ホーバーの口髭騒動

やっほう、こんばんわ!
じゃないや、こんばん「は」! だね! ホーバーに怒られちゃうや。
うっさいんだよ、ホーバーって。前に書いた日誌で、おれ「あとは波の具合とか…」って書くつもりが、「あろは波の具合が…」って書いちゃったんだけど、ホーバーすぐにそれ見つけて、「アホか、おまえ」って冷たい目で見てきたの! むきー!
しかもシャークが「アロハ! アロハ波! 楽しそうっス! 波のりジョリーっスー!」とか、訳のわかんないこと言って、笑い転げたんだよー! むかむか!
「書き直せ」ってホーバーうっさいし! むかつくから、書き直してやらないんだ! ふんだ。

……なんかまた腹たってきちゃった。
……。
ホーバーの顔になにか落書きしちゃえ。
えい。
口ひげー!
……ぶ!

うはははは! 気づかないで、寝てるよー!
明日、みんなが口ひげホーバー見たらなんて言うかなぁ。
報告するね、楽しみにしてて! うはは楽しみ!

十二月二十六日・ラギル船長の航海日誌より



「ふはははははは! 愚かだ愚かだと思っていたが、ここまで愚か者であったとは! この天才科学者メルファーティー、貴様を愚美して万歳三唱を唱えてくれよう!」
 朝一番。
 朝霧にしては少々濃い目の霧が甲板を漂っていて、物が少々不鮮明なある日の早朝。
 船長室からまだ眠たげに出てきたホーバーを出迎えたのは、全身ピンクずくめの変態科学者メルだった。
「はよ……」
 メルの言動がおかしいのは、朝だろうが昼だろうが夜だろうがおやつの時間だろうが、いつものことである。ホーバーはあくびを噛み殺しながら、高らかに万歳三唱しているメルを適当に無視して、ひらひらと手を振った。
「ふふふ、眠そうだな、ホーバーよ。夜な夜な、口髭の手入れでもしていたのか? ふはははは!」
 ピンク色の色眼鏡をぎらりと輝かせながら、霧の向こうでメルは高圧的な笑い声をあげた。ホーバーはその訳のわかぬ言動に、「は?」と首をかしげる。
「貴様は確かにひょろい。副船長のくせに、威厳も皆無なひょろ体躯。口髭でもこしらえて、少しでも勇ましさを演出したい、というその気持ち、わからんでもない。しかしなんとも滑稽! なんたる愚の骨頂!」
「……何がなにやら」
「ほほう! とぼけたふりして、照れを誤魔化そうとは。愚か者だが、なかなかに愛い奴!」
 メルは「殿様」なノリで、疑問詞を顔中に浮かべているホーバーの額を、つんっと人差し指でつっつき、「まあ、せいぜい愚かにあがくがいいわ!」と、そのまま高笑いをしながら、霧の中へと去っていった。
「……なんだありゃ」
 いつにも増して狂っているメルをぼんやりと見送りながら、ホーバーはなんとなくむずむずする鼻の下を、ぽりぽりと無造作に掻くのだった。

 副船長ホーバー二十七歳。
 ラギルニットのいたずらにより、鼻の下に「私は口髭です!」と言わんばかりに見事な、真四角の口髭が落書きされていることに気が付くのは、
 それから優に十二時間もあとのことである。

+++

「というわけで、霧が晴れるまで出航は延期、ということでいいかな」
 ぶぅ!!

 場所は船長室。満腹気分も上々な朝食後。舵手長や水夫長などといった幹部ら全員揃っての、作戦会議の最中である。
 方角見長ローズから「濃霧がしばらく晴れない」という報告を受け取ったホーバーが、全員から意見を聞き、そうして決まった決定事項を繰り返した直後のことだった。
 部屋の一角で、誰かが盛大に吹き出したのは。
「……」
 なんちゅーかもう、とてもとても堪えきれませんごめんなさいと言わんばかりの、見事な吹きだしっぷりであった。しかも堪えきった末の開放感に満ち満ちた、「……はぁ!」というため息付きである。
 唐突すぎるその笑い声に、ホーバーは首をかしげた。そして誰かが吹きだした途端、不気味なほどに静まり返ってしまった室内を、きょとんとして見回す。
 幹部たちが皆、肩を強張らせて凍りついていた。
 その氷点下な空気に混じっているのは、戦場にでもいるかのような、強烈な緊迫感。
「……???」
 困惑するホーバーをよそに、幹部たちは耐えがたい沈黙の中、ぐいぐいと互いのわき腹を、肘で突っつき合いはじめた。
「なにやって! 気づいたらどうするんだ……!」
「このばか……! 殺されるぞ……っ」
「ア、アタシもそろそろ限界……っ」
「耐え抜け! 今日の夕飯の味でも思い浮かべて、耐え抜くんだー……っ」
 などというやりとりが、ひそひそと妖精さんの囁きのように繰り広げられる。
 かと思いきや、彼らはぴたっと口を閉ざし、判決を待つ被告人のような緊張した眼差しで、ホーバーをじとっと見つめてきた。
「え、なに」
 一人訳のわかっていないホーバーは、幹部の厳つい顔つき~ズに睨みつけられ、ドギマギと萎縮しつつ彼らを見渡した。
 すると幹部たちは一斉に「ほーっ」と胸を撫で下ろし、「いやいいんだ、いいんだ! 気づかなかったなら、いいんだ!」「気にすんな! 気づかなくてよかった!」と愛想笑いを浮かべて、ひらひらと手を振った。
「……ああ、そう……」
“気づかない”。その言葉に釈然としないものを感じつつ、とりあえず頷くと、幹部たちはしばらくホーバーの顔を──顔の下の方をじろじろと見つめたあと、さっと視線を逸らし、「そうですそうです……!」と何かを耐えているような口調で繰り返した。
 数分後、まとまりの悪いままに作戦会議が終了し、幹部たちがぞろぞろと作戦机の周りを離れていった。
「……なんか……今日は朝から妙だな……」
 ホーバーは彼らの小刻みに震えている背中を見送りながら、不審そうに呟いた。
 そして、今日の会議では黙りっぱなしだった、幼い船長ラギルニットを見下ろす。
「…………」
 ラギルニットは彼の体に対してあまりにでかい船長の椅子に腰かけながら、深く深くうつむいていた。
「……どうした、ラギル。気分でも悪いのか?」
 いつもはどちらかというと、きらきらした目で上を向いていることの多いラギルだ。それが深々とうつむき、膝の上で苦しげに拳を固めているので、心配になったホーバーは、ラギルの肩を労わるように叩いた。
 途端ラギルは、はじかれたように椅子から飛び下り、すごい勢いで机の下にもぐりこんでしまった。
「ラ、ラギル?」
「……っ……な、なんでもな──っぶ……!」
「ラギル?」
 身を屈めて机の下を覗き込むと、暗がりの中に見えるラギルの小さな肩が、幹部たち同様に小刻みに震えていた。しかも嘔吐でも堪えているような、「う!」とか「く!」とか良く分からない擬音を発している。
「大丈夫か?」
「ギャーっ! そんなこっそりと覗かないでぇ……!」
「……」
 悪い流行り病だろうか、と真剣に考え、もう一度気分が悪いのかとたずねようとしたホーバーは、突如甲板の方で巻き起こった大爆笑に、ぎょっとして顔を上げた。
 何事かと扉の方に目をやると、丸窓の向こうでゲラゲラと笑い転げている幹部たちの姿が目に飛び込んできた。
 それにつられたように、机の下からしゃっくりみたいな音と床を叩く激しい音が聞こえてきて、船長室は何やら異様な騒然さに包まれた。
 一体……。
 何が何やらさっぱり分からないホーバーは、ガタガタと震えているラギルニットと、甲板でのた打ち回っている幹部たちを見比べ、医者は何人必要だろう……とひたすら困惑の汗を浮かべるのだった。
 ヒゲ面で。

+++

「ぎゃー! ホ、ホーバーってば! だから大好きっスー!」
 作戦会議を終え、陰鬱とした気分で船内の廊下を歩いていたホーバーは、なにやらおぞましいことを叫びながら前方から走り寄ってくるシャークの、キラキラ煌めく熱い眼差しに、ピシッと凍りついた。
「シャールウィーダーンッス!?」
 ホーバーの前にくるくる辿り着いたシャークは、唐突にホーバーの手にガシッと自分の指を絡めて、強引にホーバーをエスコートしてタッタカ踊りだした。
「ああ! こんなナイスガイと踊れて、シャーク幸せ……──っあぅ!」
 気色悪い台詞を連発するシャークの腹に、無言で膝蹴りを食らわせたホーバーは、廊下にひょろりと沈むシャークを眉根を寄せて見下ろした。
 ──こいつもか。
 かなり強烈に蹴りを入れたにもかかわらず、シャークは腹を抱えてひぃひぃ笑い転げている。
 頭に過ぎるのは、先ほどの会議で突然幹部たちとラギルに襲い掛かった異変。まさかあれは本当に奇病か何かなのだろうか、とホーバーは漠然とした不安に駆られた。
 そうだ、今思えばメルもおかしかった。いや、メルの場合いつものことと言ってしまえばそれまでなのだが。……まあ、シャークもいつものことなのだが。
 でも何かが確実に、いつものおかしさとは何かが違う。
 ──そう、彼らは笑うのだ。まるで発作でも起こしたように唐突に。
 "笑い病"そんな冗談じみた単語が頭に浮かび、ホーバーは表情を暗くしながら、とりあえず医務室に相談に行ってみようと再び廊下を歩き始めた。
「おはよう……」
 とそこへ、前方から水夫長補佐のレティクがいつもの物静かな顔で歩いてきた。
 おはよと挨拶を返すると、レティクは小さく頷いてホーバーの脇をすり抜けた。
 ──どうやら、レティクは無事らしい……。
 バクスクラッシャーのブレーン的存在のレティクが、笑い病に襲われていないことに、ホーバーはひどくほっとした。寡黙なレティクが笑い転げる姿、というのはちょっと見てみたい気もするが。
「……何か体に異変があったらすぐに医務室へ、レティク」
 とりあえずは胸を撫で下ろしたホーバーは、すれ違い様に一応の忠告をしておいた。
 レティクは眼帯をしていない方の目でちらりとホーバーを見やり、「……ああ」といつも通りの静かさで頷いた。

 廊下に突っ伏したまま彼らの様子を見守っていたシャークは、あまりの可笑しさに廊下をバシバシ叩いて身悶えた。
「な、な、なんで、なんでレティク……っ真顔でいられるんスかぁ!?」
 ひぃひぃ言いながら、ホーバーに気づかれぬよう必死に笑い声を抑えていると、やがて当のレティクがシャークの横を通り過ぎる。レティクは不審そうにシャークを見下ろして、低くぼそっと呟いた。
「……明日は我が身だ」
「───」
 鋭く呟かれた一言に、シャークは涙まで浮かんだ笑い顔を、そのままザッと凍りつかせた。
 明日は我が身。
 その通りである。
 ラギルを初めとするバクスクラッシャーの子供たちのいたずらは、ホーバーだけにとどまらない。
 今回はたまたまホーバーであったが、彼らは常に全船員を標的として隙を伺っているのだ。
 そう、明日口髭が生えているのは、自分かもしれない……。
「…………」
 シャークは無言で去ってゆくレティクを、同じく無言で見送る。
 彼の背に哀愁が漂っている気がしたのは、果たして気のせいか。
「……明日は我が身」
 教訓。明日は我が身。
 一つ大人になってしまったシャーク(29歳)は、ふっと翳りを帯びた表情で笑った。
 ふっと笑った。
 ふっと。
 ふっ……、
 ……ぶっ……! 
「っぎゃーっははははは、だめっスー! やっぱり可笑しいっスー!」
 神妙な顔をしておきながら、結局堪えきれずに吹き出したシャークは、船中にホーバーの髭のことを知らせるために、意気揚揚と甲板へ飛び出した。

 教訓。とりあえず明日までは他人の身、である。

+++

「…………」
「…………」
「…………」
 医務室の扉を開けた途端、それまで仲良く談笑していたっぽい三人の船員が、ピキッと凍りついた。
 船室の寝台の上に膝を組んで腰掛けていたのは、船内きってのキザ男バザーク。事務用の机の上に紙を広げて、片手で何かを書き付けながら談笑に加わっていたのは、船上の天使と謡われる、優しい面立ちの女医フィーラロム。棚の中の薬などを出し入れしていたのは、愛らしさでは船内一の同じく女医ミンリー。
 それぞれがそれぞれの作業を、過去形のままストップさせ、談笑中の微笑みを顔に張り付かせたまま硬直している。
「…………」
 ものすごく嫌な予感に駆られて、ホーバーは扉を開け、「相談したいことが」と言いかけた「そ」の口のままで、やはり同様に凍りつく。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ぷ!」
 ミンリーが口元に手を当てて、それすらも愛らしく吹きだした。途端つられたように、バザークもフィーラロムも深々とうつむいて肩を震わせ始める。
「…………」
 ──ぱたん。
 ホーバーは開いた扉をそのまま引き戻して、静かにそっと扉を閉めた。
 瞬間、扉の向こうで大爆笑が起こる。笑っちゃ悪いわよ、でもでも、いやだってさぁ、あれはいくらなんでも! といったやりとりが遠くに聞こえてくる。
 ホーバーは扉にゴンッと額を押し付けて、冷や汗をダラダラと掻きながら苦悩した。
 ダメだ。病を治す場所であるはずの医務室までも、あの奇病に冒されてしまった。
 絶望感がホーバーを襲う。ホーバーは目を伏せて、額を扉に押し付けたまま、悶々と考え込んだ。一体誰に相談すればいいだろう、レティクは無事なようだが、彼がいきなり笑い出したら多分ショックで自分は狂う。何かないものか。最後の砦はレティクとしておいて、その一歩手前あたりで解決できないものだろうか。そんなギリギリの状態なのか今はというかいつの間にそんな奇病が流行り始めたんだちゅーか自分は何故に無事なんですかカラ・ミンス。
 自分の黒々とした真四角い口髭が奇病の原因とは露とも思わず、ホーバーは際限ない苦悩を頭中でぐるぐると回転させる。
 その時だった。

 ──おい、顔上げろよ、馬鹿ホーバー!
 ──ちょっとあんた、邪魔よ邪魔、見えないじゃないの!
 ──ってか、扉が邪魔なんだよ、顔上げろって副船長!

 廊下のあちこちから、そんな囁き声がひそひそと聞こえてきた。
 ホーバーはぴたりとそのまま硬直する。

 ──やっだもうおっかしいほんとに!
 ──見えないよー、いた! 誰か僕の足踏んだなぁ!?
 ──ラギっちゃん、ちゃんとエメラルドで塗ったぁ?

 本人たちは聞こえないようにと囁いているつもりなのだろうが、大量な──恐らく四十人近い人数で囁かれると、それはもはや大騒音であった。
 ホーバーは思考を沈黙させ、しばらくそのまま扉に額を押し付けていた。多分跡になるだろうがどうでもいい。どうでもいい。どうでもよくないのは──今、奴らはなんと言っている?
 そう、そうだ。なんと言っているんだ、奴らは。
 思えばメルは親切だったのだ。一番親切だった。寝惚けてさえいなければ、その意味など簡単に把握できたはずだ。
 ──夜な夜な口髭の手入れでもしていたのか?
 ホーバーはガバッと顔を上げ、周囲の物陰に潜んでいるだろう船員たちを強烈に睨みつけた。途端視線が途切れ、囁き声が途切れ、脱兎のごとく去ってゆく無数の足音と恐怖の悲鳴と、それからやはり笑い声が耳に飛び込んでくる。
 それを最後まで見送らずに、ホーバーは医務室の扉を力任せに蹴り上げて、それを反動に廊下を奥へと突っ走った。
 脇を通り過ぎようとした船室の扉が突如開いて、ダラ金が暢気に「おー、おはよー」と手を振ってくる。それを高速で叩きのめし、ホーバーは廊下の一番隅にある曲がり角へと走った。勢いあまって足だけが角を通り過ぎようとするのを、壁を引っ掴んでどうにか留め、そのまま強引に角へと飛び込む。
 角の先は行き止まりで、そこには洗面所があった。狭いが清潔な洗面所には、メル博士が発明した浄水器の箱と、洗面台と、そして──。
「……──」
 ホーバーは思わず絶句した。
 あるはずのものがなかった。代わりにあったのは、壁にくっきりとついた四角い跡。
 大面の鏡が、なかった。
 決定的だ。
 自分の顔に、何かがある。

 何かというか、髭がある。

「──……、……。……──」
 ホーバーは鏡のない壁に手を押し当て、もう片手で口元を覆い隠しながら、深々と項垂れては天井を仰ぎ、目を閉じては開いて口を意味も無く開閉させる。耳が青くなったり、赤くなったりするのが、面白い。
 つまり何か。髭があるわけで。
 朝から立派な髭があるわけで。
 いや、自分はそりゃ健全な青年なのだから、朝には立派に髭が生えているわけだが、それは髭であって髭ではなくて、髭は髭でも髭なわけではなく、つまり髭が髭って髭れば髭るということで──。
 パニックを起こしたホーバーの脳裏を今までの出来事が走馬灯のように駆け巡ってゆく。メルの狂った笑い声、幹部たちの震える肩、机の下で呻くラギル、いつもに増しておかしいシャーク、真顔のレティク──真顔のレティク!
 真顔のレティクに自分は真面目な髭面で真面目に見当違いなことを忠告した。
 そういえば、レティクは自分をちらりと見た。「ちらり」と見た。ちらりと髭を…!
「よ! 髭ー!」
 ゴフ!
 背後から誰かに肩を叩かれたホーバーは、項垂れたまま無造作に肘鉄を喰らわせた。
「くそ……!」
 ホーバーは強烈な恥かしさのあまりに、珍しくも罵声を吐き捨て、洗面台に顔を突っ込んだ。がむしゃらに浄水器の蛇口を捻って、零れる真水を手に掬いとるなり顔にぶちまける。念入りに口の上あたりを擦って洗い、そこでようやくホーバーは落ち着きを取り戻した。
 これで大丈夫だ。髭はもうない。抹殺済みだ。そう、恥に思うことはない。以前は舵手のルイスが、青インクで描かれた鼻水に、一日中笑い者になったことだってある。自分だけじゃない。自分だけじゃない。髭はもうない。
 ──……ないのか? 本当に。
 ホーバーはガバッと顔を上げて、鏡を見ようとした……のだがしかし、鏡はないのである。
 そのとき不意に、誰かが笑う声が聞こえてきた。
 冷や汗を零しておそるおそる声の方を振り返ると、吐血しつつ床に座り込んでいた「誰か」もとい水夫のサリスが、死にかけの表情をフッと渋く笑わせて、ふるふると腕を持ち上げるのが目に入った。
 震えた親指が、クイッと立てられる。
 ──ナイスな髭だぜ、ホーバー……!
 サリスはパクパクと口だけを動かして、モノローグでそう言った。
 ──やっぱりまだあるのかー……!
 ホーバーはモノローグで叫び、サリスの右頬にカウンターパンチを食らわせた。
「っ鏡をよこせぇー……!」
 瞬殺されたサリスの胸倉をぐらぐらと揺さぶって、ホーバーは自分でも髭面なのか髭面じゃないのか分からぬまま、声を限りに張り叫ぶのだった。

+++

 船内の廊下を、一陣の嵐が駆け抜けてゆく。
「ぶはは! ホーバー、なんかお前髭が生えてるんだっ──」
 バキィ! 
「ぎゃははは! ざまぁみろ、髭──」
 ボカ! 
「ホーバーってば、ぷぷ──」
 ゴン! 
 廊下の騒ぎを聞きつけて、次々と船室の扉を開けて顔を出す船員たちのうちで、少しでも笑った奴らを、蹴りやら拳やら頭突きやら、ありとあらゆる手段でもって屠りながら、ホーバーはひたすら鏡を求めて走り回った。
 角という角。
 隅という隅。
 暗がりという暗がり。
 ありとあらゆる場所──隠されている可能性のある場所を、しらみつぶしに見て回る。
 しかし鏡はなかった。
「……っない!」
 ホーバーは絶望に駆られて、キィッと碧頭をかきむしった。
「ぶぅ!」
 途端、周囲のどこからともなく、笑い声が聞こえてくるのが、ともかくひたすらむかつく。
「ホーバー? 一体この騒ぎはなんだい。これじゃあ、落ち着いてきばれやしないよ」
 と、そこへやってきたのが、便所帰りのクロルである。
 よほどきばっていたのだろう。あれだけの騒ぎになっていながら、図太くも事情を知らない様子のクロルの目から、掌でもってガバァっと口をかばうと、ホーバーは言葉もなくぶんぶんと首を横に振った。
「あ、もしかしてゲロりたいのかい? すまなかったねぇ、便所を乗っ取っちまってて」
「――──」
「……本当に大丈夫かい? 支えてやろうか?」
 耳まで真っ赤にしてうつむくホーバーを、ロルは心配そうな顔で下から覗きこむ。
「……っ覗き込むなぁ──!」
「へ?」
 途端、ホーバーはかわいそうすぎる悲鳴を上げて、その場を猛ダッシュで逃走した。
 まるで涙を堪えるかのように、口元に手を押し当てて。
「なんだい、ありゃ」
 後には、あっけにとられたクロルと、その背後に伸びる廊下に陳列された死体の群れと、そしてホーバーの悲鳴のドップラー効果が残された……。

「ぜったいぶち殺す、てめぇらぁああ─っ!」
 普段は温和な副船長だが、さりげなく侮辱されることが大嫌い。
 口髭なんて情けない物体を描かれ(しかも黒。)、船員全員に寄ってたかって馬鹿にされ、あげくにレティクにちらっと見られたばかりか、ひそかに好きな女にまでひょいっと覗かれ、ホーバーは完全にぶちキレた。
 普段では滅多に聞けない怒声を張り上げると、彼は船内をマッハの速度で走り抜けた。
 それと同時に、副船長を隠れて見送った船員らも、ゲラゲラ笑いながら、彼を追って走り始める。
 船内は足音と笑い声とで、騒然とした。
 しかしそのころ甲板は、それ以上に爆笑の渦だった。
 三十人余りの船員たちがひしめき、各々お好みの格好で笑いころげている。
 這いずりながら笑う者あり、壁を叩きながら呻く者あり、膝をバシバシ叩き涙を流す者あり。引きつけのような笑い声と、狂った物音が、霧深い海に響き渡った。
 もし近くを他の商船でも横切ったりしたら、悲鳴を上げて逃げてゆくことだろう。霧の中の帆船、視界はないに等しい。そんな中、どこからともなく無数の笑い声と奇怪な物音が聞こえてくるのだ。
 ブクク……ッアハハ……ッバシバシバシ……ドンドン……! 
 怖い。相当怖い。
 これは悪魔か果たして魔物か。謎の「笑う幽霊船」の噂は、やがて船乗りたちによって港町にもたらされ、それはまたたく間に大陸中に伝わり、果ては海を越える船乗りたちによって、世界中へと触れまわられるに違いない。
「せ、世界中にヒゲが……! ホーバーのヒゲが……! ヒ、ヒゲ……ヒヒ……!」
「髭……っ髭……!」
 もはや「髭」しか言えない船員たちは、ふるふる震える手を互いに伸ばして、「助けてぇ!」と助けを求め合った。
 そこへ、一人の水夫が必死の形相で船内から飛び出してきた。
「おい! 副船長が鏡を求めて、こっちへ向かってくるぞー!」
 緊迫感たっぷりな怒声が、甲板にエコー付きで響きわたった。
「なにぃ!? 副船長が、鏡を求めて!?」
 笑い転げていた船員たちは、ガビン! と仰け反ると、緊張の一瞬後、再びぶぶーっと吹き出した。
 副船長が。
 こっちへ来る。
 鏡を求めて! 

「ナルシスト──……っっ」

 朝。バクスクラッシャーの心地よい早朝。
 寝起きのホーバーは、寝間着のはだけた襟元もそのままに、巨大な鏡の前に立つ。
 シュッシュと香水を一吹きして、彼はフローラルに微笑した。
 輝くホーバーの白い歯。
 キラめくホーバーの熱いまなざし。
 かけてないけど、眼鏡のフレームを噛んでみたりして。
 そしてうっとりと、呟くのだ。
『ああ、こんなところに美青年がいると思ったら、鏡に映った僕じゃないか』

「鏡に映った僕かぁあぁあああ……!」
 ナルシストなホーバーの早朝を勝手にもんもんと想像して、船員たちはぞわわわっと鳥肌を頭皮にまではやした。
「いやぁあああー……!」
 船員たちは盛大な絶叫を上げて、笑いに歪んだ顔のまま、甲板を縦横無尽に逃げ出した。

 バキャァ! 
 固く閉ざされた扉をぶち開けて、ホーバーは誰もいない甲板へと飛び出すなり、殺気立った視線で周囲を鋭く薙いだ。もちろん、お口はしっかり手でガードだ。
 奇怪な静けさに包まれた甲板は、正反対に人気でむんむんだった。
 甲板のあちこちから、ひそめた息遣いが感じられる。なんだか甲板そのものが、小刻みに震えている錯覚すら覚えて、ホーバーは奥歯をギリッと噛みしめた。
「……鏡はどこだ」
 怒りを押し殺した唸り声に、甲板のあちこちで、ぶっという音が起こる。
 ナル、ナルナルナル、ナルナル……続いてそんなざわめきが、あちこちで交わされた。
 ホーバーは風のような素早い動きで、腰に下がるカトラスに手をかけた。
「鏡をよこせ。でないと叩き切る……!」
 わずかに鞘から抜かれた刃身が、陽光を反射する。
 静寂な中に確かな炎を抱いた眼光が、反射した光にギラッと輝く。
 ナルの囁きはしんっと消えうせ、緊張と静寂が甲板を駆け抜けた。
 ひゅー……。
 枯葉もないのに、枯葉が舞う。
 ああ、どうしてたかが口髭ひとつで、そこまで熱くなれるのか。
 という疑問は、誰一人として抱かなかった。
 誰もが黒々とした口髭を一目見てやろうと、ホーバーの手のひらの隙間を必死で探った。
 殺気すら感じられる彼らの視線から、ホーバーもまた必死で口髭をガードした。
 誰もが熱くなっていた。
 誰もが──本気(マジ)だった。
「叩き切るか。髭を生やした無様な負け犬が、哀れに遠吠えしてやがる」
 ふと静寂の甲板に、低い笑い声が響き渡 った。
「ついでに、眉毛もお書きあそばせれば?緑色の子犬ちゃん」
 甲板中の視線をずざぁっと集めて、武器庫の暗がりから現れたのは、ホーバーがカトラスに手をかければ必ず現れる男、船上の帝王セインだった。
「哀れなお前に免じて、鏡をくれてやるよ。……俺さまに勝てればなぁ?」
 セインの手はすでに腰のカトラスにかかっている。隠そうともしない殺気が、身を潜めた船員たちの鳥肌をぞわっと呼び起こした。
 同時に、彼らは期待で拳を震わせ、口はしを堪えきれない笑みで持ちあげていった。
 ──始まる……! 
「勝てれば?」
 ホーバーは静かに目を細めると、迎え撃つように、鞘から剣を抜き放った。
「不潔なお前が鏡を持ち歩いているとは、とても思えないんだが」
「ああ。貴様と違って、鏡なんて軟弱なものは、俺さまには必要ないからな。だが洗面所の鏡のありかは知っている。ナルシストなヒゲっち、ホーバーちゃん?」
 ナルシストなヒゲっちホーバーちゃんの一言に、ナルシストなヒゲっちホーバーちゃんの眉がぴくりと動いた。
「……鏡はいただく」
 ホーバーはセインを静かに睨みすえ、片足を一歩前に動かした。
「おやおやホーバーちゃん、俺様相手に片腕でいいのか? 口からお手々は、お離しになった方がいいんでないかい?」
 挑発的な嘲笑で目を細め、セインは無造作にカトラスを抜き放った。
「お前など、片手で十分だ……!」
 ホーバーの放った最後の言葉は、語尾が彼の残像とともにかすれて消えていた。

 途端、隠れていた船員たちが一斉に飛び出して、キンッと刃を打ち合わせる二人を囲んだ。
 爆音のような歓声と、口髭コールが、霧深い海にこだました。

+++

「……っっっ」
 その頃。
 船長室の机の下で、呼吸困難の状態で声もなく笑い転げていたのは、この事件の発端ラギルニット船長である。
 もはや少年は死ぬ寸前だった。
 だって何だか外が大騒動だ。何だか乱闘騒ぎにまで発展してしまっているようなのだ。
 まさか口髭一房ごときで、彼らがここまですごいことになるとは、想像だにしていなかった。
「……い、いたい~っ」
 大きな赤い瞳から涙をぼろぼろ流しながら、ラギルニットは痛くて仕方がない腹筋をひぃひぃと両腕でもって抱えこんだ。
 外の決闘が見たくて仕方ない。だが今出て行ったら、確実に自分は死ぬ。口髭をめぐって、真剣に戦ってる彼らを見たら、きっと自分は喉やら腹やらから血を吹いて死ぬ。というかそもそもお腹が痛くて、出てゆくことすら出来ない。
 だって口髭ごときで、カトラス抜く!?
 自分が巻き起こしてる騒動だってことは都合よく忘れ、ラギルニットは悶絶寸前で、ぶくくくっと大人たちの馬鹿っぷりを笑った。
 とにもかくにも、ここは船長として、こんな可笑しいことは後世にまで伝えない手はあるまい。
 ラギルニットはズキズキと痛む喉と頬をむにむにとほぐしながら、「……ぶっ」、手元に用意しておいた航海日誌をふるふると取り上げた。
 今日のページを広げ、閉じないように手でしっかり押さえる。そして、とびきり綺麗な色をした、お気に入りの羽ペンを、床に置いたインク壺の中へとどうにか押しこんだ。
 お天気や波の具合なんかも後回しだ。
 本日のお題はもちろん、

『ホーバーの口髭騒動』

「……っ最高!」
 ラギルニットは、ゴロの良いタイトルを考え出せたのが楽しくて、けたけたと笑った。
 そして調子に乗った少年は、当人がいないのを良いことに、「変態」とか「変人」とか「バカ丸出し」とか、セインたちに教わった覚えたての単語を、日誌にずらずらと書き連ねていった。
『私、ラギルニット船長は目撃した。
 彼らの口髪をめぐる、バカ丸出しもきわまりれ、骨肉の争いを……。
 船員たちの代表者たるべき副船長どのが、かような変態的奇行に走ったことは、太変なげかわいく……』
「……あれ? なげかわいく? ちがうような気がする……なげ、なげー、なげかわ……」
 無理して難しい単語を並べていていたので、だんだん混乱してきたラギルニットは、ペン先を嘗めながら首を傾げる。なげかわいく? なげかわく?

 その時。
 まだ、ラギルニットは知らなかった。
 日誌を書いているまさに今この瞬間、
 甲板で一体何が起こっていたかを。

「口髭事件は……こうしていよいよ佳境を、向かえ」
 誤字はあとで訂正するとして、日誌もいよいよ終盤に差しかかった。
 ホーバーの鏡を求めて船内を駆け回った辺りについては、自分の目では見ていなかったから、後でその場に居合わせた船員たちに聞いて回り、加筆することにしよう。
 あとは結末を書けばおしまいだ。
 そしてこの口髭騒動の結末を見守ってやろうと、ようやく笑いの収まってきたラギルニットが、顔を上げた──その瞬間だった。
「……?」
 ふとラギルニットは妙なものを感じて、顔を上げた。
 甲板がやけに静かだ。
「あ、あれ?」
 ラギルニットは机のはしっこから顔だけ出して、船長室の窓から見える甲板の様子を確認した。
 甲板には、まるで人気というものがなくなっていた。
 先ほどまで、船員たちが、ホーバーとセインの決闘に大歓声を上げていたというのに。
 まるで幽霊船みたいな不気味さだ。
 音という音がまるで立ち消えている。
 あたかも船員たちが一斉に姿を消してしまったかのように…。

 そう、ラギルニットは知らなかったのだ。
 その時、甲板で一体何が起こっていたかを。
 バクスクラッシャー最強と言われる副船長ホーバーの、理性のフッ飛んだ戦いっぷりがどれほどのものであったかも。
 セインは愚か、大歓声を上げた船員たちが、恐ろしい勢いで倒されていったことも。
 現在甲板上に、累々と白目を剥いた船員たちが転がっていることも。
 その全てに、インクで描かれた口髭が、黒々と描かれていることも。

 そして、そのホーバーがたった今、船長室の前に立っていることも。

 トントン……。
 船長室の扉がノックされる。
 ラギルニットはようやく聞こえてきた物音らしい物音に、ホッと安堵して顔を上げた。
 そして安心しきった笑顔を浮かべると、いつものように元気良く返事をしたのだった。
「はーい! どうぞー!」

 バキィ……ッ!
 返事に応じて、扉が轟音をたててぶち開けられた。
 笑顔のラギルニットの赤い瞳に、邪悪に微笑む、口髭ホーバーの笑顔が映った。
 ラギルニットの笑顔がスローモーションで引きつってゆく。
 ホーバーの口髭付きの唇が、スローモーションで開かれてゆく。

「どもー」

 振り上げられたその手には、黒インクと羽ペンが、
 しっかりと握り締められていた……。

+++

 私、ラギルニット船長は目撃した。
 彼らの口髪をめぐる、バカ丸出しもきわまりれ、骨肉の争いを……。
 船員たちの代表者たるべき副船長どのが、かような変態的奇行に走ったことは、太変なげかわいく、親の顔が見てみたいというものである。
 口髭を描かれたホーバー副船長は、船員たちの笑い声に、自分の顔に何かがあると気づき、そしてついには洗面台へ…………


反省文
も、もう二度と口髭なんてかいたりしませんイタズラもしません……。
ごめんなさい……。

だから鏡を返してぇえええ……っっ(号泣)



……やだ。 by ホーバー

十二月二十七日・ラギル船長の航海日誌より


おわり

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