ワケアリな逃亡者の夜
そもそもは、酒場で隣の席だったというだけだ。
付け加えて言うならば、お互い寂しい独り身だったというだけで。
……まあ、もっとも大きな要因といえば、二人ともちょっとした「訳あり」だったのだが。
「ヘイ、マスター、いつものやつを手っ取り早く作ってくれ」
「……お客さま、失礼ですが以前にもこちらに?」
「初めてのご来店でございますYO!!」
大都市マルデューンの裏通りにある酒場は、結構な額を要求するだけあって好い酒を出す。店員の妙に気取った言葉遣いや凝りすぎた内装は少々アレだが、鼻につくほどではない。貴族の雰囲気をちょっとばかり齧ってみたい庶民のための酒場――そんな適度に小洒落た感じが彼女には心地良かった。
それだけにシュリはうるさい男が来たと思った。軽く嗜めるつもりで横目を向けると、彼女よりも早く視線を寄越していた男が「お?」という顔をした。
「ヘーイ、今、俺に見惚れてただろ」
しまったと思って目を逸らすが、時すでに遅しである。男はかっこ悪い勘違いを自信満々に口にし、半分腰を下ろしかけていた二つ隣の席から、滑るように真隣へと移動してきた。
「照れるなよベイベー。俺もひとり、あんたもひとり。さびしいもん同士、今夜は肌を重ねて身も心も暖めあおうじゃないの…ヘイ、マスター! こちらのハニーにも同じのを」
その“同じの”も、“いつものやつ”も分からないバーテンは判断に困って顔をしかめた。
シュリは馴れ馴れしく肩を寄せてくる男からさりげなく距離をとりながら、不意に目を細めた。喋りつづける男の声とは別に、背後から扉の開く音、続いて不自然に乱暴な足音が聞こえてきた。シュリは目を伏せ、肩に回された男の手を無造作に払いのけた。
「ヘイ、つれないぜハニー」
「マスター。トルガ工房の葡萄酒をちょうだい」
中性的な声でバーテンに言いつけ、シュリはちらりと男に流し目をくれた。
「彼に」
浅黒い肌をしたその男は気取った酒場には実に似合わぬ奇抜な格好をしていた。耳には黄金の耳飾、鋭い目尻にも金輪を穿っている。頭はきれいに剃り上げているが、後頭部にだけハートマークを象った紅色の髪が残され、さらにその下からは細い辮髪が垂れ下がっている。バクス帝国の出身ではないのだろう、異国風の顔立ちはまあそこそこに見れるが、表情といい仕草といい、中身のほうはいかにも軽そうだった。
「あんたみたいな別嬪が一人でカウンター席で飲んでる。実に意味ありげだ。しかもあんな色っぽい目つきで見てくれりゃあ、今夜の予定もキャンセルするっきゃねぇだろ?」
何が予定だ。最初から今夜の相手となる尻軽な女を探しに酒場へ入ったのだろうが。シュリは性懲りもなく腰に回される手を叩き落として、無言のままグラスに唇をつける。
これほどの大都市ならば、金の折り合いと面の妥協さえつけば一夜限りの縁も楽に得られる。それにこの男、骨太の指といい厚い胸板といい、なかなかの体格の持ち主である。これなら多少脳みその中味が色事ばかりの糞だろうと、引っ掛かる馬鹿女の一人や二人、容易に見つかるだろう。
馬鹿にはすまい。今夜はただ賽の目が悪かっただけだ。
「あんた、悪かねぇ。ちょいとそのむすっとした唇の端っこを持ち上げさえすりゃ、男はみんな大喜びであんたに跪くぜ」
男は虫唾の走る言葉を絶え間なく口にしながら、店の奥で爪弾かれる陽気な弦楽器の音色に合わせて、ヘイッ、ヘイッと首やら肩をリズミカルに動かしては葡萄酒のジョッキの縁を爪で弾く。とことん黙るということを知らない男である。まあ、そのおかげでシュリはしたくもないお喋りをしなくて済んでいるのだが。
グラスを傾けながら、シュリは肩越しに背後の様子を伺った。男が四人。こんな落ち着いた雰囲気の酒場で、全員が短剣やら長剣などの物騒な武器を下げている。疑り深げな視線は店内にくまなく巡らされ、今にもシュリを見つけ出しそうだった。
「……ヘイ、人の話は人の目を見て聞きな」
男たちの動きに注目していたシュリの耳元で、低い声が囁かれた。息のかかる感触に背筋を震わせ、舌打ちして男を勢いよく振りかえったシュリは、瞬間、頭を真っ白にした。
「っ何をする!!」
反射的に怒声を上げ、男を力任せに押しのける。手の甲で熱い感触が残ったままの唇を乱暴に拭い――凍りついた。
振りかえると、扉の前にいた男たちがこちらを食い入るように見ていた。
「……やべ!」
逃げなければ。そう思った直後、男の方が先に舌打ちをした。
「逃げるぞ!」
そして彼はそれまでの阿呆臭い動作が嘘のように機敏に立ち上がると、第二手が打てずにいるシュリの手首を強引に引っ掴んで走り出した。
「……追え! あいつだ!」
「逃がすな、捕まえろ!!」
男は椅子やらテーブルを蹴散らし、悲鳴を上げて身を屈める客の頭上を跨ぎ越し、狭い店内を疾走する。腕の痛みに我に返ったシュリは引きずられるように走りながら、空いた手で男の骨太な指を引き剥がそうとした。
「離せ……!」
「喜べ、ハニー! 今夜はお望み通り、あんたと熱い夜を過ごしてやるぜ!?」
「な――っ」
盛大に罵倒を吐き捨てようとした瞬間、男がシュリの腕を引き寄せた。一瞬、男の前に出たと思うが早いか視界がくるりと反転する。ぎょっとして目を見開くと、仰向けになった視線の先にはにやりと笑う男の顔があった。
「お姫様だっこは世のガールたちの夢ってな、ヘイッ」
さっぱり意味の分からないことを歌う男。背後で鋭い音がした。短刀が男の頬をかすめ、鮮血が散った。
「……あたしを下ろしなさい! あれはお前の相手では――」
言い切るより先に、扉を蹴破る音がした。視界いっぱいに星屑を散りばめた夜空が広がる。外だ。シュリの記憶野が反射的に男のそれまでの足取りを反芻する。店内の構図は事前に調査済みである、男は裏口から酒場を出たのだ。だがこの裏口から先には――
「行き止まりだ、観念しろ!」
一歩遅れて酒場から飛び出してきた追手が嘲笑を上げる。そう、裏口から先には手も届かぬほどの壁しかない。再確認するまでもなく、横抱きにされた状態でもがくシュリの眼前には煉瓦組みの壁が迫ってきていた。しかし、
「行き止まりってなぁ、どこのこと……だ!?」
「……っ!?」
男は鼻で笑うや否や、抱えていたシュリを夜空目がけて垂直に放り投げた。一体どれだけの腕力の持ち主なのか、小柄なシュリの体は軽々と壁のてっぺんを越え、さらに上空にまで達する。一方の男は走る勢いのまま壁面を二、三度蹴って跳び上がり、壁のてっぺんまで一気に駆け上がった。
頂点に馬乗りに座って、男はちょうどよく降って来たシュリの腰を引き寄せた。
「こんなデートも悪かねぇだろ」
気付けばシュリの尻は男の膝の上に収まっている。まじまじと見つめると、男は鮮やかに笑い返してきた。
「……極上とまではいかないわね」
シュリは男の手を振り払い、挑発的な微笑を唇に上らせた。
その艶やかさに男が息を呑んだ隙にひらりと虚空に身を躍らせる。足音すらさせず、軽やかに地面に着地したシュリは未だ壁の上に座ったままの男を見上げた。その呆気に取られた顔が実に小気味良い。シュリは白銀に近い金髪を掻き上げ、短いスカートから伸びる剥き出しの太腿に手を這わせた。
「あたしはもっと情熱的な夜が好き」
男は目を丸くしてシュリを見下ろし、立てた片膝に満足気に腕を乗せる。
「……悪かねぇ」
「それは良かった」
さらりと答え、シュリは太腿のバックルに仕込んだ短刀を掴むやいなや男目掛けて投擲した。男は「げ」と短く言葉を吐き、刃先がその額を打ち抜くより一瞬早く背を反らして回避した。そのまま追手の頭上に落ちてしまえと思ったが、男はあっさり体勢を立て直し、シュリを追って壁から飛び降りた。
シュリは身を翻して駆け出す。突然降ってきた短刀に驚いてか、追手が悲鳴を上げている。下らぬ余興に付き合っている暇などない。男がどういうつもりかは知らないが、追手が来たのなら逃げるが勝ちだ。
路地を女豹の速さで駆けるシュリの横に、男は腕をふんぬと振り回しながら追いついてきた。大仰な動作は明らかにただのパフォーマンスだ。シュリはちらりと横目を向けた。
「お前は何者。何故、あたしの追手から逃げているの?」
「ヘイヘイ、勘違いは困るぜハニー。ありゃ俺を追ってきたんだ。巻きこんじまったことは悪いと思ってるが、幸いあんたはエクセレントな短刀使い。不幸中の幸いってことで許してソーリィー?」
「勘違いはそっち。ついでに言わせてもらうけど、あたしは追手があたしに気付いたときにはお前を盾に逃げるつもりでいた。お前が勘違い坊やで助かった」
「アハーン、その正直さも愛しいぜ。だが勘違いってのはいただけねぇ。一体何を言」
男は唐突に言葉を区切ると同時に、鮮やかに疾駆するシュリに足払いをかけた。前のめりに転倒するシュリの頭上すれすれを突き抜けたそれは、重たい音をたてて地面に突き刺さった。銀色の楔だ。男が短く息をつく――地面に突っ伏したシュリは目を見開き腕を伸ばした。
「伏せて!!」
シュリの腕が男を引き倒すのと、新たに降ってきた楔が立ち上がりかけた彼女の背を突き刺さすのとは同時だった。
「おい……!」
「くそ……っ」
助け起こそうとする男の手を払いのけ、シュリは食いしばった歯の間から吐き捨てた。男は強引にシュリの腕を取り、抵抗する隙を与えず背に担ぎ上げた。
男の脚は疾風のように速かった。次々と降り注ぐ楔は残像を射抜くばかりで、怪我の一つも負わせることができない。男は両側を高い壁に囲まれた狭い路地に逃げこむと、手近な窓に駆け寄った。拳を服の袖でくるみ、窓硝子を叩き割って内側から窓枠ごとを外す。
「昔、新聞社だった場所だ。今はただの廃墟だが、俺の庭みたいなもんだ。今なら出血大サービスってことで無料で案内してやるぜ」
シュリは痛みに顔をしかめながら男を見上げる。
「安心しな。俺は賭け事に関しちゃラッキーマンだ。ついてきて損はない。後で礼がしたいって思ったら宿の合鍵をくれハニー」
男は相変わらずふざけたことを言いながら、裏腹に真面目な顔でシュリを振りかえった。
星の光が眩しすぎて、月が見えない。おかげで窓から差しこむ光も弱々しく、不案内な廃墟を歩くにはかなり都合が悪かった。どういった経緯で打ち捨てられた建物なのか、地面に散らばった湿った新聞紙がひどく滑って歩きにくい。
シュリは廊下の一番奥にあった部屋まで辿りつくと、よろめくように地面に膝をついた。
「……あっちを向いていて」
「手伝うぜ、ハニー」
「……これ以上、惨めな気分にさせないで」
男は肩を竦め、素直にくるりと背を向けた。
シュリは男が見ていないことを確認して、片腕だけでどうにか衣服を剥ぎ取った。傷口を手で探り、震える息を吐き出す。楔はまだ埋めこまれたままだ。抜けば血が噴き出す。
躊躇するシュリの耳に、布を引き裂く音が聞こえてきた。振りかえると、男が着衣の袖を肩口から引きちぎるところだった。
「しかしまー、謎が解けてよかったよかった」
適当な大きさに裂いた布をひょいひょいと後ろ手に投げながら、男がうなずく。
「謎?」
「最初の追手はありゃやっぱり俺のもんだ。で、後のがハニー。ちなみに勝算あるのが俺。ないのがハニー。あの楔は結構なお手前でございました」
布を拾って口に含み、ぐっと歯を食いしばって背中の楔を引き抜く。脳髄を刳り貫くような痛みに一瞬全身が痙攣を起こすが、男の能天気な声が思考にわずかな冷静さを与える。手際よく傷口に当て布をし、強く押さえつけた。
「……あたしは色々な連中に追われている。その一人があの楔の主として、さっきの四人組もあたしのものかもしれない」
「諦めな。あいつらはやっぱり俺の獲物だ」
「お前こそ諦めることね」
「ヘイ、ヘイヘイヘイッ、今の言い方女王様みたいで興奮ものだぜっ、ワンモアプリーズ!」
どこまでふざけているのか、男は減らず口を叩き続ける。シュリは荒い息を繰り返しながら、何だか妙に馬鹿らしい気分になって苦笑した。
「疲れる男。もうあたしのことは放っておいて。足手まといになるのは真っ平よ」
「俺を口の減らぬ男と思っているなら、同じ言葉をあんたに返してやるよマイクイーン」
不意に耳元で声がして、シュリは息を詰める。
「死ぬぜ、このままだと」
男は短く言い切り、シュリの手から当て布を奪い取った。栓を抜かれたように溢れ出す血を、シュリには出せない男の腕力で容赦なく押さえつける。
「ヒュ~、いってぇ~」
「………お前の感想を聞くと、痛くない気がしてくる」
無防備にも剥き出しの背をさらしているというのに、警戒心が沸いてこなかった。つい数分前までは赤の他人だったのが妙なものである。男の言動を考えるとどう考えても信頼を置くに値しないのだが。
「……いいわ。あの追っ手がお前のだとして、いったい何をやらかしたの?」
手馴れた様子の手当てに身を任せ、シュリは問いかける。
「言うも恥らうありふれた話さ。ギャンブルで荒稼ぎしまくった挙句、ディーラーのイカサマを見破っちまって、奥のお部屋に連れてかれちまった。世の中知らぬふりしなきゃなんねぇことがあるってことだ」
それが本当なら、その奥の部屋とやらから逃げ出した男は相当な手腕ということになる。追手がついたということはよほどこっぴどく相手を伸したのだろう。だがどこまで本当かは謎である。
「ハニーは?」
「あたしのもよくある話ね。裏社会を牛耳っていたある男を殺したの。それ以来、ずっと組織に追われているわ」
「……よくある話だったのか、そりゃ」
「冗談よ」
「エクセレントッ」
最初から信じていなかったのだろう、男は大して驚きもせず傷口の止血を続ける。
「まー、人生色々ってことだ」
無理やりな男の締めに、シュリはふっと笑った。
その通りだ。だがその渦中にいて、そう言い切れる人間もそうはいまい。なるほどと思う。これがこの男に警戒を解いた理由かもしれない。言動や態度は確かに能天気なまでに軽いが、その軽さの中には芯が一本通っている。濁流に呑まれてもなお軽やかでいられる揺るぎない強さ。それはシュリが欲しくても手に入れられないものだった。
「……あたしはシュリ。お前、名前は?」
興味を覚えた。問いかけると、男は片目を瞑って見せた。
「サリスだ。サリエスト=ナンゲル。ダーリンって呼んでくれ、ハニー」
「その気になったら、そう呼ぶわ」
「俺は今呼んでほしいね」
傷の手当を終え、サリスは白い背をさらりと流れる金髪に指を絡め、熱っぽく口付けた。
「……こういう本を読んだことがある」
シュリは抵抗するでもなく、前方を見つめたまま薄っすらと微笑した。
「ハハーン。困難をともに乗り越えた男女が結ばれるって話か?」
「その後、すぐに別れるって話よ」
「悪くねぇ」
低く笑いながらサリスはシュリの細い首筋に顔を埋めた。熱い唇が首から肩を優しく触れてゆく。シュリは身を委ねるように目を伏せ、後ろ手にサリスの頭を抱き、
二人は同時に動きを止めた。
「――だがまぁ、長く続く関係ってのも悪くねぇかもな、ハニー」
外の廊下から複数の足音が聞こえていた。
闇に包まれた建物の内部を足音を忍ばせ駆ける。追手はまだこちらの動向には気付いていないようで、時折「探せ!」と怒鳴る声がした。しかし腹立たしいことに状況は決してこちらに有利ではない。
「おっと、また行き止まりだアンラッキー!」
俺の庭と豪語していたサリスが道に迷っている。深々と溜め息をつくと、それが聞こえたのか、両手を掲げて肩を竦めた。
「怒るなよ、ハニー。本当に新聞社だったってだけでも驚きさ」
「………」
新聞社というのも適当だったらしい。どこまでもふざけた男である。
「……もういいわ」
「おい、悪かった、謝るよ。けどああでも言わなきゃついてこなかったろ?」
「そうじゃなくて……もういいから、お前、一人で逃げなさい」
怪我を負う前と変わらぬ速度で走るシュリだが、しかしその呼吸は荒い。
「言ったでしょう。足手まといになるのは真っ平」
「プライドの高い女だぜ。嫌いじゃねぇ。むしろフォーリン・ラブ!?」
男は後頭部のハートマークを両手の親指でビシッと示し、聞く耳持たずに走り続ける。シュリは苛立った。
「だったらこう言いかえるわ。――あの追手はあたしのものだ、邪魔をするな!」
「しつこいねぇ。ありゃ俺のだって言ってんだろ」
「しつこいのはどっち……!」
「そっち!!」
「違う!!」
状況も忘れてノリ突っ込みしたところで、長い廊下の向こうに扉を見つけた。
飾り気のない扉だ。おそらくは建物の裏口――外だ。
「いい!? 外に出たらお前は左へ向かって逃げなさい。あたしは右へ行く!」
妥協案としてそう指図すると、サリスは走りながら陽気に肩をすくめた。
「別にどっちでもいいが敢えて言わせてもらうなら俺は右が好きだ!」
「それこそどっちでもいい……!」
「ヘイッ、大事だぜ。左か右か、ギャンブルにおいちゃ、左右の選択は大事な分岐点だ。誰かに俺の道を選ばれるなんて、たとえそれがハニーであっても、冗談バイバイだ!」
「なら、右でも左でも好きになさい……!」
「言われるまでもねぇ、もちろん好きにするさ! 今までもそうしてきたようにな! だが俺がどっちを選ぼうが、あんたは必ず同じ方向に来る。俺に惚れちまってるからな! 賭けてもいいぜ?」
あまりに的外れなことを自信満々に言うので、シュリは呆気にとられる。だが思えば最初からこの男はそうだった。怒りの中にふっとした笑いがこみ上げてきて、シュリは挑発的に微笑んだ。
「大したうぬぼれね……いいわ、賭けましょ? お前がもしも勝ったら、部屋の合鍵でも何でも好きに持っていけばいい」
「ヘイッ、もらったぜ、ハニー」
言い合いをするうちに二人は扉の前までたどり着き、サリスが力任せにノブを回した。
涼しい夜風が吹きこんでくる。
眼前に刃光が走った。
「……っ」
突然の攻撃を左腕で受け、サリスは空いた右手で腰の曲刀を引き抜きざま相手の脇腹を両断する。くぐもった呻き声を聞くより早く急所へ膝蹴りを食らわし、相手の手から剣をもぎ取って左腕から引き抜いた。その隙をついて、膝から崩れ落ちる奇襲者の向こうから新たな追手が現れた。シュリは太腿のバックルから短刀を引き抜き、返す手で追手の額を撃ち抜いた。
まだ温かい二つの死体はどさり…と重たい音をたて、仰向けに倒れた。
「……この男たちは、なに?」
シュリは眉根を寄せて呟く。
だがそれにサリスが答えることはなかった。
不審に思って見上げると、サリスは前方を見据えたまま、呆然と立ち尽くしている。
シュリは視界を覆うサリスの背後から、肩越しに前方を注視し――絶句した。
裏口の先には大都市マルデューンのどこかにある広場が広がっていた。
その夜の帳落ちる広場の奥で、ざわりと何かが蠢いている。
それは影、人の形をした影。
広場で二人を待ち構えていたのは、五十人を優に越える追手の群れだった。
「………お、おい、ハニー。一体なにやらかしたんだ、あんた」
さすがに顔をひきつらせるサリスに、シュリは慌てて男を睨んだ。
「な…! 言っておくけど、あたしの追手ではないわ!」
「ヘイヘイ! 俺の追手でもねぇぜ、こんなの!」
「今さら何を……さっきまで自分の追手だと息巻いていたくせに!」
「俺の追手は最初の四人だけだ!」
「あれはあたしの追手よ!」
サリスはさらに反論しかけて口を開くが、その間にも五十人の集団はじりじりとその輪を縮めようとしていた。加えてたった今飛び出してきたばかりの建物からも足音が迫ってくる。しかも畳み掛けるように、
「………?」
二人は重たい音を聞いた気がして、自分たちの足元を見下ろした。
爪先の一歩先に、銀の楔が射ち込まれた。
「遺言残しといてもいいかい? ハニー」
「無理ね。あたしもここまでよ」
「だったら……」
二人は引きつった顔を見合わせた。
「――トンズラだ!」
軽やかに地面を蹴って走り出した方向は、揃って右。「あ」とシュリが声を上げる。サリスがにやりと笑った。
「ほらな、俺はラッキーマンだ!」
「……逃げ延びることが先だわ」
「ノ――――ップロブレム!!」
あまりに嬉しそうなので、シュリは思わず吹き出す。サリスも声を上げて笑った。
背後から足音が轟音となって迫ってきていた。サリスが投擲された短刀を避ければ、その横でシュリが吹っ飛んできた巨大な斧刀を跳びはねて避ける。高揚感が湧き上がる。銀の楔は次々と地面を貫き、内いくつかは皮膚を切り裂いて血を噴かせた。
肉薄した追手の先頭集団が一斉に刃を振りかぶった。サリスが腰の曲刀を抜きざま振りかえり、シュリが投擲の構えを見せる。夜明けはまだ遠く、騒動を聴きつけた警備兵が助けに入るなんてこともなく。左右から繰り出された第一撃、第二撃を曲刀の背で打ち払いざま別の追っ手が一閃させた第三撃を薙ぎ払い、かわしきれなかった第四撃がサリスの肩肉を斬り裂いて、鮮血が夜空に散る。体勢を崩した男を第五撃が襲うよりも早くシュリの投擲した短刀が追っ手の喉を貫き、別の追っ手が第六撃を振りかぶってシュリの腕を無造作に切り捨て――二人の周囲には、もはや空も地面も他のどんな風景も存在しない。あるのは、ただ倒しても倒しても沸きあがる追手の群れ。回る星々、渦巻く夜風、踊るようにぶつかりあう両者に、閃く銀の楔と無数の武器。
面白い縁もあるものだ。シュリは思う。
そもそもは酒場で隣の席だったというだけだ。
付け加えて言うならば、お互い寂しい独り身だったというだけで。
…まあ、もっとも大きな要因といえば、二人ともちょっとした「訳あり」だったのだが。
結論から言うと、二人はその後、見事に追手から逃げ切ることに成功する。正直に言うと、五十人なんてとんでもない人数に追われる理由に十分なほど心当たりがあった二人は、さらなる追撃を恐れ、そのまま海へと脱した。当時、犯罪者をはじめ事情のある人間たちにとって、格好の隠れ蓑とされたバクス帝国海軍募集の「公的海賊」の船員名簿にその名を連ねたのである。
それから十二年後の現在――。
バックロー号の二層目にあるシュリの船室の扉は、いつもほんの少しだけ開いている。
同室の船員がいくら「気になる」と訴えようが、絶対にきちんと閉めない彼女の言い分は、
「この船、鍵がついてなかったのよ」
「は?」
「……ワケありなの」
溜め息まじりの口調とは裏腹に、シュリはいつも可笑しげに微笑する。