小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.005 6



「じゃ、行ってくるから」
 自分用にと買っておいた大量の非常食を、ロブと一緒にウェイの部屋へと移し、ニナにひとつひとつの調理方法を説明する。それを終えて、ニナがスプリングの壊れたソファに腰かけるのを見届けてから、ユンファは身を翻した。
 ロブが天井に向かって声をかける。
電子執事バトラー。もし三日経っても、俺もユンファも戻ってこなければ、アニーにニナの保護を求める連絡を入れてくれ」
 アニーという名を聞いてユンファは顔をしかめるが、不満は喉の奥に仕舞いこみ、電子執事の『了解しました』という無機質な応答をただ黙って聞いた。
 玄関に向かうユンファに続いて、ロブもまた部屋を横切った。
「……ん?」
 ふいにロブが、ガラステーブルの上に何かを見つけて立ち止まる。
 吸い殻を載せたままの灰皿を重石がわりに置かれていたのは、油染みの浮いた小さな紙切れだった。
「それは、仕事の依頼リスト」
 なにかの手がかりになるかもしれない、と紙切れを手にとったロブを見て、ニナがぽつりと呟いた。「友達」の意味すら辞書を引かないと分からないニナの口から飛び出た予想外の言葉に、ロブもユンファも面喰う。
「ウェイがそう言っていたの。「屋台の防犯強化の依頼が何件か入ってくるようになった。今回の分で六件目だ」って。それは「仕事の依頼リスト」だって」
「屋台の防犯強化……」
 ロブは低く呟き、紙切れをニナに見せた。
「持っていってもいいか? 嬢ちゃん」
 ニナがこくりとうなずくのを見て、ロブはそれをダウンジャケットの内ポケットにしまった。
 ピピピ。
 ニナの帰還に気づいた掃除用ロボットEGGが、隣の寝室から出てくる。人形のように細いニナの足にまとわりつくエッグの頭を撫でながら、ニナが唇を開いた。
「いってらっしゃい。ユンファ、ロブおじさん」
 ユンファとロブは顔を見合わせた。ジャンク映画の中でしか見ないような「いってらっしゃい」の挨拶にまごつきながら、二人はどうにかこうにか答えた。
「……いってきます」

 不安定に明滅する明かりが、愛嬌も糞もない無機質なエレベーターホールを照らしだす。
 床に使われている素材は、防滑性塩ビシート。なかなか昇って来ないエレベーターに苛々し、ブーツの爪先でとんとんと床を踏み鳴らすが、音はさほど響かずに、弾力のある床面に吸収された。
「怖いのか?」
 ロブがにやにやと笑って、ユンファを見下ろす。
 ユンファはぴたりと靴を鳴らすのをやめ、短く溜め息をついた。
「悪い?」
 素直に答えて、ポシェットに仕舞った火炎銃のグリップを指で確認する。武器が手の届くところにあると思うと、少し気持ちが落ち着く。それと同時に、武器を持たねばならない状況なのだという実感がわき、いっそう体が震えあがる。
 ようやく来たエレベーターに二人で乗りこみ、無言で、点滅する階数表示板を見上げた。
 218階から、遅々とした速度ながら、徐々に数字が減っていく。それとともに、緊張感が喉の奥からせりあがってくる。
 10……5、4、3、2、1――。
 容赦ないカウントダウンが終わり、「チン」という軽い機械音がして、ドアが開いた。
 玄関ホールに立ったユンファは、もう一度、ポシェットに仕舞った火炎銃のグリップを指先で確認した。と、その腕をふいにロブが掴んで、ポシェットから引き剥がした。
「ちょ、なにすんのよ!」
「お前、人を殺したことはあるか?」
 ユンファは言葉に詰まり、ゆるゆると首を左右に振る。
「本当に怖いんだろ? なら、お前は銃を握るな。危険が迫った時は、武器で応戦しようなどと考えるな。逃げることだけを考えろ。武器を扱ったことのない人間が、とっさに武器を操ろうとしても、まずまともには扱えない。お前はただ、うまく逃げることだけに専念するんだ」
「そんなこと言ったって……!」
「俺が守ると言っただろ? 手荒いことは、男に任せとけ」
 ロブは小刻みに震えているユンファの手首から手を離し、親指でくいっとマンションの出口を示した。
「行くぞ」
 ユンファは頬を紅潮させ、唇をへの字に引き結ぶ。
「な、なによ」
 ぶつぶつと文句を垂れながら、しかしユンファは躊躇いながらも銃のグリップから手を離した。


 黒煙の燻る無人の大通りを、物陰から物陰へと駆ける。
 屋台街――ほんの数日前まで、この辺りには、派手なネオン看板を掲げた屋台が並んでいた。白い湯気で煙る屋台の群れ、食欲をそそる肉汁の匂い、なるたけ安い値段で大盛りの飯を欲しがる客と、なるべく高い値段で少量の飯を売りたがる屋台主との、罵声まじりの値段交渉。屋台街を見下ろす娼館の二階バルコニーには、女娼や男娼が立ち、眼下を行き交う人間たちに、競い合ってハンカチを落としては、誘惑のウィンクをする……。
 今やその賑わいは、過去のものだ。屋台のかわりに並んでいるのは無残な瓦礫の山。白い湯気のかわりに燻っているのは、有害物質を含んだ黒煙ばかり――。
「……ロブ、あれ」
 瓦礫の陰に身をひそめたユンファは、変わり果てた屋台街を見渡して目を見開いた。
 指さした先に見えるのは、一軒の屋台。
 屋根に「神龍シェンロン」と表示されたホログラフィ看板を掲げた、中華料理屋の屋台。
 屋台の奥に人影が見える。耳が痛くなるほどの静寂の中、中華鍋をお玉で叩くカンカンという音や、野菜を炒めるジャッという音が響き渡る。
 ロブは「あれは」と呟き、ジャケットの内ポケットをがさがさとやって、ウェイの部屋で見つけた油染みだらけの紙切れを取りだした。
「それ、なんなの? ニナは「仕事の依頼リスト」って言ってたけど」
 人目につかぬよう、なるたけ身を縮めながら、ユンファは小声で問う。
 ロブは、目深に下ろしたフードが落とす影の下、なにやら呆れた表情を浮かべていた。
「そうか。屋台の改造を希望する依頼者のリストだったのか。……まったく、ウェイの野郎。言わんこっちゃない」
 白々と溜め息をつくが、その口許に浮かんでいるのは、馬鹿な友人を想う愛情のこもった笑みだった。
「屋台の改造ってなによ。ウェイがなんだってわけ」
「フレデリック兄弟が第三裏通りに帰還した翌日だったか……あの時も、廃墟と化した屋台街で、一軒だけ、中華料理屋台が商売を続けてた。俺が来たとき、ちょうどウェイの奴が、店主と話しこんでいてな。店主は「飯がなけりゃ飢え死にする人間が出る」ってんで、豪胆というか、商魂逞しいと言うべきか、銃撃される危険も顧みずに屋台を開いてたんだ。それを知ってウェイの奴、「屋台を、防火・防弾対策ばっちりに改造してやろうか」って提案を」
 言って、ロブは改めて紙切れを見つめる。
「俺はあいつに言ってやった。あの屋台の改造なんてしてみろ、他の屋台の連中もお前のところにやってくる。もしかしたら、フレデリックもお前に目をつけるかもしれない、ってな。だが奴は聞かなかった。……そら見ろ、結果はこの通りだ。六件も屋台改造の依頼が来てやがる」
 よく見ると、中華屋台の裏側にも別の屋台が立っているように見える。瓦礫に遮られてはっきりとは判別できないが、他にも数軒の屋台が豪胆にも湯気をあげている様子が見えた。
「あれも全部そうか。こっちの新しい六件と合わせりゃ、十件以上になる。なんてこった」
 ユンファは「ふぅん」と言って、果敢にも商売を続ける同胞の屋台を見つめた。客が来る気配はないが、果たして採算は取れているのだろうか。
「……なんであいつは、フレデリックの討伐に加わらないんだろうな」
 ふと、ロブが呟いた。
 周囲を警戒の目を光らせていたユンファは、しゃがんで地面を見つめているロブの横顔を振りかえった。
「なんでって……なにがよ」
「ずっと不思議に思ってた。あいつは頑ななまでに、フレデリックと関わることを避けている。理由を聞くと「厄介ごとはごめんだ」と言う。なのにその裏側で、あいつはいつも誰かの手助けをしている。あの屋台にしてもそうだし、嬢ちゃんのことだってそうだ。いつも自分から厄介ごとに首を突っこんでいくんだ、あいつは。……矛盾してるとは思わないか?」
 ユンファは眉を寄せ、虚空を睨みつけた。
「あたしは、ウェイがフレデリックとの攻防に参加しないことより、中古屋たちがフレデリックと戦う理由の方が理解できないわ。そもそも中古屋はどうしてフレデリックと戦ってるの。地位? 名誉? まさか正義感からなんて言わないでしょうね? ……あんた、みんなから「英雄」って呼ばれてるんでしょ。教えてよ。あんたは本当に英雄様なの? 誰もが「ヒーロー」と呼び称えるにふさわしいご立派な精神でもって戦ってたわけ?」
 ロブの横顔が、ふと苦しげに笑った。
「手厳しい質問だな……」
 そのまましばらく沈黙し、ロブは孤高に佇む中華屋台を見つめた。
「金のためだ」
 完結な返答だった。
 ユンファは目を見開いた。
「金の……ため?」
 思わず問い返す。ロブは薄く微笑んだ。
「傭兵って分かるか? この世界にまだ「国」と呼ばれるものがあった時代、国と国との間では、たびたび戦争が巻き起こっていた。傭兵ってのは、国や組織に金で雇われ、彼らのかわりに戦争を代行する、フリーランスのソルジャーのことだ」
「そんなの、歴史の授業で習ったわよ。その傭兵がなんだっての」
「フレデリックとの攻防に加わった俺たち中古屋の立場は、傭兵のそれによく似ている」
「……つまり、中古屋は誰かに金で雇われて、その誰かのかわりにフレデリック兄弟と戦ってるってこと?」
 ロブはちらりとユンファを横目で見つめ、口を開いた。
「俺たちの雇い主は、ローガン・ストリップ劇場のオーナー。お前のご主人様だよ」
 ユンファは瞠目し、思わず声を上げそうになり、慌てて両手で口を塞いだ。
「ロ、ローガン? ローガンが、あんたたちを金で雇った? 傭兵として?」
「そうだ。ある日、LENOに行くと、いつもは仕事の依頼リストが表示されるモニタに、ローガンからのメッセージが映し出されてた。「フレデリック兄弟とフレデリック・ファミリーを殺害せしめた中古屋には、表世界の住民権が買えるほどの賞金を支給する」ってな」
「初耳……でも、ローガンはどうしてそんなこと」
「理由は知らん。特に記載されてなかったし、知る必要も感じなかった。……俺の目は、モニタに映し出された「賞金」という文字に釘付けになった」
 淡々と呟き、ロブは武器を握っていない左手で顔を覆い隠した。
「フレデリックにはなんの興味もなかった。連中が第三裏通りで誰を殺し、なにを壊そうがどうだってよかった。興味があったのは、金だけだ。俺は金欲しさに、なんの恨みもない赤の他人を殺すことにしたんだよ」
 自虐的な物言いをするロブを、ユンファは呆気にとられて見つめ、ふいに彼の顔を覆う左手の薬指に、鈍く光る金色の指輪が嵌められていることに気づき、はっとした。
 ――難しい病気じゃない。……ここが表世界で、娘が表世界の住人ならな。
 脳裏をよぎったのは、アンジェラの病について訊ねたときに返ってきた答えだった。
「確か、あんたの亡くなった奥さんも、アンジェラと同じ病気だったって言ってたわよね。表世界の住人ならば、治る病気だったって。金が欲しかったって、もしかしてそのため? 表世界の住民権が買えるほどの賞金って、つまり住民権が買いたかったってことなんじゃないの? 奥さんとアンジェラの病気を治したくて、それで」
 ロブは答えず、武器を右手から左手に移し変え、また右手で構えなおした。
 返答がないことを訝むユンファだったが、ロブの広々とした肩が緊張に強張っていることに気づき、首を振った。
「言いたくないなら話さなくていいわ。前に言ってた「無遠慮に触れてほしくないとこ」ってのが今の話なら、もう訊かない。ただあたしは、中古屋がどうしてフレデリックとの攻防に加わったのか、知りたかっただけで、あんたの傷を抉りたかったわけじゃ……」
 いや、本当は、中古屋のことというよりも、ウェイのことを知りたかっただけなのだが。
 たどたどしく言い訳するユンファを振りかえり、ロブは複雑な面持ちで苦笑した。
「俺が知る限り、他の中古屋の理由も似たり寄ったりだ。ほとんどの連中は金目当て。そうでなけりゃ、名声を欲してた。中古屋はずっと、第三裏通りの住民から「墓場荒らし」と蔑まれてきた。表世界に媚びを売って生きる、ゴミ漁りどもってな。第三裏通りの連中の鼻の穴をあかしてやりたかったんだろうよ」
 ロブはそう言って、第三裏通りの建物の群れを見上げた。
「……いや、この際だ。なにかの縁だと思って聞いてくれ。多分……俺は誰かに話したいんだろう。世間話に興じるような洒落た場所じゃあないし、お前には迷惑極まりない話だろうが」
 確かに迷惑千万な申し出だ。なにしろここは、一触即発の緊迫した空気が漂う危険地帯のど真ん中なのだから。
 だが「嫌」とは言えなかった。実際、秘密主義者の多い中古屋たちが抱える事情が聞けるとあって、好奇心もわいていた。だからユンファは黙って先を促がした。
「金目当て、名声目当てで、フレデリック兄弟に宣戦布告を発した中古屋だったが、フレデリックは簡単に殺されてくれる相手じゃなかった。なにしろあっちは戦うことに慣れたチンピラ。対して中古屋は、武器の製造や改造ならお手のものだが、武器の扱いにはとんと不慣れな機械オタクの烏合の衆だ。だが、幾度もの戦いを重ねるうちに、要領が掴めるようになっていった。……人間ってやつが、どうすれば効率よく殺されてくれるのか、っていう要領がな」
 ユンファは目を瞠って、ロブの過去を見るような眼差しを見つめた。
「殺して、殺して、殺しまくった。だが、フレデリック兄弟に同調する者は次々と現れ、同じように、中古屋を支持する仲間もまたどんどんと増えていった。十人殺せば、百人の敵と仲間が増え、まるできりがなかった。そうこうするうちに、戦いは泥沼化していった。フレデリック兄弟は、私利私欲のためにファミリーを殺害する中古屋を激しく憎み、中古屋もまたフレデリックに対して憎しみの感情を抱くようになっていった。本来、金で雇われた傭兵ってのは、感情とは無縁でなければならない存在なんだがな。プロの傭兵でもない俺たちが無感情なままでいるなんてのは、どだい無理な話だった。共に戦う仲間を殺されて、俺たちの方にも憎しみが芽生えるようになっていき、「金のため」って目的で始めたはずの戦いは、「殺された仲間のため」っていう復讐劇の様相まで呈して、いつしか後には引けないところまで来ちまってた。――そうして、終わりの見えない戦いに明け暮れていたある日、妻が死んだ。ただでさえ病で体が弱っていたところに、心労まで重なっての病死だった」
 ロブは嘆息し、虚空を漂う白い息を目で追った。
「家には幼いアンジェラがひとりきり。アンジェラを守れるのは、もう俺だけだ。側にいてやりたかった。いるべきだった。だが、そうはできなかった。その頃には、第三裏通りの中で「中古屋ロブ」の顔を知らない者はひとりとしていなくなっていた。今さら「やめたい」なんて言える状況になかった。たとえ言えたとしても、ファミリーを何十人も殺し、中古屋の中心的存在にまでのし上がっていた俺を、フレデリックが逃がしてくれるはずなどなかった。いつ、フレデリックの魔の手がアンジェラに伸びるとも限らない。アンジェラを守るためには、戦って、戦って、戦いつづけて、フレデリックを一刻も早く殺すしかなかったんだ。もう賞金なんてどうでもよかったのにな」
 ロブは自嘲するように笑った。
「戦いの最中、フレデリック兄弟の二男ジョニー・フレデリックに言われたよ」


 ――お前らも馬鹿な真似をしたもんだぜ。大人しく墓場で死体を掘ってりゃよかったのに、ローガンみてぇな腐れチキンに踊らされて、英雄気取りとはな。
 ――気づいてるか? てめぇらが下手な手出しをしなけりゃ、こんなに人死には出なかった。てめぇの女房ももっと長生きしたっつってんだよ、ロブ・マーキンソン!!


「返す言葉もなかった」
 ユンファは淡泊に語るロブに圧倒され、ただただ言葉を失った。口など挟めるはずもなかった。あれほど聞きたいと思っていた中古屋の物語なのに、聞いたことを悔やみたくなるような話だった。――静かで、重たい、英雄ロブの後悔。
「やがてからくも中古屋は、フレデリック兄弟をアルカトラズ監獄に送りこむことに成功した。第三裏通りには、元の平穏な日々が戻って来た。住民の誰もが、中古屋が悪夢を終わらせてくれたと喜んだ。中古屋を英雄視し、正義の味方だと賞賛した。だが、本当は違う。いや、確かにフレデリックを追い払ったのは確かだが……中古屋が参戦したことで、戦いが激化したのもまぎれもない事実だ。中古屋が下手に手出しをしなければ、フレデリック兄弟は早々に第三裏通りを制圧し、死者や負傷者ももっと少ない人数で済んでいたんじゃないか? 絶対的な支配者の君臨する第三裏通りは、今ごろ、案外平和な世界になっていたんじゃないか? ……まあ、それはただの「if」の話だがな。そもそも俺たちは誰も、フレデリック兄弟が第三裏通りを制圧しようとした理由すら知らねえんだから」
 ロブは薬指にはめた指輪に、神に懺悔するような力ない口づけを贈った。
「俺にはもう戦う気はない。金は欲しいが、それよりもアンジェラの側にいてやりたい。だが、脱獄を果たしたフレデリック兄弟が俺を許すことはないだろう。連中は今も虎視眈眈と俺の命を狙っている。今度はアンジェラも狙われるかもしれない。俺のせいで。……お前と同じだよ、ユンファ。俺も、怖い。もしも俺が死んだら、アンジェラはどうなる。もしも俺が戦いに巻きこまれている間に、アンジェラが妻のように人知れず死んでしまったら、俺はどうなる……?」
 きっと生きてなどいけない。
 そう喉の奥で呟いて、ロブは深くうなだれた。
「俺は英雄なんかじゃない」
 独りごちて、中古屋は沈黙した。
 そのまま黙って黒煙の燻る音を聞いているようだったが、ユンファがなにも言えずにいると、ロブはふいにいつもと変わらぬふざけた笑みを顔に浮かべた。
「まったく、偽乳の小娘に不安を吐露するとは、よほど俺もまいってるらしいな。忘れてくれ。そんな亡霊でも見たような顔をするな」
「に、偽乳って、このブタゴリラは性懲りもなく……っ」
「怖いと思ってるのが俺だけじゃないと分かって嬉しかったもんで、つい饒舌になっちまった。……ずっと仲間が欲しかったんだ。フレデリックが帰ってきたことを、一緒になって怯えてくれるお仲間が」
 ユンファは口籠る。自分よりも二倍も三倍も体格の良い熊男が、能天気が信条なはずのアメリカンが、ふいに見せつけてきた繊細な一面。動揺して、どう返せばいいか分からなかった。
(ウェイは、仲間じゃないの?)
 そう訊きたかった。臆病さで言うならば、ウェイだって引けを取らないはずだ。なにしろウェイは、フレデリックと戦うことを回避し、ずっと安全なマンションの中で引き篭もっていたのだから。
(いや、違う……)
 ――前回、ウェイをフレデリック兄弟との抗争に巻きこんだのはあなただわ、ロブ。
 耳に蘇るのは、アニーの冷ややかな声。
 違うのだ。フレデリック兄弟との関わり合いを避けて、家に閉じこもっていたはずのウェイは、結局、最後には戦いの列に加わったのだ。それがどういう形でかは分からないが、話を額面通りに受け止めるなら、ロブとアンジェラを助けるために、彼は……。
(そんなの、まるで……ウェイの方が英雄みたいじゃないの)
 友達のために戦ったウェイ。金も欲せず、名声も求めずに、ただ大切な親友を助けるためだけに、望まぬ攻防に参戦した。
 ――じゃあ、ウェイには、友達はいないのね。
 混乱に揺れる脳裏に、ニナが路地裏で零した言葉までが蘇ってくる。
 ――いるじゃない。あのブタゴリラ、親友でしょ。
 ――ウェイと同じ志を持っているひとは、この世界にはいない。
 ユンファは混乱を振り払うように首をぶんと振って、ふと、唇を犬歯で噛みしめた。
(あたしだって、ロブの仲間なんかじゃない……)
 ユンファはフレデリック兄弟が怖いわけではない。前の抗争のときには、ユンファは第一裏通りにいたから、フレデリック兄弟の脅威をまだ本当の意味では知らないのだ。
(あたしが怖いのは、突き刺すようなこの視線)
 屋台の店主とロブのほかに、人影らしきものはどこにも見当たらない。だが視線を感じる。喉を締め付け、手足を絡め取り、裸にひんむいて心の奥までを覗きこむような、数百、数千の視線。
 路地の奥で悲鳴をあげるユンファを見向きもしなかった表世界の住民たちと同じぐらいに、ただ凝視するだけで手出しをしてこない第三裏通りの人間たちの視線が恐ろしい。
 だって、どんなに怖い目に遭っても、この視線の主たちはユンファを守ってくれないのだ。
 助けを求めても、悲鳴を上げて縋っても、彼らはただユンファが堕ちていく様を、黙って見ているだけ。
(それが、怖い……)
 また見捨てられることが。見殺しにされることが。
 弾丸で心臓をぶち抜かれて殺されることよりも、ユンファ・フリーマンという存在を認知されないことこそが、恐ろしい。
 ユンファは目を閉じ、ロブに言われて一度は手放したポシェットの中にふたたび手を差し入れた。ハートの図柄がインプットされた小型火炎銃のグリップを指で確かめ、唇から滲んだ血を舌で舐めとる。
 ――ロブは頼もしい。強靭な肉体を持っていて、武器の扱い方を心得ている。第三裏通りをどう歩けばいいかも知っている。自分のことを守るとも言ってくれている。
(でもロブは、弱い者をタダで守ってくれる正義の味方じゃない……)
 なぜかひどく落ち込んでいる。中古屋には最初から期待していなかったはずなのに、正義の味方なんてこの世にはいないと知っていたはずなのに、「金目当て」という言葉に、思いのほか落胆した自分がいる。
(ロブは家族のために戦ったんじゃないの。落胆なんて、ロブに失礼もいいとこ。……最低)
 ユンファは血の混じった唾を地面に吐き捨てると同時に、もやもやの晴れない気持ちもまた捨て去った。
「あそこに階段が見えるな、ユンファ」
 ロブが話を打ち切るように前方を指さした。
「あれを登って、上層階へ行く。……階段を登っている間は、身を隠すすべがなくなる。だが、決して走るな。散歩でもするような気軽さで歩いていくんだ。走れば、俺たちをじっと見つめる連中を刺激することになる。――慎重に行くぞ」
 今いる瓦礫の50メートルほど先の上空に、横幅三メートルほどもある空中歩道がかかっている。建物の3階辺りに位置するだろう空中歩道の中央部からは、地上と空中歩道とを連結する鉄製の階段が伸びていた。
 ユンファは険しく目を眇めて、「了解リャオジィエ」と答えた。

+++

 派手と表現しても間違いではないだろう朱塗りの列柱の奥には、金で塗られた孔子の木像が奉られている。孔子とは、かつて中華人民共和国の名で知られた大国に実在した思想家の名だ。
「仁と礼に基づく理想社会の実現。仁とはすなわち、人間愛。礼とはすなわち、規範。他人とのつながりが希薄な現代社会において、孔子の創設した儒学ほど現実に即さず、また、これほどに布教が急がれる思想もあるまいよ」
 クグカは「ほ、ほ、ほ」と笑いながら、床につくほど長い白髭を手でしごいた。
「さあて、そろそろ例の巨乳のユンファちゃんが、孔子廟を訪ねてくる頃じゃて」
 クグカは朱色に塗られた孔子廟「大成殿」の広々とした殿内を見つめて、にんまりとした。
「準備はできているのう? 龍海幇の同胞たちよ」
 呼びかけに応えるように、「ガチャリ」と撃鉄を上げる硬質な音が無数に響きわたった。
「ほ、ほ、ほ。愉しみじゃのう、楽しみじゃのう。あの勇ましい英雄殿が、わしなんぞを訪ねに来てくれるとはのう!」
 クグカの梟の鳴き声に似た笑いが、不穏な響きをもって、極彩色の高天井へと吸いこまれていった。
 滝のように床に流れる白い髭の隙間から、獰猛な笑みが、薄気味悪く覗いていた。







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