夜と琵琶

 夜空に無数の星が瞬き、海に深い静寂が訪れた、夜半すぎ。
 船長室では、ラギルニットがすでに眠りについていたため、ホーバーは二層甲板にある食堂に移動し、クロルから借りた小説を読んでいた。
 薄暗い食堂をほのかに照らす、カンテラ。
 天井から吊るされたそれは、船の揺れに合わせて、わずかに前後する。
 今宵は風も微かで、船を進めるには不都合な夜だったが、船内で本を読むにはちょうど良かった。
「お、ホーバー」
 入り口で声がした。顔を上げると、バザークが妙な物を肩に担いで、立っていた。
「ラギル、寝たんだ?」
「さっきな。今日は強行軍だったから、疲れたんだろ」
「ああ。ひどかったなあ、今日は……」
 バザークはホーバーの右向かいの席に座り、担いできた物を膝の上に乗せた。
 楽器だ。丸みのある胴体部分、五本の弦がかかった長い首。図案化した華が全面に描かれていて、なんとも異国風の味わいがあった。
「なんの楽器?」
 問いかけに、バザークは首の上部にある螺子の位置を調整しながら答える。
「五弦琵琶。堕龍封だるほう国の宮廷楽師が使ってる、伝統の楽器だって。グレイがどこからか貰ってきて、今度宴会のときにでも弾けって」
「へえ。初めて見た」
「弾き方、全然知らないんだけどなー」
 バザークは笑って、爪で弦を、びん、と弾いた。
 ふとこみあげた欠伸を掌の内で殺して、ホーバーもまた笑う。
「グレイ、むちゃぶり」
「誰も、あの人には逆らえません」
 降参とばかりに手を挙げ、あれこれと楽器の細部を弄りはじめるバザーク。ホーバーもまた小説に目を戻した。
 当直だろうか、誰かが足音をひそめて、廊下を歩き去ってゆく。
 船鐘が、カン、カン、と何回か鳴らされ、流れてゆく時を告げる。
 カンテラの奥で蝋燭の芯が燃える音。
 ホーバーが頁を繰る。
「もしかして、それ、クロルから借りたやつ?」
 ふと問われ、ホーバーは本に視線を落としたままうなずく。
「そう。前、やけに薦められたやつ」
「まだ読んでんだ。けっこう前だよな?」
「なかなか読む時間なくてさ。面白いんだけどな……長い」
「今どこ?」
「えーと、主人公が漂流して、気づいたらどっかの海岸にいるとこ?」
「あ、そっから最高! すごい面白い。急展開で、一気読みしちゃったよ」
「へえ……」
 ぱらぱら頁をめくって、ホーバーは何とはなしに残りの厚みを確認する。まだ半分にも到達していないが、一瞬目に入った挿絵が、確かに面白そうな雰囲気を醸し出していた。
「今夜中には……無理か」
「それは無理でしょ。寝ろー、てきとーなとこで」
 バザークは弦をじゃらんと爪弾き、飛び出す不協和音に顔をしかめた。
「何だこれ……ここをこうか? あ、こっちか……」
 ぶつぶつ言いながら、あれこれと指の位置を変えて、また鳴らす。ホーバーはふたたび紙の上で繰り広げられる冒険にのめりこみながら、耳に入ってくる琵琶の音が徐々に整ってゆくのを意識の外で聞く。
 やがて、どうにか形になった音階に、バザークは満足げにうなずいた。
「俺、天才」
 ホーバーは文面を目で追いながら、「はい」と空いた手を挙げた。
「じゃ、一曲。小説の展開に合うようなやつ」
「いや、それこそむちゃぶり」
 バザークはクツクツと笑って、また一音一音確かめるように、音階を繰りかえした。
 ホーバーは二度目の欠伸をしながら、小説を先に進める。
 いつもと変わらぬ帆船の夜が、ただ静かに更けていった。

おわり

close
横書き 縦書き