小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.006 6



 誰かが、声をあげて泣いていた。
 呼吸ができないほどの嗚咽をあげながら、全身全霊で泣きつづけている。
 それほどまでの慟哭を、ウェイはジャンク映画の中でしか見たことがない。
 映画の中では、誰もがよく泣いた。泣いて、わめいて、鼻水まで垂らして、大切な物を失った悲しみと全身で戦っていた。
 ――ああ、夢の中でまで、自分は過去の世界に逃避するのか。
 自嘲気味に思いながら目を開けると、すぐ傍らで、抱えた膝に顔を埋めて泣く子供の姿があった。
 ウェイは鉛のように重たい右手を、震わせながら伸ばす。
 痛ましく泣く子供の姿があまりに哀れで、早く泣きやんでほしかったのだ。
 指先が、ひんやりと冷たい黒髪に触れる。
 ロブの家にいる犬型の機械動物にするように無造作に撫でると、子供はびっくりしたように泣きやみ、ぽかんとウェイを見下ろして――、


 次の目覚めは、あまりに明瞭だった。
 グリーンの視界に映るのは、椅子に両膝を抱えて座り、自分に顔を向けるサングラスの青年だ。
 ずいぶんとひどいなりをしている。ヒョウ柄の円形サングラスはレンズにヒビが入り、口端には凝固した血がこびりつき、サングラスのフレームが当たったのか、こめかみも切れて血を流していた。
 黒髪も、乱れている。
 だが、その原因は、考えたくもないが、ウェイ自身の右手だ。
 凍りついて、されるがままになっていた青年は、ふと眉をしかめる。
「……起きたのか? それとも、寝惚けているのか?」
 もちろん、寝惚けていたのだ。
 でなければ、泣いた様子もない、それも大人の男に対して、誰が頭を撫でたりするものか。
(というか、こいつ、知ってる)
 ウェイはこの青年に、二度、会ったことがあった。
 こいつは、アニーの店で会ったあの変質者だ。
「寝……ぼ、けた……」
 かすれ声で答えるにはあまりに情けない返答をし、ウェイは手を青年の頭からどかそうとする。だが、腕に力が入らず、うまく動いてくれない。
「…………」
「…………」
 青年はしばし無言でその決死の努力を眺めたあと、溜め息ひとつ、ゴミでも払うようにウェイの手をのかした。助かる。扱いは不本意だが。
 ウェイは、改めて青年に目をやった。
(ここは、フレデリック兄弟の隠れ家のはずだ)
 そこに見覚えのある青年がいる意味を考える。
(答えは、せいぜい二つだな……)
 青年がフレデリック・ファミリーのひとりであるか。あるいは、フレデリック三兄弟のうち、世間に面の割れていない三男坊であるか。
(こんな奇抜な存在感を放っている奴が、たかだかファミリーの一員なわけあるか)


 ――三男坊に拾われたのならば、ひとまずは安心と言えるじゃろう。愛玩動物を可愛がるように慈しんでくれるはずじゃて。


 そうだ、それに情報屋クグカも「三男坊」と言っていた。
(あれは夢だったのか? 情報屋クグカがなぜ俺の救出に――)
 あまりに多くの夢を見た。散り散りの夢は、現との境界が曖昧で、ウェイにはどれが現実に起きたことなのか判別がつかない。
(体の回復に努めろ、動けるようになったら必ず助ける、そう言っていた)
 得体の知れない情報屋の言葉を信じるのと、目の前の青年を懐柔するのと、どちらが生存確率が高いのだろうか。
 ウェイは身を起こそうとする。だが、腹筋に力を入れただけで血の気が引き、強烈な吐き気が襲いかかってきた。
 気持ち悪い。だが、まさかフレデリックの前で吐くわけにはいかない。
 そう強がった矢先、顔の前に洗面器が置かれた。
「もうさんざん吐いたあとだ、胃液も出ないだろうけどね」
 ああ、それはまた最悪な話だ。
 ウェイはすがるように洗面器に顔を近づける。だが、青年の言う通り、口からは胃液の一滴も出てこなかった。
「君は死にかけていた。というより、死んでいた。生き返ったのは、奇跡に近い。無理に動かず、しばらくはこのまま寝ている方が賢明だ」
 そっけない口調だ。そこに、ウェイは違和感を覚える。
 以前会ったときは、腕に抱えた鉄人形に話しかけ、やたらと陽気に振るまっていたというのに。
「……あの、人形……は」
 問いかけたウェイの視線が、部屋の隅に置かれた一脚の丸テーブルで止まった。
 遠くて良く見えない。だが、布を敷いた籠の中に横たわっているのは、あのときの人形ではないだろうか。
「――壊れた。僕が迂闊だったせいで。早く直してやりたいけど、手元に材料がない」
 淡々と答え、青年はわずかに眉を寄せた。
 籠を見つめるその横顔は、どこか途方に暮れているように見える。
(あれは、夢だったはずだ)
 だが、なぜか、夢の中で泣きじゃくっていた子供と、目の前の青年とが重なってならない。
 ふと、青年がこちらを振りかえり、口端を皮肉げに笑わせた。
「ああ、そういえば、君も同じだねえ。ミッキーも、君も、左腕を失った。君の左腕パーツはどこへいったんだい?」
 ウェイは息を飲み、奥歯を噛みしめて動揺を打ち消す。
「ハドソン川の畔に、埋めた……気がする」
「埋めた? ……ふぅん」
 ウェイは、それきり深く追求してこない青年を見つめる。
 興味がないのか、それとも――ウェイがそうした理由に見当がついているのか。
 恐れが身の内から這い上がってくる。額に汗が滲み、呼吸をするのが難しくなる。
 ウェイはおののきに震える眼で、青年を見上げた。
「治療……は、誰が……」
 聞こえなかったのか、青年は無言でウェイを見つめる。
 意味ありげな目線に、心臓がどくどくと高鳴る。
 枕元のモニタには、ウェイの切羽詰まった脈拍が、あからさまな波形となって現われていた。


「――見た、のか?」


 その問いかけは、まるで自分以外の誰かが呟いたように遠くに聞こえた。
 青年は答えない。死にかけの虫を弄ぶような意味深な沈黙に、徐々に苛立ちが募っていく。
「なにを?」
 やがて青年はそう呟いた。
 なにを? なにを。なにを――。
 答えられずにいると、青年は視線を反らし、枕元のモニタを叩いた。
「治療は、この治療機が。僕は医療は専門外だ、死んだ人間を蘇生させるなんて真似できないからね。全部、この子にお任せパックだ」
「全部……」
「そう。君をベッドに横たえ、服を脱がすところから全部。見ていたかと言われれば、答えはノーだ。君が機械に治療されるさまにはまったく興味がないからねえ」
 ウェイは唾液を飲みこみ、治療機を上から下まで眺める。最新モデルではないが、確かにこの治療機ならば、青年が言った通りの動作が可能だ。
 安堵のあまりに、吐きだした息が震える。


 ああ、よかった。
 ならば、この青年はなにも気づいていない。
 ウェイがこの六年間、抱えつづけてきたモノを。
 中古屋の仲間も、ロブも知らない、ただアニーとだけ共有している――あの秘密を。


 半分に切ったオレンジに集る黒蝿。
 葉脈を伝って流れる白い血。
 琥珀に閉じこめられた虫が足をばたつかせる。
 黒い花が歓喜に赤い花弁を開く。
 骨董人形に硝子の瞳を入れる顔のない職人。
 機械でできた丘で踊る大きな猿。
 生き埋めにされた殉教者の笑い声。


 意識が混濁する。
 濁流のような眠気に襲われ、ウェイは目を閉じかける。
 だが、そのときだった。


 探して。
 わたしと一緒に。
 決して流されない――。


「ニナ……!」
 夢の底に落ちかけた意識が、否妻に打たれたように覚醒した。
 ニナ。機械の墓場で拾い、ウェイが保護することを決めた、あの人形のような少女。
「何日……、ここに来て、何日、が……」
 狼狽えるウェイを、青年は不思議そうに首をかしげて見下ろす。
「クイーンズ・ボロ橋が爆破されたのは、五日前だ」
 五日。――五日だって?
 そう、確かあの日、ウェイはユンファとともに表世界まで買い物に出たのだ。ニナの服を買うために。ニナはマンションに残した。「外は危ないから留守番だ」と言って。
 買い物のあと、マンションには戻らず、修理を終えた中古品をクイーンズ・ボロ橋で商売する運送屋まで届けた。買ったニナの服はユンファに預け、彼女に一度だけ、マンションの部屋に入れる権限を与えた――。
 あれから五日。
 ニナは、簡単な料理ひとつ、つくれない。
 激しい焦りが、体の底から湧きあがってくる。衝動に突き動かされ、ウェイは鉛のように重たい腕を伸ばし、青年の腕を掴んだ。
 青年は、力のまるで入らない重傷人の手を見下ろす。
「ニナは……飯は。あいつ、自分で、買い物ひとつできな……い……」
 混乱したまま口走る。
「五日も食べなけりゃ……飢えて……、飯を――ニナに」
 脳裏に浮かぶのは、痩せ衰えていくニナと、部屋に転がる小さな白骨死体。
 不意に、青年が「は」と短く笑った。
 呆気にとられると、ついには声を上げて笑いだす。
「ああ、良かった。僕は今、機嫌が悪い。もし君が一度たりとニナの名を口にしないまま、また意識を失うようなら、この場で君を殺して、死体をニナに届けるつもりでいたよ」
 怪訝に眉を寄せると、青年は笑いまじりの溜め息をついた。
「ニナは無事だ。痩せた様子もなかったし、元気そうだった」
「どこ、で……」
「どこで会ったかと聞きたいなら、『無人超市』で。たまご型のロボットと一緒だった」
 無人超市。では、ニナは自分で外出したというのか。あれほど外は危険だと言ったのに。
 思わず身を起こそうとするウェイの額を押さえつけ、青年はモニタに目をやる。
「もう数日は安静に。どうせ、体はまだろくに動かないけどね。ニナのことは、僕に任せておけばいい。食事をつくれないなら心配だし、今日にでも様子を見てくるよ」
 ウェイは押さえつけられた掌越しに、青年を見つめる。
「言っていなかったけど、僕はニナから君のことを助けるよう頼まれたんだ」
 ニナが――?
 困惑するウェイに、青年は不穏な笑みを向けた。
「改めて名乗ろう、ウェイ。僕はガイ。ガイ・フレデリック。マイケル・フレデリックと言った方が、中古屋には分かりやすいかな?」
 やはりフレデリック兄弟のひとりか。
 ウェイの不安を察してか、ガイは唇を笑みの形にした。
「大丈夫、心配しなくていい。ニナのことは安心して任せてくれ。僕らと敵対関係にある中古屋ならともかく、引きこもりの中古屋君には、僕が何者かなんてどうでもいいことのはずだ」
 確かに、と思う。
 フレデリック・ファミリーとの戦いに加わっていない自分にとって、目の前の青年がフレデリック一味だったとしても大きな問題はない。
(それに、フレデリック兄弟は、女子供には手を出さない主義だ……)
 それは残酷無比なフレデリック兄弟が、最初に現われたときから貫きつづけている周知のポリシーだ。
(だとしたら、少なくともニナに危害を加えることはない)
 ウェイは体から力を抜き、ガイの腕から手を離す。
「……わかった。任せる――」
 言うと、ガイは意表をつかれたように眉を上げた。
「本気? 僕を信用するのか? 自分で言うのもなんだけど、保護者としてそれはどうなんだろうねえ」
 ウェイは笑いそうになる。
「ああ、確かにそうだな……変態野郎。ニナに手出したら……どんな手、使っても……ぶち、のめす」
 ガイはしげしげとウェイを観察し、ふと相好を崩した。
「口だけは達者なようだ、ウェイ」
 思いのほか柔らかな口調に面喰っていると、ガイが深々と溜め息をついた。
「変な男だ。でも君となら、上手いこと共同戦線を張れるかもね。可愛げの欠片もない中古屋と「友人」のふりをしなければならないなんて、心底反吐が出ると思ったけど。まあ、それでも、可愛い二ナのためと思えば……」
 ぶつぶつと独り言のように呟き、ガイは椅子の背もたれに手をかけ、よろめくように立ち上がった。
 具合でも悪いのか、苦しげに息を吐きだし、唇を噛んで呼吸を整える。
「詳しい話はあとだ。僕は疲れた。……シャワーを浴びてくる」
 一方的に言って、ガイは答えも待たずに、ウェイの視界に入らない方へと消える。
 ドアが開閉する音が聞こえた。しばらくして聞こえてきたのは、言葉通りシャワーの音だ。
 ひとりきりになり、ウェイはようやく警戒を解く。
 見慣れぬ天井を見つめ、少しずつクリアになってきた思考で、身体の状況を探る。
 熱はだいぶ下がったようだ。視界の歪みも落ち着いている。全身のあちこちが痛みを訴えていたが、意識を奪うほどではない。
 顔を横に傾け、左肩を見つめる。
 包帯を巻かれた左肩の先には、腕がついていない。
 呼吸が震える。心臓が嫌な感じに捻れる。
(腕が、ない)
 すでに知っていた事実を改めて確認する。
(腕は、ない)
 ウェイは闇色の絶望が慣れて麻痺してしまうまで、繰りかえし、自分に言い聞かせた。
 片腕一本でも――中古屋を続けられるだろうか。


 それからどれだけの時間が経ったのか、ウェイはわずかに眠ったようだった。
 目を覚ましたのは、なにかに違和感を覚えたからだ。
 時計がないから詳細は分からないが、体感では、先ほどのガイとのやり取りから一時間は経過している。
 だというのに、水の流れる音がひとときもやまない。
 ウェイは右腕を伸ばして、ベッドサイドを掴んだ。安定していた視界が捻じ曲がる。吐き気をこらえながら時間をかけて身を起こし、シャワー室らしきドアに「おい」と呼びかける。
 力ない声だ。おそらくは聞こえてはいないだろう。案の定、返事はない。
(長風呂なんだろう。放っておけ)
 そう思うが、先ほどのガイの様子が妙に気になった。
 チアノーゼが出ていたのだ。唇は紫に変色して、顔は真っ青になっていた。
 具合が悪かったのか、怪我でもしていたのか。
 ベッドと治療機はウェイが占領している。仮に体調が悪いのだとして、ガイにはほかに治療の術はあっただろうか。
「……くそ」
 ウェイはまるで言うことを聞かない体を、少しずつベッドの端まで寄せる。薄掛けから出した足を床に下ろして立ち上がりかけた瞬間、膝があっけなく砕け、糸の切れた人形のように床に倒れた。
 視界が回っている。鼻の奥でつんと血の匂いがし、胃液が喉元までせり上がってくる。
 それでも辛うじて動く右腕を使って、シャワー室まで這っていく。
 気の遠くなるような時間が経った。シャワー音はまだやまない。ドアまでたどりつく。開閉パネルははるか頭上だ。だが、もう立ち上がるだけの力はない。
(なにしてんだ、俺は)
 思いながら、ドアを叩く。応答はない。
 いつも持ち歩いている工具類はない。室内を見渡し、近くの棚まで這っていく。丁寧に並べられた玩具の中から、十字軍をモチーフにした青銅の置物を見つけて取りあげる。手のひらサイズの騎士が右手に掴んでいるのは、着脱可能な剣だ。爪楊枝ほどの長さのそれを手に、ふたたびドアまで這っていくと、ドアの下部にある小さな穴に差しこんだ。
 あまり知られていないが、ドア下部にある穴の奥には、停電などの非常時に手動でドアを開閉するための装置がある。剣の先端で装置を押せば、手動での開閉が可能となるわけだ。
(これで、あいつが普通にシャワーを浴びてたら、俺も変質者決定だな)
 ウェイは自嘲気味に笑った。剣が装置に触れる。押しこむと、シャワー音が高まると同時に、ドアにわずかな隙間ができた。
 隙間に手をかける。右に引くと、ドアが不器用に開かれ、水しぶきが飛び散った。
 ぐらり、とこちらに倒れてくるものがあった。
 濡れた床に転がったのは、ずぶ濡れになったガイの裸体。
 ウェイは呆気にとられて、横向きに倒れたガイの顔を見つめた。
 ガイは、サングラスを外していた。
 これまでの人生で見たこともないほど、きれいな顔立ちをしていた。
 東洋系の幼い顔立ちは、銀幕の向こうから飛びだしてきたみたいに整っている。濡れた前髪の間から覗くのは、驚くほど長い睫毛。華奢な体は、古代彫刻のように均整が取れ、古い傷や黒子すらも欠点になっていない。
 なんという破壊的に美しい青年――。
「……おい」
 ウェイは我に返って、ガイに呼びかけた。
 瞳は固く閉じられ、倒れた衝撃にも開くことすらない。
「しっかりしろ」
 脈を診ようと触れた首筋は、小刻みに震え、恐ろしく冷たい。
(水を浴びてたのか? 真冬になんて真似を)
 そこで気づく。ガイの胸から腹部にかけ、赤黒い痣が広がっていた。
 肋骨の辺り。骨折だろうか。臓器は無事か――。
 トン、とドアを叩く音がした。
 ウェイはぎくりとする。
 顔を上げ、遊園地のような室内を見渡すと、シャワー室とは別の、おそらく廊下か外に通じているだろうドアを見つける。
「開けろ、ガイ。開けねえとぶち破るぞ」
 聞こえてきたのは、くぐもった低い声。
(勘弁しろよ)
 限界寸前の自分の体と、ピクリとも動かないガイの裸体を交互に見つめ、ウェイは呻いた。







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