真夜中のおはなし
いきなりだが、真夜中の話である。
バックロー号の甲板船尾にある船長室。その左舷側の壁に沿うようにして設置された寝棚の二段目が、高いところ大好きなバクスクラッシャーの船長ラギルニットの寝床であった。真夜中なので、当然ラギルは眠りこけている。ついでに言うといい夢を見ていた。自分がありんこ騎士団の騎士団長になって、ありの巣帝国の女王ありを守る夢だ。
むへへへ。自分のかっこよさと、女王ありの可愛さにきゅんとなって、むふむふ笑う。
そんなラギルニットを、レイリは白けた目で見下ろした。
「ラギルちゃん」
「……ふぇ?」
いきなり耳元で名前を呼ばれたラギルニットは、寝ぼけ眼をぼんやりと開く。見ると、レイリが寝棚の柵に頬杖をつき、顔を覗きこんでいた。
ラギルニットはよだれを垂らしたまま、目をゴシゴシと擦って身を起こした。
「あれ、レイリ? もう朝?」
「いいえ、まだ夜明け前よ。ホーバーのお馬鹿副船長も下でぐーすか眠ってるわ」
「……えぇ?」
夜明け前と聞いて、ラギルニットはぶすっとした。せっかく良い夢を見ていたのに。もうすぐ女王ありをアリクイの魔の手から守り抜いて、ほっぺにちゅーを貰えるはずだったのに。ラギルニットは口をきくのも嫌になって、無言でもそもそと掛け布の下に潜りこもうとした。
それをレイリは容赦なく剥ぎ取った。
「な、なにすんだよ、レイリ!」
「なにすんだよじゃないわよ。わたしが用事があるって言ってるんだから、姿勢を正して聞こうって気はないの?」
ないと言おうと思ったが、レイリの顔が薄闇の中でいかにも意地悪げに輝いているのを見て、ラギルニットは嫌々ながら再び上体を起こした。
レイリは時々すごくわがままだと思う。昔はもうちょい可愛かったが、最近では根性の悪い女船員どもに染まって口調にまで棘が出てきたっス……とはシャークがぼやいていた言葉だ。説明するまでもないが。
女の子って怖いよねとラギルニットは悟った溜め息をついた。
「……なぁに?」
普段は絶対にしないが、今ばかりは嫌なことを先延ばしにしたくって、ラギルニットは掛け布を丁寧すぎるほど丁寧に畳んでからようやくケナテラ大陸式の改まった体勢「正座」をして問いかけた。
途端レイリが相好を崩した。楽しげに笑いながら梯子を上りきり、四つんばいになって寝棚に這い上がる。そしてラギルニットの前に膝抱えて座ると、愛らしく小首を傾げた。
「あのね、わたしからのお願い、聞いてくれる?」
料理番見習いのレイリ=ラクサは、船上の天使と詠われる船医フィーラロムの愛娘である。生まれはバックロー号の医務室、育ちはバックロー号の五号船室。船上生まれの船上育ちという海賊のサラブレッド・レイリは、“お願い”の仕方も妙に堂に入っていた。
ラギルニットはいやな予感がして、たんぽぽの茎を切った時に出てくる白い液体を舐めちゃった時みたいな苦い顔をした。
「……えー」
「何よ。えーって」
「う、うー。……お願いごと次第」
「聞いてからなんてずるいわ! ちゃんと“いいよ”って約束してくれないと教えてあげない!」
「いいよ、教えてくれなくても……」
「何よ!!」
思わず本音がぽろりと零れた瞬間、レイリが大声を上げた。ンガッ!という妙な声がしたので、二人は慌てて口に指を当て「しーっ」としてから、おそるおそる寝棚の一段目を見下ろした。そこではちょうど、バクスクラッシャー一寝相の悪い男ホーバー副船長殿が、ボリボリと腹を掻きながら盛大な寝返りを打つところだった。
「……静かに話す必要あるの? あれ」
「ない」
きっぱりと言い切るラギルニットに、レイリは深々と溜め息を落とした。
「いつか女の尻に敷かれそうな船長さまと、今でもおねしょしてそうな副船長さま。こーんな素敵な船で過ごせて、わたしとっても幸せだわ……」
「でしょう」
馬鹿にされているのだが、反論するのがとっても面倒なのでラギルニットはおざなりに答えた。
「それで、約束するの? しないの?」
「……もう! わかったよ、約束するよ、すればいいんでしょ!」
眠くて眠くて仕方ないラギルニットは、無茶なお願いごとをされても、後で「寝ぼけてて覚えてないや」とか何とか言ってうやむやにしちゃおうと決意してうなずいた。レイリはようやく満足してうなずき、ぐっと身を乗り出した。
「あのね、わたしね、バザークのお嫁さんになりたいの」
ラギルニットはふぅーん、と聞き流し、直後、
「ぇえ!?」
驚きのあまり背を仰け反らせた。
バザークと言えば、柔らかな黒髪と緑柱石色の優しげな目元が港町でも人気の美形舵手である。明朗な性格は船内の老若男女にも人気があるが、何と言っても「女たらし」なのが玉に瑕だ。港の数だけ女がいるなんて話はまだ序の口、バザークは「女」と呼ぶには幼すぎる少女や、「女」と名乗るには経験豊富すぎる老婆までもを口説いて、デートに誘ったりするのだ。
そんなバザークの女たらしっぷりを、バクスクラッシャーの女船員たちは良く知っているので、船員の中にバザークに惚れている女はいない。というのに、まさかレイリがバザークの毒牙にかかっていたなんて!
ラギルニットはよろりとうなだれた。
「よもすえだぁ……」
「ねぇ、それ意味わかって言ってる?」
「バザークはダメだよ、レイリ! すけこましで女ったらしだから、きっとおよめさんになる子は将来なきをみるんだよ!」
女船員たちをまとめる副船長代理のクロルが言っていたことをそのまま伝えると、レイリは「あら!」と心外そうな顔をした。
「バザークが女ったらしで、すけこましだなんて、そんなの見てれば分かるじゃない。結婚してから後悔するなんて、そんな女最初からバザークにふさわしくなかったのよ。それにわたし自信があるの。今はバザークは女たらしかもしれないけど、わたしと結婚したら他の女なんて見向きもしなくなっちゃうのよ。わたしにぞっこんになるのよ。だってわたし、こんなに可愛いんだもの。だから大丈夫なの、おばかなラギルちゃん」
「えー……?」
ラギルニットはレイリの言うことの半分も分からず、難しい顔で首を傾げた。レイリはラギルが黙りこむのを見て、勝ち誇ったように口角を持ち上げた。
「だからわたしはバザークのお嫁さんになるの。だって他の女には無理だもの。でもね、分かってるの。わたしはどこの社交界に出しても恥ずかしくないような立派なレディだけど、見た目は子供なの。それはどうしようもない事実だわ。だからバザークはわたしをレディとしては扱ってくれても、一人の成熟した女として見てはくれないと思うの。その辺は謙虚なのよ、わたし」
「……ねぇ、もう寝ていい?」
ラギルニットはふたたび掛け布に潜りこもうとする。レイリは目をギラリと光らせると、掛け布をぶん取って、一段目のホーバー目掛けて放り捨てた。
「わ! な、なにするんだよレイリ!」
「人の話を聞かないからよ! お願いごと聞いてくれるって約束したじゃない!」
「だってレイリ、ずっとお喋りばっかりで肝心のお願いごと、なかなか言わないんだもん! おれはもう眠りたいの! 今日はいっぱい泳いで、目がしばしばするの! 明日の朝にしてよ、もう!!」
「何よそれ、わがまま! 嘘つき!」
「わがま――っもうあったまきた! わがままなのはレイリだよ! せっかくいい夢見てたのに……おれがハチの巣で、敵の船がフライドチキンの山が!!??? あれ、うわ、どんな夢見てたか分からなくなっちゃったよ夢の尻尾逃げちゃった、レイリのばか!」
「ばかなのはラギルちゃんよ! 結婚は乙女にとって人生最大の決断なんだから真剣に考えてよ、船長でしょ、友達でしょ、幼馴染でしょー!」
「ずるい、こんなときばっかり! 前、おれがファミのこと好きって話したら、ファミにおれが今もおねしょするなんて嘘教えたくせに!」
「あら、わたしは親切で嘘をついたのよ。だってファミって可愛くないんだもの。ラギルちゃんにはわたしがもっといいお嫁さんを見つけてあげるの」
「余計なお世話だよ、そういうのおせっかいのお見合いばばーって言うんだ!」
「っっぬぁあんですってぇえええ!?」
ぽかぽかッと音のしそうな喧嘩をして、ラギルとレイリは不毛な言い争いをする。
ホーバーがまた「ンガッ」といびきを立てて、「明太子スパゲッティはスプーンで食うな、滑るだろ……!」と謎の寝言を吐き、ジェスチャーでいかに滑るかを説明していたが、もはや二人の子供は気付きもしない。
レイリはぜぇぜぇと肩で息をしながら、高慢に顎をそらした。
「ふん、いつまでも昔のこと気にして、ラギルちゃんってほんっと男らしくないんだから……バザークだけよ、この船で男と名乗っていいのは!」
「バ、バザークなんてもうおじさんだよ! だって二十七歳だよ!? おれなんて十歳だもん、ぴっちぴちだもん! お肌もつるつるで、もちもちで、筋肉だってモリモリなんだからー!」
「……自分がなに言ってるか分かってる! ラギルちゃん」
「……えっと、よくわかんない」
「っおばかなんじゃないの!?」
「な、なんだよー!!」
ぽかぽかぽかぽかぽかぽかッ。
「……ぜぇぜぇ。と、ともかくわたしはバザークと結婚したいの!」
「ばかはレイリだよ。そんなのムリだよ、ぜったい! ぜぇったい!」
「……っふんぬぅうう!!」
ぽかぽかぽかッ。
ぽかぽかぽかッッ。
ンガッ。
それから優に十分はもめた二人は、ぽかぽかのし過ぎで息も絶え絶えになっていた。
「……もういいよ、レイリ。分かったから、お願いごと何でもきくから、はやく言ってよ。おれにどうしてほしいの」
もはや眠さがピークに達したラギルニットは、やけっぱちで隈の浮いた目をレイリに向けた。
「わかったわ。じゃあ言うわよ、ラギルちゃん……」
ぜぇぜぇ言いながら、金髪の巻き毛がめちゃくちゃに乱れたレイリがラギルニットを見返す。
「おう、どんとこーい……」
ラギルニットとレイリはじっと額をつき合わせた。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「……」
「……………………」
「……まだ?」
なかなか言い出さないので、うつらうつらしながらラギルニットは催促する。
レイリはほっぺたを赤く染めると、もじもじと足の指で寝棚のシーツを気まずげに掴んだ。
「……、眠くって何言おうとしたか、忘れちゃったわ」
「ぎゃっ」
こて。
ラギルニットは両手を広げて寝棚に引っくりかえった。
翌朝、目を覚ましたホーバー副船長は、自分の足の辺りで転がっているラギルニットの掛け布に首を傾げ、梯子の下に小さなリボン付きの赤い小靴がそろえて置かれていることに気づき、むくりと起き上がって寝棚の二段目を覗きこんだ。
ホーバーは目を丸くする。
狭い寝棚の二段目には、天使が二人、すやすやと寝息をたてて眠っていた。
「夜中になにがあったのやら」
苦笑して、捨て置かれたままの掛け布を二人の上に掛けると、
「バ、バザークと結婚するんだもん、ラギルちゃんのばか……」
「むり……ぜったぁいむり……」
と、謎の寝言を言って、二人はぽかぽか拳を一つずつ、相手に食らわせた。