喉笛の塔はダミ声で歌う

第8話 学者先生の考察

〈喉笛の塔〉が朝六時の歌声を発する。今日も莫大な量の電力を生みだし、都中の機械という機械に朝の活力を与える。
 塔の目覚めとともに、オースターもまた目を覚ました。
 寝ぼけたまま鳥肌の立った腕をさすり、習慣的に祈りを捧げ、毛布を剥いでのろのろ起きあがり、部屋を横切ってカーテンを開ける。心地のよい秋晴れだ。
 足が重たい。あちこちぎしぎしと痛む。どうしたんだっけこれ、と思いながら、水差しの水を洗面器に注ぎ、顔をぱしゃぱしゃ洗う。
 鏡を見る。ひどい顔だ。ぼんやりと立ちつくして、オースターは記憶を探る。どうしてこんなに疲れているのだったか。
「オースター様、朝です……おや、珍しく早起きですね」
 オースターはふるふると震えながら、部屋にやってきた陰気顔の従者を振りかえった。
「ラジェ、すごい。すごいぞ!」

 普段に比べると、猛烈と言ってもいい勢いで、従者特製パニシュエット――溶き卵とパウニ・シロップ、牛乳にひたしたパンに、細かく挽いたコル豆とシナモンをまぶして焼いた、旧アラングリモ領の郷土料理だ――をたいらげるオースターを、ラジェがあっけにとられて見つめる。だがオースターの視線は、皿の脇に重石を載せて広げた本に釘付けだ。
「オースター様、食事中に読書はお行儀が悪いです」
「うん、すごくおいしい」
「オースター様、顎のところにコル豆がついておりますよ」
「うん、絶品だよ、ラジェ」
 ラジェが本の表紙を軽く持ちあげ、身をかがめて覗きこむ。
 フォルボス・マクロイ著『衛生都市ランファルドの下水溝の歴史』である。
「……食事中に、下水の本とはずいぶん挑戦的ですね」
 顔をしかめるラジェに対し、オースターは緑色の瞳をきらきらさせた。
「ラジェ、知っていた? 下水道は定期的に掃除しないと、詰まって大変なことになるんだって。地上にまで悪臭や汚水があふれだし、疫病の原因になるんだ」
「はあ……」
「詰まりの原因もいろいろなんだね。下水管だと特に、家庭の厨房から出る油がまずいみたいだよ。凝固して、管を塞いでしまうことがあるんだって。ラジェ、君は僕の朝食をつくるとき、油をきちんと処理しているだろうね?」
「はあ……」
「すごいや。下水道掃除は市民の健康を守る大切な仕事なんだ。彼らがいなかったら、今ごろランファルド市は不健康な病人であふれていたかもしれないんだ!」
「…………」
 昨日はひどく落ちこんだ。自分が犯した失態の数々で頭がいっぱいになっていた。それに疲れも相当なものだった。
 這う這うの体で寮に戻って、ラジェが「おかえりなさいませ」といつもどおりの陰気さで迎えてくれたときには、赤ん坊みたいにひしと抱きついてしまった。「お汚い!」と風呂場に担ぎこまれた瞬間、正気に戻ったけれども。
 ごしごし体を洗って、ちびちびご飯を食べて、いつもの注射を打って、寝間着になってベッドに入った。
 そのまま深い眠りに落ちて――、

 朝。
 突然、オースターは理解した。

(昨日のトマのあの台詞は、薬のお礼と、ぬめり竜に気づいた僕を労ったんだ!)

 その途端、昨日体験したことが、堰を切ったように脳裏を駆けめぐった。
 下水道を走行するポンコツ戦車ホロロ四号。
 行く手を阻む、闇と汚水の地下迷宮。
 襲いかかる怪物ぬめり竜。
 勇敢な、異民族の掃除夫たち。
(まるで人類未到の地底世界を冒険する探検隊のような大冒険だった!)
 あれほど気乗りしなかった職場体験学習なのに、今日は朝食前、勉強熱心な学生のために常時開設している図書館に駆けこんで、資料をたくさん借りてきてしまった。
 オースターは「ごちそうさまでした」ときれいに空にした皿を前に立ちあがる。
「そうだ。今日の午後も焼き菓子を持っていきたいんだけど、準備できる?」
「それはもちろん……」
「みんなに渡してきたんだよ。食べてくれたかなあ。あ、あとラジェが用意してくれた薬、大活躍だったんだ! 昨日、僕はお礼を言ったかな?」
「赤子のように抱きつかれ、『ありがとう』、『ラジェ大好き』と雄叫ばれた記憶はございます」
「二番目の、ぜったいねつ造だよね!?」
 オースターは頬を赤らめる。
「それで、あの薬もっと手に入る? 衛生局がきちんと補充をしてくれないんだって。ひどい話だよ。ひとこと言ってやらなくちゃ」
 ラジェは怪しむように目を細めた。
「……ずいぶんやる気になられたものですね。昨日、汚れた姿で帰ってこられたときには、いよいよ奥様に報告すべきかと案じましたが」

「ぜったいにだめ!」

 反射的に叫んでから、あわてて取りつくろう。
「汚れは、一応は洗ったんだよ。上水管から水漏れしている場所があってさ。でもくたくたに疲れていたし、大っぴらに肌をさらすのもまずいだろう? だからちゃんとは洗えなくて……けど、ケーブルカーの乗客には白い目で見られたし、門番にも顔をしかめられたし、次からはきちんとする。だから、母上には言わないで」
 ラジェは陰気なまなざしをオースターに向けた。
「……危険なことはしていないのでしょうね?」
「ないよっ、ちっともっ」
 声がうわずる。ラジェには、安全で衛生的な仕事をさせてもらっていると嘘をついているのだ。少々以上に心配性のラジェに、ぬめり竜の話なんてしたら大事になりかねない。
「わかりました。ですが、ひとつだけ確認させてください。下水道掃除夫を職場体験学習先に選ばれたのは、本当に、ご自身の意志だったのですか?」
 ぎくり。
 鋭い質問に目が泳いだそのとき、始業十分前の鐘が聞こえてきた。
 オースターは逃げるように制服の上着と深紅のネクタイを掴んで、鞄を小脇に抱えた。
「もちろんだよ。ともかく、母上には内緒にしてくれよ、ラジェ。またあとで!」


 眠気をこらえ、なんとか乗りきった一限目の授業後の休み時間。
 大きく伸びをするオースターの机のまわりに、親しい同級生が集まってきた。
「ご機嫌じゃないか、オースター。てっきり今日もげっそり顔で登校すると思ったのに」
 オースターは苦笑した。
「げっそりしているよ。眠いし、疲れているし、わけのわからないところの筋肉痛はひどいし、覚えのない青あざがいっぱいあるし。でも」
 ほうっと息が漏れる。感嘆の吐息である。
「下水道掃除夫の仕事、思っていたよりずっとずっと、かっこよかったんだあ」
「えっ、嘘だろう? 彼らがいるからって強がるなよ」
 小声で言われてやっと、近くにルピィの取り巻きたちが座っていることに気づく。ルピィ本人はいないようだが、取り巻きたちは「あとでルピィに教えてやろう」とばかりにこちらに意識を向けていることが気配でわかった。
 オースターはにっと笑って、昨日あったことを身ぶり手ぶりを交えて再現した。
 ぬめり竜と遭遇するくだりになると、同級生たちは口をあんぐり開ける。
「知らなかった、そんな怪物がこの国の地下にひそんでいたなんて」
「よく無事だったなあ、オースター」
「危うかったよ。怪我をしたひとがいて、毒牙でやられたんだけど、腕がこう……こんなぐらいまで腫れあがっちゃって」
 両手で太さを表現すると、どよめきが起こる。
 オースターはふっふっふっと笑いながら胸を張った。
「これはもう糸鋸で腕を切断するしかない!ってなったときにやってきたのが、僕の出番。従者が持たせてくれた薬のなかに特効薬があってね、僕が注射器を両手で掴んで、こう……えい、と!」
 おおおと驚嘆の声があがった。ちらりと取り巻きたちに視線をやると、悔しげに顔をしかめているのがわかった。日ごろの溜飲がちょっとだけ下がる。
「でもさ、下水道ってあれだろう? トイレの水が流れていったりする場所なんだろう?」
 同級生たちがぶるりと身を震わせた。
「くさい?」
「くさいよ。それにじめっとしてる」
 あの不快感を説明するには言葉では足りない。悪臭、湿度、足もとを走りまわるネズミや虫。どれをとっても不快としか言いようがない。
「でも匂いは、なにかの葉っぱをこすって鼻に塗れば、気にならなくなるんだよ」
「ひええ。たくましいなあ、オースター」
 途端、がっくりと机に突っ伏すオースターである。
「たくましいのは掃除夫だよ。特に、僕の教育係になったトマっていうのが……」
 すごかった、と言いかけて、オースターは口をつぐむ。
 本人がいない場であっても、素直にあのトマを「すごい」と口に出して称賛するのは少し悔しい。
 それでも――心の中でオースターは何度となくトマの精悍な横顔を思いだしていた。

(本当にすごかったんだ)

 口が悪いけど。
 態度も悪いけど。
 いつも怒っていて、嫌みな奴だけれど。
 そして自分は、その「すごい」トマに労われたのだ。
 こらえきれずににやにや笑うオースターから、同級生がじわじわと遠ざかる。
「しかし、オースターが職種希望先にするまで、下水道掃除夫という職業があるなんて知らなかったな。正直、ぞっとするよ」
 そう言って顔をしかめたのは、カルデ伯爵家の三男ジプシールだ。アラングリモ公爵家とは遠戚関係にあたり、ランファルド市に移住したばかりのころからなにかと便宜を図ってくれている。
「ぞっとするって、なんで?」
 ジプシールは競艇倶楽部で鍛えた筋肉質な腕を組んだ。
「いつもながらに悠長だな、オースターは。我々の足の下を、武器を持った連中が自由にうろつきまわっているのだぞ。恐ろしいとは思わんのか」
「武器は持っていないよ。工具で戦っていたんだ」
「武器を持っていないとは限らないだろう。たまたま昨日は工具しかなかっただけかもしれん」
 オースターは顔をしかめる。
「いったいなにを心配しているの? ジプシール」
「戦後十年がたち、ランファルド大公国はずいぶん平和になった。だが、平和が長くつづくと、人心は奇妙にも混乱を求めはじめるようだ。――近ごろ、不穏な噂を耳にする。大公殿下の治世に不満を持つ愚者どもが、街頭に立ち、不届きな演説を繰りかえしていると」
 まさか、と同級生が笑う。オースターもまったく理解できなかった。戦後、十年にもわたる平和と繁栄を築いてきた偉大なる君主。いったいなにが不満だというのか。
「でも、それと下水道とどんな関係が?」
「授業で習ったろう。戦時中、同盟国とはいえ他人の戦争に巻きこまれることに不満を覚えた市民が、レジスタンス組織を結成し、地下から神出鬼没に現れてはランファルド市を混乱におとしいれた、と」
 確かに習った。ランファルド市の地下には下水道だけでなく、石膏採掘場跡が点在し、残された坑道を伝っていけば地上の人間に気づかれることなく街から街を移動することできるという。レジスタンス組織はそうした坑道を利用し、軍部の会議などに侵入して襲撃を仕掛けたりした、と。
「そういえばこのあいだ、僕のところの従者が変な話をしていたなあ」
 名家アニアルドの長男オルグがのんびりとした口調で言う。
「叔父の住むシティハウスに侵入者があったらしいんだあ。戸締りはちゃんとしていたらしいんだけど、厨房から食べ物やワインが盗まれたみたい。地下室に靴跡が残っていたって話で、どこか地下から入りこんだ人間がいるんじゃないかって」
 とたん、ほかの同級生までが口々に噂話をしはじめる。執事が夜中に邸宅の地下にあるワイン蔵で笑い声を聞いたという話や、貴族の令嬢が屋敷内を移動する男の影を見たという怪談、遊び半分で下水道に立ち入った市民が行方不明になったという噂……ラジェが聞いた、雨になると地下から這い出てくる「ドブネズミ」の話も出てきた。
「地下には、どこぞの家の極秘暗殺部隊がひそんでいるって話も聞いたことがあるよ」
「それ、ユフテル・ソイの新作小説の話だろう?」
「そうだっけ。でもさ、もしも寮の地下に秘密の抜け道があって、地下から掃除夫が侵入してきたらどうする? 錐とトンカチで頭をかち割られたりして」
 好き勝手に噂話が広がり、オースターは困惑した。
 そこまでにしておけ、と止めに入ることができなかったのは、脳裏に下水道で聞いたあの声がこびりついていたからだ。

 歌えよ。
 でなきゃ死ね、役立たず。

「掃除夫って、どういうひとたちなの?」
 オルグの問いかけに、オースターは顔をあげた。
「それなんだけど、不思議なひとたちだったんだ。風変わりな顔立ちをしていてね。肌が浅黒くて、頬に刺青だと思うんだけどなにかの模様を描いていた。特に驚いたのは、教育係の男の子が、髪の毛を三つ編みにしていたこと」
「女装趣味の掃除夫ということか? それはいただけないな」
 からかう調子で言うジプシールに、オースターはむっとする。昨日まで、自分こそが「男なのに三つ編みなんて変だ」と思っていたのに、トマを揶揄するジプシールを見ると胸の中がもやもやした。
「女装じゃなくて髪形だけだよ。きっと理由があるんだと思う。それに見慣れたら、よく似合っているって思える。それよりもっと驚いたことがあるんだ。どの掃除夫もみんなひどいダミ声だったんだよ」
「ダミ声? 声ががらがらってこと? 病気じゃないのかい?」
「声以外は健康そうだったけど……」
 痩せているとは思ったが、不健康とは思わなかった。
 もっとも仕事環境が劣悪なのは確かだが。衛生局は薬を出し渋っているようだし、労働法を無視して低年齢の子供を働かせてもいる。
 そういえば――。オースターは体験学習初日のことを思いおこす。
 最初に下水道への階段を下っていたときに聞いた、あの歌。
 あれは、いったいなんだったのだろうか。
 心地のよい歌声だった。
〈喉笛の塔〉から発せられる歌も美しいが、下水道で聞いた歌は塔のものよりももっとずっと胸に迫ってきた。
 魂を揺さぶるような歌声、そんな賛美が大げさでないほどに。
(もう一度、聞きたいな)
 あのとき見たように感じた風景。父と母、それに亡き弟のオースター。夢のような光景だった。三人とも笑っていて、まるで物語の中の幸せな家族のようだった。
 あんな心温まる記憶、物心つく前までさかのぼったとしても存在しないのに……。

「その三つ編みの民族、ぼく、知ってるかも」

 オースターはきょとんとして、前の席に座る「学者先生」ことコルティスに目をやった。
「ホロロ族じゃないかな。ぼくらが小さいころ、〈汚染地帯〉の外からやってきた異民族。どこかの国からか逃げてきたって話だったと思う」
 同級生たちが「国外から!?」と驚きの声をあげ、オースターもまた目をまん丸にした。
 戦後しばらくは、北部の〈汚染地帯〉から逃げてくる民がまだあった。しかしそれは国内の民ばかりで、国外の、それも異民族が移住してきたなど聞いたこともなかった。
「二百人ぐらいいたそうだよ。大公殿下のご慈悲によって、ランファルド市への移住が許可されたんだとか」
「二百人も……!」
 いよいよざわめきが高まり、オースターは唇に手をあてがって考えこむ。
 戦後、〈汚染〉に呑まれた北部の民が大挙してランファルド市に移住してきた。それによって首都の人口が一挙に過密化し、住宅の不足、仕事の不足、物資の不足、ありとあらゆる面での不足が起こり、深刻な社会問題となった。もともとの首都の住民と、戦後やってきた移民との間でたびたびいさかいが起き、夜間の外出禁止令が出るほど治安が悪化したこともあった。
 そのさなかに、二百人もの外国からの難民を受け入れていたなんて――。
「必死で逃げのびてきた哀れな者たちを切り捨てることができなかったのだろう。殿下は慈悲深いお方だ」
 ジプシールが感嘆の息をつく。オースターも同意してうなずきかけたとき、背後で失笑が起きた。
 振りかえると、いつの間にか教室の入り口にルピィが立っていた。
 目が合うなりルピィは浮かべていた嘲笑を顔から消し、杖をコツコツと鳴らしながら自分の机につく。
(今、笑った? ジプシールのことを? それとも、まさか大公殿下のことを?)
 取り巻きたちがルピィに駆けよる。ひそひそとなにごとかを耳打ちをされたルピィは、馬鹿にしきった様子で口端をゆがめた。
「やけにやかましいから、なにごとかと思えば、どこかの矮小な勇者さまが排泄物にまみれながらミミズと戦った話で盛りあがっていたわけか。くだらん」
「なにを……!」
 ジプシールが身を乗りだすのをとどめ、オースターはにっこりとした。
「機甲師団に加わったどこかの国の皇太子様が、装甲車から落っこちて大蜥蜴の排泄物にまみれちゃう話よりは盛りあがったかもね」
「貴様……!」
 ルピィの取り巻きが吼え、今度はルピィがそれをとどめ、小馬鹿にした様子で鼻を鳴らした。
「どうでもいいが、おまえも公爵家の端くれなら、そんな大ぼらで友人たちを不用意に怯えさせるものではないぞ、アラングリモ」
 オースターもふんと鼻を鳴らした。
「なにが大ぼらだって言うんだか。言いがかりはよしてほしいな、ルピィ」
「地下水道にそんな化け物などいない。おまえたちも、そこの大ぼら吹きにつきあって、調子に乗せてやるなよ」
 ジプシールやオルグ、コルティスたちに目を向けてルピィが言う。
 オースターは立ちあがって、ルピィをまっすぐ見据えた。
「ぬめり竜のこと? それなら嘘じゃないよ。下水道には、ぬめり竜という怪物がいた。掃除夫が十人がかりでも抑えられなかったぐらいに大きかった」
「ぬめり竜なら知っている。学術名はモグラミミズ。大型環形動物門貧毛綱の一種だ。成体でもせいぜい体長六百ルエール程度にしかならん。おまえの話を信じるなら、おまえが遭遇したぬめり竜は通常の五倍もの体長になる。話を盛るのもほどほどにしておけ」
 オースターは憤った。ぬめり竜の生態に詳しいのは衛生局と「仲良し」だからか、と聞いてやりたかった。
「五倍はなかったかもしれないけど、四倍はあった。確実に」
 どっと取り巻きたちから笑い声が起きた。
「まるで、パインハーツ平原の〈汚染〉による変異体の大蜥蜴を目にしたかのような口ぶりだな」
「まさかこの都の地下にまで〈汚染〉変異体が入りこんでいるとでも言いたいのかな? だとしたら大問題だ。民はパニックになる。……ははあ、さてはルピィが機甲師団の森林調査隊リーダーに任命されたことを妬んでいるのだろう。嘘をついてでも、競いたいというわけか」
 取り巻きたちがどう言おうとかまわなかった。
 オースターはただルピィだけをまっすぐに見つめる。
「本当だよ、ルピィ。嘘なんてついていない。それに妬んでもいない。君は機甲師団のリーダーにふさわしい男だと思っている」
 その瞬間、ルピィは目の奥に蔑みを閃めかせ、オースターをにらみつけた。
「嘘つきめ」
 オースターはかっとなった。
「本当だったら。僕は誇り高きアラングリモ家の人間として、決して嘘をついたりしない。友達にだって、もちろん君にだって――!」

 ――嘘つき。

 そのとき、心の奥底に身をひそめていた幼い少女わたしが呟いた。
 下腹部に、ぐっと鈍い痛みが走る。
 オースターは青ざめ、腹に手をあてがった。
 不自然に言葉を止めたオースターの様子を見て、ルピィは興味が失せたように顔をそむけ、椅子から立ち上がった。ルアーブ社製の洒落た杖をコツコツと鳴らし、廊下へと出ていく。取り巻きたちは軽蔑しきった笑い声をあげながら、その後ろを腰巾着よろしくついていった。
 オースターは傷つき、腹をおさえながら椅子に腰をおろした。
「はあ、どうなるかと思ったよ、ひやひやするなあ」
 こわばらせていた肩を落としたのは、オルグだ。ジプシールはひどく気分を害した様子で、遠くに去っていく笑い声を追うように廊下をにらんでいる。
 ただひとり、学者先生コルティスだけは楽しげに笑っていた。
「本当、オースターはルピィが好きなんだなあ」
 一瞬、場に沈黙がおりる。思考をたっぷり十秒は停止させたのち、オースターは目玉が飛び出る勢いで瞠目した。
「な、なななんでだよ!? なに言ってるのさ!」
 そのあまりの勢いに学者先生はびくりとし、苦笑しながらずれた眼鏡を直した。
「冗談だよ、そんな驚かなくても」
「言っていい冗談と、悪い冗談があるよ!」
「だってオースター、なんやかんやでルピィと話をしているとき、目が生き生きしてるんだもの。口元だって今にも笑いだしそうなぐらい楽しそうで」
「それなんのための眼鏡なのー!?」
 じっと同級生たちの視線が集中するのを感じ、オースターは頬を赤くした。
「……だって……そりゃ、別に……僕は彼を嫌っていないし」
「そういえば、子供のころは仲がよかったな。二大公爵家の関係も、我々の代で安泰になるかと思ったが」
 ジプシールの言葉に、オースターは顔を曇らせる。
(僕から声をかけたんだ)
 首都に移住してしばらく、大公宮で開かれた晩餐会で、オースターからルピィに声をかけたのだ。「姉の葬儀に来てくれたよね」と。ルピィは驚いた顔をしていた。けれど、すぐに打ち解けることができた。クラリーズ学園に入学したときだって、「これからは、互いに籠の鳥だな」と笑いながら握手を交わしあったのだ。
「……ぬめり竜のこと、嘘じゃないからね?」
 オースターが言うと、同級生たちは顔を見合わせ、曖昧に笑った。
 ため息まじりに、オースターはコルティスに目を向ける。
「ホロロ族の話だけど、コルティスの父君は異文化研究の功績で男爵位に叙されたんだったよね。ホロロ族のことも父上から聞かされたの?」
 中流階級の出自ながら男爵位を得たコルティスの父親を「成り上がり」と馬鹿にする者は多い。ルピィの取り巻きたちなどは、オースターと同じぐらいコルティスをからかい、陰でいやがらせもしているようだ。
 もっとも、当のコルティスはけろりとしたものだが。
「そう。父もホロロ族に会ってるよ。男でも三つ編みをしている者が多かったって話をしてたのを覚えてる。あと、頬の模様のこともね。だから、オースターが言うのもホロロ族だと思うんだけど……」
 ホロロという名は汚水回収車にもつけられていた。きっとまちがいないだろう。
「そっか。あの三つ編み、トマだけじゃなかったんだ」
 自分が会った掃除夫のなかでは、三つ編みの男性はトマだけだったけれど。
「やっぱりダミ声だったって言っていた?」
「それは覚えてない。そんなに特徴のある声なら、父の話に出てきそうなものだけど」
「じゃあ、やっぱり下水道で患ったのかな」
 だとしたら、自分も用心しなければならないが。
 オースターは、そろそろ興味が失せてきた様子で違う話題に移る同級生を見つめながら、ホロロ族のことを考える。
 戦後、異国から逃げてきたホロロ族。
 下水道掃除夫を任され、市民から「ドブネズミ」と馬鹿にされながら、人々の衛生環境を人知れず守っている。
(いったん興味がわくと止まらないや。すっかり下水道掃除夫に関心がわいている)
 彼らの姿を思いだそうとすると、真っ先に浮かぶのは、汚水をものともせずに作業に取り組み、危険も省みずにぬめり竜に挑んだトマの精悍な横顔だった。
(僕も、あんな勇敢な男になれるだろうか)
 公爵家を存続させるという目標しか持たない「空っぽ公爵」などではなく、自分がなすべきことに全力を注げる、そういう中身の詰まった男に。
(そうなればきっと、なにもかもがうまくいく)
 そうすればきっと、母上も――。

「あ、塔の歌だ」

 誰かが言った。
 同級生たちは一斉におしゃべりをやめ、両手の指を組んで祈りはじめた。
 オースターもまた目を伏せ、塔からの歌声に感謝を捧げた。


 腕にはあいかわらず、鳥肌が立っていた。

第二章「ふたつの公爵家」へ

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