マッスル、それは青春
海賊どもにとって、この世でもっとも恐ろしいのは、地震雷火事親父。
ではなく、くじ引きである。
何でくじ引き? と侮ってはいけない。くじ引きは時に海賊たちの手に、決して拒否することのできない残酷すぎる運命を突きつけてくるのだ。
例を挙げよう。
たとえば陸地に上がるときに毎回行われる班分けのくじ引き。このくじ引きは、二週間近い陸上生活が薔薇色になるか、どどめ色になるかを始まる前から決定づけてしまう。同じ班の人間がどのような人間性を持ち合わせているか、重要なポイントはそこだ。ちなみに「同じ班になりたくない海賊」ナンバー1は、言うまでもないが帝王セイン様だ。もしくは同票で、現役暗殺者のメイスーである。
船内清掃の担当場所を決めるくじ引きでは、ラヴじいさんが掃除長を務める甲板に当たると、炎天下で涙もクソもない「掃除ルンバ」を踊らされる。「踊りながら掃除した方がはかどるからのぢゃーっ」と、悪意ゼロの皺しわ笑顔で言われてごらんなさい、可愛らしすぎて誰も逆らえない。
しかしくじ引きにおいて、一番の恐怖は、毎日恒例の早朝体操だった。
そう、万が一にもあの男が「体操係」になっちゃったりしちゃったら、一体どうなってしまうのか。
こうなるのである。
「感謝しろ! 俺が体操係になったからには、てめぇら全員、一週間でムキムキマッスル・ワッセル様だー!!」
ギラギラ照りつける灼熱の太陽の下、甲板に整然と並ばされた海賊たちは、声にならない悲鳴を上げた。
片目のワッセル。こいつのスパルタっぷりは尋常じゃない。
筋肉トレーニングが趣味なこの男が体操係に任命されたが最後、早朝どころか、バクスクラッシャーは夜遅くまでマッスル地獄を見ることになるのだ。
「まずは……おい、そこ! 今、何を喋っていた!? そこの緑色の頭したホーバー野郎だ、聞いてんのか!」
「………はい」
「声が小せぇ! 私語はどんな懲罰訓練だ、答えろ、クソ副船長!!」
「鉄アレイ便所掃除であります、サー!」
「その通りだ! 懲罰訓練、鉄アレーを頭に載せて、便所掃除開始ぃ!!」
普段涼しい顔のホーバーが鉄アレーを頭に載せて便所掃除なんて、楽しくて仕方ないネタのはずなのに、誰も笑い声ひとつたてない。笑いでもしたら、「懲罰訓練を馬鹿にするなこの社会のクズどもが!」と更に過酷(精神的に)な懲罰をさせられてしまうこと間違いなしなのだ。
マッスルワッセルには逆らうな。
絶対の掟に従い、ホーバーは素直に「マッスル!」と敬礼すると、マッスル助手を務めるフェルカのぷるぷる震える手から鉄アレーを受け取り、船内へワッセッ、ワッセッと駆けて行った。
「おいてめぇら、落ちこぼれをいつまでも見送ってんじゃねぇぞ。それとも何か、あの男のイカしたケツに惚れてんのか、ああ!?」
「ち、違います、マッスルサー!!」
「だったらさっさと腹筋100回4セット開始ぃ!!」
「アイアイマッスル、レッツマッスル!!」
「声が小せぇ!!」
「チュゥ――ッス! アイアイマッスル、レッツマッスルゥウウー!!」
かくしてバクスクラッシャーのマッスルな一日が始まった。
ワッセルは全船員に公平である。老若男女を問わず、腹筋100回4回セット、背筋100回4セットを哀れな子羊たちに強制し、脱落した者を次々と懲罰訓練の名のもと、新たなマッスル体操に突き落としてゆく。
このまま毎日マッスル体操を続ければ、確かに全員、一週間で「ムキムキマッスル・ワッセル様」になれることだろう。残念ながら、誰もんなこと望んじゃいない。
死に物狂いでマッスルメニューを終えた海賊たちは、へろへろとワッセルの前に戻ってきた。
もうこれで終わり、これで終わりだよね。誰もが期待に目を輝かせる。そんな海賊たちをワッセルは涙ぐんで見下ろした。
「お前ら……成長したな。初めて俺が体操係になったときには、誰もここまでやり通せなかった。それが今じゃ、全員、俺の前に立ってやがる! く……っ、すまねぇ、感動のあまり目から酒が出ちまったぜ。今日は俺は最高に機嫌がいい。何でか分かるか? てめぇらっていう優秀な生徒を持ったからだよ!」
「コ、コーチ……ッ」
ワッセルは無事な左目から迸る涙を拭った。
海賊たちの期待はいよいよ高まった。まさか。もしかして。ひょっとして。
「じゃ、じゃあ今日の体操は、これで……?」
「ああ、基礎体操はこれで終わりだ! お前らにはもう必要ねぇ!」
思いがけず早めに体操終了を言い渡され、海賊たちの顔にぱぁあ…っと笑顔が浮かぶ。
ワッセルはうんうんとうなずくと、笑顔で言った。
「ようし、てめぇら準備しろ!」
昼飯の準備ッスね!?
全員が嬉々として立ち上がりかけたところで、ワッセルはムキッと筋肉を盛り上げ、歯をキランッと輝かせて言った。
「海上トライアスロン、始めるぞ!」
ゥありがとうございます……ッ!!
猛烈に泳げぇええええええ!
甲板で、エア自転車こげぇえええええええ!!
そして、海面を走りやがれぇええええええ!!!
チュ、チュゥ――ッス!
アイアイマッスル、レッツマッスルゥウウー…っ!!!
「マッスル、マッスル~」
鉄アレイを頭に乗せたホーバーは、ブラシで大便用便器の内側をごしごしと擦りながら、陽気に鼻歌を歌う。
外からは海賊たちの阿鼻叫喚と、ワッセルの情け容赦ない怒号、そして不可能を現実のものとしている奇跡の海上トライアスロンを実践する嵐のような悲鳴が聞こえていたが、ここ船内便所は実に平和な静けさに満ちている。
私語が原因で受ける懲罰は、鉄アレイ便所掃除である。
経験者以外は誰も知らない。
ワッセルマッスルの中で、鉄アレイ便所掃除が一番楽だという事実。
「ああ、楽だ……」
鉄アレイ便所掃除の常連であるホーバーは、少々痛む背中をとんとーんと爺くさく叩いた。
そこへ、軋んだ音をたてて便所の扉が開いた。見ると、鉄アレイを頭に乗せ、便所用のデッキブラシを肩に担いだレティクが、ホーバーと同じ訳知り顔で入ってくるところだった。
レティクが敬礼する。
「マッスル」
ホーバーも敬礼した。
「マッスル」
そして二人は、鉄アレイを頭に乗せたまま、黙々と一番楽な懲罰にいそしむのだった。
遅ぇぞのろまの亀ども! もう一周トライアスローンッッ!
チュゥ――ッス! アイアイマッスル、レッツマッスルゥウウー…っ!!!
嗚呼、マッスル。
それは青春。