影の円舞曲
03
へこんだ。
「う、ううう、うううう」
湯気が出るほど赤くなった顔を、抱えた両膝にうずめる。さきほどの醜態を思い出すと、今すぐマストの頂上から飛びおりて、海底に穴を掘って埋まりたくなる。
『シャークは誰と踊るの?』
何であれしきのことを聞くだけで、手も足も唇まで震えてしまったのか。
きっとみっともない顔をしていた。不細工だった。不細工な顔を見られた。挙動も不審だった。変な奴って思われた。頭おかしいって思われた。
思うも何も、シャークはとっくに目の前からいなくなっていたのだけれど。
「……っ」
怒りが甦ってきて、キャムは膝小僧に額をごんごんとぶつける。
――落ち着け。あれでよかったのだ。みっともない姿を見られずに済んだのだから。シャークがいなくなってくれて良かった。さっさと消えてくれて、本当に良かった。
ホーバーには見られたけれど。
「……っ、……っっ」
羞恥に打ちのめされ、膝を抱えたままじたばたと足踏みする。
「おい、キャム! 貧乏ゆすりは下降りてやれ、目障りだボケ!」
遠く、フォアマストの見張り台から、見張り役の船員ワッセルの声が飛んできた。
「うっさい……貧乏ゆすりじゃないわよ、無神経な筋肉馬鹿の片目野郎……」
「んだとこら! 聞こえてんぞてめぇ!」
ワッセルの怒鳴り声に「地獄耳」と呟きかえし、キャムはのろのろと顔を上げた。
キャムがいるのは、メインマストにある見張り台だ。マストを囲う円形の床の周囲に、頑丈な柵が設けられていて、内側にしゃがみこめば、ちょっとした「ひとりきり」気分を味わえる。
まったく帆船ってやつは、どうしてこう孤独に浸れる場所が少ないのだろうか。船首にも、「隙間」と呼ばれる狭い閉鎖空間があって、船員からは一人になれる穴場として重宝されているけれど、あそこは出入りを目撃されたが最後、「ああ、こいつ何か悩んでんだな」とモロバレしてしまうので、キャムは使わないようにしている。
「はあ……」
柵に額をコツンとつけて、ぼんやりと下方の甲板を見下ろす。
目に入ってくるのは、いつもとはまるで違う景色だ。並べられたドレスや装飾品のおかげで、花が咲いたように色鮮やかな甲板。船内からは、入れかわり立ちかわり船員が現れ、子供みたいにはしゃいでいる。
楽しそうだ。そりゃ、楽しいに決まっている。
航海も長く続けば、たいていのことには飽きてくる。話の種なんかとっくの昔に切れているし、金がなければ賭け事も楽しめない。買いこんだ本は読み終えてしまったし、付き合わせる顔が毎日同じとくれば、新鮮な驚きに遭遇する機会はほとんどない。
いつもと違った娯楽は、心を浮き立たせるのだ。当然だ。
キャムだって――、楽しめるものなら楽しみたい。
クロルが選んでくれたあのドレス、本当に綺麗だった。あれだったら、すぐにでも着てみたい。癪だけれど、リーチェに頼んで化粧もしてみよう。ドレスを着る前に、水を使う許可は下りるだろうか。いや、きっとその辺りは、女船員たちが上手いこと、水夫長のリザルトと交渉してくれることだろう。
似合う、だろうか。クロルは太鼓判を押してくれたけれど、本当に自分なんかが、あんなドレスに似合うのだろうか。
シャークは、何て言うだろう。
思考がそこに達すると、途端に浮き立つ心が萎んでゆく。
『馬子にも衣装っスねー!』
『わあ、お遊戯大会でもあるんスか?』
想像の中ですら、シャークはキャムを褒めてはくれない。現実なんて、きっともっとひどい。
(ううん、感想すらくれないかも……)
きっと、さっきみたいに、気づいたらいなくなっているのだ。
喧騒に渦巻く甲板、誰もが笑いさざめき踊る中、意気揚々とドレスをまとったキャムは、ひとりぼっちで取り残される。
ひとりぼっち。シャークはいない。
「……」
じたばたじたばた。
「鬱陶しいっつってんだろ、くそキャミラルー!」
「っ鬱陶しいのは、あんたの筋肉だっつーの、ばかー!」
ワッセルに叫び返して、キャムは長い溜め息をつきながら、首を横に振った。
――みんな、本当に心から、このお祭り騒ぎを楽しんでいるのだろうか。
誰かひとりでも、キャムのように辛い気持ちを抱えている人がいればいいのに。
(そういえば、ファルはどうなんだろ)
ふと同室で暮らす、三歳年下の少女ファルを思い出す。ファルは女の子らしいことにはまるで興味がない子だ。普段から男っぽい格好をして、女船員と恋の話を咲かせるより、ラギルニットや、レック、レイムと子犬みたいにじゃれ合っていることの方が多い。今回のこと、お祭り自体は楽しみにしているようだったけれど、ドレスとか、ダンスとか、そういうのはどうなのだろうか。
(あの子も胸ないのよねえ……)
着替えの時にちら見する限り、ファルの胸は見事にまな板である。それに、キャムと同じぐらいひどい癖っ毛だ。背も低いし、ガリガリに痩せている。言ってはなんだが、ファルだってきっとドレスは似合わないはずだ。
妙な仲間意識がわいてきて、顔が勝手ににやけてしまう。
(そうよ。私だけじゃない。ファルだって……)
その時、足元でわっという歓声が上がった。
キャムは何となく明るい気持ちを取り戻し、勢いよく立ち上がって、縄梯子に手をかけた。
甲板に下りて向かった先では、主に女の船員たちが人垣を作っていた。
「どうしたの」
外側からに声をかけると、料理番のシュリが冷たいような美貌を薄く微笑ませた。
「キャム。あなたの相棒、すごいことになってご登場よ」
「相棒? すごいって何が……」
見えない。背伸びをしても人垣の先が見通せず、キャムはもはや反射で苛々しながら、船員を押しのけて輪の中に割って入った。
「キャム、助けて!」
途端、ファルが体当たりの勢いで飛びついてきた。
キャムは驚いて身を離し――絶句した。
「な、なに、その格好……」
「みんなに着せられちゃって。こ、こんなのはずかしいよー!」
唖然と見下ろした半泣きのファルは、痩せた体に、漆黒のドレスをまとっていた。
光沢のない綿の布地だ。袖はなく、二の腕まで剥き出しの形。紐は肩ではなく、首で結べるように、リボンになっている。スカートは膝まで丸見えになるほど短く、裾にはフリルがふんだんに使われていた。
キャムは目の前がくらくらするのを感じた。
――嘘みたいに、可愛い。
「悔しいけど、すっごい可愛いわ。特にその足……これが美脚ってやつなのね」
十一歳のレイリのおませな言葉に、料理番のリューンがこくこくとうなずく。
「素敵です。最高です。肌もすべすべです」
「つーか、首、細! そのリボンは悩殺もんだよ、あんた?」
「ボ、ボク、ドレスはやっぱり。あ、あっちのチェックのズボンの方が……」
うなじまで赤く染め、目をぐるぐるさせるファルに、船員たちはどっと笑った。
「まったく、色気のない子なんだから。せっかく可愛いのに、もったいないよ?」
「そうそう。そのドレスだって、下手したら下品になるとこなのに。ファルが着ると可愛く見えちゃうんだから不思議よね」
年配の女船員が、優しい手つきでファルの髪に触れる。ドレスと同じ素材のコサージュを宛がい、薄茶色の癖っ毛を手櫛で梳きながら、懐かしむように微笑んだ。
「昔、こういう癖っ毛に憧れたものだわ。あなたの髪はふっわふわで、綿菓子みたい」
「薄緑色の瞳も宝石みたいでさ。将来が楽しみだよ、まったく」
「何しろ、天下のレティク様の妹だからね! 素材が違うってんだ!」
「そ、素材って……そりゃ、レティク兄はかっこいいけど、ボクは……」
ファルの相変わらずの兄貴依存症ぶりに、周りの女船員だけでなく、甲板のあちこちで作業をしていた当直の船員までが笑い声を上げた。
「――う、あ」
変な声がした。キャムが目を向けると、さっきまで子猿のように遊んでいたレイムが、婦人用の帽子を両手に握りしめ、棒立ちになっていた。見開いた視線は、ファルに釘付けになっている。
「うひょー、ファルの奴、超可愛いじゃん。な、レイム!」
傍らのレックが、にやにやとレイムの肩に腕を回した。レイムはぼっと顔を真っ赤にし、大慌てで婦人用帽子をかぶって、広いつばの下に照れ顔を隠れた。
「か、かかか……う、うん。か、かわ……う」
「え、なになに、聞こえねぇんだけど!?」
親友の動揺が可笑しいのか、レックはレイムの帽子をもぎ取ろうとして、「やめろよ!」、「なんでだよー!」、「なんでもいいから、やめろってば!」とわあわあと騒いだ。
キャムは、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「……うわ!」
無言でファルの細い手首を掴み、船員たちの中から引きずりだす。ずんずんと甲板を横切り、船内に入ったところで、船員たちが「何なの、キャムったら」「妬いてんじゃないかい?」と無遠慮に笑う声が聞こえてきた。
自分たちの船室に飛びこみ、扉をばんっと乱暴に閉じて、簡素な壊れかけの鍵を内側からかける。寝棚に転がって、流行の服装雑誌を読んでいたリーチェが、「うっさいよ」と顔も上げずに言う。キャムはファルの手首を離し、解放した。
「ありがとう、助かったよ、キャムー!」
三人きりになって、ファルはようやくほっと息を吐きだした。
「気づいたら、わーって着替えさせられちゃってて。はあ、みんなの手際の良さにびっくりだよ」
「さっさと脱いだら」
ぶっきらぼうに言ってやると、ファルは不慣れな手つきで首のリボンを外しはじめた。ようやく身を起こしたリーチェが、ファルの姿を見てぎょっとした。
「なにそれ。着せられたの?」
「そうなんだよー! これがいい、あれがいいって、寄ってたかって……」
「――ねえ、ファル」
キャムの低い声に、ファルがきょとんと目を瞬かせた。
「なに?」
「あんたさ……誰かに一緒に踊ろうとか誘われた?」
「ダンスの話?」
背を向けたままうなずくと、ファルは「うーんと」と考えるそぶりをした。
「キャエズに誘われたよ。あと、ローズおじさんとサリス兄がふざけて……、あ。グレイおいちゃんにも誘われた! ちょっと嬉しかったなあ!」
ごす。
「……な、なんの音?」
キャムは寝棚の支柱に打ちつけた額をそのままに、平静を装って口を開いた。
「べ、別になんでもないからどうでもいいから気にしてないから、考えてみればあんたは成長期なわけで、これからどんどん胸だってボインボインになったりするとか気にしてないから」
動揺は、残念ながらあと一歩、隠しきれなかった。
燃える太陽が水平線に沈み、刻限は星降る夜を迎える。
キャムの予想通り、バックロー号はあさっての祭に備え、水の補給で無人島に立ち寄ることになった。深い入り江に投錨し、作業を終えたところで夕暮れを迎え、船員たちは甲板上で、酒を飲み交わしながら食事をとっていた。
頭上は満天の星。天の川が、上空をけぶるように横切っている。あちこちに吊るしたカンテラや、手元の明かりが照らし出す帆船は、切ないほどに美しかった。
「ねえ、ログゼ。バクス帝国ノ踊り、どう踊るノ?」
キャムがぼそぼそと味のしない夕食を食べていると、少し離れた位置からそんな問いが聞こえてきた。目を向けると、料理番兼船医のミンリーが、傍らの恋人ログゼに小首を傾けていた。
(ミンリーも可愛いなあ)
タネキア大陸奥地の少数部族の出であるミンリーは、バックロー号の仲間になってから十数年が経つ今も、きちんとしたリスト語が話せない。そのたどたどしいリスト語が、ことさらミンリーの愛らしさを強調しているのだから、ずるい話だ。――何だか頭の中が、下らないヒガミでいっぱいである。
食事を終えて、甲板に寝そべっていたログゼは、「え?」と頭をわずかに起こした。
「私も、踊るノ、したい」
「バクス帝国の貴族様みたいなやつを踊りたいってこと?」
キャムの耳がついつい動く。確かに、いつも踊るようなタネキア大陸の情熱的なダンスでは、手に入れたドレスに見合わない。
「ソウ。せかくドレスある、ドレスに似合う踊り、するノ」
「女ってそういうの好きだよなあ」
目を輝かせるミンリーに苦笑して、ログゼは周りで思い思いに寛いでいる船員に目を向ける。
「俺は、村祭で踊るようなダサいのしか踊れねぇし。誰か、元貴族様にでも教えてもらえばいいんじゃねぇ? 誰がいるっけ……あ」
ログゼは指を鳴らし、船縁の方に目を向けた。
一緒に視線を巡らせたキャムは、あと一歩で「うげ」と口にするところだった。
船の隅っこで寝転がっていたのは、青碧色の髪の毛の副船長――キャムの醜態を目撃していたホーバーだった。