虹の翼
09
レックは呆気にとられて、突然のセインの登場を見守った。
「来た。ほんとに……」
ぽかんと呟いた途端、一気に腰が抜けた。
来るとは思わなかった。切羽詰まって、ワラにもすがるような思いで、ただふっと浮かんだセインの名前を呼んだだけだ。期待したわけではないし、まさか本当に来るとは思ってもいなかった。
それなのに、顔を見た途端ものすごく安堵した。
「な、なんだよ……」
緊張が緩んだせいか、いきなり涙がこみあげてきて、レックは慌てて顔を隠した。
「ちくしょう、なんだよ、すっげぇ、ずるい――」
子供嫌いの乱暴者。エロいわ、馬鹿だわ、自己中心的だわ、煙草臭いわ、酒癖悪いわ、ラギルニットを苛めるわ、いいところなんて何もない男なのに。それでもセインが来たのならもう大丈夫だと、心から安心している。
「こてんぱんに叩きのめさないと許さねぇからな! 手加減したらぶっ殺すからんだからな、セインの大馬鹿クソ野郎――!!」
レックは涙を乱暴にぬぐうと、腹立ちまぎれに滅茶苦茶な野次を送った。
野次を受けて、セインはレックを一瞥する。その満身創痍と、レックの脇に倒れるラギルニットに気がついて、不愉快げに眼を細めた。
「何だこの面倒くさそうな状況……」
低く呟き、黒い眼球をヴァイズへ向ける。
ヴァイズはたったそれだけのことで、身動き一つできなくなった。
「ずいぶんと、俺様の下僕どもを可愛がってくれたようじゃねぇか……?」
夜目にもはっきりと分かるほど青ざめるヴァイズ。
セインは威圧的に顎をそらし、口端を笑みの形に歪めた。
「ついでに俺とも遊んでくれよ。昔したみたいに……なぁヴァイズ?」
ヴァイズは、獲物をなぶるようなその言葉に、肌をあわ立てた。
セイレスタン=レソルト。バクスクラッシャーの船員たちを奴隷同然に扱った数年、この男、セインだけは最後まで従えることができなかった。それどころか、セインは服従を迫ったイリータインの海賊たちを逆に血祭に上げると、自分への絶対の忠誠を誓わせ、万が一にも裏切るそぶりがあれば容赦なく殺して海に沈め、従っても虫けらをいたぶるようにもてあそんだ。要するに、バクスクラッシャーにしたことを、バクスクラッシャーの船員であるセインにやり返されたのだ。
恐怖と同時に、奴隷に牙を向かれた屈辱を思い出し、ヴァイズは全身を震わせた。
「……ああ」
痛みに燃える肩をぐっと掴み、彼は奥歯を軋らせる。
「遊び殺してやらぁ!!」
血走った眼を開くやいなや地面のカトラスを拾い上げ、肩に怪我を負っているとは思えぬ素早さでセイン目掛けて疾走した。
反れた刃が月明かりを浴び、にわかに光輝く。空気を切り裂く音とともに、それは白い一閃となって、セインめがけて振り下ろされた。だが手応えはなく、ヴァイズの刃は虚しく空を斬る。そこにいたはずのセインの姿が、掻き消えていた。
「どこだ……!」
「後ろだ、ばーか」
ヴァイズは息を飲み、背後を振りかえりざまカトラスを薙ぎ払った。それは、いつの間にか背後に回っていたセインから繰り出された刃を、ぎりぎりで受け止める。
甲高い音と砂を踏む音とが月下の浜辺に響きわたった。
セインの突然の登場により、状況は一変した。
いまだメルの放った白煙は浜辺一帯に広がり、中からは、見えぬ敵と戦う混戦気味な剣戟の音が聞こえてくる。だが白煙の晴れた波打ち際では、すでに勝負は決していた。
セインは圧倒的に強かった。
ヴァイズは決して弱い男ではない。仮にもラギルニットを誘拐するという大役を任されたのだ、頭は馬鹿でも、剣の腕はイリータインの他の海賊たちの上をゆく。
だがその程度では、セインには到底かなわない。
余裕すら感じられる剣さばきに、ヴァイズが完全に踊らされている。焦りは太刀筋にも表れ、徐々に追いつめられてゆくさまが傍目にもはっきりと見て取れた。
「すげ……」
思わず呟いたレックは、あわてて周囲を見回した。セインに感心したなんて、誰かに聞かれでもしたら死んでも死にきれない。
そう思ったとき、耳にかすかな笑い声が届いた。
驚きに目を見開くレックの鼻先を、小さな光がかすめてゆく。光は目の前でくるくると踊ると、優しく明滅し、まるで傷だらけの少年を労わるように、暖かな光で腕や頬を撫でていった。
「ほた、る?」
目を瞬かせ、好奇心に導かれて手を伸ばす。
だが触れるよりも先に聞こえてきたヴァイズの鋭い悲鳴が、光からレックの意識をそらした。顔を向けると、セインが地面にへたりこんだヴァイズの首筋に剣先を突きつけるところだった。
終わった。レックは息を呑んでその結末を見守る。
だが――。
「うぉおおおおー! やっと出れたぞ!」
「畜生、バクスクラッシャー! 全員皆殺しにしてやる!」
セインの背後に滞っていた白煙の中から、怒り狂った雄たけびとともに、イリータインの海賊たちが飛び出してきた。
怒涛のごとく迫りくる十数人の新手の登場に、ヴァイズを倒して余裕の笑みすら浮かべていたセインは石のように固まった。
「……は!?」
一秒遅れて、動揺の声を上げる。
「き、聞いてねぇぞ鶏チョップ!? 何だよこの人数、どっから湧いてきやがった!?」
どうやらセインは、白煙の向こうの乱戦騒ぎには気づいていなかったらしい。かくいうレックも、ヴァイズとセインとの戦いに魅入られるあまり、他の船員たちのことを失念していた。レックは動揺に上ずった声で答えた。
「え、えっと!? いや、さっきメル博士が変な球体飛ばして、で、煙が……、あ、というかイリータインが!」
「何言ってんだ殺すぞクソガキ……!」
セインは、すぐさまヴァイズに当身を食らわせ昏倒させると、砂埃を巻き上げて迫ってくる敵に向きなおった。最初にセインの元に到達した海賊をあっさり膝蹴りで倒して、続いて武器を振り上げた二人を拳と肘鉄で沈める。砂を蹴散らして数人の目を潰すと同時に、次の相手の刃をカトラスで薙ぎ払い――、
「……セイン!!」
「忙しい、話しかけんな!」
「風使いが……!」
レックの視線の先では、風術師が風の塊を掌に呼び出し、今まさにセインへの攻撃を仕掛けるところだった。レックの警告も空しく、凶暴に逆巻く風の塊がセイン目掛けて放たれる。レックは木っ端微塵に吹き飛ぶセインを想像して、思わず目を閉じた。
『大丈夫よ……』
すぐ耳元で、穏やかな声がした。
固く目を閉じていたレックは、場違いとも言える突然の声に、おそるおそると目蓋を持ちあげ、驚いた。
世界が真っ白に輝いていた。強烈な閃光弾が弾けたように、砂浜全体が白い光に包まれている。
あまりの眩しさに目を細めたのはレックだけではなかった。セインやイリータインの海賊、それに、目を潰され狙いを外したらしい風術師までが呆然と立ち尽くしている。
光が徐々に弱まり、夜の海岸線が戻ってくると、先ほどの優しい声が空から降ってきた。
『さあ、目を閉じて。夜の子供たち……』
硬直していたイリータインの海賊たちが、ようやくざわめき始めた。
『今宵、虹の翼が、貴方を迎えにゆく……!』
そしてその直後、海岸を取り囲む雑木林の向こうの漆黒の夜空に、虹色の光が弾けた。
「……!」
レックは先ほどよりもさらに強烈な光に、腕を持ちあげて目を庇った。だが、好奇心を押さえきれずに隙間から空を覗き見た少年は、我知らず歓声を上げた。
それは息を呑むほど幻想的で、美しい光景だった。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、七色の光の帯が、空を切り裂いて迸る。闇を貫き、雲を突き破り、留まることを知らない虹の奔流に、砂浜に立った全員が戦うことを忘れて立ち尽くした。
だが、彼らが本当に驚いたのはその後だった。
真っ直ぐに空の頂点を目指していたはずの虹の光が、突然、向かう先を変えた。
ゆるやかにもたげた鎌首が向いた先は、砂浜。
虹色の光流が津波となって、こちらへと押し寄せてきた。
「つ、津波だ――!」
凄まじい勢いで迫ってくる虹色の大津波に、すでに異常現象の連続で自失状態にあったイリータインの海賊たちは、一気に恐慌をきたした。一人が武器を捨てて逃げると、後は芋づる式に先を競って海へと脱走を図る。
虹の津波はそんな海賊たちをあっという間に飲みこんで、砂浜へと勢いよくなだれこんだ。
「落ち着け、ガキ。津波じゃねぇ」
「――!?」
衝撃を恐れて身を丸め、呼吸まで止めていたレックは、肩をおざなりに叩かれ、びくりと顔を上げた。そこでレックはぽかんとした。
謎の大津波に押し流されたとばかり思っていた砂浜はまったくの無傷だった。それどころか周囲の空気が七色に輝き、この世のものとは思えない絶景が広がっている。
「情けねぇ」
頭上から降ってきた声に顔をあお向けると、傍らにはいつもの人を食ったような目つきで海を見つめるセインがいた。
浅瀬では、イリータインの海賊たちやニーヤル、負傷したヴァイズを担いだ風術師らが、まるで溺れでもしたかのよう腕をばたつかせながら、死に物狂いで小船に乗りこむところだった。
訴えるようにセインを見上げたレックに、彼は顎をしゃくって砂浜を示してみせる。
「追う価値もねぇよ」
レックは砂浜に視線をやり、そこに肝心のラギルニットが取り残されていることに気がついて胸を撫で下ろした。どうやらイリータインの海賊たちは、ようやく手に入れたラギルニットを放棄してしまったらしい。
セインは腰が抜けているレックの腕を掴んで、無理やり立ち上がらせた。
そのまま無言で後ずさり、自分たちを包む虹色の空気の途切れた先へと出る。
「これ、虹の……橋?」
レックは目の前にあるものを見て、そんな童話にでも出てきそうな単語を連想した。
無理もない。彼らの目の前にそびえていたのは、巨大な「虹の橋」、その「脚」としか例えようのないものだったのである。
「何で、虹が……」
「だぁから……“虹の翼”だろ。サーカスの」
あっけなく種明かしをされ、レックは「あ」と声を上げた。
「そうか、サーカス!」
そう、サーカス団「虹の翼」。夜の十二時に始まる、幻想のサーカスである。
よく見れば、虹の橋のもう一方は町の方角へと伸びていた。恐らく広場ではもうサーカス団の公演が始まったのだ。大津波と勘違いしたこの虹の橋も、十二時の開演に合わせた余興か何かに違いなかった。
「す、すごい。偶然だったんだ……」
「んな都合のいい偶然があるか」
拍子抜けするレックを馬鹿にして、セインはもう一度、虹の橋を見上げた。
「……面白い余興だな。俺はてっきりサーカスに連れてかれるんだと思ってたよ。……何のお節介だ?」
妙なことを独りごちるセインの前に、再びあの小さな光が漂ってきた。応えるようにくるりと回転し、橋の上方へと飛んでゆく光。それを目で追って、セインは懐かしむような微笑みを浮かべた。
「思い出したよ、あんたのこと。まさかあの大泣きしてたガキと、今の俺を結びつけるとは思わなかった」
虹の橋がひときわ輝きを増し、幻想的な光が闇夜に浮かびあがった。
「白状すると、先にあなたを見つけたのはこの光なの」
先ほどの穏やかな女性の声が、空から降ってきた。
見上げると、虹の橋をゆったりとした足取りで歩いてくる一人の女性がいた。
虹色の翼を背に生やし、美しい瞳を持った金髪の女だ。
「へぇ?」
突然現れた美貌の主に顔を赤らめ、知り合いかとセインを見上げたレックは、そこに珍しいものを見つけて、口をあんぐりと開けた。
セインが、まるで幼い少年のように邪気のない笑顔を浮かべていた。
女は微笑を浮かべると、セインにそっと手を差し伸べた。
「十二時を回ったわ。サーカスの始まりよ。今度はチケットを持っている? セイン」