小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.004 3



 シャワー【shower】複数の穴の開いた噴出口から湯や水を注ぎかける装置のこと。
「……いやいやいや」
 凍りついた脳みそが弾き出した、現実には何の役にも立たない辞書的知識を脇に置いて、ウェイは頭を抱えた。
 全く予想外の話である。それでいて今まで気づかなかったのが馬鹿みたいだった。
 お湯が出ないこともあって、この三日間ウェイはシャワーを浴びていない。言い訳をするようだが、裏通りでは四、五日浴びないことなどざらだ。毎日飽きもせず湯を浴びるのは日本系人種ぐらいなもので、大方の人間の言い分は「どうせ一歩外に出ればすぐに汚れるんだ」である。
 とはいえ、確かにロブの言う通りだった。
 ニナは女の子だ。
 それも、恐らくは表世界の出身であろう、病原菌に対する免疫ゼロの女の子である。
 情けないにもほどがあった。よりにもよって、顔がマウンテンゴリラの、どう贔屓目に見ても繊細さとは程遠いロブに指摘を受けるなんて。
 ――シャワーだって?
 混乱したまま、シャワー室のある寝室の方を振りかえったウェイはぎくりとした。半開きになったドアの向こうから、少女が顔だけを出して、じっとこちらを見つめていた。
『気づいていないのは、どちらかな?』
 思いがけず、ガイと名乗った青年の言葉が脳裏を過ぎって、ウェイは目を見開いた。
「……っ」
 驚きに腕が震えて、手にした煙草が灰を落とす。ウェイは慌てて灰皿を引き寄せた。
『さっきからニナが助けを求めているのに、お前はまるで無視』
 煙草を皿に押しつけ、ウェイはニナに再び視線を向けた。
 少女は何の感情も篭らぬ眼差しをこちらに向けている。
 いつもの目だ。いつもニナはウェイを見ている。こうしてじっと、何を言うでもなく。
 これが助けを求める目だとでも言うのだろうか、あのガイとかいう男は。
「……どうした?」
 落ち着かない気分になり、逃げるように問いかけると、少女は一歩ウェイへと近づいてきた。
「おっさん……」
「帰った。またそのうち家に行くけどな。ゴリラの檻を覗きに」
 ロブの行方を問われたと思ったわけではないが、人形のように端正な顔が「おっさん」と表現するのが少し笑えて、ウェイは冗談まじりに答える。
 ニナは納得したのかウェイから視線をそらした。
 その隙に、こっそりと、ニナの黒い頭を、躊躇い躊躇い観察してみる。
「…………」
 確かに脂っぽいと言われればそうかもしれない。それに、最初に見た時は骨董人形と見紛うほど美しかった髪も、今は毛先が飛んだりはねたりしている。髪だけでなく服や靴もくたびれて見えたし、肌も艶をすっかり無くしている気がした。
「お前、この三日間、シャワー浴びたか?」
「シャワー?」
 ニナは目を瞬かせ、小脇に抱えた辞書をめくる。この調子で浴びている訳がなかった。ウェイは苦々しく顔をしかめた。
「……あー、いい。教える。辞書じゃ分からないから」
「何故?」
「世の中には辞書引いても分からないことが、山ほどあるんだよ」
 何を偉そうに。自分自身に呆れながら、ウェイは気を取り直して少女の手を掴んだ。
 文句一つ言わない少女を寝室に引き入れて、ベッド脇にあるもう一つのドアの前に立つ。
「これがシャワー室。狭いけど、我慢しろ」
 ドアを開けると、床が一段低くなった狭い空間が現れた。壁と天井にいくつかの噴出口が設置されており、足で踏むスイッチで水が出る仕組みだ。
「で、ここを踏むと水が出るから。分かるか?」
 ニナは食い入るようにスイッチを見下している。一応、説明は理解したようだ。
「今はお湯が出ないけど、あとで修理してもらう。湯水制御は大家が一括で行ってて、修理も彼女に頼まないとならないんで面倒なんだ。早めに連絡入れるから、それまでは……て、ちょっ!」
 使い方の説明半ばで、ニナがシャワー室に突入した。
「……おい――!」
 先ほどまでユンファが使っていたシャワー室の床は、まだ軽く濡れていて、少女は面白いぐらいあっさりと足を滑らせた。とっさに少女を受け止めようとしたウェイだったが、ニナが藁をも掴む勢いでしがみついてきて、それがあまりにがむしゃらだったために、足が絡んでウェイまで体勢を崩した。そのまま、腕やら脚がどうなっているのか理解できないまま、ウェイと少女は見事な勢いで転んだ。
「……、い……!!」
 運が悪いのはウェイである。少女は体が小さいために尻もちをつくぐらいで済んだが、長身のウェイは床に尻がつくより先に、頭やら肩やら出っ張った部分が壁に衝突した。音がするほどの衝撃に目が眩んで、悲鳴が漏れる。そしてさらに運の悪いことに、
 ザァアアアア――……。
 尻もちをついた少女の手が、実に適格に、床のシャワースイッチを押した。
「……シャワー」
「……ああ、そうだよ、これがシャワーだよ……っ」
 頭から冷水の雨を浴びながら、ウェイは怒りを噛み潰して答えた。
 ぐっしょりと濡れそぼった少女の顔が、珍しくそうと分かるほど悲しげに曇る。何でこんな不愉快なものを浴びなくてはいけないのかしら、と言わんばかりの表情だ。そんなのこっちの台詞である。
「もういいから、とりあえず水を止めろ! 今押したスイッチをもう一度……いや、違、そっちはシャンプー……っぅあああぁーもう!」
「――ハァイ、中古屋さん?」
 不意に、首の付け根の辺りを、何かがつ……と這った。ウェイはぞわっと鳥肌を立たせる。
「よろしければ、お手伝いしてあげましょーか?」
 ユンファは、持ち上げた片足の親指の腹でウェイの首筋を撫でながら、恨めしげに振りかえるウェイに、にこりと笑顔を向けた。

+++

 ニナが蒼白になった小さな体をがたがたと震わせる。
「さあ、ニナちゃん、美人でボインのお姉さんが体をタダで拭いてあげるからねー」
 ようやく場の主導権を握れて嬉しいらしいユンファは、上機嫌に鼻歌を歌いながら、ニナの頭にバスタオルをかぶせた。乾布摩擦の要領で力を入れて肌を擦ってやりながら、「ちょっと!」と声を張り上げる。
「ちゃんと見てなさいよ、そこの保護者! せっかく指導してやってんだから」
 部屋の角っこの壁にだらりと身を預け、遠い目で壁紙の模様を数えていたウェイは、櫛を投げつけられて渋々と顔を持ち上げた。
「情けないわね。そんなんで、未成年女子の保護者役が務まるわけ?」
「……何で俺が保護者だって知ってるんだ」
「だってニナが言ってたもの。ねぇ?」
「そう。保護者」
 ウェイは「ああ、そう……」と適当に返事をする。
 悲惨な目に遭った。シャワー室事件――と名付けるとして、事件の前半も相当ひどかったが、後半は輪をかけてさらに悲惨だった。教育係を買って出たユンファは、もうすでに濡れているなら水だろうがお湯だろうが関係ないと断言し、シャンプーのレクチャーを始めた。それだけなら良かったが、ユンファは逃げ出そうとしたウェイを捕まえ、シャンプーの反面教師役に任命したのである。「あんた、シャンプーしてごらんなさい」と小突かれ、「そんなんじゃ地肌が傷つくじゃない!」とか何とか散々訂正をさせられ、最後には頭から水をぶっ掛けられて、「これから体の洗い方教えるから男は出てて!」と蹴り出された。
 自分で教えた方が、まだましだったかもしれない。
 くしゃみが出た。放り出された後、濡れたトレーナーを着たまま、世を儚んでいたのが悪かったらしい(そう、服を着たままシャンプーをさせられたのだ)。ウェイはのろのろと上着を脱ぐと、絞らずとも水が滴り落ちるそれを、床に脱ぎ散らかされたニナの服と一緒に乾燥機に突っ込み、スイッチを押した。
 ズボンと下着も履き替えねばと思ったところで、ユンファが目を輝かせているのに気づき、口を引きつらせる。仕方ないのでリビングで着替えてから寝室に戻ると、舌打ちをされた。
「お前、さっきまでどこにいたんだ?」
「どこって……ベッドよ、ベッド。隠れて脅かそうと思ったの。ニナにウェイを呼んで来いって頼んだのに、何よ、二人仲良くシャワー室で抱きあっちゃって。ケダモノが!!」
「……どこをどう見たら、そういう風に見えるんだよ」
 嘆息して、フェイスタオルで濡れたままの頭を拭く。
 その様子を見て、ユンファが呆れた顔をした。
「こういう時ぐらい、サングラス外したら?」
 ウェイは手を止め、ユンファを振りかえった。
「第一、部屋でサングラスする意味がわかんないだけど。どんだけ世の中が眩しいわけ。それともなに、あたしの存在が眩しいっての?」
「いや、直接見たくないものが今は部屋にいるからな」
「はぁ? ……私かこの野郎!!」
 吹っ飛んできた黒い物体を、今度はきっちり手で受け止め、ウェイは肩を落とした。少女の靴だった。全く、他人の靴を躊躇もなく投げるなと言いたい。
「あーもう。保護者がそんなんだから、子供も馬鹿に育つのよ。なんなの、この子。シャワーひとつ浴びられないなんて、どんな教育してきたわけ? ――なによ、べ、別に今は気色悪いって意味で言ったんじゃないわよ!?」
「……まだ何も言ってないだろ」
「…………」
 口をもごもごさせて、ユンファは顔をぷいっとそむけた。
 ウェイは怪訝な面持ちで、妙にビクついた横顔を見つめた。もしかして、まさかとは思うが、彼女なりに先ほどのニナへの発言を反省しているのだろうか。
 そこまで思って、ウェイは自分が机を蹴り飛ばして怒ったことを思い出した。
 先刻はほとんど無意識の行動だった。ユンファに散々恥をかかされ腹を立てていたところを、火に油を注ぐように無分別な発言をされ、必要以上に頭に血が昇ったのだ。
 別に、ニナを気色悪い呼ばわりされたことを怒ったわけではない。
 自分だって出会った当初は、幾度も不気味だと思ったのだから。
 そう、別にニナのために怒ったとか、そんなわけでは。
「…………」
 ウェイは口元に手を当て、無言で乾燥機に向かった。
「……慣れてるんだな。子供」
 蓋を開けて衣服を確かめると、布地の厚い部分を除けばだいたい乾いていた。
「え? ……あ、ああ、うん、まあね」
 突然話を振られて戸惑いつつも、話題の転換はユンファにとっても都合が良かったようだ、話にすぐ乗ってくる。
「あたしの実家、ガキだけはわんさかいたの。弟やら妹やら。片親違いばっかだったけど」
「一人っ子政策に失敗したのか?」
「笑える」
 トレーナーに袖を通すと、わずかに黴臭い匂いが鼻についた。乾燥機もどうやらそろそろ掃除をした方がいいらしい。ロブにまた指摘されるより前に。
「どーせ意外だとか思ったわけでしょ。子供の扱いなんて慣れてそうにない、我がままな末っ子キャラとか思ってたんでしょ。ふん、せいぜいあたしを部屋に残しておいたことに感謝することね」
「いや、まあ……意外だったのは確かだけど」
 今度はバスタオルを投げつけられた。大して威力のないそれを掴んで受け止め、代わりに乾燥したてのニナの洋服を放って寄越す。バスタオルを自分のタオルと一緒に乾燥機に突っ込んだところで、ユンファが訝しげに眉を寄せた。
「……なんで顔赤いわけ?」
 反射的にユンファを振りかえると、彼女の側にちょこんと座ったニナと目が合った。ウェイは乾燥機に向き直って、乾燥開始のスイッチを押しがてらに何気ない口調で反論する。
「……赤くない」
「いや、赤いってば」
「いや、赤くない」
「ちょっと! あたしが赤いっつってんのよ!? だったら赤でしょ!」
「どんな理屈だ! だから、本人が赤くないって――あー、何でお前はそううるさいんだ!」
「な、何ですってぇ!? ……っあー!!」
「!?」
 出し抜けに奇声を発して、ユンファは受け取ったばかりのニナのワンピースを両手で鷲掴みにした。ふるふると震えた手で眼前に掲げ持つ。
「冗談でしょ、あんたまさか、ニナに昨日と同じ服を着せようってわけ!? 信じられない……!」
 ウェイは言葉を失った。
「……え、……いや、今、乾燥機かけたし……」
 マンション備え付けのこの乾燥機には、熱浄化機能がついている。ジャンク映画の世界では、洗濯機という衣服を水で洗う機械がよく登場するが、あれでは布地の繊維も傷むし、水質汚染も甚だしい。いまどきは乾燥機一台で、瞬間熱浄化が主流なのだ。昨日と同じ服だろうと何だろうと、きわめて衛生的であることは間違いない。
 ユンファは怒り心頭、大仰に首を振った。
「ああ、保護者さん、そこの保護者さん……。あのね、女の子なのよ、この子。親戚だか隠し子だか誘拐したんだか知らないけど、女の子なの。分かってる?」
「……分かって」
「分かってないわよ馬鹿じゃないの!? 女の子は繊細なの年頃に同じ服なんか毎日着せたら一生根に持たれるのしかもこんな野暮くさい骨董品みたいな服、靴下だって何これ白のレースってどんな趣味よ古い古い古臭いおばーちゃんかってのこんなの着せられる女子の身になってよ、保護者なら精神衛生面もカヴァーしろってのだから男って本当信じられない機械油まめに頭に注しとけこの根暗中古屋!!」
「…………」
 半ば恐怖すら覚えて、ウェイは一歩後ずさった。これまで酒場の女店主の様々な言動や行動を見てきて、ああ、女は理解できないと思ってきたが、ここまで難解な動物だとは思わなかった。解読どころか聞き取れすらしなかった。
「……は……はい」
 曖昧にうなずくウェイに、ユンファは殺気の篭った眼をゆっくりと細めた。
「分かってないのに返事しないで」
 恐ろしすぎて声も出ない。恐らく全く状況を理解できていないニナまでが、ユンファの側を逃げ出し、部屋の隅で暢気にスリープモードを味わっているエッグの背後に隠れてしまった。
 ユンファは周囲の慄きなど物ともせず、むしろ拍手喝采と受け止めて、耳の脇に垂らした三本の細い三つ編みを、女帝の手つきで後ろに払った。
「いい? 女はね、生理が始まってなくても、女なの」
 そして中国云千年の歴史をその血に誇る中華娘は、高らかに宣言した。
「買い物行くわよ」







…お返事 
Powered by FormMailer.