Silent voice
第一話「ラギルニットのあれ」
海の上にポツンと浮かぶ二隻の小舟。
馬鹿らしくなるほど良い天気で、シラけるほど静かだ。
音といえば時折聞こえる海鳥ズーダラッダランの、「ふあぁー」という情けない鳴き声と、舟の際を打ちつける波の音、そしてゆっくりと水を掻くオールの音ぐらいだ。
波のない穏やかな大海をオールでもって進みながら、ホーバーはひどくあほらしい気分になる。言葉にするなら「なにやってんだろう、俺」という感じだ。
チラリと、わずかに離れた辺りを並走するもう一隻の小舟を見る。
乗っているのは、二人。一人は無心に舟をこぎ、一人は長い足を縁から出して寝そべり、アホ面で空を見ながら、ふかしたタバコの煙でポワポワ輪を作って遊んでいる。
(なにやってんだ、俺)
改めて重く、しかし気の抜けた浮いた溜め息が出た。
だがそれも無理ないこと。常識人ならこの状況を嘆きたくなるのが普通だ。
このだだっ広い世界。あまりに海も空も広くて、こうポツンと小舟で小さな葉っぱよろしく漂っていると、この世界にはもしやこの三人しか存在しないのではないか、と嫌な気分になる。
よりによって、この三人か。
ホーバーは舌打つ。
たとえ世界が滅んで、生き残りがこの三人だけだとしても、協力して生き長らえるよりは、死ぬか殺すかを選ぶだろう──それほど根本的に気の合わない三人であった。
一人の名は、セイレスタン=レソルト。
バクスクラッシャーきっての問題児で、その性格といえば、一言で言うと『帝王』。
逆らえば首を跳ねられ、気に入られれば飽きるまでもてあそばれ、ともかくお近づきになりたくない奴だ。あの無駄なまでの長身は、人を見下すためにあるに違いない。
もう一人の名は、ウグゼード=ヴァリス。
船員たちからは『修行僧』、あるいは『隊商』と呼ばれている。
何故そんな奇妙なあだ名がついたかといえば、『修行僧』は苦吟を重ねてきたような老け顔と、僧の説法のごとき語り口のせいで、『隊商』は白熱の砂漠をラクダに荷を乗せ、隊列を組み、道なき道を行くキャラバンのような服装をしているからだ。
『帝王』と『修行僧』と『お兄さん』。仲良く談笑してね、なんて無茶な話だ。皆住んでいる世界がまるっきし違うのだから……。
「ホーバーちゅあーんっ」
唐突に、セインが心底力の抜ける声を上げた。
ホーバーはやけになって、返事をする。
「なぁーあーにぃ……」
途端、ぶはっという盛大な吹き出し音とともに、セインが笑い転げた。
(アホらし)
ホーバーは帝王セインのレベルの低さに、うんざりと肩を落とす。妙に気分がシラけて、ホーバーはぼそっと呟いた。
「ほんっとに、ほんっとに、俺、お前嫌い……」
「あはん、うれしぃーん!」
「……やめろって!」
ホーバーは勢いよくオールを振り上げ、セインの船に向かって海水をぶっかけた。バシャァと海水が容赦なくセインを襲う。
「──ゲロムカ……!」
セインは、先ほどから何事も起こっていないかのように、無心に舟をこぐ同乗者ウグドからオールをぶんどり、海面に思い切り叩きつけた。が、わずかにあがった水しぶきを、ホーバーは余裕しゃくしゃくで避け、……かわりに。
ッスバシャーン!
セインの舟がバランスを崩して、転覆した。
「は。ざまぁみ……っと、わ!」
ッズバシャーン!
海中からセインの手が伸び、ホーバーのオールをつかむと、彼を水の中へと引き込んだ。
「……っぷは!」
「け! 盛大バカ、盛大バーカ! 何一人で落ちてんの? バ……ッッカじゃねぇのクラゲの脳みそ、あーあ、近づくな、バカが移るーっと」
「……よっこいせ」
ホーバーは据わった表情で、セインの頭をおもむろに殴った。
一瞬セインはぽかんとしたが、すぐに目に炎をたぎらせ、歯を軋ませた。セインの鉄拳が繰り出される。
と、海中にいるため、上手くいかない殴り合いを、不毛な罵詈雑言とともに数分続けていると、今までどこにいたのか、ばしゃっとウグドが海中から顔を出し、ボ~ツと空を見つめ、
不意に感極まった様子で低く囁いた。
「塩水は、何ゆえしょっぱいのでありましょうか……」
ホーバーとセインは、一瞬沈黙してから、同時に答えた。
「……塩水だからだろ」
しん……。
二人は冷めた。一気に冷めた。
チラリとお互いを確認しあい、チラリと妙なものを見る目つきで、人魚のごとく空を見上げるウグドを見て、またお互いをシラけた気分で見合い、セインとホーバーはおもむろに転覆したそれぞれの舟を戻しにかかる。
黙々と作業をして、オールを拾い、ホーバーは舟に乗り、再びゆっくりとオールを動かしはじめ、セインはまた寝転がり、ウグドを一蹴して「漕げ」と、命じた。
ウグドはまた無心に舟をこぐ。
目の前には、無人島が姿を見せていた。
可愛らしい鳥のさえずりに混じり、にぎやかな声が風に乗って少年の耳に届いた。
夢半分に少年が目を開く。空を隠すように伸びた木の葉や枝の隙間から光が零れ、少年の幼い顔にかかる。少年──ラギルニットは、まぶしさにぎゅっと目を閉じ、大きく伸びをした。
「っんー! ……わぁ!?」
どし──ん!!
「痛いぞ、もー!」
ラギルニットは地面に打ちつけたお尻を撫でながら、口を尖らせて、木の間に張られたハンモックをペシッと叩いた。が、今鳴いていた鴉がなんとやら、ラギルニットは勢い良く立ち上がり、土を払うとタッと駆け出した。
森の中、木々と太陽の織り成す光と影の大地の上を、根を跳ねるようにして避け、走る。やがて森が途切れ、白く燃える太陽の下に飛び出した。
「おーい!」
ラギルニットは大きく手を振った。
風が吹いて、青く茂った緩やかな草の斜面を、白く輝く壮大の海を駆け抜けていった。
島のちょっとした砂浜についたホーバー、セイン、ウグドの三人は、舟を海から引き上げ、浜に打たれた木の杭に縄で固定した。一言も会話がないことは特筆する必要はないだろう。
ホーバーは自分の濡れてしまった荷物を取ると、二人には目もくれず、さっさと浜を後にした。もちろん誰も呼び止めない。
サクサクとしばらく浜を歩くと、地面は途中から草に変わり、歩きやすくなった。ホーバーは軽く舌打ち、不意に立ち止まった。
「セインの奴」
荷物を放り投げ、靴を脱ぎひっくり返すと、バシャリと水が地面をぬらした。憮然としてもう片方も脱ぐと、やはり同じようになる。
「ちくしょうめ……」
恨めしげに振り返ってみるが、すでに低地である砂浜は、緩やかな斜面になっている草地の下に没し、その先の海しか見えなかった。
──おーい……!
そのとき、吹いた風に乗って、どこからか懐かしい少年の声が運ばれてきた。顔を戻すと、ずっと先の森の際で、大きく手を振っている少年の姿を見つけた。
ホーバーは不機嫌な表情を自然と和らげ、軽く笑って手を振り返した。
少年が大きく飛び跳ねて、こちらへと駆け出した。
少年はとても足が速かった。羽でも生えているかのように、足取りが軽やかだ。
お互いの顔が確認できるほど距離が縮まると、少年の表情が途端パッと輝いた。
「ホーバーだ……!」
ふわりと風が、草のさざなみを作り出す。
ホーバーは軽くかがんで、胸に飛び込んできた少年をしっかりと抱きとめた。風が飛び込んできたかのように、少年は軽かった。
「久しぶりだな、ラギル」
「うんうんうん! いっぱいいっぱい久しぶりだね!」
かがんでくれたホーバーの首に腕を回し、ぎゅっと抱きついて、ラギルニットは嬉しさが抑えきれない様子でくすくすと笑って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
だって本当に嬉しいのだ。嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。
ラギルニットはホーバーが大好きだ。あまりしゃべらないし、面白いことを言って笑わせてくれるわけではないけれど、とびっきり優しいその瞳が、宝箱のどんな宝物よりもきれいで、大好きだった。
もう随分長い間、副船長としての仕事が忙しいらしくて、島に来ることがなく、寂しかった。けれどやっと来てくれた! 前と変わらず笑顔はたまらなく優しい。
些細なことだけれど、それがとても嬉しいのだ。
そしてもちろん嬉しさでは、ホーバーも負けてはいなかった。
「お仕事は? いいの?」
「ああ。ずっと来れなくてごめんな。……少し背伸びた?」
「本当!? 伸びたかな、おれ!」
小さい小さいラギルニットは頬を紅潮させ、ホーバーの顔を見上げる。ホーバーはラギルニットの額にコツンと自分の額を当てて、少年の赤く澄んだ瞳を覗きこんだ。
「後で測るか」
「うん! ……あー、おれ早く大っきくなりたいな。セインみたいに!」
──ザザーン、ザン……。
波の幻惑的な満ち引きの囁きのせいであったか、凍りついたホーバーの頭にリアルな妄想が駆け巡る。
「セイン、みたく、なりたい?」
──セイン、また大きくなったんじゃないか……?(ホーバー、セインを見上げる)
──えっえー! ほんとぉー! うれしぃー!(セイン、頬を赤くしてピョンピョン飛び跳ねる)
ぞく。
「せめて、シャークにしといてくれ……」
「ぶえっくしゅん! ……うー、ちくしょー! 誰だ誰だぁ? 恐れ多くも俺様の噂をする奴は」
おめでたくも悪口とは露とも思わないらしいセインは、ズズッと鼻をすすって、ニヤニヤと笑った。
彼は今、ひたすら機嫌が良かった。
今日はなんて良い日なのだろうか。ホーバーに殴られたことは、血反吐を吐くくらい腹立つが、もはやどうでも良い。何せ、これから一週間、クソムカつくバクスクラッシャーの連中とも顔を合わせることもない、自由の身なのだから!
(ふふふふふ、ふはははは! いっそ街へ繰り出してウハウハと……)
「ブえっくしょん! ……むむむ。誰か若い娘さんが、噂をしているようであります」
なにっ!?
セインは楽しい思考を遮ったその、聞き捨てならぬ言葉に、ウグドをバッと振りかえった。
「修行僧、貴様、なんて生意気な! 誰がてめぇなんかクソハゲの噂なんかするか、うぬぼれもいいとこだ! なんでお前みたいな俗世からオサラバして、ケナテラの山中で修行してそうな精進潔斎くそ坊主が、若い娘さんなんてうぬぼれられんのか、さっっっっっっっっぱりわかんねぇなぁ! そもそもなんでてめぇ、まだここにいんだよ。さっさとあの、『かわいくってちっこくって思わず抱きしめたくなっちゃうクソガキちゃん』のところに行きやがれ! ホーバーみたく、あほらしくスキップしながらよ!」
「ホーバー殿は至って普通に歩いておりましたが」
「俺の愛らしいお目々に、ケチつけんのか!? ……いつもならてめぇ、『ラギル殿ぉ』とかって、てめぇ誰? って感じに走ってったのによ。……まー、俺様にはきわめてどーでも良い話だがな。じゃあな!」
かかわるのは時間の無駄とばかりに、セインは転がっている自分の荷物をひょいっとつかむと、さっさと歩き出した。もちろん方角はホーバーの歩いていった方とは正反対である。
「セイン殿はどちらへ行かれるのでありますか」
バカ丁寧に、無駄にハキハキしたウグドのおじんくさい声が、セインを呼び止めた。足を止めず、セインはとりあえず返事をしてやる。
「……どーでもいーだろ」
「どーでもよくありませぬ」
カチン!
無視すりゃあ良いのに、売った言葉を買われると、どーにも買い戻さなければ納得のいかないセインである。その長身を思う存分に生かして振りかえり、ウグドをギラリと見下ろした。
「俺がどーしよーと、あんたにゃあカンケーないね!」
するとウグドは、セインの殺人眼力を飄々と受け、真面目くさってうなずいた。
「ううむ。それはごもっとも。では私はセイン殿についてまいりましょう」
「!? なんでだよ!」
「どーでも良いでありましょう?」
セインは自分でも血の気が引いていくのが分かった。
「ちっともよくねぇよ!」
「何故でありましょうか。貴殿には私がどうしようと関係ないでありましょう? セイン殿は先ほどそうおっしゃられた」
「!?」
(な、なんだ? こいつ何語しゃべってるんだ!?)
売った言葉は滅多に買われないセインは、へ理屈というものに、滅法弱かった。何を言っているんだか、さっぱり分からない。分からないが、異様に腹立つ! セインはわたわたと自分とウグドを交互に指差し、顔を真っ赤にし、あげくにウグドを殴り飛ばした。ウグドがぴょーんと、鼻と口から飛び散った血とともに、吹っ飛んだ。
「カ、カンケーある! だっておま、おまえ、俺についてくんだろ!? 俺についてくんなら、俺にカンケーあんだろーが!」
「では、どこへ行かれるのでありましょうか」
「だーかーらー、カンケーねぇって言ってんだろ!」
「何故でありましょう? 私はセイン殿についていく故、関係あるのでございましょう? ということは、貴殿の行き先は、私にも大いに関係あるのでありませぬか」
口からダラダラ血を流しながら、ウグドはあくまで平静に続ける。怖い。
「──!? ──!??」
セインの単純な思考回路が煙を吐いて、とうとうオーバーヒートした。
「う……ぎゃあ! 俺は複雑な話はキライだぁ! だから俺はてめぇと話をすんのがキライなんだ! ホーバーの方が百万倍はイケすくぜ! ……ちくしょう、ともかくお前は、この偉大なるセイン様の奴隷となりたいんだな!? よしっ許可してやらぁ! ただしてめぇ、肩もめっ飯作れっ無駄口叩くなっ俺に服従しやがれよ!」
「喜んでさせていただきましょう」
吐血しつつウグドはしたりと笑い、早速セインの荷物を担いで、キリリと立ち上がるのだった。
その頃、海賊船バックロー号の船上。
「ねぇ、やっぱ言った方が良かったんじゃない? あれ。ホーバーに」
甲板から運んできた樽を隅の方に置きながら、女が隣で作業している男二人に声をかける。
「だって……なぁ。ホーバー最近忙しかったし。あんなこと言ったら、頭の血管切れちまいそうで」
「そうそう。犯人もわかってないし。それにさ、言おうとはしたけど、そしたら嬉しそうに『なに?』とか言うんだもんなぁ。ラギルに会うのすげぇー楽しみにしてるって感じで、言えなくなっちまって」
「けどラギルに会えば、あれ知られんの、時間の問題だろ」
三人はうなって、一斉に溜め息をついた。
「きっと今ごろあれ知って、キレてるな」
そんな会話を知ってか知らずか、無人島の中央に横たわる森の側、木造の家の中。
「────!?」
ホーバーの無言の叫びが、空気を震わせるのだった。
《 次回予告 》
すれ違う心。
届かない声。
海賊四人を揺るがす変な事件。
ラギルニットのあれとは!? ウグドの真意は!?
次回『軍曹殿とウグド隊員』