小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.005 5



 複雑に入り組んだ路地を歩いていると、闇に落ちた通りのどこかから、か細い歌声が聞こえてくる。
 高く、澄んだ声。今にも絶えてしまいそうなほど弱々しいが、どことなく楽しげな、少女の歌声。
「アンジェラ、歌ってる……」
 背後を歩くニナが呟く。ニナの呟きは白い息となって、闇に立ちのぼった。
「体調がいいのかもね。今日は、もしかしたら会えるかもよ。あんたもやっと、ガキの友達ができるわけだ」
 ユンファの揶揄に、ニナは愛らしい顔をこくりと傾けた。
「ともだち。それはなに?」
「え。友達ってのは……」
 ユンファは言葉に詰まる。友達は、友達だ。それ以上の説明は難しい。
 というより、改めて考えてみると、ユンファには友達と呼べるような存在がいなかった。ストリッパー仲間はいるし、エニグマやルーカのこともとても好きだが、彼らが「友達」かと言われるとなにか違う気がしてしまう。
「遊び相手? ご飯一緒に食べたり? 一緒になにかして、笑い合ったり……」
 想像の範囲で思いつくまま説明しながら、ユンファは自分で自分の答えに馬鹿らしくなった。
 ご飯を一緒に食べるだけで「友達」認定されるなら、表世界で一緒に買い物をして、カフェで一緒にお茶をしたユンファとウェイも「友達」だということになってしまうではないか。
 ユンファは知らず、足を止めた。
(ウェイが、友達? 有り得ない……)
 内心で否定するが、どうしたわけか胸の鼓動が速くなった。
 外気は凍てつくほど冷たいのに、なぜか顔がかっと熱くなる。
(一緒になにかして、笑い合ったり、って……)
 そういえばウェイは笑っていた。ユンファがなにかを言ったら、ぷっと噴きだして、一人でクツクツと楽しげに笑いだしたのだ。しかも、ユンファを「面白そうな奴」と、そう――。
 ユンファはぶんぶんと首を振って、回想を打ち消した。
(あたしは一緒になって笑ってないもの。だから友達じゃない)
 ユンファはしかし、顔をしかめる。
 じゃあもしあの時、ユンファも一緒になって笑っていたら、彼と「友達」になれたのだろうか。
「ユンファ?」
「……アイヨー!?」
 立ち止まったユンファを、背後からニナが不思議そうに見上げていることに気づき、ユンファは後にも先にもないぐらいの勢いで慌てた。
「嚇死我了! な、なによ! うるさいわね! なんでもないわよ!」
「……?」
 ユンファはずかずかと足音高く路地を進み、ニナも小走りについてくる。
 ――ユンファ、今日はいろいろと助かった。ニナも喜ぶと思う。金は後で忘れずに払うから。
 それでも闇を突き進むユンファの脳裏には、あの日のウェイの声が蘇る。
 穏やかな声だった。いつもの低くて不機嫌な声とは違って、深く、胸の奥底まで響くような優しい声をしていた。耳を愛撫されたみたいに心地よくて、ユンファはあと一歩で、動転してテーブルをひっくり返すところだった。
(お金、後で払うって言ったくせに……っ)
 もう四日も、ウェイの行方は分からない。生死も分からない。
 もう会えないかもしれない。
 なら、あのとき、一緒に笑っておけばよかった。それっぽっちのことで、あんなにも求めつづけたウェイと、友達になれたのなら。
「……って違うじゃない!」
 ユンファはいきなり叫んで、「違う違う!」と頭を掻きむしった。あのニナがびくっと凍りついたぐらいなので、よほどの大声だったようだ、ユンファは慌てて口を噤む。
(友達になりたいわけじゃない。なんなのよ、ボケてんじゃないわよ、あたし!)
 極度の緊張から、思考が思わぬ方向に転がってしまったようだ。ユンファは、動揺を鎮める中国秘伝のツボをぐりぐりと指で揉み、冷静さをなんとか取り戻そうとする。
「ともだち【友達】勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。友人。……学校?」
 と、いきなりニナの声が、ユンファの乱れた思考に割り込んできた。
 振りかえると、ニナは肩掛けのポシェットから取りだした辞書で、「友達」を調べていた。
 ユンファは気が抜けて、深々と苦笑まじりのため息をついた。
「辞書って、使う場所間違えると、まったく使い物にならなくなるのね。第三裏通りには学校なんてないし、その説明じゃあんた、かえって意味分からなくなるでしょ。……あれよ、ほら、一緒にジャンク映画見たでしょ。『スタンド・バイ・ミー』に出てくる四人組みたいなの、あれを「友達」って言うのよ」
 ニナは納得がいったようにうなずいた。
「志などを共に……死体探し……」
「そうそう。そういうこと」
 ニナは小さく首を傾げる。フードの内側で、黒髪が鈍い光沢を放った。
「じゃあ、ユンファと私も、友達」
 ユンファは目を瞬かせ、渋い顔で虚空を見つめた。
「違うんじゃない? だってあたし、あんたと同じ志なんて持ってないし」
「“ウェイに会いたい”」
 ユンファはぐっと返答に詰まった。
「……そんなんじゃないわよ」
 呟き、ユンファはオレンジ色に塗った唇を引き結び、また歩きだした。
 だが、ニナの小さな呟きが、再びその足を止めさせた。
「じゃあ、ウェイには、友達はいないのね」
 ユンファは眉をしかめ、ニナを振りかえる。
「……いるじゃない。あのブタゴリラ、親友でしょ」
「ウェイと同じ志を持っているひとは、この世界にはいない」
 なんの話をしているのだろうか。ユンファは眉間に皺を寄せたまま、歌声の聞こえてくる方角を、ロブの家のある闇を見つめる。彼らは親友だ。どう考えても友達同士である。
 だがそのとき、ふっと、ある光景が心をよぎった。
 一年前のタイムズ・スクエア。そこで見かけたウェイの姿。
 第一裏通りで初めてウェイと会ったあの日から、ユンファは彼を探して、表世界や第五まである裏通りを、足が棒になるまで歩き回った。
 ようやく見つけたウェイは、表通りにいた。
 颯爽と歩く通行人たちの奥。タイムズ・スクエアに設置された古びた公衆電話ボックスに背を預けて、掃除用ロボットによって塵一つなく磨きあげられた地面にじかに腰かけ、ウェイは対面にあるビルの壁面に設置された巨大な画面を見つめていた。
 放映されていたのは、一本のジャンク映画。
 ウェイ以外には見る者のない映画を、彼はひとりぼっちで見つめていた。
 画面の向こうの世界を懐かしむように。こちらの世界にひとり取り残されてしまった、迷子の少年のように。
 あの日、どうしたわけか、ウェイはたまらなく寂しげに見えたのだ。

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 任天堂というゲーム会社が出し、「世界でもっとも売れたゲームソフト」としてギネスブックにも登録された不朽の名作『スーパーマリオブラザーズ』。その、ラスボスとの戦いに向かう直前の「最終面」に出てくるシステムをヒントにしたのだ、とロブは言う。路地のあちらこちらにセンサーが仕掛けられていて、ロブが定めた順序通りに、そして定めた回数だけその前を通過しないと、ラスボス(ロブ)が待つ家のドアは現れないというのである。
 そんなわけで、ユンファとニナは、ゆうに三十分かけて迷路のような路地を歩きまわり、センサーの前をすべて正しい順序で通過して、げっそりと袋小路の壁の前に立った。すると、先ほどまで壁にしか見えなかった場所にドアが出現し、ユンファは苛々しながら、指紋認証パネルに指を叩きつけた。
 ドアが開く。それと同時に、「わふっ」という鳴き声が二人を出迎えた。
「よう、来たな」
 暗い通路の奥からロブの声が聞こえるのと同時に、辺りがぱっと明るくなった。ふんわりと優しい光に包まれたそこは、木目調の建材で作られた細い廊下だ。そこに、毛長の犬型機械動物とロブとが、それぞれ尻尾と手を振って、立って待っていた。
「ようし、ゴエモン。大丈夫だ。ユンファとニナだ」
 ロブは犬型機械動物の首を撫で、二人を手招きして廊下の奥へと歩きだした。
「そのゴエモンとかいう変な名前、なんとかなんないわけ」
 ユンファは、迷路を散々歩かされた緊張と疲労から、苛々とぼやいた。ロブは憎らしいほどアメリカ系っぽい「ハハッ」という母音のはっきりした笑い声をあげた。
「古いジャパニーズ・アニメーションに、つまらねぇもんばっかを斬るサムライが出てくるんだが、そいつの名前だ。またつまらんものを斬ってしまった……ってな! 必殺、斬鉄剣! ズバ!」
 ズバ、と言って、ロブは日本刀らしきものを持つふりで、虚空を斬って捨てた。
 白け切って答える気にもならないユンファの背後で、ニナがぱちぱちと拍手をする。無表情なせいで、馬鹿にしているようにしか見えなかったが。
「こっちのゴエモンも、つまらねぇもんばっかり食う。たまに腹を開けてやらねぇと、あっという間にぶっ壊れちまう。つまらねぇもんばかり斬る五ェ衛門と、つまらねぇもんばっかり食べるゴエモンだ」
 案内された先は、簡素なリビングだ。
 ゴエモンは尾をぶんぶんと振り回し、主人よりも先にソファに飛び乗った。
「座れ、だとよ」
 ロブはユンファを促し、ニナの前にしゃがみこんだ。
「よう、ニナ。疲れてないか? ずいぶん歩かせちまったな」
「へーき」
「そうか。何か飲むか?」
「いらない」
「いい子だ。水もろくに買えないもんでな」
 なら聞くなってのよ、とユンファはさらに苛々しながら、どっかとソファに魅惑的な尻を埋めた。ロブはニナをユンファの横に座らせ、自分も対面に腰を下ろす。
 ニナはふとリビングの奥にあるドアに視線を送った。ロブがどことなく嬉しそうに目を細めた。
「アンジェラは、今日も具合があまり良くないんだ」
「さっき、外歩いてるときに、歌が聞こえたけど」
「ああ、聞こえたか。……そのうち、咳が出始めたんでな。今は薬を飲んで、寝てる」
 ユンファは固く閉ざされたドアを見つめた。
 アンジェラ。ロブの亡くなった奥さんが遺した忘れ形見。一人娘だ。
 詳しくは分からないが、ロブの奥さんと同じ病気を患っているらしい。
「難しい病気じゃない。……ここが表世界で、娘が表世界の住人ならな」
 最初にアンジェラの病気のことを訊ねたとき、ロブはそう言って言葉を濁していた。
 アンジェラとはまだ一度も会えていないが、話によれば、ウェイにはよくなついているという。凄まじくまずい料理を作っては、ウェイの胃袋を破壊しているらしい。
(あいつって妙に子どもに好かれるのね……)
 ニナといい、アンジェラといい、不思議な話だった。ウェイは、決して子どもに好かれる雰囲気はしていない。サングラスのせいで表情も分かりにくいし、口調だってつっけんどんだ。それとも、子ども相手だと、表世界のカフェでユンファが一瞬見たような、優しい表情になるのだろうか。
「さて、茶菓子どころか茶も出せないで悪いが、お互いに進展具合を話すとしようか」
 ロブは傍らのゴエモンの毛並みを撫でながら、会議の始まりを告げた。
「まず、フレデリックに捕まった、あるいは爆破に巻きこまれて死んだだろう中古屋は、どうやらフレデリック兄弟と敵対している中古屋の中でも、特に中心人物ばかりだった、ということが分かった。今、第三裏通りは、時が止まったような状態だ。外には一切の人通りがなく、かといって、これまでのように銃撃戦が各所で繰りひろげられているわけでもない。トップを失ったことで、中古屋たちもなにをどう行動に移せばいいのか、判断がつかなくなっているんだろう。武器商人も同じだ。なにより、フレデリック・ファミリー自体が完全に沈黙している。彼らがなにを考えているのか、今後なにをするつもりでいるのか……誰も分からず、裏通り中が息をひそめて「様子見」に徹している状態だ」
 ユンファは肩をすくめた。
「平和で、結構なことじゃないの。ニナと二人で外を歩いてても、ちっとも危険は感じなかったわ。……まあ、視線はやたら感じたけどね。視界には誰もいないってのに」
「住民たちが建物の内部に身を潜めて、外の様子を伺っている。誰もが怯えている。今が嵐の前の静けさだとしたら、次に来る嵐は、いったいいつ来て、どれほどの規模になるんだろうかってな。もし、あのぎすぎすした空気の中を歩いて来て、危険ひとつ感じなかったのだとしたらたユンファ、もっと危機管理能力を鍛えることだ。もっと鋭敏になれ。今の第三裏通りは、ガスが充満した密室同然だ。静電気一つで、大爆発が起こる。お前が不用意な行動をとれば、次に浴びるのは、視線の集中砲火じゃなく、数千の弾丸だろうよ」
「……分かってるっての。冗談よ、冗談。実際には、恐怖に震えながらここまで来ましたー。で、探してた運送屋は見つかったわけ?」
 ロブはこの三日間、クイーンズ・ボロ橋のたもとを不法占拠していた運送屋を探しに行っていたのだ。
 ウェイは、修理の終わった中古品を表世界に宅配するため、クイーンズ・ボロ橋の運送屋を訪ねて、あの爆破事故に巻き込まれた。生き残った中古屋と武器商人は、フレデリック兄弟に生け捕りにされたという話だが、運送屋がどうなったのかは話に出てこない。もしあの爆破事故をうまく逃れた運送屋がいるなら、事故の詳細を聞けるのではないかと考えたのである。
「いや、会えなかった。運送屋と連絡をつける手段は、クイーンズ・ボロ橋に行くってこと以外にない。橋が吹っ飛んだ今、会う手段が断たれた。多分、ルーズベルト島に身を潜めているんだろうが……行く手段がない」
 ルーズベルト島は、マンハッタン島の東部にある、細長い小島の名だ。かつては、多くの島民が暮らしていたが、ファースト・ジオ・マンハッタンの完成とともに、ルーズベルト島は「自然保護地区」に指定され、島民もマンハッタンに移住させられることとなった。島はGPSによって豊かな人工森林が築かれるに至り、人間の立ち入りが禁止されるようになったのだが、ふとGPSが目を離した隙に、不法入居者が人工森林の奥深くに住み着き、町を作ってしまった。GPSは武力排除を試みたが、結果的に、それが町民の武装を促進させることとなり、今現在でも問題解決の道筋がたっていない、準紛争地域となっているのである。
 運送屋たちはそこの住民たちだという噂だが、ルーズベルト島は外部の人間が容易く近寄れる場所ではない。エアジェットですら上空の航行を禁じられ、迂闊に立ち入れば、島民自警団か、GPS側の監視ジェットによって、速やかに撃ち落されるという話まである。
「なんとか運送屋と会えるよう、今、裏で手を回している。だが、その手筈が整うまでは、まだ時間がかかりそうだ」
「情けない。やる気あんの、あんた。――じゃ、やっぱり最初のプランを実行に移すしかなさそうね。このあたし、ユンファ・フリーマン発案の、最上のプランを!」
 ユンファは鼻を鳴らし、豊満な胸の谷間から、チップを取りだした。
「おいおい、どこから出してんだ。歪んじまう」
「大事なもんは、全部胸の中にしまっとくって決めてるの。……はい、起動して」
 ロブは嫌そうにチップを指で摘まんで受け取り、自分のパソコンに挿入する。
 瞬時に、虚空に非実体立体映像が出現した。映し出されたのは、第三裏通りの多層地図だった。
「あたしは、三日前にあんたに提案した通り、情報屋クグカと接触を試みた」
 三日前、ユンファはロブに、ウェイとエニグマを見つけだす手段として、情報屋クグカへの接触を提案したのだ。
 情報屋クグカ。本名、州籍、一切不明。分かっているのは、不死ではないかと思われるほど高齢の男で、近ごろ表世界を騒がせている名の知れたハッカーだということだけだ。
 自称「マスター・オブ・スパイラルワーム」。
 「螺旋虫」と呼ばれる独自開発したハッキングシステムを使って、主に警察組織の、セキュリティも万全なはずの電脳に侵入しては、犯罪者の写真を巨乳のおねえちゃんの写真に変えたり、警察の内部情報に卑猥な言葉を上書きしたりと、迷惑且つ意味の分からない嫌がらせをしている、謎の愉快犯である。
「情報屋クグカがいるのは、第三裏通りの第十二上層階にあるチャイナ・タウンよ。チャイナ・タウンの中にある金物街にいるの。ま、チャイナ・タウンといっても規模は本当に小さいものだけど……」
 情報屋クグカは、正体不明のハッカーということになっているが、ユンファのような華人の間では彼の存在は有名だった。
 チャイナ・タウンにある「孔子廟」の本殿に巣喰らう老人。
 彼に会いたければ、単に、孔子廟まで行けばいい。
 ただしチャイナ・タウンは、中華系組織「龍海幇(ロンハイ・バン)」のお膝元にある。「幇」というのは、華人のみによって形成された組織で、ユンファのような華人の血を引く者以外を「よそ者」と見なしす、極めて強い「同郷意識」を持つ組織だ。
 クグカが世間一般に「正体不明」とされているのは、彼が華人で、「龍海幇」によってその身元を固く守られているからだ。たとえクグカが孔子廟にいるとまでは分かっても、本人にアポが取れない限り、会うことは極めて難しい。直接チャイナ・タウンを訪ねても、格子廟にたどりつく前に、「龍海幇」によって摘まみだされてしまうのだ。
「しかもクグカは無類の女好き。だから基本的に女の依頼しか受けない。……あたしの全裸写真付きで、クグカに仕事の依頼メールを出したら、簡単にアポがとれたわ。今日の午後、孔子廟まで来いって。連れも一緒でかまわないそうよ」
 ユンファが自慢げに話すと、ロブは目を丸くした。
「すごいじゃないか。クグカとアポをとることは、至難の業と言われているのに」
「だからそれはあんたがアメリカンな黒人野郎で、あたしみたいな、巨乳のいかしたチャイニーズ娘じゃないからよ。……でも、アポが取れただけで、まだ仕事を引き受けてもらえるとは限らないわよ。偏屈な、糞エロ爺だって話だから。あたしもまだ会ったことないけど……欲しい情報を探してもらうかわりに、どんな見返りを求められるか分かったもんじゃない」
 ユンファは薄暗い気分で笑う。
「ま、乳揉ませろってんなら、それぐらいはさせてやるつもりだけど」
 ロブはまじまじとユンファを見つめ、なんとも言えない顔で苦笑した。
「ウェイをそうまでして助けたいって気持ちは分かるが、もっと自分を大切にしろ、ユンファ。ウェイの奴は、自分を助けるためにお前が嫌な思いをしたと知ったら、悲しむだろうよ」
「は? 父親面で説教すんの、やめてくれる」
「父親だからな。アンジェラが、好きな男のために、エロ爺に胸揉ませるなんて、想像もしたくない話だ」
 ユンファは唇を引き結び、虚空を睨みつけた。
「あたしの体なんてどうせ。……無所謂(どうでもいいのよ)」
 ロブはじっとユンファを見つめ、ふっと笑うと、ソファの表面に顎をつけてスリープモードに入っているゴエモンの頭を手持無沙汰に撫でまわした。
「本当にお前は、あの野郎が好きだなあ」
 いつかのエニグマみたいなことを言われ、ユンファはロブを真正面から睨みつけた。
「あたしは、あいつが好きなわけじゃない!」
「好きなようにしか見えんがな」
「しつこい。違うって言ってんでしょ。それ以上言ったら、許さないんだから!」
「許さないか。子どもっぽい反論だな、ユンファ」
 ロブは本当に父親にでもなったみたいな眼差しでユンファを見つめ、笑った。
「あいつは掛け値なしのいい男だ。好きになったって、誰もお前を笑ったりはしない」
「違うって言って――!」
「アニーからぶんどるつもりでいるなら、意地張ってないで、正攻法で押していけ。ウェイの野郎は、押しに弱い」
「……っだからこの間、押し倒したじゃないの!」
「い、いや、物理的に押してどうする。心の話だ、心の」
 ロブはにやにやした。
「好きなら好きとはっきり伝えろ。あいつが好きなジャンク映画の世界じゃ、好きって気持ちを、表情豊かに、ストレートに相手に伝えるんだ。ジャンク映画みたいに真っ直ぐに告白されたら、あっさり落ちるぞ、あの朴念仁」
 ユンファは憤慨して、ぶるぶると握った拳を震わせながらソファから立ち上がった。
「ゴリラに心の話なんかされたくないわよ! だいたい、あたしはあいつが好きなんじゃないって言ってるでしょ! あたしは……あたしはただ……っ」
 ユンファは唇を血が滲むほど噛みしめ、再びソファに腰を下ろす。それだけでは飽き足らず、ソファの上で両脚をぎゅっと抱きしめ、しかめつらを膝の上に載せ、黙って床を見つめた。
 ロブはそれ以上、追求してこなかった。三日前、ロブに「なぜそこまでウェイにこだわる」と問われ、ユンファは「それは、あたしの一番心の奥。あんたが気安く触れていいとこじゃない」と答えた。きっとこの話題が、ユンファの触れてほしくない部分に降れているということに気づいたのだろう。
 ほっとする。これ以上、心を乱して、無様な姿を晒したくない。
(本当に無様。この間から、ウェイに振りまわされっぱなし)
 ずっとウェイを追ってきた。第一裏通りで会ったあの日から。探して探して、ようやくタイムズ・スクエアで見つけた、あの中古屋。ジャンク映画を食い入るように見ているのを見て、「どうしてあんなに寂しそうなのだろう」と思った。気になって、後をつけた。彼が第三裏通りの住民だと知ったら、すぐに自分も第一から第三裏通りへと移住した。お金はあったから、ウェイが住むマンションの部屋の三軒隣に移り住んだ。本当は隣が良かったが、空き部屋がなかったのだ。そうしてウェイが中古屋であることを知り、中古屋の彼が、LENOのある「ローガン・ストリップ劇場」に通いつめていることを知った。そして初めて目にしたストリップの舞台に魅入られ、ユンファもまたストリッパーを目指すようになったのだが――気づいてみれば、ユンファの行動原理すべてにウェイがいる。ウェイという存在はすでに、ユンファを語る上では切っても切り離せない存在になっている。
(友達になりたいわけじゃない)
 ロブの家に来るまでの間、ニナとしていた話を思いだす。
(友達になりたいんじゃない。でも、じゃあ、なにになりたいのだろう)
 犯してやりたい。あいつを床に押し倒して、あの冷たい表情が歪むぐらい、快楽に溺れさせてやりたい。彼の表情を隠しているサングラスを奪い取って、誰があいつの上に跨っているのかを見せてやりたい。あいつを滅茶苦茶に乱して、そうしてあの中古屋の脳みそに、しっかりと認識をさせてやりたいのだ。
 このユンファ・フリーマンという女の存在を。
(けれどそれは、どうしてなの)
 あの日、路地の暗がりでひとり悲鳴をあげていたユンファに、この世でただひとり、気づいた男。「あっち行け」というユンファの言葉通りに、本当にあっちへ行ってしまった中古屋。
 ユンファの脳裏に浮かぶのは、冷たい顔をしたあの日のウェイと、表世界のカフェで自分に優しい笑顔を見せてくれた、もうひとりのウェイ。そして、タイムズ・スクエアの人ごみの中、ひとりで違う世界を見つめていた彼の、寂しげな表情。
(あたしは、ただ……)
 ユンファはぎゅっと膝に顔を埋める。ユンファの「気安く触れてほしくない、あたしの一番心の奥」は、ユンファ自身にすら容易く触れられない箇所だった。触れれば、なにかが化学反応を起こして吹っ飛んでしまう気がする。それはとても怖くて、恐ろしい感覚だった。
「――クグカとの約束の時間は、三時」
 膝に顔を埋めたまま、ユンファはくぐもった声で呟く。
「武装して。チャイナ・タウンの入り口で、ニックっていう案内役のガキが待ってる。ニックに会えれば、チャイナ・タウンの中では安全を保証されるけど、チャイナ・タウンのある第十二上層階に行くまでは、なにがあるか分からない。あんたが言うには、静電気ひとつで爆発しそうな空気なわけでしょ。あたしを守りなさいよ、中古屋」
 口早に言うユンファに、ロブは「ああ」としっかりうなずいた。
「お前を守るよ、ユンファ」
 中古屋の言葉に、空想の中でウェイの声を重ねて、ユンファは目を閉じた。
「……アンジェラは、ここに置いといて大丈夫なのよね」
「大丈夫だ。ここは守られている。ニナ、お前もここにいるか? それともウェイのマンションの方がいいか」
 ニナはしばらく沈黙してから、「いっしょに行く」と呟いた。
「駄目だ。それだけは絶対に。……ここにいてくれ。ゴエモンは家政婦機能も備わっているから、いろいろと面倒を見てくれる」
 ユンファは膝からようやく顔をあげ、隣に座る小さなニナに視線をやる。
 ニナは膝の上で拳を握りしめ、じっと虚空を見つめてなにかを考えていたが、やがて小さく首を横に振った。
「ウェイのマンションにいる。エッグがいるの。それに、ウェイが帰ってくるかもしれない」
 ニナの言葉に、ロブはしばらく迷っているそぶりを見せたが、やがてうなずいた。
「外には絶対に出ないようにな。なにかあった時のために、数日分の食料は用意しておく。ユンファが」
「……はいはい。どうせあたしはお財布がわりですよ」
 ユンファはぼやき、ニナの端正な横顔をぎろりと睨んだ。
「本当に外に出ないでよね。約束して。あんたになにかあったら、あたしがウェイに怒られるんだから」
 ニナはじっとユンファを見あげ、こくりとうなずいた。
「約束」







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