手に負えない天使

 ノーク国との海戦が、バクス帝国の圧倒的勝利に終わってから三ヶ月後。
 華やかな凱旋が残した熱気は、いまだ街を浮き足立たせていたが、公的海賊たちの多くは予想に反した早さで、戦前と変わらぬ生活へと戻っていった。まるで何事もなかったかのように。
 光の中にいた者は、ふたたび光の中へ。
 闇に沈んでいた者は、ふたたび同じ闇の中へ。
 戦時中の高揚感を失い、元の平静さを取りもどした心で、ふと思う。
 あの戦争で得たものは、何だったのだろうか。
 バクス帝国の勝利ではなく、自分自身が手に入れたものは、一体何だったのだろうかと。

「すっかり寂しくなってしまった……」
 フィーラロムは港町にある私設診療所の窓辺に立ち、微笑みまじりに呟いた。
 戦時中は海賊たちでひっきりなしに賑わっていた診療所も、今では驚くほど静かだ。
 故郷に帰った者。首都には残ったが、別の職に就いた者。二度とは帰れぬ世界に旅立った者。
「みんな、今ごろ何をしているのかしら。また出会えることもあるかしら」
 小さく呟き、そっと窓硝子に触れ、外の世界を見つめる。
 そんな彼女の横顔を、彼女の左肩に穿たれた赤い刻印を見つめ、セインは眉根を寄せた。
「……お前はもう、誰にも会うな」
 さりげないと言うには、声音が深すぎた。
 フィーラロムはふっと顔をあげ、愛らしく首を傾げた。
「セイン、それはどういう」
「特に、あの男を待つのはよせ。追うのも駄目だ。もう忘れろ」
「……セイン?」
 不思議そうな眼差しから反射的に顔をそらし、セインは舌打ちした。
「気づいているんだろうが。あの男はもう、ここには戻ってこない。気づいているくせに、そんな目で外を見続けるのはやめろ」
 フィーラロムは若草色の瞳にほのかな憂いを浮かべ、静かに首を振った。
「いいえ。いいえ、私は待つわ。ここで、ずっと」
 そっと持ち上げた右手が、薄い衣服越しに左肩を掴む。
「待っていると、約束したから」
 華奢な、自分の分厚い掌で握れば、骨ごと砕いてしまいそうなほど華奢な左腕。
 そこには、白磁の肌にあまりに不似合いな、醜いばかりの刻印。
 あの男のために、あんな男のために、彼女の肩には消せない傷が彫りこまれた。そして今もまた、優しい光に満ちていた瞳が、日に日に憂いを帯びてゆく。
 全ては、あの男のために。
「あいつは来ない」
 泥を吐くように放った一言を、しかしフィーラロムは優しく受け止める。
「来るわ、セイン」
「そうやって待ち続けて、傷つくのはあんただ」
「いいの、傷ついても。待つことを諦めて、何もない世界を歩むよりずっと」
「……あいつがいなけりゃ、世界には何もないってのかよ」
 フィーラロムは窓の外を見つめ、少し言葉を探し、やがて首を横に振った。
「いいえ、けれど……私の世界にはもうあの人がいる。現れてしまった。この世界からあの人が消えてしまうのは、私にはもう考えられない」
 最初に会った時よりも深い悲しみが宿った瞳をセインに向けて、フィーラロムは微笑んだ。
「ありがとう、セイン。貴方はいつも私のことを心配してくれる」
 そして穏やかな笑顔のまま、切実に問うた。
「それは――どうして?」

 どうして?
 どうして、だろうか。

 そして唐突に、気づいた。足元に広がる奈落に。
 ずっと闇の中を歩いてきた。血塗れた人生を何の迷いもなく、黒く、ただ黒く生きてきた。
 美しいものも、清純なものも、本当の意味では存在しないのだと、そう信じて生きてきたのだ。
 なのに、まるで空から舞い降りたように、天使が現れた。
 何の穢れもない、誰にも汚されることのない、至上の天使が。
 ――どうして赦せるだろう。最も憎い男によって、それが穢されてゆくことを。
「お前は光の中にいるべきだった。俺やあいつのいる世界には来てはいけなかった……」
 無意識に呟いた一言は、自分自身を深く傷つけた。
 ずっと否定しつづけてきた。自分とあの男がこの上もなく似ていることを。なのに今、ついに認めてしまった。ジルサン船長と自分とは、確かに世界を同じくしているのだと。
 傷ついた表情に気づいたのか、フィーラロムはセインの正面に立つ。冷たい頬を、そっと、温かな掌で包みこんだ。
「ごめんなさい、セイン」
 自分は、この女が欲しいのだろうか、と不意に思う。
 あいつから奪い取ってやりたいのだろうか。

 違う。

 誰よりもこの女を美しいと思う。
 誰よりも愛しいと思っている。
 だが――それゆえに触れたくない。
 欲しくなどない。抱きしめたいとすら思わない。

 光の中にいた者は、ふたたび光の中へ。
 闇に沈んでいた者は、ふたたび同じ闇の中へ。
 戦時中の高揚感を失い、元の平静さを取りもどした心で、ふと思う。
 あの戦争で得たものは、何だったのだろうか。

 それは、フィーラロム。
 たまらなく愛しく、狂おしいほどに大切な。
 自分の手には負えない、純白の天使。

おわり

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