小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.005 3



 エニグマが軟禁されている寝室を出たガイは、閉ざした扉を背に、ミッキーをぎゅっと抱きしめ、その大きな耳に囁きかけた。
「聞いた、ミッキー。ローガンを許してあげてちょうだい、だって」
 哄笑したい気分に駆られて、けれどガイはぐっと堪える。笑みに震える唇をミッキーの冷たい額に押し当て、笑い声をあげるかわりに、無言で両肩を震わせた。
 そして彼は、ふっと薄い唇から笑みを消し去ると、硬質な靴音をたてて歩きはじめた。
 牢獄の前を通り抜けながら、横目で囚人たちを見つめていると、力なくうなだれた囚人たちの中で、はっきりとした視線をくれる男がいることに気づいた。
 右目が醜い傷で塞がれた男だ。確か名前は、テッドといったはずだ。前回の攻防でも中古屋たちの中心となって動き、裏通りの人間たちから英雄視された四人の中古屋のうちのひとりである。
 憎悪と呼ぶには温度の低すぎる左目で、ガイをじっと見つめている。
 ガイは興味のない顔でそれをしばらく見つめてから視線をそらし、他の囚人たちを振りかえった。だが、彼以外に見たことのある顔はひとつもなかった。
 格子扉がぎっと開かれる音がした。目線をそちらに向けると、配下の男が二人、牢獄の中に入って、目を開いたままぐったりとしている中古屋だか武器商人だかのひとりを枷から外して、外に引きずりだすところだった。
「ち。また減っちまった! 蝋燭が、十ニ本になっちまった」
 鉄格子のまえにふんぞり返っているビューティが、鼻息荒く毒づいた。
「ここに連中を連れてきてから、もう何人か死んでいるの?」
 ガイの問いに、ビューティは肩をすくめた。
「ああ。爆風で腕が吹っ飛んだり、片足がもげたり、首になんかの部品が突き刺さっちまったりしてる連中から先に、死んでいったぜえ。死体は、ゴミ捨て場だ。あーもったいねぇもったいねぇ」
「ふぅん……」
 ガイは牢獄を再度見回して、サングラスの奥で目を細めた。

+++

 裏通りには、フレデリック・ファミリーのほかに、四つの犯罪組織が君臨している。
 賭博と麻薬・人身売買によって巨財を成したロシアン・マフィア「アレクセイ・ファミリー」。アメリカが国家であった時代から黒社会を形成してきた中華系組織「龍海幇(ロンハイ・バン)」。表世界の住民権と人造臓器を不法売買する、タイ・マフィア「ヨムチャイ商会」。そして、フレデリック・ローガンが率いる「ローガン・ストリップ劇場」である。
 ローガンが扱う商品は「娯楽」だ。ローガンの手によるストリップ劇場や高級娼館は、あちらこちらに店を開き、表世界、裏世界関係なしに客を楽しませている。ストリップ劇場の一角には、中古屋依頼提供所「LENO」があるが、これについては運営者が別におり、ローガンは「LENO」の設置場所をその運営者に無償提供しているにすぎない。
 ローガン・ファミリーの規模は、ほかの四つの勢力に比べて極端に小さい。それでも五大勢力のひとつに数えられているのは、ローガン個人に「第三裏通り占拠」の偉大な功績があるためである。
 現在、第一から第六まである「裏通り」は、もともとは、超高層型都市建設労働者のために作られた、仮設マンション群だった。都市建設が終盤にさしかかったころ、最終的に廃棄される予定にあったマンション群の一角を、当時、建設労働者のひとりとして居住していたローガンが不法占拠した。
 彼は、あまりに突然の事態に手を打てずにいたアウトラス社を横目に、「ローガン・ストリップ劇場」を開業。するとそれを皮切りに、多くの人間たちが劇場周辺に押し寄せ、次々とマンション群を占拠、不法者の町「裏通り」を築きはじめていった。
 裏通りの人びとは、彼のことを「最初の開拓者」と呼んだ。規模の小さな「ローガン・ストリップ劇場」が、五大勢力のひとつに数えられているのは、このためである。
 ――ところで、最初の開拓者フレデリック・ローガンには、ジャンク映画『チャーリーズ・エンジェル』さながら、美しいエンジェルたちが付き従っていた。美貌と頭脳を兼ね備えた、二十人の女たちだ。
 女たちは、ローガンから「エニグマ」というコードネームで呼ばれ、ローガンの補佐役として、劇場や娼館の経営、ストリッパーの育成に力を注いだ。


「俺たちの親父様フレデリック・ローガンは、無類の女好きだった。奴は二十人のエニグマの中から、いつでも好きな女を選んでベッドを共にさせることができた。俺は三番目のエニグマの息子で、兄貴は一番目、ガイは二十番目のエニグマの息子だ。血はつながっているが、全員、母親違いってわけだ」
 ジョニーは凝り固まった筋肉を和らげるように肩を揺り動かした。
「ローガンは糞だが、二十人のエニグマはみんないい女だった。つっても、全員知っているわけじゃねえけどな。二十人のエニグマたちはそれぞれ自活してたし、ストリップ劇場に行っても、全員が揃ってることは稀だった。けど、少なくとも三番目のエニグマは――俺の母親は、息子の俺から見ても、惚れ惚れするほどハンサムな女だったよ」
 運転手はソファの脇に突っ立って、なにを考えているのか分からない表情でジョニーの話を聞いていた。
「女たちはみんな仲が良かった。ローガンが自分以外の女と寝ようが、ガキをこさえようが、まるで気にしなかった。……気持ち悪ぃだろ。まるでどっかの新興宗教だ。ローガンが作ったのは、「ストリップ劇場」って名前のハーレムだった。ローガンはそこの王様で、二十人のエニグマは美しいお后様。それでいくと、俺は王子様ってとこか?」
 ジョニーは鼻を鳴らし、ふと鋭い眼の奥に、悲哀に似た暗い色を宿した。
「けど、二十人のエニグマはみーんな、死んじまった」
 運転手が怪訝そうに顔を上げる。
「殺されたんだ。表世界の人間たちに」
 疎ましげに溜め息をつき、ジョニーはソファの背もたれに後頭部を預けた。
「エニグマが死んではじめて、王様と二十人のお后様が、なにか途方もないゲームを表世界に仕掛けようとしていたことを知った」
「ゲーム?」
 そこではじめて、運転手が口を開いた。
 ゲームという単語に、なにか心当たりがあったのだろう。
「ああ。ゲームだ。エニグマを殺したのは、ゲームの存在を知った表世界の連中だった。俺の家にも来たぜ。まだ、母ちゃんから「ちびすけ」って呼ばれるぐらいの年齢だった俺は、なにも知らずにぐーすか寝てた。その隙に、表世界の連中は家に侵入し、キッチンで朝飯を作ってたエニグマ母ちゃんの後頭部を斧で叩き割った。すっげー音だったぜ? 一発で目が覚めた。なにかとんでもないことが起きたことを悟って、俺はベッドの下に隠れてがたがた震えた。なんかくっせーと思ったら、股が小便でぐしょぐしょに濡れてた。部屋の外で誰かがうろつきまわる気配がした。そのうち、連中は部屋に入ってきたが、俺も相当混乱してたんだろうなあ、小便の匂いで侵入者が俺に気づくんじゃないかってことばっかり考えてたよ」
 ジョニーはそこでクッと笑い、面白げに天井を見あげた。
「実際、小便の匂いが原因だったのかは分からねぇが、俺はあっさり侵入者に見つかった。今でもたまに夢に見るぜ、侵入者が床に身を屈め、仮面でもつけたみたいな無表情で、ベッドと床との隙間から俺をじっと覗き見るのを」
「……それであなたは、どうしたのです?」
「侵入者は手を伸ばして、俺を捕まえた。俺はベッドの下から引きずりだされ、床に落とされた。侵入者の手には、血まみれの斧。一瞬で足が竦んだ。ああ死んだ、そう思った」
 だがそうはならなかった。
 窓ガラスの割れる音が、甲高く響きわたった。ジョニーが「え」と部屋の窓を見るよりはやく、彼と窓との間に立ちはだかっていた侵入者の巨体がぐらりと揺れて、どうっと倒れた。
 ――よう、兄弟。助けに来たぜえ?
 倒れた侵入者のかわりに、ジョニーの前に立ったのは、侵入者よりもさらにでかい図体をした怪物だった。
「兄貴さ」
 ジョニーは当時を思い出して、手を叩いて爆笑した。
「まるでジャンク映画のスーパーヒーローだ! でも顔は、どう見たって悪役だ。申し訳ないが、俺は悲鳴をあげたね。なにしろ一番目のエニグマの息子に会ったのは、それがはじめてだったからな。絶叫する俺を、兄貴は鼻血が出るまで殴った。「兄に向かって悲鳴を上げるとは何事だ!」っつってよ」
「はあ……」
 どう答えていいか迷う様子の運転手に、ジョニーはにやりと笑った。
「俺と兄貴はキッチンに行って、母ちゃんが死んでるのを確認した。血やら脳漿やらで、床のタイルが黄色くぬめってた。やたらひどい匂いがしてた。……不思議と悲しくなかったな。多分、俺の頭の中にいるハンサムな女と、頭をかち割られて死んでいる目の前の死骸とが、うまく結びつかなかったんだろう。死体は死体だ。大好きだったママじゃねえ。――兄貴は、自分の母親……つまり一番目のエニグマも殺されたって話をしてくれた。兄貴は、エニグマとローガンがなにかのゲームをやろうとしていて、それが原因で表世界の人間に殺されたんだ、て言った。兄貴も殺されかけたが、俺への刺客を殺したように、返り討ちにしてやったらしい。兄貴は当時、裏通りのファイトクラブで「モンスター」って呼ばれる百戦錬磨のファイターだったんだ。その後、俺と兄貴は、他にも生き残ったエニグマや兄弟たちがいないか、一週間かけて探しまわった。けど、それぞれの家に行ったときには、すでに全員が殺されてた。ガイを除いてな」
 ジョニーが目線をあげると、母体電脳「マザーU」が、相変わらず醜い”怪物の歌”を歌いつづけていた。
「あいつを見つけたのは、俺たちが襲撃された日から七日目のことだった。最後に訪ねた二十番目のエニグマの家で、俺と兄貴はガイに会った」
 ガイの母親、二十番目のエニグマは腹を何発もの弾丸にぶち抜かれて死んでいた。
 美しい女だった。長い黒髪は死んでもなお艶やかで、東洋系の顔立ちは、ついさきほどまで生きていたかのように瑞々しく、麗しかった。
 エニグマの胸には、小さな子どもがしがみついていた。本当に小さな、天使のように美しい少年は、ジョニーとトムを見ても驚いた顔ひとつしなかった。
 ――お前、マイケルだろ?
 ――うん。ぼく、マイケル。
 ――さっきから、なにやってるんだ?
 ――ママにおやつをあげてるの。
 マイケルは両腕に抱えたクッキー缶から、欠片ばかりのクッキーを取りだすと、母親の口に押しこんで、ミルクを注ぎいれた。飲みこまれることのなかったミルクは、母親の口から零れだして、彼女の血まみれの服を汚した。
 不気味で、そして、たまらなく哀れな光景だった。末の弟は母親が死んだことを、うまく理解できていなかったのだ。この七日間、クッキーとミルクを食べながら、ひとり、自分で食べようとしない物言わぬ母親の面倒を見ていたのである。
「そして俺と兄貴は、ガイを育てながら兄弟で生きていくことにした。さいわい金には困らなかった。兄貴にはファイトクラブで稼いだ賞金が山のようにあったし、俺も機械関係の仕事を見つけて食い扶持を稼ぐことができたし、それでも困れば、そこらにいる野郎をぶん殴って財布を奪っちまえばよかったんだからな。そんなある日のことだった。ガイが突然、エニグマの形見を見つけてきたんだ」
「エニグマの形見……もしやそれが表世界に仕掛けようとしていた例のゲームですか?」
「ご明察。二十番目のエニグマは、例のゲームをある場所に隠していた。そしてその隠し場所からゲームを取りだすためのパスワードを、ガイにだけ教えてあった」
 運転手の爬虫類の目が、わずかに興味を持って輝く。
「もしや、そのパスワードというのは」
「そう、それが”怪物の歌”だ」
 運転手は母体電脳の中央モニタに映し出された嬰児を見つめた。羊水の中で身を丸めている胎児は、相変わらず『アアァ、ァ、ア……』と歌いつづけている。だが、次第にその”怪物の歌”は弱まりつつあった。
「びっくりしたぜ。そんなもんをパスワードにするなんて、俺じゃ絶対に考えがつかない。”怪物の歌”ってのは、つまり――」
「ジョニー」
 ふと鋭い声に耳朶を叩かれ、ジョニーは口を閉ざして背後を振りかえる。
 いつの間にか、ソファの背後に弟が立っていた。サングラスで隠した冷たい美貌に、無表情を載せて。
「兄さんがその薄気味の悪い運転手を信頼して、自分の昔話をするのは勝手だ。けど僕の許可を得ずに、僕の話までするのはよしてほしいな。”怪物の歌”は兄弟三人のものだ。話したいなら、僕とビューティ兄さんの許しも得てほしい」
 温度の感じられない声に、ジョニーは苦い顔で舌打ちした。
「あー、そうだな。あんまりに苛々してたもんで、つい口が滑っちまった。兄貴はなにしてた?」
 腰をひねって、ソファの背もたれから身を乗りだし訊ねると、ガイは頭からかぶったシーツの奥で肩を竦めた。
「うきうきしてた」
「てめぇ……俺がムカついてんのを知ってて、そういう冗談を――あ、おい、どこ行く気だ!」
 立ち去りかけていたガイは、下唇を拗ねたみたいに尖らせた。
「ビューティ兄さんは中古屋たちとイチャイチャ、ジョニーは運転手とイチャイチャ。寂しいから、僕も可愛らしい別嬪のお嬢さんとイチャイチャしてくる」
「はあ? あ、……くそ」
 さっさと倉庫を出て行ってしまったガイを見送り、ジョニーはげんなりと嘆息した。
「まあいい。ガイの言う通りだ、”怪物の歌”のことは兄弟だけの秘密だ。実際、お前には関係ねぇ話だし、お前にどうこうできるパスワードでもねぇし」
 ジョニーは母体電脳のソケットから、先ほど挿入したソフトを取りだした。「5/20」というラベルが貼られたソフトだ。
「けどこの話はしてもいいだろう。エニグマが遺したのは、この二十枚のソフトだった」
 黙って成り行きを見守っていた運転手は、眉を持ち上げた。
「それは、このAIを育成するためのプログラムだと言っていましたね」
「そうだ。この二十枚のソフトには、AI育成のためのプログラムが入っている。シュミレーションゲームの形にしてあるから、兄貴がこれを一枚ずつクリアし、俺がクリア済みのプログラムを母体電脳に注入していくたび、AIは成長していく。で、二十枚すべてをクリアする頃には、すっかり大人の女に成熟してるって寸法だ」
「このAIが、例のゲームとどう関係するのです?」
「エニグマは、ゲームの内容を誰にも明かさずに死んだ。俺たちに遺したのは、この二十枚のAI育成プログラムだけだった。前回、俺たちはマザーを「少女」と呼べる年齢にまで成長させることに成功した。彼女に「これはどういったゲームなのか」と聞いたら、マザーは俺にこう答えたよ。「私はオセロゲームをやりたいのよ、ジョニー」。惚れちまいそうなくらい可愛い笑顔だった。「黒を白に。裏を表に。この世界の常識をそっくりひっくり返してみたら、とっても面白いことが起きると思わない?」」
「裏を、表に……」
「前回は途中でしくじっちまったんだよなあ。知能が成熟しきる前に、なんらかのシステムトラブルが起きて、マザーが発狂しちまったんだ。発狂したマザーは、俺たちに「タイムズ・スクエアに襲撃をしかけろ」と命じてきたんだ。なにかおかしいと思ったし、ガイも彼女の様子が変だつってたんだけどな、結局、それに従っちまった。その結果、待ち構えていた警察やGPS軍とどんぱちだ。末はお前も知っての通り。あっさりお縄を頂戴して、アルカトラズ刑務所にぶち込まれた。たいそうなしくじりだったよ」
「黒を、白に……」
 意味深な言葉を舌の上で転がしてから、運転手は眉間に皺の寄った顔をジョニーに向けた。
「それは具体的にどういったゲームなのです? まさか、AIがどんなゲームを表世界に仕掛けようとしているのか、あなたがたも詳細を知らないなんてことはないでしょうね」
「あ? 知らねぇよ。知るわけねぇだろ。結果の分かっているゲームなんて、糞つまらねぇだろうが」
 運転手はなんとも言えない顔で、ジョニーの飄々とした顔を見下ろした。
「エニグマとローガンは、表世界を相手どり「オセロゲーム」を始めた。そのオセロゲームがどんなもので、どう進めるかを知っているのは、このマザーだけだ。俺は、彼女の駒だ。ゲームを終えたとき、この世界がどうひっくり返って、どうなっているのか、俺はそれを見てみたい。ゲームをやる前から、どういうエンディングが待っているのかを知っていたら、最初からやったりなんかしねえよ。……ま、それは俺が勝手に思ってることだけどな。兄貴やガイは、また別の目的があってゲームに参加している。ファミリーもそうさ。てめぇもてめぇだけの理由を、このゲームに見い出したらいい」
 ジョニーは黙りこんでしまった運転手をちらりと見あげ、物騒に笑った。
「このゲームに命を賭すだけの価値を見い出すことができねぇか? なら、お前が気に入りそうな面白いことを教えてやるよ」
 運転手が渋々と目線をあげるのを確認し、ジョニーは手の中のソフトをくるりと回す。
「フレデリック・ローガン、それに二十人のエニグマたちは、アウトラス・コーポレーションの元技師だ」
 運転手ははっと目を見開き、笑うジョニーの横顔を見つめた。
「チーム「エニグマ21」。アウトラス社が超高層型都市建設のために組織したチームの、エリート技師たち。……つまりこういうことだ。アウトラス社の元技師たちが、超高層型都市の完成間近に社を出奔し、突然、労働者街の一角を不法占拠して、「ストリップ劇場」なんてわけのわかんねぇ店の経営をおっぱじめた。そこで彼らは表世界――恐らくはアウトラス社を相手どって、なにかのゲームを始めようとした。黒に白に。裏を表に。この世界の常識を丸々ひっくり返すようなゲームをな。……もしてめぇが、フレデリック兄弟がパパとママから勝手に引き継いだオセロゲームをやるより、フレッシュ・ジュース屋の店長殿をやる方が面白そうだってあくまで主張すんなら止めねえよ。とっとと出て行っちまえ、糞野郎。……けどよー」
 ジョニーは、出て行く気配などとうに消した運転手を見あげて、紫色の舌をべろりと出して見せた。
「絶対、俺らのオセロゲームの方が、甘くてフレッシュだぜ? そうは思わねえか、変スーツ」

+++

 ガイは、巨大な貯水タンクと煉瓦造りの倉庫が建つ屋上を、その縁まで歩いていった。
 地上はビルの階層で言えば百階分ほど下にある。這い上がってきた風が薄着の青年の頬を冷たく撫でた。
「怪物の歌……」
 ガイは呟き、手の中の鉄骨人形ミッキーを見つめた。
 これは、母のエニグマが、幼いガイのために作ってくれた人形だった。
 ミッキーという名前は、マイケル自身の愛称だ。エニグマはいつもマイケルを「リトル・ミッキー」と呼び、マイケルお気に入りの鉄骨人形のミッキーを「ビッグ・ミッキー」と呼んだ。
 ――表世界の人間たちが家に押し入ったときのことを、ガイはあまり覚えていない。なにしろとても小さかったのだ。いったいどのようにして助かったのか、ガイは気づくと、壁に背をもたれて浅い呼吸を繰りかえしている母親の側に座っていた。
 エニグマは、彼女のミッキーの両頬を冷たい手で包みこみ、額に優しいキスをして言った。


 怪物の歌を教えてあげる。
 顔も、声も、名も知らぬ兄弟を、優しくそっと結ぶ歌。
 さあ、目を閉じて。明日、ママはいないけれど。
 ひとりぼっちの朝に歌えば、きっと兄弟が、虹のかなたから迎えに来るでしょう。
 だから、おやすみなさい。私のちいさな怪物さん。
 さようなら、愛しいフレデリックの子。


 その後のことはよく覚えていない。ビューティとジョニーは、ガイが死んだ母親の口にクッキーを押しこんでいたと言っていたが、それも覚えていない。
 それどころか、エニグマの顔すらもう覚えていないのだ。
(覚えていないのは、とても哀しい)
 大好きだった母親のことを思いだせないのは、この上なく薄情な裏切りに思えた。
 母を思いだせないかわりに、ガイはエニグマが遺したAI「マザー」をこよなく愛した。マザーは、兄弟がいても孤独を癒せずにいたガイに、いつも優しく語りかけてくれた。彼女がガイのエニグマだった。彼女がガイの母親だった。彼女のことがとても好きだった。
 そのマザーも、三年前に壊れてしまった。
 殺されたのだ。
 ――前回は途中でしくじっちまったんだよなあ。知能が成熟しきる前に、なんらかのシステムトラブルが起きて、マザーが発狂しちまったんだ。
 扉越しに聞こえてたジョニーの言葉が、脳裏によみがえる。
 ガイは嘆息した。真っ白に凍てついた息が、下から這いあがってきた風に乗って上空に運ばれていく。
(ジョニーは今でも、マザーが発狂したのはシステム内部に原因があったからだと思っている)
 だが、ガイは違う。ガイはマザーは誰かに殺されたと思っている。
 根拠があるわけではない。タイムズ・スクエアで捕まったあと、ガイはそのまま倉庫に帰還することなくアルカトラズ刑務所に送られてしまった。だがガイは、情報屋に頼んで棲家にしていた倉庫を調べさせ、マザーの生死を確認させた。マザーはすでに壊れていたが、ずいぶんな金を積んで雇った専門家に分析させると、マザーは発狂後、体内に自殺ウィルスを仕込み、死んだらしいことが分かった。だが、その自殺ウィルスはなにかおかしかった。成熟する前のマザーが自己精製するにしては、あまりに精度が高すぎたのだ。
 誰かが、自殺ウィルスを彼女に仕込んだとしか思えなかった。否、発狂したことすら、外部の者の仕業としか――。それが、ガイがアルカトラズ刑務所の鉄壁の中で出した結論だった。
 マザーは生命体ではない。だが生きている。人間とは違う定義の上にあっても、まぎれもなく「生きていた」のだ。
 彼女は、自殺ウィルスを仕込まれたとき、悲鳴をあげたろう。少女の姿をしたマザーは「死にたくない」と涙を流したことだろう。「殺さないで」と懇願したことだろう。
 その声を無視して、マザーを殺した「殺人者」。
(恐らくは、中古屋)
 あの局面で、マザーを殺すだけの頭脳を持ち得た者は、中古屋以外にはいない。
 だが、ロブではない。テッドでもない。他の二人の英雄たちでもない。彼らには、マザー自身が己にかけた多重のセルフ・セキュリティシステムを突破するだけのハッキング技術がなかった。
 裏通りには、誰も顔を知らない「五人目の英雄」がいる。
 アルカトラズの難攻不落の壁の中で、ガイはその中古屋の情報を求めつづけた。しかし手がかりは何もなかった。情報屋のアニーにも、知っている情報があれば提供するよう求めていたというのに、
 ――三年前、僕が依頼した情報は、見つかったかい? 情報料はもう渡した。君なら“壁の中”まで届けてくれると思っていたのに……残念だよ。裏通りでは未だに、“彼”の存在が明るみに出ていなかった。あの黒人の名前ばかりが有名になっていてねぇ。知っているだろう? 僕はあの男にはあまり興味がない。それよりも……。
 ――見つからなかったわ。
 ――……ふぅーん?
 ――チップは結構よ。受け取った情報料はこれでチャラにしてちょうだい……。
 アニーは優秀な情報屋だ。その彼女が、ただのひとつも情報を送ってこなかった。そんな人物が存在しないのならば、「存在しない」とアニーは言うはずだ。だがなにも言わなかった。となると、アニーは何かを知っていて、何かを隠していることになる。
 ――ローガンを許してあげてちょうだい。
 キャロラインの言葉をまた思い出して、ガイはくすくすと笑った。
「面白いことを言うよねえ、キャロラインってば。二十人のエニグマたちが次々と殺されていく中、ローガン・ストリップ劇場の奥に籠って、ひとりガタガタ震えていたローガンのことを、許してあげてちょうだい、だって。許すもなにも、愛する者を守ろうとすらしなかった臆病者の屑なんて、憎む価値すらないのにね」
 ひときわ強い風が吹き、ガイは逆らうように縞馬柄の帽子を深くかぶった。
「僕が興味があるのは、殺人者だけだ。エニグマを殺した表世界の刺客、マザーを殺した名も知らぬ中古屋。僕の大切なひとをいともあっさりと殺してみせた悪魔たちの腸は、いったいどんなに冷たい色をしているのか。僕は、それが知りたい」
 それがガイが、フレデリックのオセロゲームに参戦する唯一の理由だ。
 ガイはくすくすと笑うと、物言わぬミッキーの冷たい鼻先に口づけを贈った。
「さあ、ジョニーにああ言ったからには、本当に会いに行くとしようか。僕らの可愛いニナに」
 ガイはどこからともなく取りだした畳んだ傘をばっと開いて、頭の上に掲げると、それまで歩いてきたその延長線として、屋上の外へと足を踏み出した。
「ねえ、ビッグ・ミッキー?」
 そしてガイは、黒煙渦巻く第三裏通りの地上に向かって身を投げ出した。







…お返事 
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