虹の翼
06
「今日はみんなでサーカスに行きましょう」
爽やかな朝日の下、庭に集まった子供たちからわっと歓声が上がった。そこにはまだ幼いセインの姿も見られる。子供たちのはしゃぎように、一組の男女が穏やかな笑顔を浮かべてうなずいていた。
微笑ましい、ある孤児院の光景である。
セインはむくりと起き上がる。
辺りを見渡し、目の前に砂浜が広がっているのを見て、夢から覚めたのだと知る。
「…………」
夢の中で覚えた怒りが再びふつふつと沸き上がってくるのを感じた。
――サーカス、見たことある?
なるほど、道理で合点がいかなかったはずだ。自分は行ったことがあるのだ、サーカスに。そしてラギルニットに答えた通り、サーカスは見ていない。
いや、見ることができなかった。
よくもここまで見事に忘れていたものだ。自分の家族のことすら忘れていたなんて。
信じがたい話だが、セインの生まれはバクス帝国の港町にある孤児院である。
と言っても、孤児なわけではない。彼の両親が孤児院の院長を勤めていたのだ。
父母は結構な資産家だったようで、セインが生まれた時にはすでに孤児院にはたくさんの子供たちがいた。記憶が正しければ二十人はいただろう。セインは彼らとともに育ち、彼らとともに孤児院の中で暮らしていた。
と、そこまで思い出して、セインは砂浜の上でのた打ち回った。
「お、俺様が、この俺様が二十人ものガキどもと……!」
胸掻きむしって足掻き苦しむガキ嫌いの帝王様である。
とはいえ、もちろん当時から子供が嫌いだったわけではない。自分とてまだ、八歳の子供だったのだ。むしろ優しい父母と明るい兄弟たちに囲まれて、賑やで幸せな日々を送っていた。
あの日までは。
それは、今から二十七年前、自分がまだラギルニットと同い歳の少年だった日のこと。
セインの住む港町に、サーカス団「虹の翼」がやってきた。
「サーカスだって、セイン! おまえ、見たことある!?」
「僕もないよ! 嬉しいなぁ……知ってる? サーカスには道化師って変な格好したやつがいっぱい出てくるんだって!」
孤児院の中で一番仲の良い少年と庭を歩きながら、セインは興奮交じりにまだ見ぬサーカスを瞼裏に描いた。奇怪な格好の道化師が跳ね回り、美しい天幕の中で自由に空中ブランコを操る精霊たち。目もくらまんばかりの派手な衣装を着た猛獣が、観客の前を所狭しと暴れまわる。
「すげぇ……」
セインと少年は頭の中のサーカス像に、それぞれほわんと夢見心地になった。
「ばっかみたい」
その様子に、木陰に座って談笑していた少女たちがくすくすと笑い声を上げた。
「子供ねぇ。道化師も精霊も、全部人間が演じてるのよ? まさかほんとにそんな生き物がいると思ってるんじゃないでしょうね」
年齢は変わらないくせ、少女たちは年上ぶって顎を反らした。
「猛獣だって、ぜんっぜん怖くないんだから。あんなのただの飼いならされた動物――」
セインと少年は素早く目配せすると、おもむろに地面のぬかるみに手をつっこんだ。
「っ食らえ、うんこ爆弾!!」
「――キ、キャーッ!?」
「ざまーみろ、ブース!」
泥の塊を顔に受けて、少女たちが逃げ去ってゆく。少年二人はその背を笑って見送ると、健闘を讃えあうように互いの腕を打ち合わせた。
穏やかな日々だった。つんけんした女子には腹が立つが、義兄弟たちのことは大好きだった。両親はセインを実の子として特別扱いすることなく、他の孤児と完全に同等に扱ったが、そのことを不満に思うことも一度たりとなかった。それほど少年は健やかに育ったのだ。
サーカスの夜が近づいてきていた。
いてもたってもいられない子供たちは、日が暮れると同時に精一杯のおめかしを始め、我先にと鏡の前に立って髪の毛を整えた。誰もがはじめて見るサーカスに興奮していた。
「さあ。人が多いからはぐれないようにね」
父母の声が子供たちの耳に届いた。
サーカスの天幕が設置された広場までは、まだかなり距離がある。にもかかわらず、海沿いの道にはずいぶんな人だかりが出来ていて、成長途中の子供らには見えるものといえば大人の脚ばかりであった。
「すごい人だな……っいた、足踏まれた!」
「ねぇ、天幕見える? 天幕見える!?」
「見えないよ。まだずっと先だって」
「みんな、迷子にならないで! 隣の子と手をつないで!」
町に暮らすすべての人が通りにあふれ出したようだった。年長者が年少者に声をかけ、子供たちは大慌てで隣の兄弟と手をつないだ。
セインも同じようにしようとした。仲良しの少年と手をつなごうと、人ごみの向こうに必死で手を伸ばした。
だがその手はむなしく空を切ってしまう。セインはあっという間に脚の波に飲まれ、気づけば列から押し出され、尻餅をついていた。
驚いて辺りを見渡すが、もうどこにも兄弟たちの姿を見つけられなかった。
セインは焦りに我を忘れた。がむしゃらに走りまわり、回り道をして列の先頭に行こうと思い立って見知らぬ小道に迷いこみ――いつの間にか、人気のないどこかの海辺まで来てしまっていた。
一人ぼっちになってようやく、見当違いな方向に来ていたことに気づく。だが振りかえってみても、もうどこから来たのか思い出せない。セインは完全に迷子になっていた。
サーカスが始まっちゃう。その焦りと、一人きりという孤独感が、さびしげな海岸を見た瞬間、どっと押し寄せてきた。涙はこらえようとした途端に溢れ出し、少年はついに大声を上げて泣きはじめた。
「うわーん……!」
涙と鼻水を垂らしながら海岸を歩き回る。しかしいくら泣けども誰も来ない。
置いていかれた。父親も母親も兄弟たちも、自分を置いていってしまった。
さびしくて、不安でいっぱいで、どうしていいかわからなくて、セインはただひたすら泣いた。
そして、いよいよ泣き声が甲高くなった、その時だった。
鼻先を蛍のように小さな光が横切っていった。それはまるで意思を持っているかのごとく、泣きじゃくるセインの周りでくるくると舞い踊りはじめる。
光の精霊だ。セインは驚きのあまり、涙を引っこめた。
「……あ! 待って!」
あたかもそれを見届けたように、光がふいっと舞い上がった。セインは慌ててその後を追いかけ、海岸線を走りはじめた。
「待ってよ。待ってったら」
セインはさっきまで泣いていたことも忘れ、くすくすと声を上げて笑った。光の精霊が時々、砂浜を不自由に走るセインを待つように、くるりと一回転するのがたまらなく嬉しかった。
海岸線はどこまでも続いた。町明かりもここからは見えず、白い波打ち際だけが泡立って見える。
不意に光の精霊が大きな弧を描いて、ひときわ高く舞い上がった。
直後、向かう先に凄まじい光の奔流が迸った。
「うわぁ……!」
七色の光が闇夜を貫く。まばゆいばかりに輝く虹の橋が、巨大な弧を描いて星のない夜空に架かった。幻想的な夜の虹は海面にも反射する。まるで海底から虹色の鱗を持つ水龍が生まれようとしているかのようだ、揺れる波間から神秘的な光彩が溢れだした。
美しい光景だった。虹の中いるみたいだった。だが興奮に頬を染めていたセインは、そこでハッと足を止めた。
「虹の翼……」
サーカス団、虹の翼。
もう夜の十二時を回ったのだろう。七色の光線はサーカスの開演を告げる合図に違いなかった。セインは首を振って、光の精霊を探した。精霊はすぐ側でくるくると踊っていた。
不安に揺れる眼差しを察してか、精霊が迸る虹の光を目指してふわりと舞い上がった。
セインは精霊を追って海岸を走りぬけ、雑木林を抜け、広場を目指した。幾度も転びそうになりながら、そのたびに動きを止める光の精霊に励まされ、必死に走った。
そしてとうとう少年は、天幕のある広場までたどり着いた。
「お母さん……?」
しかし広場には誰もいなかった。
当然だ、サーカスはもう始まっているのだ。だがセインはそれでも懸命に母親の姿を探した。彼のチケットは母親が持っているし、きっとセインがいないことに気づいて待っていてくれると思ったのだ。
けれど母の姿はなかった。
ふたたび涙が溢れそうになる。唇を噛んで、一生懸命涙をこらえていると、天幕の外で出番待ちをしていた道化師や猛獣使い、それに精霊の羽を生やした少女がセインに気づいて顔を上げた。
少女がはにかんだ笑顔で、手招きをした。団員たちは、力なく近づいてくる赤い目をしたセインににこりと笑いかけると、おもむろに芸を披露しはじめた。
ひょいひょいと手の中で自由自在に跳ね回るお手玉、愉快な音をたてるアコーディオン、巨大な玉の上で宙返りをする道化師。
恐ろしい顔つきの獅子はセインを乗せて広場中を走りまわってくれた。道化師たちはひょうきんな動きでセインを笑わせてくれた。
そして側にはずっと笑顔で手を叩く少女がいた。
少女の傍らでくるくるとあの光が踊る。ほのかな光のなかで微笑む少女はとても可愛かった。気づけばセインはサーカスに間に合わなかったことも忘れ、少女の笑顔に見とれていた。
そんな小さなサーカスも、天幕の向こうで喝采が起こるとともに終わりを告げた。入り口が開かれ、どっと観客があふれ出してくる。誰もが笑顔で、誰もが興奮の声を上げていた。
「……あ、お母さん!」
セインは人の群れの中にようやく孤児院の皆の姿を見つけ、顔を輝かせた。
「いたよ、お母さんが――……?」
笑って背後を振りかえると、もうそこには道化師も、猛獣使いも、そして精霊の翼を生やした少女もいなかった。
寂しさに一瞬だけ顔が曇る。けれどそれも、ようやく両親と兄弟たちを見つけた喜びで一気に吹き飛んだ。セインは笑顔で皆の元へと駆け出した。
「お母さん、ごめん、僕――」
母の服の袖をくいっと引いたセインは、迷子になった自分が恥ずかしくて口ごもった。
そして、運命の一瞬は唐突にやってきた。
健やかに育った心優しい少年が、将来、大が百個つくほどの捻くれ者になる、最初のきっかけ。
母は笑って言ったのだ。
「あらセイン、サーカス楽しかったわねぇ」
いっそカラッと爽やかな笑顔で。
母はセインがいないことに気づいていなかった。
母どころか父も、孤児院のみんなも、腹の立つ少女たちはもちろんのこと仲良しの少年ですらも、セインの不在に気づいていなかった。
そのとき受けた心の傷は、途方もなく深かった。
それまで何の不満も持たずに生きてきたセインは、はじめて自分の生い立ちに疑問を抱いた。
思えば二十人の子供たちのなかで、本当の子供は自分だけだ。なのに親はたった一人の実子がいなくなったことに気づかない。
何だよそれ。セインは思った。
何で自分が、ないがしろにされなきゃならないんだ。
他の兄弟たちがいなくなったならいざ知らず、よりによって何で自分が。
何で、この自分が。
砂浜で古い記憶と向き合っていたセインは、ぼんやりと水平線を見つめた。
ガキ嫌い。そんなんじゃない。
セインは子供が嫌いなのではなく、ただ、自分の子供時代が死ぬほど嫌いだったのだ。
両親は公平な人たちだった。血の繋がった子を、他の子供たちと完全に同等に扱った。その判断が良かったか悪かったかは、問題ではない。ただサーカスのあの夜、セインはそれを不公平だと感じた。それははじめて、自分の存在価値というやつを意識した瞬間だった。
純粋に育った少年がはじめて覚えた不満は、面白いぐらいに膨れ上がった。思えば、ただの反抗期だったのだと思う。だが、気づけばセインの性格はすっかりひねくれ、十三歳の誕生日の朝、彼は侮蔑の嘲笑とともに幼少時代をすごした孤児院に背を向けた。
その後、世界を渡り歩き、波乱万丈の人生を歩むうち、少年時代の記憶は薄れてゆき、「腹立たしい子供時代」は気づかぬうちに「子供嫌い」に書き換えられていった。
「……オイ」
セインは口許を引きつらせ、青ざめた顔で砂浜にうずくまった。
「……ッォオオイ!!!」
子供嫌いじゃなかった。子供嫌いじゃなかった。
子供嫌いじゃなかっただとぉおおおお……!!?!?
何て馬鹿らしい記憶だろう。たかがサーカスで迷子になったことを気づかれなかったぐらいで、両親に他の子と区別して愛情を注いでもらえなかったぐらいで、グレて、家を飛び出して、あげく記憶から葬り去るまでしたなど――いや、それは胸クソ悪くなるから敢えて忘れよう、すっぱり忘れよう、忘れていた自分とっても賢い、このまま記憶に蓋をして全てを忘れてしまおう。
しかし子供嫌いじゃなかっただと!?
では今までの自分は何だったというのだ。散々、バクスクラッシャーの子供らにイライラさせられ、その分いじめ返してすっきりしては、子供らの逆襲を食らって更にイライラするはめになっていた自分はいったい!?
無駄にイライラしてただけじゃねぇか。
「…………」
セインは不燃焼な怒りに震えながら、冷静さを取り戻そうと煙草を探してポケットに手をつっこんだ。どうにか一本取り出し、口にくわえる。そしてマッチを取り出しかけてふとその手を止めた。マッチは先ほど、最後の一本を無闇に使ってしまった。
頭に血が昇った。だがそれでも砂という砂を蹴りつくさなかったのは、目の前にちょうどよく小さな炎が浮かんでいたからだ。
「お、気がきくじゃねぇか……」
セインはにやりとして身を屈め、煙草の先を火に近づけて、
「……!?」
目を剥いて飛びずさった。
眼前に浮かんでいたのは炎などではなかった。
淡く輝く小さな光。ふわりと柔らかい色を放つ――、
それはまさしくあの光の精霊だった。
「は……」
驚きと湧き上がる高揚感に、唖然と、乾いた声で笑う。
「お前……」
そっと手を伸ばし、恐る恐る光に触れるとそれはふわりと暖かく、とっくの昔に凍ってしまった心の奥底が融けてゆく不思議な気がした。
知らず知らずに笑みが零れる。不思議なぐらい素直に笑えた。
光の精霊が手をすり抜け、空に舞い上がる。目で追うと、光はまるでついてこいとでも言うように彼の周りをくるくると回りはじめた。
もう一度手を伸ばした瞬間、光がふいっと樹木の間に消えていった。
「あ――おい!」
セインは慌てて立ち上がり、光を追って駆け出した。
まるであのサーカスの夜のように、虹の翼を求めて。
「テスー!」
広場で風船を手にぽかんとしていたテスは、近づいてくる声に「ん?」と振りかえった。
必死の形相で走ってきたのは、メルとレティクである。二人はテスの前に辿りつくと、乱れた呼吸をどうにか整え、辺りをすごい勢いで見回した。
「……どしたの?」
「テス! ラギルちゃんは!?」
「え? えっと、風船もらいに行って、帰ってきたらいなくってて、おれも今探してるとこなんだけど……何かあったの?」
「はぁ~!?」
テスのぽけっとした口調に、メルはピンク色の目を鬼のように吊り上げた。
「や、やっと……やっと見つけたかと思えば――っいないってどういうことよ! 何が風船もらってきたよ、ガキかお前は、この愚者!!!」
「ぐ、ぐしゃ、って」
訳も分からず罵倒され、テスはむっと唇を尖らせる。だが、今にもブツブツぼやきだしそうなテスを制したのはレティクだった。
「テス。ラギルが危険だ。すぐに探し出せ」
「え? ええと、え、なんで? ……って――えぇ!?」
さっぱり状況が呑みこめずグズグズしていたテスは、次の瞬間ぎょっとした。
ドドドドドドドドドドド……!!
メルとレティクの背後から地響きが迫ってきていた。
土煙をモウモウと立て、暴走した牛の大群のように人々を薙ぎ倒しながら迫ってくるそれは、
「ラギル船長を探せぇえええ!!!」
「おおぉぉおおおおうぅうう!!」
バクスクラッシャーの四十人近い船員たちだった。
「な、なななになになに!? なにあれ、なにあれ、ねぇ、なにあれ!!」
地平線の向こうから津波となって押し寄せてくるバクスクラッシャーの大群に、テスは両手を広げて出迎えるべきか尻尾巻いて逃げるべきか分からずパニックに陥った。
「先に行くぞ、テス!」
「ぼーっとしてないで、早くしなさいよ、アホ!!」
「え!? え!? ちょっと待……!!」
状況説明一切なしにさっさと走り出すレティクとメルに手を伸ばしたテスは、その直後、
ベチャ。
土煙の晴れた後、広場に残されたのは呆然と立ち尽くす人々と、踏み潰された蛙――いや、テスの無残な亡骸だけであった。
鈍い痛みがする。
それとともに、閉ざされていた意識が覚醒をはじめた。
「つ……」
レックはゆっくりと瞼を開け、呻き声を上げた。
後頭部が激しく痛む。顔をしかめながら無理やり顔を上げたレックは、自分の置かれている状況に気づいて目を見開いた。
「な――」
両腕が後ろ手に縛られていた。
とっさに身じろぎするが、縄は解けるどころかなおさら手首に食いこむばかりだ。レックは呆然とする。
「なんだよ、これ」
「やっとお目覚めか、懐かしき我が同胞レック殿?」
レックはハッとして、声のした方に頭を向けた。途端、頭がずきりと痛み、声にならない呻きを上げる。
「……ちくしょう! てめぇ、ヴァイズ!!」
無理やり睨みつけた先には、外套を頭からかぶった男が立っていた。
男は感心したように口笛を吹くと、頭を覆っていたフードを手で払いのけた。
「声だけで分かっていただけるとは、光栄だねぇ」
「俺たちもよく覚えているよ、レック。お前のその乳臭い面」
ヴァイズと呼ばれた男の背後から、もう一人外套をまとった男が姿を現した。
レックは苦々しく舌打ちした。自分が最悪な状況に置かれていることは、もはや改めて思うまでもなかった。
「ニーヤル。オレもよく覚えてるよ。あんたのそのゾウリムシが這いずり回ったような面。女に逃げられまくっていまだに童貞って話、あれ、マジ?」
レックは強がって嘲笑交じりに男を揶揄した。
途端、ニーヤルと呼ばれた男が怒りに顔を赤らめ、レックの腹に力任せな蹴りを加えた。
「……!」
「おいよせ、ニーヤル。小僧なんか放っておけ」
ヴァイズに窘められ、ニーヤルは渋々と足を引っこめる。レックは唾をぺっと地面に吐き捨て、気丈にも上体を起こした。
――ヴァイズ、ニーヤル。そして彼らが言った「かつての同胞」という言葉。
間違いではない。かつて、いやほんの一年前まで、二人は間違いなくレックの同胞だった。もしも主人と奴隷の関係を、同胞と呼んで良いならの話だが。
数年前、当時弱小海賊だったバクスクラッシャーは、冷酷無比で知られる「イリータイン」という名の大海賊の襲撃を受けた。戦力の差は圧倒的で、バクスクラッシャーは積荷を奪われ、バックロー号を乗っ取られたあげく、全船員がイリータインに服従することを誓わされた。
形としては、イリータインの仲間入りをしたことになる。つまり同胞だ。だが実際にはイリータインの海賊たちは、バクスクラッシャーの船員を奴隷同然に扱い、悲惨な船上生活を送らせた。
一年前、ラギルニットをはじめとするバクスクラッシャーの船員たちが一斉に反乱を起こしたことにより、二つの海賊はふたたび分裂することになる。だが奴隷に反旗を翻されたことがよほど腹に据えかねたのだろう、海賊イリータインはそれからも幾度となくバクスクラッシャーに対し、復讐まがいの嫌がらせを繰り返してきた。
今日のこれもそれに違いない。何て幼稚な奴ら――レックは内心でそう罵りながらも、自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。どうやら広場でうかつにも、このゾウリムシ二匹に後頭部を殴られ、気を失ったところをここまで連れてこられたらしい。サーカスに浮かれきっていて油断していたのだ、情けない。
レックは二人が話し込んでいるうちに、視線を周囲にさまよわせた。ランプの淡い光が煌々と照らしているのは、どこかの倉庫のようだ。あちこちに樽やら木箱が無造作に置かれている。
「ラギル……!」
隣に視線を落とすと、意外なほどすぐ側にラギルニットが倒れていた。その手にもまた縄がかけられている。レックは怒りのあまり、不自由な両手で壁を殴りつけた。
「……っの野郎、てめぇら二人ともぶっ殺してやる!」
「おいおい、レック、口の利き方に気をつけろよ。お前はどうでもいいんだ。俺たちはこのラギルニットさえ手に入ればそれでいいんだからなぁ」
レックは足を器用に使って、ラギルニットを背に庇うように移動した。
「ラギルに何する気だ!」
鼻で笑ったのはニーヤルだった。
「船長を守る下っ端海賊様か、健気なことだ。いいだろう、その勇気を称えて特別に教えてやる。これはキース船長の命令だ」
「――キース!」
レックは憎々しげに眉間に皺を刻んだ。
キース船長。他でもない、大海賊イリータインを率いる冷酷な船長の名である。
「船長はお前らを苛めるのがお好きだからなぁ。ホーバーの野郎とラギルニットを目の前に引きずり出したら、金貨百五十枚をくれてやるって宣言したのさ。その後どうする気かは知らねぇけどな……お前、金貨百五十枚で何が買えるか分かるか?」
「…………」
「トゥーダ大陸で石の城が買えるぜ、それもどでかいやつがな!」
馬鹿笑いするヴァイズとニーヤルから視線をそらし、レックはラギルニットの顔を覗きこんだ。明かりが届かぬ室内のせいか、その顔は青白く見える。
壁に空いたかすかな隙間から差し込むわずかな月光を、レックは唇を噛んで見つめた。