小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.004 9



 ユンファは反射的にドアまで走り、開ける寸前で思い留まった。
「だ、だめだ、あたし、出れない。この部屋から」
 混乱しながらも、その部分だけは冷静に理解していた。
 なにせ昨日、何度も考えたことなのだ。どうやってこの部屋にいつづけようか、ジャンク映画を見ながら脳みそのどこかでそのことばかり考えていた。せめてウェイが帰ってくるまで。ウェイが帰ってくれば、次に会う約束などどうとでも取り付けられると。
 ウェイが留守である限り、電子執事がユンファを部屋に入れてくれるのは、この一度きり。
 一度出れば、もう入れない。
「……ニナ、あんた、あたしが外からインターフォン鳴らしたら、ドア開けられる?」
「分からない。開けたことないの」
 平坦に答えて、ニナは「テレビ。フルスクリーン表示」と言った。
 音声認識でテレビの電源が入り、部屋一面が真っ白な光に包まれる。まぶしさに目を閉じたユンファは、「いきなりフルスクリーン表示はやめてよ!」と文句を吐きながら、ふたたび目を開いた。
 そこには、冬枯れの下草で覆われた河川敷が広がっていた。
「ああもう……なんの番組よ、これ。テレビなんか見てる場合じゃないってのに」
 ユンファは枯れ草をヒールで踏みつけて、少し前に立つニナの背に声をかけた。
 ニナが右手を振りかえった。つられて視線を追ったユンファは口を閉ざす。先ほどまで壁のあった場所には、幅広の川がゆったりと流れていた。流れをさかのぼると、上流に古い鉄橋がかかっているのが見える。
「ここ、イースト川……? ……番組名はなに」
『クイーンズ・ボロ橋の崩落現場より。崩落時の状況を撮影した、イースト川定点観測カメラの映像(ニュース7)』
 答えるように文字が眼前に表示され、
「……っ!?」
 直後、橋を中心にすさまじい爆発が起こった。
 激しい爆風が同心円状に拡大してゆく。川の水が一瞬で吹き飛び、川底の汚れた地面がむき出しになる。川に停泊していた無数の船舶も、玩具のように空を舞い、橋からは離れた位置に立つニナとユンファの頭上に、巨大な影となって降ってきた。
「ちょ……っニナ――!」
「フルスクリーン表示解除」
 擬似映像の船が二人を押しつぶす前に、ニナが冷静に宣言した。
 途端、河川敷はただの部屋へと戻り、ユンファはソファの側にふらふらと尻もちをついた。
 ただの映像だ。あの船が自分たちを潰すことなどない。分かってはいるが、それでも冷や汗が出る。ユンファは止めていた息を思いきり吐き出した。
 フルスクリーン表示を解除されたニュース番組は、今や床の上の狭い範囲で立体映像を流していた。
 全く動じた様子もなく、ニナは早くも映像に釘付けになっている。ユンファもその隣ににじり寄った。
 撮影ポイントが変わっていた。先ほどの映像はイースト川定点観測カメラの映像と言っていたから、恐らく設置されていたカメラは爆破のあおりで壊れてしまったのだろう。今流れている映像は、撮影時間も事故後からずいぶんと経っているようだ。
 爆風で吹き飛ばされた跡には、巨大なクレーターが出来上がっていた。川の形も完全に変わっており、クレーターを避けるように二本の流れができている。橋は原状を留めていなかった。溶けた棒アイスのように曲がりくねって、クレーターの中に転がっていた。
 そして、クレーターの中心にいくつも並んだ青いビニールシート。
 シートの端からは、誰かの奇妙にねじれた足が見えていて、ユンファは目をそらした。
 ポリスジェットが停車し、レスキュー隊や警察官がうろついている。クレーター付近は、部外者の立ち入りを禁ずる黄色いテープで囲われ、カメラマンもやがて遠ざけられ――そこで映像が終わった。
『以上、クイーンズ・ボロ橋よりお伝えしました』
「……まだ詳しいことは分かってないってわけね」
 画面がスタジオに切り替わり、ユンファは額を押さえる。
「なんでこんな……なにがあったの……、事故? 事件? ウェイは、あんなところに……?」
 あの映像。極度の緊張感がよみがえる。あんな爆風を受ければ、普通死んでいる。
 だが見つかった死体には弾痕があったと言っていた。だとしたら事件だ。爆発の前に何かがあったのだろうか。
 青いシートから出ていた足、あれは誰のものだろう。
 震えが走り、額を押さえた手のひらで顔を覆い隠す。
「ちがうわよね……。どうせ、あの骨董女のところにでも行って……」
 混乱した頭がもっともありそうな理由を弾きだした。
 途端に、苛立ちがこみあげた。アニー。よりにもよって一番ありそうだと思ったのが、あの女の店だなんて最悪だった。
 ユンファは力なく腕を下ろした。
「……なんで、あたしがあいつなんかの心配しなきゃなんないのよ」
 ぼそりと呟くと、ニナの黒い瞳がユンファを捕らえた。
「心配って?」
「してない。そのうち帰ってくるわ、どうせ。あたしは知らない」
 真っ直ぐな瞳がうっとうしくて、ユンファは顔をそらす。それきりニナも口を閉ざした。
 不気味なほどの沈黙が部屋に流れた。
 遅々として進まない時間が、無音の部屋に降る。
 一秒、一分、三十分、一時間。それでもどうにか流れてゆく時間は、しかしじょじょにユンファを追いつめていった。
 たしかにウェイは、クイーンズ・ボロ橋に行くと言った。中古品の運送をすると言っていた。一緒に喫茶店に入ったのは、三時を回っていた頃だ。普通に考えれば、イースト川までは一時間もあれば行ける。往復したとしてもせいぜい三時間。夕方には帰っていてもおかしくない。
 無責任な男なのだ。保護者だとかなんとか言っておいて、ニナの夕食の心配も、朝食の心配もしない。放ったらかしで遊びに行く、ウェイはそういう男なのだ。
 きっとアニーのところにいる。だから大丈夫のはずだ。
 ちがう、大丈夫じゃない、アニーのところにいるならちっとも大丈夫じゃない。
 ――何を考えているのだろうか、自分は。
『ユンファ、今日はいろいろと助かった。ニナも喜ぶと思う』
 拳を握りしめ、ユンファは奥歯を噛みしめる。
「……?」
 床にうずくまったままのユンファの視界に影が落ちた。見上げるといつの間にかテレビは消えていて、ニナがぶかぶかのトレーナーをまとい、フードを頭からかぶって立っていた。
 首にはしっかりとマフラーが巻かれている。
「……な、に?」
 どう考えても外に出ようという格好だ。戸惑いにかすれた声をあげると、ニナはちらとユンファを見下ろし、平然と目を瞬かせた。
「ご飯を買いにいくの」
「……どこに」
「屋台。ウェイがいつも行く、チャーハン屋さん」
「ちゃ、ちゃーはん?」
 ユンファはぽかんとしてニナを見つめた。
 ニナはすかさず足元に転がってきたエッグの頭を撫で、ユンファを首をかしげて見下ろした。
「ユンファは、たべる?」
「あ……たしは……」
「ウェイは、たべる?」
 ユンファは言葉に詰まり、ようやく気がついた。
 馬鹿みたいだ。混乱のあまり、気づかなかった。
 ニナに何の説明もしていない。
 ウェイがクイーンズ・ボロ橋に行ったことを知っているのは、多分ユンファだけだ。少なくとも部屋を出る前、ウェイがニナに何か説明をした気配はなかった。ニナは気づいていないのだ、ウェイがいない理由を。だからあのニュースを見ても、無反応だったのだ。
 絶句するユンファの表情に気づいたのか、ニナが顔を上げた。
「ウェイ、いない?」
 端的な問いに、ユンファは答えることができない。
「……そう。ウェイは、いない」
 ニナは無言を肯定と取ったようだ、小さく繰りかえして、静かに窓の方を振りかえった。朝日に照らし出されて幻想的に輝く高層ビルの壁面を見つめ、人形のように端正な顔を金色に輝かせる。
「……さがさなくちゃ」
 ぽつり、零れるように落ちた一言に、ユンファは顔をあげた。
「探すって、あんた……」
 ニナはゆっくりと、ユンファを振りかえった。
 眩しい陽光を背に受けて、その姿は琥珀色の光に縁どられた黒い影と化す。
 ユンファは目を見張った。きれいだ、出し抜けにそんなことを思って、声が出ない。
 少女はそっと腕を伸ばし、射しこむ光の帯に愛しげに指で触れた。
「わたしは、ウェイをさがさなくちゃ。どうして? ……わからない」
 まるで自分に言い聞かせるように、静かに囁く。
「彼を、失ってはいけない。……なぜ? なぜでも」
 影の中で薄っすらと輝く瞳が、ユンファを見つめて瞬いた。
「手伝って、ユンファ」


 ユンファはニナを手伝って部屋中を引っくりかえした。
 昨日、おおかた整理をしなおしたので、どこに何があるかは大体把握できていた。それでも、それを探すのにはずいぶんと手間がかかった。普通はメモリカードに入っている物だ。だが裏通りの人間は、今でも予備としてそれをアナログに書き残していることがある。
 電話帳だ。
「……あった!」
 ユンファは見慣れた数字が並ぶ紙切れを嬉々として取りあげた。
 書かれているのは携帯電話の番号らしきものがいくつかと、固定電話らしいものがふたつ。電話の主の名前は書いておらず、となれば片っ端からかける他なかった。
 表世界で流されるニュースは、あれから完全に収束方向へと向かってしまった。死亡者が住民登録のない人間、つまり自分たちには無関係な裏通りの人間だと判明したことで、放送の必要なしと判断したのだろう。恐らく爆破の原因も死亡者数も、死亡者の名前すらも、今後ニュースで流れることはない。
 だとすれば、裏通りで何かしらの情報を得るほかない。だがユンファは元より、ニナも部屋から外に出て、ふたたび部屋に入れる確証がなかった。ユンファには自分の部屋があるからまだいいが、ニナはこの部屋で生活をしている、二度と入れなくなるなんて愚は冒したくなかった。電話帳はそれゆえの苦肉の策だ。
 電話番号を無表情に見つめるニナを、ユンファは横目で見つめた。
「……なに?」
 不思議そうに問われて、ユンファは顔をそらす。
「……何でもない。ええと……ロブ、そうよ、ロブがいいわ。あのブタゴリラめ、たまには役に立ちやがれ」
 ユンファは自分の携帯電話に、一番上に書かれていた携帯電話の番号を入力した。
「出ろ、あんたが出ろ。でないと中国一億年の歴史をもってして呪い殺すわよ……」
 接続音が聞こえてくる。だが、相手が受話器を取る気配はいつまでたってもない。
 ユンファは舌打ちし、次の番号を入力した。接続音。しかし繋がらない。
「……っなによ、友達の少ない男ね!」
 あっさりと携帯電話の番号のストックが終わってしまった。固定電話は、家かどこかの店舗の電話であることが多いので、あまりかけたくはなかったのだが、背に腹は変えられない。固定電話の最初の番号を入力した。
「アニーじゃありませんように。絶対にあのクソ女じゃありませんように」
 三度の接続音。ニナがじっとユンファの目の前に浮かんだ携帯電話を見つめた。その顔は真剣そのもので、ユンファは「大丈夫よ」と言いかけ、口を閉ざした。
 応答があった。
『アーレイズ・バー』
 最悪である。
 苛立ちでいっぱいになって、ユンファは口を固く引き結ぶ。何か喋らなくてはと思うのだが、そう思えば思うほど眉間に皺が刻まれて、何の言葉も浮かんでこない。
「……これは、なに? なぜ、しゃべるの?」
 黙って見ていたニナが、不思議そうにユンファを見あげた。
 まるで電話というものすら認識していないような問いかけに、ユンファはまごつく。
 今の声を拾ったのか、アニーが恐らく紫煙を吐き出したのだろう短く息をついた。
『どちらさま?』
 ニナは押し黙るユンファから視線を外し、本能的に電話に向かって答えた。
「あなたは、だれ?」
『こちらが先に訊ねたのよ、お嬢さん』
「……教えていいかわからないの。ウェイがいないから」
『――ウェイ?』
 声色が変わった。親しい者の名を呼ぶときの色。
 衝動的にカチンときて、ユンファは携帯電話の「映像」を「オン」にした。あちら側からも承認があったようで、電話のモニタから立体映像が出現した。
 明らかに染めたと思われる赤色の髪、古くさい化粧が良く似合う古風な顔立ち、妙に色めいて見える仕草で煙草を口から放し、煙を吐き出したのはアニーだった。
『……どなた?』
 平坦な問いかけは、ニナにではなく、ユンファに向けられたものだ。音声だけの通話時には一度も声を発しなかった二人目の人物に、単純な驚きを覚えたのだろう。
 仕方ない、初対面だ。ユンファは彼女の顔を知っているが、アニーは知らない。ウェイの後をつけまわしている色気のない小娘の顔など。
『あなたは、ニナね? アニーよ。この間、酒場に来たでしょう』
 答えないユンファに見切りをつけたのか、アニーは改めてニナに語りかけた。
 ニナのことは知っているわけね、と奥歯を噛みしめ、ユンファはふたたび暴走しそうになる感情をなんとか抑えこみ、会話に割りこんだ。
「初めまして。あたしはユンファ・フリーマン」
『そう。なにかご用?』
「……ウェイ、そっちに行ってない?」
 アニーは屈辱に震えた声など気づいてもいないのだろう、あっさりと首を振った。
『いいえ。まだ開店前よ』
「そう……じゃあいいわ」
 落胆したのか、安堵したのか自分でも分からないまま、ユンファは通話を切ろうと携帯電話に手を伸ばす。
『ウェイが、どうかしたのかしら』
 不意に、切られることを恐れたように、口早な問いかけが来る。
 ただの客を心配してそんな動揺した声を出すわけ? ユンファは口許を歪ませる。
「別に。……彼の部屋に泊まったの。そしたら電話帳が見つかったから、気まぐれにかけただけ。また暇があったらかけるわね、ええと、ミス・アニー? それじゃあ」
 アニーが何か言おうとするのを遮って、ぶつりと接続を切ってやる。ユンファは受話器を睨みつけたまま、むっすりと口を開いた。
「……なによ。文句ある? 分かってるわよ。馬鹿よ、馬鹿です。あたしは馬鹿なの」
 理解できなかったのだろう、ニナはただ首を傾げる。
 ユンファは溜め息と一緒に首を振ると、今度は二番目の番号に電話をかけた。今度ロブにかからなければ、ロブの存在などウェイにとっては鼻紙以下ということだ。ざまぁみろ。鼻で笑って接続を待つと、今度も相手につながった。
『…………』
 こちらが先に名乗るのを待つような気配。
 ユンファはすぅ……っと大きく息を吸い、受話器に向かって思いきり叫んだ。
「ブタゴリラァアアア!!」
『……っな、なんだ!? ユンファ!? ユンファか!?』
 どうやら鼻紙程度には価値を見出されていたようだ。ふん、とユンファは鼻を鳴らした。







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