小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.004 7



 ユンファは重くなった気分を抱え、楽屋に戻った。ドアを開けると、途端にストリッパーたちの笑い声が溢れた。耳に指を突っこんで、あからさまな溜め息をつく。
「なによ、溜め息ついて失礼な子ね」
 さきほど売り言葉に買い言葉の口喧嘩をした男性ストリッパーに尻を叩かれ、ユンファは唇を尖らせた。隣の化粧台に腰かけて、ぶすっと頬杖をつく。
「……今、中古屋が廊下にいた。たくさん。なにあれ」
「あら、ここまで来てたの?」
 ルーカという名の男性ストリッパーは、大して驚かなかった。
「今日、中古屋と武器商人の間で、大規模な武器の受け渡しがあるんですって。購入資金の一部を、ローガンが出すってんで、エニグマがローガンの代理人として取引に立ち会うことになったらしいわ。ここ出るの遅れてたから、迎えに来たんでしょ」
「エニグマ姉さん、そんなことまでやらされてるの?」
 ユンファは眉をひそめた。エニグマは売れっ子のトップストリッパーだ。ひとたびステージに上がれば、美しい肢体と情熱的なダンスが客を熱狂の渦に巻きこむ。舞台裏でも性格がいいから、ユンファのような妹分だけでなく、トップの座を争い、足を引っ張り合っているはずの同輩からも好かれていた。
 そして彼女が、店のオーナー、ローガンのお気に入りでもあるということは、ストリッパーの間では有名な話だった。
「トップストリッパーってのは大変なのよ。自分のことだけじゃなく、ステージ全体の利益も考えなきゃならないんだから。ローガンの秘書役だって仕事のうち。いつまでもフレデリック兄弟が暴れまわってんじゃ、物騒でステージひとつ開けやしないしね」
「それは分かるけど。でもそんなの、ローガンが自分で行けばいいじゃない。なんで姉さんが……危ない目に遭ったらどうすんの。……大体、前から疑問だったのよ。なんでそもそもLENOなんてものが、ローガン・ストリップにあるわけ? あれがなけりゃ、もう少しここも安全なのに」
「知らないわよ、そんなの。あんたのウェイちゃんにでも聞いてみたら?」
「あいつら中古屋は秘密主義なの! なんっにも教えてくれないんだから!!」
 ユンファはウェイに出身地を訊ねたときのことを思い出し、憤慨した。
 そういえばエニグマに「中古屋のことは他のストリッパーたちに聞け」と言われていたことを思い出し、ルーカへと身を乗り出す。
「ねえ、兄さんは中古屋に詳しい?」
「姉さんって呼びなさい、このアマ。……まあ、見習いのあんたよりは詳しいかもね」
「前にエニグマ姉さんから、中古屋はほとんどがマンハッタンの表通り出身だって聞いたことがあるの。あれって本当? ウェイに聞いたら、サンディエゴ出身だって言われたんだけど」
 ルーカは短く剃った眉を持ちあげた。
「出身ってのは、生まれた場所ってことじゃなくて、来歴って意味じゃないの?」
「来歴?」
「裏通りに来る前、どこにいたのかってことよ」
 ユンファは「ああ、そういう意味だったのか」と拍子抜けした。
「じゃあサンディエゴ出身ってのは、あながち嘘ってわけでもないのか……」
 少しだけ気が休まった。さっきは、真面目に訊いたのに嘘で返されたと思って、かなり腹が立ったのだが。
「でもなんでエニグマ姉さん、中古屋たちが“マンハッタン”の表通りから来たって断言できるの? 他の都市から来た可能性だってあるのに」
「エニグマは以前、中古屋とお付き合いしてたから、その人から聞いたんでしょうね」
「うっそ、誰!?」
 ユンファは目を真ん丸くした。エニグマが過去に中古屋と付き合っていたなど初耳だ。
 ルーカは周囲をうかがってから、極上の秘密を明かすように、ユンファの耳に囁いた。
「ロブ」
 吹きだした。
「あのブタゴリラぁ!? 姉さん、ちょっとセンス最悪……っアッハッハ……!!」
「しー! 内緒なのよ、一応! 彼、ほら、別の女と結婚しちゃったから。トップ・ストリッパーが中古屋にふられた経歴があるなんて知れたら、かっこ悪いでしょ。あんたも内緒にするのよ?」
「そりゃ確かにかっこ悪……っ、あっは、最高……!! 美女とゴリラ……! あのゴリラが……!?」
「内・緒・に・す・る・の・よ!?」
 両手で口を押さえながらも、じたばた暴れるユンファの頭を、ルーカは掌と叩いた。
「わ、分かった分かった。で、どこの動物園の檻から抜けてきたって?」
 まだクツクツと笑いながら、ユンファは手をひらひら振って、先を促す。
 ルーカは生意気な妹分を睨みつけてから、予想外の台詞を口にした。
「アウトラス社の技師だったそうよ」
 その言葉に、一発で笑いが止まった。
「アウトラス社? アウトラス社って、まさか、あのアウトラス社?」
「そう、アウトラス・コーポレーション。世界最高峰の機械開発会社。マンハッタンのど真ん中にどーんと建ってる、あの会社よ」
「真的!? 了不起!(本当に!? すごいじゃない!)」
 それは想像していたより、はるかにとんでもない経歴だった。
 アウトラス社は、超高層型都市建築にも携わった知らぬ者のいない機械開発会社だ。雲をも貫く本社ビルは、マンハッタンの象徴と言ってもいいほどの巨大建造物である。あのビルの中では、世界各地から集められた最高水準の知能と技術を持つ者たちが働いている。現代社会の礎を築いたとすら言えるアウトラス社には、世界政府であるGPSすら頭が上がらないというから、その技師ともなれば、表世界での地位は計り知れない。
 しかしロブや、あの墓場荒らしみたいに不気味な連中が、世界屈指の大企業アウトラス社の技師だったとは、到底信じられなかった。
 ――ウェイもそうだというのだろうか。
 着古したモスグリーンのコートや両手の指に、いつも黒い機械油をつけたあの男。
 彼が昔、アウトラス社で働いていたなんて、冗談で想像することすらできない。
「全員じゃないわよ。中古屋が出来た当初からいるメンバーは、ほとんどがアウトラス社の技師出身だって話。あんたのウェイちゃんがそうだったかは知らないわ」
 ユンファの疑問に答えるように、ルーカがそう付け足した。
「当初からいるメンバー……って、中古屋ができたのっていつ頃?」
「ある程度、組織化されたのは六年前ってとこかしらねぇ?」
「意外。そんな最近の話なんだ……」
 ユンファは、ふむ、と腕組みをした。
 アウトラス社傘下の工場群が有する、巨大な機械廃棄場。そこに捨てられた廃棄物を修理、改造して、表世界の企業や個人に安価で売買する、中古屋。違法の商売ながら、表世界の弱小企業にとってはなくてはならない存在だ。そのせいか、何となく、ずっと昔からある商売だと思っていた。
「ってことは、つまり……ええと……アウトラス社の技師様たちが、裏通りに来たのも六年前ってことよね。何かあったっけ、六年前って……」
 アウトラス社の技師が裏通りで中古屋なんてやっているということは、アウトラス社を辞職、もしくは解雇されたのだろう。だが、ただの辞職だったなら、アウトラス社の元技師という肩書きがある、次の職にも困らなかったはず。何故、世界の暗部たる裏通りに堕ち、違法な商売に手を染めているのか。
「アウトラス社……六年前……、2095年……?」
 ユンファは、啓示を受けたように目を見開いた。
 先ほど表世界のキュービックビジョンで見た、工場から脱走したAI搭載ロボットのニュース。そして、AIについて不自然なほど淡々と語ったウェイ。
 ユンファはさっき、彼があの話と無関係ではないのではと直感した。
 関係があるのだ。
 そう。関係あるのだ、きっと。
 思い出した。2095年、アウトラス社。
 それは、”最初のヒューマノイド”がアウトラス社から脱走した年だ。
「……これだ」
 思ってもみなかった大きな収穫に、ユンファはぺろりとオレンジ色の舌で唇を舐めた。
「あのむっつり中古屋め、ついに手がかりを掴んだわ……っ、見てなさい……!」
 満足げに微笑み、席を立つ。今日はこれで帰るつもりだった。これからニナの荷物を届けに、ウェイの部屋へ行かなければならない。ついでに部屋を漁ってみたら、もう少しヒントが見つかるかもしれない。上手くすれば、弱点のひとつやふたつ――。
「なに。また男の尻、追いかけに行くわけ?」
 不意に、話を遠巻きに聞いていたアリシアという名のストリッパーが口を挟んできた。
「ほんと暇ねぇ、ユンファ」
 はっきりと嘲笑を向けられて、ユンファはむっとアリシアを振りかえった。
「休暇をどう使おうと、あたしの勝手でしょ。安心なさいよ、あんたは追いかける相手もいないでしょうけど、追いかけてくれる男だって、便器の中にすらいないから」
 彼女もまた見習いストリッパーだ。大方のストリッパーとは上手くやっているユンファだが、アリシアとだけは入った当初からそりが合わなかった。彼女の方が半年早くストリッパーになったのだが、一向に芽が出る気配がない。そのことが二人の間で妙な確執となっているのだ。
「あら、私は暇じゃないの。毎日、姉さんたちについて、ダンスの腕を鍛えてるんだから。何せほら、あんたみたいに魅力的な胸を持ってないから……体で勝負できない分、実力の方を磨かなくちゃならないじゃない?」
「何それ。あたしが胸だけのストリッパーだって言いたいわけ?」
 火花をばちばちと散らせる二人の真ん中で、ルーカが呆れたようにする。
「やめなさいよ、あんたたち。見苦しいわね……」
「だってルーカ兄さん、こいつ、腹が立つんだもの!」
 アリシアは怒りを爆発させ、いきなり化粧台に置いてあった櫛をユンファに投げつけた。
「聞いたわよ、あんた表世界の住民権持ってるんですって!? 知ってるんだから、私!」
「だから何よ。別に隠しちゃいないわよ、そんなの」
 飛んできた櫛を手で払って、ユンファは舌打ちした。だが、その態度がまたアリシアの感情を逆撫でしたらしい、彼女は椅子を力任せに蹴飛ばした。
「私は真剣なの、金に困ってんの、ユンファと違って必死なの! フレデリックのせいで店が臨時休業しちゃって、こんな状態がずっと続きでもしたら、もう生きてけない。それをなに? “休暇”ですって? 表世界の人間が、道楽でストリッパー目指してんじゃないわよ!」
「……道、楽……?」
 前半を適当に聞き流していたユンファは、最後の一言に衝動的な怒りを覚えた。
「道楽なんかじゃない。あたしは表世界の人間でもない。あんな連中と一緒にしないで」
「同じ見習いのくせに、もうマンションに部屋持ってるあんたが、どの面下げてそんなこと言うわけ? 私なんか、ここで薄掛け一枚で寝るしかないってのに……ああ、余裕たっぷりな人は羨ましいわぁ!」
「ちょっと、アリシアったら」
「――余裕なんか、ない!!」
 ルーカが仲介に立とうとするのを遮って、ユンファは拳を化粧台に叩きつけた。
 確かにユンファは、金を稼ぐために仕方なくストリッパーになったわけではない。アリシアのように日々の生活を心配するほど、金に困ってもいない。
 ユンファがストリッパーを志したのは、ただただ純粋な気持ちからだった。
 初めてストリップ・ステージを見たのは、一年ほど前のことだ。
 あの日、ユンファの世界は、魔法がかけられたみたいに一変した。
 熱狂と興奮が渦巻く「ローガン・ストリップ」。狭くてみすぼらしい入り口からは想像もつかない、巨大で豪奢な舞台装置。目が眩むような照明を全身に浴びて、一流のストリッパーたちが激しく、美しく、そして淫らに踊っていた。
 卑しさなんて少しも感じなかった。彼女たちのダンスには気高さすら感じられた。
 光の中で、裸体が踊る。無駄のない筋肉は野生的で、滴る汗はぞくりとするほど官能的。男だけでなく女も目立つ客たちは皆、テーブルから身を乗り出して、歓喜に吼えていた。
 全てが機械化された世界の裏側で、ただ己の肉体だけを武器に、人々を熱狂させるストリッパーたち。激した感情の失われた世界の裏側で、興奮のままに叫び狂う客たち。
 見たこともない世界が、そこには広がっていた。
 人間たちの激情がとぐろを巻く、赤裸々で、欲望剥き出しの世界。
 胸が激しく高鳴り、気付けば、音も何もかもが耳から消失していた。
 そして、ただ目に焼きつけられたのは、あの眩しいストリッパーたちの舞台。
「あたしはあのステージに似合う、誇り高いストリッパーになりたい、はやくあの舞台に立って自分を試したい……! あんたには生活がかかってる、そりゃご苦労様! 確かにあたしは金には困ってないし、表世界の住民権だって持ったままよ。でもあたしだって、あたしだけの理由で必死なの! それを知りもしないで、どうでもいいひがみであたしを侮るのはよして……!」
 気づけば大声を張り上げての口論に、違う話で盛り上がっていたほかのストリッパーたちまでがぽかんとしていた。
「……っ」
 ユンファの激怒に圧倒されていたアリシアは、先輩ストリッパーたちの視線に気付いて、顔を真っ赤にさせた。悔しまぎれに、もはや中身のないただの侮辱を吐き捨てる。
「……あ、あんたみたいな胸だけ女、誰も見向きもしないわよ!」
「もうよしなさいって、アリシア」
「前から思ってたけど、ユンファって下品なくせに、色気がないのよね。ウェイって中古屋が見向きもしないのもうなずけるわ」
「ウェイのことは、今、関係ない」
「関係あるかもよぉ。お気高いトップ・ストリッパーを目指すってんなら、色気をもっとつけた方がいいんじゃない? あの中古屋も思わず振り向くような」
 不意に、アリシアが思いつきで手を叩いた。
「そうよ、色気のお勉強ならアニーを見てきたら?」
 アニー。その名前に、ユンファは肩を震わせた。
「あんた、前に言ってたでしょう。ウェイはアニーって女と仲が良いって。忘れてたんだけどぉ、この間たまたま彼女の店に行く機会があったのよ。そしたらさ、ちょうどウェイって中古屋が来てたわけ」
「……ふーん。あいつ、常連らしいから、そりゃいるんじゃない」
 辛うじての答えに、アリシアは意地悪げに舌なめずりした。
「キスしてた」
 凍りつくユンファにますます悪戯心を刺激されたのか、アリシアはルーカが制止するのも無視して、悪意たっぷりの笑い声をあげた。
「あたしたちが店に入ったら、離れちゃったけどね。あれは見たところ、アニーの方が仕掛けたって感じ。でもその後もあの中古屋ったら、じっとアニーのこと見つめちゃって……分かるわぁ、彼女すごい色気あるもの。仕草がいちいち色っぽいのよね。あれじゃ、あんたみたいなガキ、見向きもされないのは当たり前――」
 パンッ、と乾いた音が響いた。
「ちょっと、ユンファ!」
 ユンファはアリシアの頬を叩いた手を胸元に引き寄せ、
「……帰る」
 きびすを返して、部屋を横切る。その段になってようやく奇声を上げはじめたアリシアを無視し、ユンファはドアの開閉パネルに拳を叩きつけ、廊下に飛び出した。

+++

「助けて……!」
 少女は悲痛な悲鳴を上げた。
 必死に伸ばした手の先には、路地の両脇に迫った壁によって切り取られた、光輝く風景。
 絵画のように美しい表通りを、幾人も、幾百人も通り過ぎてゆく。
 誰も路地の闇から伸ばされた幼い手には、気づかない。
 いや、気づいていた。
「誰か、助けて……!!」
 何人もの人間が悲鳴に気づいて、路地を振りかえった。
 気がついたのに。目が合ったのに。
 見捨てられた。
 目の前を過ぎてゆく幾人、幾百人もの人間に、幾度も幾度も。
 気が狂うぐらいの回数だけ、見殺しにされた。
 獣みたいな奇声を上げて、少女は地面に転がった銃を死に物狂いで掴んだ。口端に狂気の滲んだ笑みが宿る。助かる、これで助かる、そう思った直後、背後から伸びてきた手が強引に銃を奪い取って、逆に少女の腹にその銃口を押しつけた。
(ああ、表世界の人間って、人を犯すときすら無表情なんだわ)
 恐怖と狂気とが混在した意識の奥で、少女は初めてその事実に気づいた。
 大人しくしていろ、人形みたいに冷たい顔が脅し文句を口にする。
 お前のような“生き娼婦”を買う客はもういない。セクシャロイドの方がはるかに儲けが良い。孕む心配もなければ、よほど客の好みに合った技術を提供できる。見ろ。今だってあんなに多くの人間が、お前に見向きもしないで去ってゆく。誰もお前には興味がないんだよ。――耳を塞ぎたくなるような言葉の暴力。心臓を貫くほどに酷い台詞なのに、やはり体の上に覆いかぶさった男たちからは表情がごそりと抜け落ちている。
「た、すけて……」
 両腕の手首を束縛される。強張った脚に複数の手が這う感触。少女は気持ち悪さに頭を地面にこすり付け、わずか数歩先の表世界を、通り過ぎてゆく人々を、感情の失せた眼で見つめた。
「……だれか……」
 正義の味方なんていないと思ってきた。
 本当にいないとは、思ってもみなかった。


 ユンファは自室の寝台に腰かけ、腰に下げたままの武器を無造作に取り上げた。
 ハートマークがついた火炎銃のグリップを握る手が、無意識のうちに震えている。忘れたくても忘れられない記憶が、いつもその手を震えさせる。ユンファは花柄がプリントされた布団に銃を放り捨てて、自分も背中から寝台に倒れこんだ。
 気分が沈んだ。どうしようもない虚脱感が襲ってくる。
 白い天井を見つめていると、隙をつくように、またあの中古屋の顔が浮かんだ。まるで映画のスクリーンがそこにあるみたいに、ウェイの顔が現れては消えてゆく。
『表世界の人間が、道楽でストリッパー目指してんじゃないわよ!』
『あんたみたいな子供、見向きもされないのは当たり前――』
『あんなに多くの人間が、お前に見向きもしないで去ってゆく。誰もお前には興味がないんだよ』
 ユンファはサイドテーブルの目覚まし時計を掴み上げ、天井目掛けて投げつけた。
 時計はばらばらに分解し、尖った破片を容赦なく床にばらまいた。
「……畜生……」
 ぐっと身を丸めて、ユンファは歯を食いしばる。
 そして、苛立ちを吹き飛ばすように勢いよく身を起こした。


「……あたしよ。ユンファ。寒いから、さっさと開けて」
 インターフォンを鳴らして名前を告げると、しばらくもせず電子執事がドアのロックを外した。ウェイがあらかじめユンファの来訪を伝えておくと言っていたのは、本当だったようだ。
 溜め息が漏れた。無機質なドアに額を押しつけ、混乱している頭を無理やり冷やす。そうしてから黒髪を手で掻きむしり、ユンファは思い切ったようにドアを開けた。
「……はいはい。ニナちゃん、ユンファお姉さまがあんたにプレゼントを持っ――!?」
 部屋に入ったユンファは、ぎょっとした。
 出かけるときには片付いていたはずの部屋が、泥棒が入った後みたいに散らかっていた。
「な、……何よ、これ!?」
 半端な散らかりようではない。本棚の中身は見事なまでに全て床に散らばっていたし、台所の物入れや冷蔵庫からも簡易食材があふれ出していた。
 ゴミ山の中にぽつんと座っていたニナが、ユンファに気づいて、口を開いた。
「……そーじ」
「……は?」
「片付けでもすれば、って言った……」
「はあぁ!?」
 ユンファは脳みそをフル回転させた。「片付けでもすれば」というのは、確かにユンファが出しなに言った台詞である。さすがのユンファも途方に暮れて、頭を抱えてしまう。
「まさかあんた、シャワーだけじゃなくて、掃除の仕方も知らないっての!?」
「調べた……」
「調べても、掃除の仕方なんて載ってないわよ。ばかでしょ、あんた!」
「ばか……?」
「……調べんなぁ!!」
 物で散らかった床を越え、ニナの手から辞書を奪い取ると、ユンファはそれを壁に向けて放り捨ててやった。
「ざまぁみなさい、こんなことしてまったく――」
 満足気に手を叩き、ユンファは言葉を途中で切った。
 どうせぼんやり辞書を見送るだけだろうと思っていたニナが、すっくと立ち上がって、壁際に落ちた辞書へと駆け寄ったのだ。それどころか辞書をそっと拾いあげ、小さなその両腕にぎゅっと抱きしめた。
 表情も、言葉もない。なのに何よりもその仕草が、あれが大切なものだと雄弁に語っていた。
 ――ウェイがあげたんだ。
「な、によ。そんなぼろくさい辞書。掃除するってんなら、それを最初に捨てれば? ……ほんと最悪。こんな散らかして……あたしがウェイに怒られるじゃない」
「ウェイ、怒る?」
「怒るでしょ、知らない。ああ、あんたには怒らないかもね。でもあたしは怒られんのよ!」
 衝動的に怒鳴って、ユンファは自分で自分自身の言葉に深く傷つけられた。
 そうだ、ウェイはさっきもユンファに、少女のことで激怒した。あの時は深く考えなかったが、ウェイはニナを「気色悪い」と言ったユンファに、驚くほど明確な怒りをぶつけたのだ。
 少女のために、ウェイは怒った。
 頭の線がどこかで切れた。
「……なんなの、あんた。何でいきなり割りこんでくるわけ? あたしが先にあいつのこと追ってたのに……、いきなり、あんた、本当に何なの!?」
 少女とは無関係のことで塞いでいたのに、苛立ちをぶつける絶好の標的を目の前に見つけて、嗜虐的な感情がわきあがってくる。ニナはそれに気付きもしないで、無防備に首を傾げた。
「保護者。ウェイがそう言った」
「ウェイが? ウェイ本人があんたにそう言ったわけ? ますます胡散臭いじゃない!」
「なぜ?」
「ただでさえ胡散臭い中古屋が、いきなり部屋に女の子飼ってて、しかもその子に「俺は保護者だ」って教えこんでんだから、胡散臭いに決まってんでしょ! ……しかも警察に追われてたって、何それ!」
「けーさつ?」
「追われてたんでしょ、警察に!」
 相変らず要領を得ないニナに、どろどろした苛立ちが募る。
 無性に少女を傷つけてやりたかった。ウェイと一緒に、真剣に服を選んだやったことが、今さら腹立たしかった。何故、少女のために服など買ったのだろう。どうしてわざわざ荷物を運んできてやらなければならないのだろう。こんな、ウェイに守られて、ぬくぬくしている奴なんかに!
「あんた、見るからに表世界出身って感じよね。シャワーのときに気づいたけど、肌もつやつやで、怪我ひとつなかった。まるでお人形さんだわ。さぞかし良い暮らしをしてきたんでしょうね? もしかしてどっかの大富豪の令嬢だったり? それでウェイに誘拐されて? だから警察に追われてるとか? かわいそう、こんな裏通りまで連れてこられて、薄汚い部屋に閉じこめられちゃって……っ」
「ちがう」
 不意に、きっぱりとした声がユンファを制した。
「ちがう。ウェイは、助けてくれたの」
『あんたの中古屋さんとその子が、手を繋いで逃げてくのを見かけたんだよ』
 ユンファは引きつった笑いを浮かべた。
「馬鹿じゃないの。誰があんたなんか助けるってのよ……っ」
 小刻みに震える両手を持ち上げて、引きつった顔を覆いかくす。
「誰も助けてなんてくれない。そんな正義の味方みたいな真似する奴なんて、どこにもいない。この世界には、正義の味方なんて存在しない。ウェイだってそうよ! あいつはあんたのことなんか助けたりしない……!」
「ウェイは、助けてくれた」
「嘘よ……っ」
「助けてくれた」
「――嘘……!!」
 ユンファは悲鳴に似た声で叫んだ。
 心が砕ける。白い天井にぶつけてやった目覚まし時計みたいに、破片を無様に撒き散らして。どうしようもなく目に浮かぶ光景が、ユンファを粉々に打ち砕く。
 ウェイは少女の手を取って、ニナを助けたのだ。その姿をエニグマが見ていた。
 そして今もなお、この部屋で、少女を保護して、守っている。
「何で、どうしてよ、なんでウェイがあんたを助けるの!? 何であたしのことは見向きもしないくせに、人形みたいな気色悪いあんたが、助けてもらえるのよ!」


「私のことは、助けてくれなかったくせに……!!」


 切り取られた風景の中、ひとり、立ち止まった男がいた。
 ほんのわずかな少女の声に反応して、男は路地を振りかえる。
 通り過ぎていった幾百人もの人間たちの中で、ただひとり足を止めたその男は、表世界にいるにしては薄汚い格好をしていた。
 動きに合わせて重たげに揺れた、モスグリーンのコート。
 何の表情も映さない、緑色のサングラス。
 怖いぐらいに冷たい表情をしていた。自分に覆いかぶさり、人間としての尊厳すら奪おうとしている、目の前の表世界の男たちと同じ顔。
 込みあげてきたのは、憎悪だった。
「見るな……、見るなぁあー……!!」
 お前みたいな表世界の男になんて、助けられたくない。
 こんなに無様な姿を、そんな無関心な顔で見られたくない。
「どっか行けぇえー……!!」
 悲痛な叫びを聞いた男は、表情一つ変えることなく、少女の望む通りに顔をそむけた。
 そして、何事もなかったように、光輝く表世界へと去って行った。
 一度も、振り返ることなく。


 ウェイはユンファの手は取ってくれなかった。
 冷たい顔をしていた。何も感じなかったみたいに去っていった。
 ニナのことは助けるくせに。アニーとはキスするくせに。
 自分だけが。昔も、今も、自分だけが見向きもされない――!
 記憶に囚われ、気づけば硬直していたユンファの膝に、小さな手がそっと触れた。
 見下ろすと、ニナの、表世界の人間みたいに無表情な顔が。
「……っ」
 ニナの体が床に吹っ飛んだ。他でもないユンファが突き飛ばしたのだと自覚したのは、腕に鈍い痺れを覚えてからだった。
 まるで自分のほうが突き飛ばされたみたいに、ユンファは声ひとつ出せなかった。一方のニナは床に転がったまま、突かれた肩を少しだけ驚いた表情で押さえている。部屋の隅でくるくる回転していたエッグが、慌てたようにニナへと走り寄ってきた。
「……あ……」
 責めるみたいに、青い単眼がユンファを見上げた。ついでにガンガンと足に体当たりをされるが、それでもユンファは身動きひとつできなかった。







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