喉笛の塔はダミ声で歌う

第13話 雨の午後

 大粒の雨が、ばちばちと窓ガラスを打ちつける。
 窓から見える学園の中庭は灰色に煙り、いつもは木々の向こうに見えるはずの〈喉笛の塔〉もすっかり姿をくらましていた。
 オースターは窓から顔をそむけ、目の前の便器をぼんやりと見つめる。

『昨日未明からの降雨により下水道内の水位が上昇したため、本日の職場体験学習を中止とする』

 衛生局からの電報が、寮の受信機に届いたのは今朝のことだった。
 それに従い、オースターは午後の授業を自習にすることにした。
 ほっとしているのか、落胆しているのか、正直、自分でもよくわからなかった。
(ほっとしているんだとしたら、僕は最低だな)
 けれど、どういう顔でトマに会い、どんな話をすればいいのか、一晩考えてもわからなかったのだ。
(僕はずっと、ランファルドの人間であることを誇りに思ってきた。ううん、誇り高きアラングリモ公爵家の嫡子として、誇りをなによりも重んじてきた)
 けれど、あの首輪――。
 人間に番号を振り、地下で生活させ、下水道で労働をさせているという事実。
 誇りとはほど遠いその現実を、オースターは昨日からどうしても受け入れられずにいた。

「オースター。それも職場体験の一環なの……?」

 外からかかった声に、オースターはブラシを手に背後を振りかえった。
 学生寮のトイレの出入り口には、寮生が群がっていた。突然トイレ掃除をはじめたアラングリモ家の嫡男を戦々恐々と見守っている。
 声をかけてきたのは、仲のいい同級生のひとり、オルグだ。
「うん。考えてみたら、トイレ掃除の仕方って知らないなあと思って。でも、ぴかぴかで磨くところがないんだよね」
 オースターは改めて陶器製の便器を観察する。
 白く滑らかな表面には、多色模様があしらわれている。座る部分は木製で、臭気があがってくるのを防ぐための蓋がついている。蓋の取手は純金だ。
 寮の管理部に確認したら、これらは専任の掃除夫が毎日磨き、民間の業者が定期的に点検をしてくれているとのことだった。
(吐き気がするたびに駆けこんでいたトイレがいつも清潔なのは、誰かが掃除をしてくれていたからなんだ)
 ばかみたいだけれど、本当に気づいていなかった。いや、知ってはいたけれど、きちんと認識はしていなかったのだ。
 トイレを誰かがきれいにしていることは知っていた。けれど、それが誰かは知らなかったし、知ろうとしたこともなかった。
 自分が排泄したものが、トイレを伝って下水道に流れていくことだって知っていた。けれど、その下水が流れていく先がどこかは知らない。その下水道を維持してくれているのが、ホロロ族という異民族だということも知らなかった。
 そして、ホロロ族のことも――。

『どうしてだよ。なんでこんなむごたらしい悲鳴を毎日聞きつづけて、あんた、そんな平然としていられるんだ?』

 オースターは顔を曇らせる。
 どうしてトマは、〈喉笛の塔〉の歌声のことを、悲鳴だと言ったのだろう。
 どうしてそのことで、あんな風にオースターを責めたのだろう。

 まるで〈喉笛の塔〉を哀れんでいるかのような口ぶりで。

「おい、オースター。寮生がトイレを使えなくて困っているぞ。なにをしている」
 オルグの背後から大柄な体躯を覗かせたのは、遠戚のジプシールだった。
 オルグがオースターの言葉をそのまま伝えると、ジプシールは筋肉質な両腕を胸の前で組んだ。
「ああ、下水道掃除夫なりの自習というわけか。我々も今日は自習だ。斜行トラム線が運休したらしくてな、出勤できない」
「今日は二学年全員、自習になったらしいよー。職場体験学習の進行に差が出たら不公平だからって、さっき先生が」
 へえ、とうなずき、オースターはふたりを見上げた。
「あのさ……変なこと聞くけど、ジプシール、オルグ、君たちは〈喉笛の塔〉から聞こえるあの歌を聞くと、鳥肌がたったりする?」
 オルグは小さな目をまん丸にした。
「そりゃそうだよう。オースターもぞわってするでしょう?」
「うん……あれって、なんで鳥肌がたつのかな」
 オルグとジプシールは顔を見合わせた。答えたのは、ジプシールだ。
「バクレイユ博士の解説では、電波の影響だとかなんとか……そういう話ではなかったか? すまないが、電気の仕組みはさっぱりだ」
「あれ、ジプシールの職場体験学習先って電気自動車の設計士じゃなかったっけ」
「うむ、憧れだけで安易に職を選ぶべきではないという得難い教訓を得た。まったく有意義な体験学習となっている」
 オルグが「えええ……」と顔を引きつらせ、オースターは「君らしいや」と苦笑した。
「そら、もういいだろう。早く出てやれ。トイレを使いたくて右往左往している奴がいるぞ」
「あ、待って。もうひとつ聞いていい?」
 去りかけたふたりの背中に、オースターは問いかける。
「あの塔の歌声……あれを『悲鳴』だと感じたことって、ある?」
「ない」
 迷いもなく言い切って、ジプシールは顔をしかめた。
「が……正直、歌だと思ったこともないな。語弊があることを承知で言うならば、アレを耳にするたび、俺は不愉快な気分になる。ずいぶんと慣れたものだがな。しかしオースター、それはどういう意図での質問だ?」
 オースターは答えに困ってうなる。
「オースターがなんでまたそんなことを気にするのかわからないけど……」
 オルグが背後で内股になって縮こまっている寮生を振りかえって言った。
「いま悲鳴をあげたいのは、後ろの彼だと思うよ?」


 午後の遅い時間になり、雨はいよいよ激しさを増す。オースターは横殴りの雨から逃げるように回廊を走り、図書館に飛びこんだ。
 日差しの射しこまない館内は暗く、読書机の電灯が点々とともっているのが目に留まる。机について勉強をしたり、本を読んでいるのは、ほとんどが体験学習中止を受けて暇になった同級生のようだった。
 オースターは書物がぎっしりと詰まった本棚を見上げ、背表紙を指でなぞった。
(考えてみたら、僕はあの塔のことだってなにも知らないんだ)
 あんなに身近な存在だというのに。
(あの歌を聞くたび、ぞくっとして、もやもやした気持ちになってきた。でも、そういうものだと思っていたから気にしたことなかった)
 自習なのだから、下水道のことを調べるべきだ。そうでないならば、ホロロ族のことを調べてみるのもいい。
 けれど、オースターの目はいつの間にか〈喉笛の塔〉に関する書籍を探している。
(なんで、塔の歌を聞くと、鳥肌がたつんだろう。なんでトマは、塔からの歌を聞いて『悲鳴』と言ったんだろう)
 そして自分は、どうしてそのことにこれほど引っかかりを覚えているのだろう。
 指が一冊の本を探しあてる。『喉笛の塔――その建造の歴史』。
 ランファルド大公国を象徴する発電所だというのに、塔をタイトルに冠した本はそれだけだった。探し方が悪いのだろうか。
 その場に立ったまま、オースターは怖いものを覗くような気分で表紙をめくる……。


 喉笛の塔。
 その発電システムを開発したのは、バクレイユ・アルバス博士。
 上流階級出身者でないにもかかわらず、今や自由に大公宮を出入りし、大公殿下の傍らに立つことまで許された、稀代の天才科学者だ。
 ランファルド大公国の片田舎で生まれた彼は、若いころから科学大国フラジアをたびたび訪れ、先進的な科学技術を習得してきた。戦時中も軍人のひとりとしてフラジアに赴き、科学兵器開発などを手伝ったとされる。
 ランファルド大公国に戻ってきたバクレイユ博士が、〈喉笛の塔〉の建造を提言したのは、戦後まもなくのことだ。
 六歳でランファルド市に移住したオースターも、建造中の塔が次第に高くなっていくさまを、圧倒されて見ていた記憶がある。
 そして着手からわずか一年後、大公宮のそばに白亜の塔がそびえたった。

 写真が載っている。
 しかめ面をした長身の博士と、大公の赤いマントを羽織った老齢の大公殿下とが、並んで巨大な装置の前に立っている。
 写真の下には「除幕式にて」と簡潔な説明文が書かれていた。
(そういえば、僕も式典みたいなものに参列したっけ……)
 塔のそばに設けられた簡易舞台で、なにかしらの式典が開かれた気がする。子供には退屈な式典だったせいか今まで忘れていたが、写真を見て思いだした。
(そうだ。大公殿下と博士がふたりで、操縦桿みたいなものを操作したんだ。装置が作動して、集まった人たちから歓声がわきおこって、それで……)

 それで、その歓声が、一瞬でやんだ。

 静まりかえった式場に満ちたのは、奇怪な音。
 ぞっと背筋が凍りつき、総毛立った。
 すごくすごく嫌な音だ――本能的にそう思って、幼いオースターは耳を塞いだ。周囲を見渡すと、集まった人々も青ざめ、耳を塞ぎ、あるいは逃げださんばかりに後ずさりしていた。
(そういえば、発電所が動きはじめたばかりのときは、市場で「防音耳当て」や「万能耳栓」が流行したっけ)
 それほどに〈喉笛の塔〉が放った音は、人々の三半規管に名状しがたい不快感を与えたのだ。
 大公宮には、市民からの不安の声が次々と届いた。「あの音を止めさせろ」とプラカードを持った市民が通りを練り歩いた。当時、電気は今ほど当たり前にあるものではなく、特に迷信深い老人たちは「呪われる」と言って嫌がった。
 騒ぎたてる市民の前で誇らしげに説明をしたのは、バクレイユ博士だった。

 曰く、あの神秘なる音こそが、電気の源である、と。
 音は、発電装置から発せられるものだという。発せられた音の塊は、円筒形の塔の内部で何千回も反響を重ね、莫大な〈振動エネルギー〉を生みだす。〈振動ネルギー〉はすぐさま〈電気エネルギー〉に変換され、送電ケーブルを伝ってランファルド市の各所に送られる。
 それが〈喉笛の塔〉の仕組みなのである、と。

「この音こそが、電気を生みだしているのだ。この音こそが、疲弊したランファルドを復興へと導くのだ。だが市民よ、それでもなお恐ろしいと言うならば、こう思えばよい。これはいわば大公殿下への賛歌であると。〈喉笛の塔〉は間違いなくランファルド大公国を繁栄へと導くものだ。それも未来永劫に。感謝の祈りを捧げこそすれ、恐れる必要などなにもないのだ」

 大公殿下から絶対の信頼を受けているバクレイユ博士。
 その博士が、「これは大公殿下への賛歌である」と言えば、貴族はもう不満を口にすることはできない。
 まずは元老院が、次いでそれに続く貴族たちが、「賛歌」が聞こえるたびに、感謝の祈りを捧げるようになった。その姿は新聞各社に取りあげられ、市民の間でも「塔が歌う」たびに祈りを捧げるのが慣習となった。
 そしてバクレイユ博士は、「塔はランファルド大公国を繁栄へと導く」という言葉どおり、次々と電気を用いた機械を発明していった。そのたびに人々の生活は豊かになり、いつしか人々は「歌」がもたらす不快感を忘れ、消えぬ怖気にも、鳥肌がたつことにも、あっという間に慣れていった。
 いまや生活のあちらこちらで電気が使われ、電気のない生活を想像できる市民など、誰ひとりいなくなったのである。


(あれは、歌じゃないんだ)
 本を読むうち、オースターは奇妙な気分になった。
 歌だ、と思っていたのは、バクレイユ博士が当時、あの音を「賛歌だ」と言ったからのようだ。小さいころから歌だと思いこんできたが、確かに客観的に考えるとあの音はとても「歌」とは言えない。
 表現のしようのない音なのだ。音そのものは美しい気がする。高く澄んだ、笛のような音。けれどそれを聞くと、耳を塞ぎたくなる。たまらなく不愉快で、顔をそむけたくなる。
 それでいて、どこか心のうちにわきおこる、優越感のようなもの――。
(でも、トマ、やっぱり「悲鳴」には聞こえないよ……)
 ふいに、雨音が強まった。オースターは顔をあげ、そういえば今日は雨音のせいか一度も〈喉笛の塔〉の歌を聞いていないことに気づく。祈りを捧げた記憶もなかった。
(そういえば、昨日トマは祈ろうとはしなかったな)
 これまで下水道で何度も〈喉笛の塔〉の歌を聞いた。そのたびに祈りを捧げてきたが、傍らのトマはどうしていただろう。祈るときには目を閉じるから、トマが祈りを捧げていたかどうか確認していない。
(どうして首輪をはめさせられているのか。なんで地下で生活をさせられているのか。きっとなにか事情があるはずだ)
 あったとしても、そんなことを強制させられているトマが、大公殿下に感謝の祈りを捧げる理由はないだろう。
 貴族は嫌いだ、と言っていた。嫌いじゃないわけないだろう、とも言っていた。
 自分のことを、家畜だ、とも。
 ひどい気分だ。オースターはため息をついて本に視線を戻し、むしゃくしゃした気分でページをめくり、そして、

「……ん?」

 まじまじと、あるページの、ある写真を凝視する。

(これ……、ここに写っている人って……)

「それ〈喉笛の塔〉の本?」
 とつぜん視界いっぱいに顔が現れ、オースターは危うく声をあげかけた。
「あはは、驚かせちゃった? ごめんごめん。ずいぶん集中していたねえ」
 茶目っ気たっぷりに笑ったのは、分厚い眼鏡をかけた同級生コルティスだった。
「学者先生かあ、びっくりさせないでくれよ」
「びっくりしたのはこっちさ。スポーツ万能、勉強無能なオースター君が図書館なんて意外な場所にいるから、天変地異の前触れかと思った」
「無能はひどいや。否定できないけど」
 ぶすっと答えるオースターに、コルティスは「冗談だよ」と笑った。
「で、なんでまた〈喉笛の塔〉? 君の体験学習先は下水道だろう?」
「そうなんだけど……」
「まさか例のトマとかいう掃除夫に嫌気がさして、ぼくの職場を奪いとろうってわけじゃないよね」
 オースターは目をぱちくりさせる。
 コルティスは得意げに胸を張って、分厚い眼鏡をくいっと指で押しあげた。
「忘れちゃった? 僕の職場体験学習先、〈喉笛の塔〉監視所」
 オースターははっとして、思わずコルティスの腕にしがみついた。
「コルティス、ちょっと聞きたいことがあるんだけど!」
「しーっ、静かに。図書館だよ」
「これ。この写真を見てほしいんだ。それで、これ……あの、ええと……これって、なんの写真?」
 なにをどう聞いたらいいかわからずに、しどろもどろになって問うと、コルティスは本に顔を近づけた。
「〈喉笛の塔〉建造中の写真だね。背景に写ってる塔、まだ建造途中だ。未完成の塔を前に、建築にたずさわっている人たちが記念撮影しているって感じかな。ほら、中央にバクレイユ所長が写ってる」
「そこに、下水道の掃除夫が写っている理由って、なにか想像つく?」
「掃除夫?」
 オースターは、十人ばかりの人物が写った写真の中央、バクレイユ博士の隣でにこやかに笑っている小柄な人物を指で示す。
 古い写真だ。画像が荒い。
 それでも異国然とした浅黒い顔や、頬の刺青は、はっきりと写りこんでいた。

「これ、下水道掃除夫のひとり――ラクトじいじだ」

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