虹の翼

01

 うわーん……。
   うわーん……。

 真っ暗な闇の中で、子供が泣いている。
 暗くて、誰もいない夜。子供はひとりぼっちだ。

  うわーん……。
     うわーん……。
         …………。

 あぁ、うるせぇ。
 泣くな、俺は眠ぃんだよ。

 子供が泣きやんだ。
 驚いた様子で目を瞬かせ、不思議そうに顔をめぐらせる。
 子供の周囲を小さな光がくるくると飛び回っていた。からかうように鼻先を掠めたかと思えば、ポケットに入りこんでチカチカと瞬く。子供は泣くことも忘れて、ぽかんと見入った。
 ふと光がひときわ高く舞いあがった。子供はどこかへと飛んでゆく光を追いかける。先ほどと変わらぬ闇の中で、一人きりではなくなった子供が嬉しそうに笑いながら。
 そのとき、向かう先で、巨大な光が弾けた。
 腕を持ち上げて目を覆い隠した子供は、それでも好奇心を抑えきれずに隙間から光を見つめる。
 それは息を呑むほど幻想的で、美しい光景だった。
 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
 七つの色を持つ光の帯が、夜空に向かって真っ直ぐにほとばしる。
 あれは、虹の翼。
 子供が笑いながら走ってゆく。
 鮮やかな光の中へと吸いこまれてゆく。

 よかったな。笑ってる。
 よかった、よかった。
 よか――。

「って、何で俺が喜ばにゃならん!!」

 怒号と一緒に飛び起きた男は、まだ半開きな目をぼんやりと窓辺に向けた。
 窓には小鳥が舞い降り、ちちち、と爽やかな朝を演出している。
 セイレスタン=レソルト。
 本日のお目覚めは、
「胸くそ悪ィ……」
 あまりよろしくなかった。




虹の翼




「あんまりだぁ――!」
 灼熱の炎天下、人通りの途絶えぬ青空市場のど真ん中で、ラギルニットは声を限りに叫んでいた。
 海に面した広場に開かれたその市場は、小規模とはいえ、さまざまな国から来た商人でごった返していた。地面に色鮮やかな布を敷き、所狭しと商品を並べて大声で売り文句を叫ぶ異国の人たち。並ぶ品々は世界中の海を駆けてきたラギルの目にも物珍しく映った。
 しかし今日ばかりは、ひやかしたり、好奇心で買ってみる気にはなれない。
 気分は最悪。ギンギラのお日様、くそくらえである。
「やれやれだよなぁ、ほんと。……ほらよ、ラギルの分」
 人波を縫って、親友のレックがやってくる。向こうで美味しそうな果物を見つけたので、ラギルニットを待たせて買ってきたのである。
「う──!! レックぅ──!!」
 しかしラギルは差し出された果物には目もくれず、レックに体当たりで抱きついた。
 唐突な行動だったが、そこは親友慣れたもので、すかさずラギルを抱きしめかえした。
「おお、どーした。キューティーなマイ・ブラジャーよ」
「ブラザーだよーう!」
 ラギルは涙目でちらりと前方の人ごみを見つめた。恨めしげなその視線を追って顔をあげたレックも、大仰な溜め息を落とす。
 ――バザーク、クロル、ホーバーの三人を船に残して港町へとやってきたバクスクラッシャーは、いつも通り、町で行動をともにする班の組分けを行った。極めて公正なくじ引きの結果、ラギルニットはこのレックと、もう二人の船員と同じ組になったわけだが、そのうちの一人。つまり彼らの視線の先、人ごみの中でもすぐに見つかる長身の男こそが、ラギルの落胆とレックの渋い顔の原因なのである。
 暗澹とした視線には気づかず、問題の人物はいつもの如くにやにやと笑っていた。
 セイレスタン=レソルト。船員たちからはセインと呼ばれている水夫である。
「おいおいテス、見てみろよ」
 セインは本日何十本目かの煙草をくわえ、隣をちんたらと歩いていたテスの肩を乱暴に掴んで、露店の前へと引き寄せた。
「わ、ととと! あ、危ないな、セイン!」
 手にしていたガラスの髪飾りを危うく落としかけ、テスは慌てふためく。この髪飾りは愛する彼女へと買った大切な大切な贈り物なのだ。
 だがセインは意に介した様子もなく、テスの肩を抱えたままその場にしゃがみこみ、地べたに並んだ本の山から一冊を抜き取った。テスがぼっと赤くなる。セインの手にした本は、何やらいかがわしい本、俗に言うところの『エロ本』という代物だったのだ。
「オイオイ見ろよ、パツキン姉ちゃん……おお、無修正げへへへっ」
 セインは逃げようともがくテスをしっかりと掴んだまま、人目も気にせず頁をぺらぺらめくった。
「なーおっさん、これタダ?」
「何言うネ、それ、とておきの無修正ヨ、なかなか手に入らないヨー!」
「アッシュクラース黒社会のドン・アリギル商人がじきじきに手がけた過激エロ本シリーズのバックナンバー740号……そりゃめったに出回らねぇよなぁ」
「おおお! お客さん、分かてるネェ……」
 エロ目でげへげへ交渉を進めるセインと商人とを遠方から呆れ顔で見つめ、レックとラギルはまたも溜め息を落とした。
「あんなバカと一緒かよ……」
「あんまりだ……」
 ラギルは今回の港下りにずいぶんと思い入れを持っていた。何故ならもうすぐこの街に、遠い海の向こうシルヴァードール国からサーカス団がやってくるからだ。
 たくさんの国を回ってきたが、サーカスはまだ一度も見たことがない。サーカスが来ると知ったときから、ラギルニットは夜も眠れないほど楽しみにしてきたのだ。
 だがサーカスを見に行くには、ひとつ障害がある。
 それはくじ引きによって決まる、組分けの面子だ。
 もし同じ組に、サーカス嫌いや人ごみ嫌いがいたりしたら連れて行ってもらえない。もちろんラギルだけで見に行くこともできるが、少年の少ない小遣いだけでは入場料に足りないのだ。だから連れて行ってはくれなくても、最低でも、お金を貸してくれる船員でなければ――。
 ラギルは毎日のように海の神カラ・ミンスに祈りをささげた。毎日、大嫌いな部屋の片付けもした。ホーバーの肩なんかも揉んでみた。それでも心配で、ついには「余り物には福がある」というケナテラ大陸の諺まで信じ、くじを引くのを最後にまでしてもらったのだ。
 そこまでしたというのに……。
 親友のレックはいい。もう一人の仲良しであるレイムがいないのは残念だが、きっと向こうで会えるだろう。テスも問題ない。彼女にベタ惚れなおかげでたまに頭がおかしくなるが、真面目で優しくてラギルは大好きだ。
 問題は、セインだ。
 セインといえば、誰もが認めるバクスクラッシャー最大にして最凶の危険人物である。
 簡単な単語で彼を表現すると、こうなる。
 自己中心的。
 超短気。
 馬鹿。
 下劣。
 凶暴。
 酒乱。
 煙草。
 エロ。
 そして最も強調しておきたいのは、
 子供嫌い。
 セインは超と激がついてもまだ足りないほどの、子供嫌いだ。
 蹴る、殴る、踏む、突き飛ばす、伸すなどは日常茶飯事。セインの前を通り過ぎるだけで、どけだのクズだの死ねだの失せろだのと罵ってくる。おかげでセインに対する子供たちの評価は、最悪を通りこしてミラクル最悪なのである。
 もしサーカスに行きたいから金を貸してくれなんて言った日にはどうなるか。
「……なんか腹立ってきたぜ」
 レックは手にしていた果物をラギルに手渡し、不気味に笑った。その据わった笑みの意味をすぐに察して、ラギルは同じ笑顔を浮かべ果物をしっかりと掴んだ。
「かまえ!」
 レックの合図で、二人は草野球でもするように果物を右手に持ち、左手を添えて後ろに引き、左足を高々と上げた。
「投球!」
 そして二人は同時に右手を振りかぶった。
 手から飛び出した果物は、人々の頭上すれすれを飛んでゆく。そして勢い良く、
 ベチャ……!
 セインの頭と肩に命中した。
「………………」
 顔を甘くてベタベタした果汁が伝う。
 値段交渉を終え、金を受け取ろうと手を差し出していた商人や、近くを歩いていた通行人、店を開いていた他の商人たちも、どこからか飛んできた黄色い物体の残骸を頭に乗せたまま凍りついているセインを唖然と見やり、やがて忍び笑いを漏らしはじめた。
「お! お、おお、落ち着いて、セイン……!」
 ギリギリギリギリ!
 骨が砕けるほど肩に力をこめられ、テスはわたわたと涙目で暴れた。
 と、不意にその手が離れた。
「あ、あれ、セイン!?」
 効果があるのか、フーフーと肩に息を吹きかけていたテスは、セインが歩いていってしまうのを見て、慌てて呼び止めた。しかしセインはテスを無視してまっすぐ歩いてゆく。人の群れがセインの見えない殺気に知らず知らずと進路を譲る。そのせいで出来た道の先には――……。
「よう、帝王様。美味しかったかい?」
 ラギルニットとレックがにやにや笑って手を振っていた。
「頭で食べるなんて、よっぽどおなか空いてたんだね」
「いっじきったねぇ! 頭にも口があんのかよ、食うしか能のない口が? ハッ!」
 次々と悪口を浴びせると、セインが突如、にっこりと微笑んだ。
 そのあまりの不気味さに、少年たちはぞくりと肌を粟立たせる。
「野球ってのはな、野原でやるもんなんだぜ、ガキども。こんな市場でやるとよ、人に当たって危ないだろ? な?」
「だ、だって、セインに当てるつもりで投げたんだもん! ね、レック!?」
「お、おう。悪者は常に勇者に倒されるのだ……!」
 怯え気味に言いかえすと、セインはさらに笑みを濃くした。
「そうかそうか、狙ってたのかぁ。んじゃあな、次に狙うときは……」
 お~いとセインの背後からテスが追いついてくる。セインは微笑んだまま、脇に走りこんできたテスの首根っこをがっしりと掴んだ。
「俺じゃなくて、こいつを狙えぇぇぇぇぇぇ!!」
 セインは、事態の飲みこめていないテスを、子供たちめがけて放り投げた。
「っ逃げろー!」
 ラギルとレックは、スーパーマンのように飛んでくる哀れなテスを容赦なく避け、顔から地面に突っこむ哀れなテスを思いっきり無視し、猛ダッシュで逃走を始めた。
「待てぇ! ぶち殺してやる……!」
 同じくテスを無視し、ついでに果汁で火の消えた煙草をテスに投げつけ、セインも駆け出した。
「やーいやーい! バカセイーンの腐れポコチーン!」
「今のうちに遺言残しとけよあと十秒で刺す10、9、とんで1ぃ!!」

「ひどい……」
 後に残されたテスは顔半分を土に埋めたまま、見かねた通行人によって掘り出されるまで、惨めにすすり泣くのだった。

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