋を上げ、外へと飛び出していってしまった。
「な──」
唖然として窓を見つめていると、「ただいまー」とラギルニットの声がした。
「あ、ホーバー! 目、さめたの? だいじょうぶ? どっか痛くない?」
薬草らしきものを手にいっぱい持って入ってきたラギルニットを、ホーバーは呆然と見つめる。
──間違いない。ラギルに気づいて、ウグドは逃げていったのだ。
「なんだっていうんだ、ウグドの奴」
心中の独白のつもりが、つい声に出してしまっていたらしい。ウグドの名前に反応して、ラギルニットがびくりと肩を震わせた。
「ウグド、来てたの……?」
悲しげに問われ、しまったと思ったがもう遅かった。開け放たれた窓を見つけ、ラギルニットは唇を引き結んだ。泣かないようにとしっかりつむった瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「……ラギル」
ホーバーは、かなりグラグラする頭を軽く振って、寝台から降り、おぼつかない足取りでラギルニットの側まで行く。
「ウグドと何かあったのか?」
軽く頭を撫でてやると、ラギルニットは耐え切れなくなったように、バッとホーバーの足に抱きついて、声を上げて泣き始めた。
「わ、かんないよ! でもずっとウグド、おれのこと避けてるんだ。ずっとずっと、しゃべってくれないし……っ、会いにきて……く、れないんだよ……!」
「どうして……」
しゃがんでラギルニットを抱きしめてやると、ラギルニットはホーバーの服をしっかりと掴んで、顔を埋めた。
「おれ、なにかしたのかな……! おれ──」
そのまま言葉が詰まって、ラギルニットはただ泣きじゃくった。
その背を撫でながら、ホーバーはウグドの出て行った窓をじっと見つめていた。
《 次回予告 》
こぼれる涙。
涙をぬぐう手。
共通点なんてまるでなしのろくでなしども。明日の未来はどっちにある!?
ホーバーは完治するのか!?セインは肺がんか!?(何故)
次回 『探さないで下さい』