風を聴く

「に、兄さん、決まったかい!?」
 額に鉢巻きを締めた風車売りが上ずった声を上げる。
 アレスが店頭に立ってからすでに十回は聞いた台詞だ。よほど狼狽しているのだろう、鉢巻きもやや傾き気味である。
「……決めるったっててめぇ、俺には何がいいのかさっぱり分かんねぇんだよ」
 地底から響くようなバリトンで吐き捨てると、風車売りは「ひっ」と竦みあがった。
 他の船員が見ていれば、無理もない…と同情のひとつもしたことだろう。何せアレスの顔ときたら凶悪犯罪者も小便漏らす勢いの超強面だ。「郷に入ったら郷に従え」をモットーに買った着物が、全く似合っていないのがまたまずい。ケナテラ大陸の伝統的な着物を着るには、アレスの体格は立派すぎるのだ。しかも知識なしで買ったのか、着ている着物は芝居役者でもそうは着ない、紫地に金鳥の刺繍が入ったド派手なやつである。
 風車を買うのはたいてい子供か女だが、アレスが来てから客がまったく寄りつかない。キツキツの胸元からのぞく赤い胸毛は、フェクヘーラ大陸の女たちには刺激的でも、ケナテラ大陸の清楚な女性には後ずさりたくなるほど凶暴に見えるようだ。
 風車売りとしては一刻も早く、この目の前の客に品を選んでもらって、どこへなりと去ってほしいのである。
「風車なんてよ……」
 アレスは舌打ちして、木組みの枠に飾られた無数の風車を睨みつけた。
「これは黴みてぇな色だし、こっちはうんこじゃねぇか」
「こ、これは、鬱金色と言うんです!」
「だから、うんこだろ」
「ち、違います! うこんです、うこ――ヒッ!」
 カラカラと回転する風車は、アレスにはどれも微妙な仕上がりに見える。ケナテラの伝統文化は渋みのある色や、ぼやかした色を好しとするが、アレスとしては白黒はっきりしている方が好ましい。黄なら黄、緑なら緑、赤なら赤だ。下手に濁らせたり暈したりだのはどうにも馴染めない。そもそも風を受けてくるくる回る車の何が面白いのかが理解できないので、どうしようもない。
「あー……分からん」
 だが、まだ居座る態のアレスに、風車売りがそろそろ涙を浮かべはじめた頃だった。
「おいちゃん!」
 不意に袖を引かれ、アレスはあん?と足元に目をやった。
 しゃがみこんだアレスのでかい図体の傍らに、ラギルニットよりもさらに小さな娘が膝を抱えて座っていた。
「……何だよ」
「おいちゃん、あたしがおいちゃんの風車を見立ててあげる!」
「はぁ?」
 アレスの強面に怯える様子もなく、娘は底抜けに明るい笑顔で風車を指さした。栄養が足りていないのか、ただ生え変わりの時期なのか、にっと笑った口元には前歯がない。
 その屈託のない笑顔に、逆にアレスの方が怯んだ。
「見立てるって……お前――」
 子供には、というより大人にもだが、たいてい遠巻きにされるか逃げられるかのアレスは、躊躇いがちに娘に話しかける。
 だが娘は人差し指を唇に当てると、顎を少し持ちあげ、風車の音にじっと耳を傾けた。
 穏やかな微風に、カラカラと乾いた音を立てる色とりどりの風車。少女の額の生え際もふわふわと揺れる。
 リン……という鈴の音を聞いた気がした。
 振りかえると、少し距離を開けた先に旅装姿の僧が立っていた。風の神サスズ・スーを信仰する者の証である翼をかたどった耳飾りをつけている。
「おっちゃんの風車、みーっけた!」
 娘はぱっと顔を上げると、鬱金色の風車を手に取った。


「あんたの娘か?」
 旅僧と並んで歩きながら訊ねると、その若い僧は静かに首を振った。線の細い印象を受ける青年だ。リン、と彼の手にする杖先の鈴がまた音をたてる。
「いいえ。旅の友と言うべきかもしれません」
 二人の前では娘が元気よく駆け回っている。僧は目を細めた。
「幼い頃、父母と生き別れになったのだと師匠より聞いております。師匠から託され、諸国を行脚しながらあの子の親を探しているのです」
「そりゃまた……面倒な話だな」
「私には私の目的があり、あの子にはあの子の目的があります。たまたま同じ道行きであったので引き受けたまでのことです」
「だが、親を探すっつっても――」
 アレスは言葉を区切り、雑踏の中、造作なく走り回る娘に目をやった。
「はい。あの娘は数年前の事故が原因で、目が見えません」
 アレスはぽりぽりと赤髪を掻きながら、自分の右腕のことを思った。
 着物の袖下に隠れた右腕は、背中の後ろで上に向かって大きく捻じ曲がっている。アレスが「曲腕のアレス」と呼ばれるゆえんである。
 腕は、皮がよれて引きつれ、ところどころ不自然に骨が飛び出していて、目を背けたくなるほど醜い。戦時中に負った怪我だ。いや、人為的に負わされた怪我である。
 拷問と呼ぶには私事すぎるだろう。「あの男」はアレスの右腕は脱臼させた上で、舵輪の間に通し、勢いよく舵は回転させたのだ。強引に回された舵輪の軸は、アレスの腕の骨を砕き、肉を捻じ曲げさせた。あの時の鈍い音は今でもはっきりと思い出すことができる。
 だが本当に辛かったのは、利き腕を失った後だ。
 日常の生活はもちろんだが、舵手だったアレスは舵を自由に操ることができなくなった。それは今でも同じだ。今も海が荒れた日などは舵を取ることができない。舵輪の前を、自分よりも若い船員に譲る時には悔しさで胸が焼ける。しかし本当に身に応えたのは、どうしようもなく誰かに縋りたい時、側にいてくれる友人や女がいなかったことかもしれない。かつての友人は事件をきっかけにアレスから遠のいていった。女たちから一夜の同情を買うにも、この右腕は醜すぎた。
「そのわりには、生まれつき見えてなかったみてぇに走りやがる」
 あの娘は、目が見えないからこそアレスに話しかけることができたのだ。普通の子供はアレスの腕を見ると竦みあがって声も出ない。最もその原因は腕より先に、その強面と脅迫めいた口調のせいなのだが。
 不愉快な過去を思い出したせいで、アレスの口調にはどこか八つ当たり気味な皮肉が滲んだ。
「風を聴く、と言います」
 僧が囁いた。
「風を聞く?」
 聞き慣れぬ言葉に眉をしかめたアレスの脳裏に、風車に耳を傾ける娘の姿が浮かび上がった。カラリという音を聞いた気がして見下ろすと、左手の中の風車が回る音だった。
「目が見えぬ分、風の流れがあの子に物の形を教えるのです。その風車はどれよりも優しい音を奏でていましたよ」
 アレスは不審な思いで風車を目の前に掲げる。確かに不器用につっかえることなく、軽やかな音を立てて良く回ってはいるが、他と比べてどうかと言われるとアレスには区別がつかない。
「このうんこ色がねぇ……」
 呟くと、僧は訳知り顔で微笑んだ。そこでアレスは初めて気がついた。僧の目はどこか焦点が覚束ない。彼もまた風を聴いて物の形を知るのだと。
「どなたかのお土産なのですね、その風車」
「……あん?」
「あの子は感じたのでしょう。あなたを形作る、優しい風を」
 アレスは意表をつかれて沈黙する。
 返す言葉に困って娘に目をやると、心地よい微風の中、踊るように走っていた娘が屈託のない無邪気な笑顔で振りかえってきた。


 港町に停泊中だったバックロー号に戻ったアレスを、三人の女たちが出迎えた。
 方角見のキャム、料理番のリーチェとメイである。
「おかえり、アレス! はい」
 差し出されたキャムとリーチェの手を、アレスは片目を細めて見下ろす。
「はい、って何だてめぇら」
「かーざーぐーるーま!」
 仲良く声を揃えて、さらに手を伸ばす二人の若い女船員を、アレスは厳つい顔で見下ろした。
 しかしさすがは十年来の付き合いだ、それぐらいで動じるような女海賊どもではない。アレスはやれやれと親父臭く溜息をついて、袖から取り出した風車をひょいと差し出してやった。
「感謝しろよてめぇら。選ぶのに苦労したんだからな」
 だがリーチェとキャムはマジマジと風車を見つめると、途端に不満顔を浮かべた。
「何これ。うんこ色じゃないの……」
「おい、これはなぁうんこ色じゃねぇ、鬱金色っつーんだ!」
「だから、うんこ色でしょっての」
「うこんだ、うこん! それに色じゃねぇんだよ、風車は。音だ、音。売ってた中じゃ、これが一番きれいな音がするって」
「他の風車見たことないから分かんないし」
「わ、分かってねぇ、てめぇら! いいか? 風を聞くって言ってだなぁ…」
「うるさいなぁ、親父は。第一なんなのその紫色の変な着物。趣味がそもそもウンコだわ……」
 ケナテラ大陸海明遼国の港町では散々怯えられた強面も、バックロー号の中ではたいした成果も得られない。リーチェとキャムはぶぅぶぅ唇を尖らせ、さっさと船室に戻っていってしまった。
 アレスは凶悪な顔をさらに不気味に引きつらせ、手元に残った鬱金色の風車を掲げ上げた。
「……まぁ、うんこだけどよ」
 不意に、その風車を細い指先が浚っていった。
 見下ろすと、目の前にメイが立っていた。
「これ、私が貰ってもいい?」
 普段は寡黙で、何事にも遠慮がちなメイが物珍しそうに風車を見つめている。
「ああ、やるよ。どうせ便器に流すしかねぇウンコだ」
 やけっぱちで答えると、メイは穏やかな海風に短い髪を揺らしながら、ふと目を伏せた。
 風を聴く娘の姿が、アレスの脳裏に蘇った。
 カラカラと柔らかな音が耳に響く。
「ああ、本当だ。優しい音がする」
 メイの物静かな顔に、優しい笑顔が浮かぶ。
「アレスみたいな音だ……」
 メイは目を開くと、愛しげに風車を手元に引き寄せ「ありがとう」と身を翻した。
 一人甲板に残されたアレスはあちこち視線を泳がせた後、赤い髪をぼりぼりと掻いた。
「……俺には聞こえねぇな」
 そう呟いた途端、カラリと風車が鳴った気がした。

おわり

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