小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.004 2



 万を越える数の文字と数字とが、一列に並んで、一本の長い長い紐を形成している。それは半径九十メートルの螺旋を描き、上部先端は回転しながら天井へと消えていた。
 実体を持たないホログラフィ映像だ。黄金色に発光する字の螺旋は、まるで環虫がとぐろを巻いているようにも見える。
「ほ、ほ、ほ。今日はどんな面白い情報があるかのう?」
 螺旋の中心では、背を丸めた老人がひとり笑っていた。
 アニメにでも出てきそうな、いかにも「老人」という台詞回し。白いふさふさした眉と髭とに、鼻以外の顔の大半を埋めさせたその風貌は、小人族の長老じゃとでも名乗られればうっかり納得しかけない嘘臭さに満ちていた。彼は滝のように垂れた眉毛の下から、眼前を流れてゆく文字列を追いながら、唇を不満げに突き出した。
「……なんじゃ、つまらんのう。これも、つまらん。これもこれもつまらん」
 老人は小刻みに震える指をくるくると回転させる。それにともない、緩やかに回転していた螺旋が急速に加速しはじめた。
「ストーップ!!」
 螺旋がぴたりと止まる。老人はふるふると両腕を伸ばした。
「きょ、巨乳ちゃんじゃ! ええのう、前科十件の窃盗犯、ううん、胸元が悩ましい」
 エロ爺な発言をして、老人はただの文字と数字とに釘付けになる。そしてまた指をくるくるとさせ、再び「ストップ」と叫んで、今度は己が皺枯れた身を抱きしめた。
「おおうおおう、この子もめんこいのう……! ええい、保存じゃ、全て保存じゃ……!!」
 螺旋はさらに回転し、老人は興奮のあまりに小躍りし、指揮まで振りはじめた。
「さすがは"都市機密トップシークレット"じゃ。ハイレベルじゃのう。これでもう少しおっぱいがおっきければ、"統一国家機密グランドシークレット"にも成り得たかもしれんのに……あとで画像処理して、上書き保存をしてやらねばな」
 うっしっし、とやはり嘘臭さを感じさせる笑い声を上げて、老人はひたすらその作業を繰りかえす。
 そうして十分ほどが経過した時、それまで鼻の下を伸ばしていた老人が、ふと動きを止めた。
「……ようやく見つけたわい」
 眉毛の下で眼光が鋭く閃く。
「警察め、さすがになかなか見つけにくい場所に隠したものよ。……いや、それともアウトラス社の仕業か? あるいは、まさかあの黒蝿ども……」
 しばらく考えこんでいた老人は再び螺旋に目を向けると、不意に底の知れない笑みを口端に宿した。
「"螺旋の虫スパイラル・ウォーム"よ、今すぐにわしの可愛いニコラスを呼んでおくれ」


「クグカ様の、楽しいヒューマノイド狩りの始まりじゃ」

NO.004 MASTER of SPIRAL WORMS:T



 ロブは妙なものでも見たような目つきで、静まりかえった室内を見渡した。
 部屋の隅には、さっさと我関せずを決めこみ、テレビ番組に見入る少女。
 さっきから床の上をちょろちょろと駆けずりまわっているのは、表世界でおなじみの掃除用ロボット。
 不機嫌丸出しな顔で、ソファの肘掛けに腰かけ、官能的に足を組むユンファ。
 順繰りに見回した先にもっとも機嫌の悪い家主のウェイが座っていて、ロブは肩をすくめた。
「まあ、どれにしても趣味は最悪だな、ウェイ」
「給我住口這個洋鬼!(黙れ、このアメリカ野郎!)」
 それまで仏頂面をしていたユンファはいきなり怒りを爆発させて、ロブの前に置かれたガラステーブルに両掌を叩きつけた。
「よくも……っ、よくもせっかくのチャンスを邪魔してくれたわね!? 何ヶ月も、今日のこのチャンスに賭けてきてたのに……!」
「邪魔したのは、俺じゃねぇよ」
 目の前で揺れる明らかにニセ物と分かる豊満な胸を、ロブは表紙のグレードは高いくせ、中身はカスばっかりだったエロ本を見た時のような顔で見下ろし、ハ、と鼻で笑った。
「どっちみち、これじゃヤる気も起きねぇがな……」
「っ何だとこのブタゴリラァ!」
「おい」
 ユンファがロブに詰め寄ったところで、それまで鬱々と黙っていたウェイが声をあげた。
 ユンファは目を細め、高圧的にウェイを振りかえった。
「何よ。やっとあたしとヤる気になった?」
「用が済んだなら出てけ」
「……っはっはー!」
 途端、ロブが腹を抱えて笑いだした。
 ユンファはわなわなと唇を震わせ、「用ならまだあるわよ!」と、ビシッと震える指でニナを指差した。
「一体! アレは!」
 ニナがちらりと横目でユンファに注視する。
「何なのよ!?」
 邪魔されたことがよほど腹に据えかねたのだろう、憎々しげに歪んだ顔は、子供相手に実に大人気ない。だがその質問には、ロブもまた目を輝かせた。
「そりゃ俺も興味があるな。どこで誘拐してきた?」
「まさか隠し子とか言うんじゃないでしょうね。それもあの黴びた骨董女との子供だなんて言うんじゃ……」
「そりゃどっちにも似ず、よかったな」
「あんな女なんか絶対に許さない……!」
「アニーはいい女だぞ。ちょっと頭がイカれてるが……いや、ちょっとか?」
「全般的によ!!」
「……まぁ、否定はできねぇが、ともかくお前よりはマシだな」
「――!? あ、あたしのどこがあの女より劣ってるですって!?」
「何て言うかなぁ……色気がないんだよ、お前は」
「ゴ、ゴリラに色気がどうのと言われるなんて……っ」
 ユンファは憎々しげにソファの脚を蹴飛ばし、それよりも、と少女へ話題を戻そうとして、硬直した。
 少女と目が合った。ユンファは言葉を失い、その透明で無感情な瞳にぞくりと背筋を震わせた。
「ちょっと……何、あの子……」
 空虚な眼差し、何の感情も浮かばぬ空っぽな表情。逃げるように後ずさりして、ユンファは恐れの表情を浮かべた。
「……気味悪い――」
 その瞬間、ウェイがいきなり目の前のガラステーブルを蹴飛ばした。重たく凶暴な音がして、ユンファは目を見開く。振りかえると、ウェイはテーブルを蹴りつけたままの格好で正面の虚空を見据えていた。
「出て行け」
 サングラスに隠された表情はいつもと変わらないように見えるが、声で本気で怒っていることが分かった。
「な、によ……」
 ユンファは唇を噛んで床を睨みつけていたが、やがて足早に部屋を横切っていった。
「そっちは出口じゃない」
「うるさい! どうせ間取り一緒でしょ! 冷えた。シャワー借りる。今日は出てく気ないから」
「言っとくが、水しか出ない」
「――乾布摩擦でも何でもするわよ根暗ゲイの中古屋野郎!」
 悲鳴みたいな反論とともに、壊れて中途半端に開いたシャワー室のある隣部屋までの扉を「ふぬぅっ」とかっこ悪い声でこじ開ける。姿が消えたかと思うと、あちら側から同じかっこ悪さで扉を閉じる声が聞こえた。
 男二人は嵐のような退出に、片やにやりとし、片や憮然とした。
「で? 説明しろよ、色男」
 からかい含みな促しに、ウェイは眉間に深々と皺を刻んだ。好奇心たっぷりのロブに怒っているようだ。それがなおさらおかしく、ロブはウェイのほうへと身を乗りだした。
「ウェイ、忠告を一つくれてやる」
「…………結構だ」
「いや、聞いておいたほうがいい。重大な事実だ」
 不承不承と顔を上げる友人に、ロブは真面目腐った顔で自分の口端を指差した。
「ついてるぞ」
「……は――」
 ウェイは言いかけて言葉を詰まらせ、バッと口をぬぐった。手の甲に移ったのは、オレンジ色。ユンファ・フリーマンの口紅である。
 心底から落ちこんで肩を盛大に落とすウェイに、ロブはさすがに同情した。
「まあ、元気出せや、相棒。犬猫に噛まれたとでも思って、このことは誰にも言わずに、自分の胸にしまっておくこった。なぁに、二、三日もすれば心の傷も癒えるさ。ああ、アニーには内緒にしておいてやるからな……っ」
 が、言っているうちに可笑しくなったらしい、ロブは末尾に笑いを含ませた。ウェイは先日ついに吸ってしまった禁煙中の煙草を、ダーツがわりにロブへと投げつけた。
「おっと……おいおい、危ないな、ウェイ」
「ああ、そりゃ危ないように投げたからな、ロバート」
 芝居がかった台詞で答えてくるウェイに苦笑って、ロブは床に落ちた煙草を律儀に拾って、テーブルの上の灰皿に押しつけた。
「八つ当たりすんなよ。幸せなことじゃねぇか、あんなに惚れられて」
「――惚れてる?」
 心外そうに声を上げるウェイに、ロブは呆れ顔で首を振った。
「おいおい、襲われといて、惚れてる? はねぇだろ、惚れてる? は」
「嫌がらせか憎まれてるのか知らないが、惚れられるような心当たりがないからな。……お前は随分と面識があるようだが」
「LENOが開いてるときは毎日顔を見合わせてるんだ、機会がありゃ話もするさ」
 ウェイは背もたれに腕を預けて、渋い顔をする。
「……理解できない。お前は惚れてる人間にいきなり襲いかかるのか?」
「ほほう! 随分と理性ある発言だな、ウェイ。……ま、もっとも俺の場合は、もうちょいムードたっぷりに誘いかけるがな。こう、相手が自分から身を委ねてくるような雰囲気に持っていくんだ。それには多少の露骨さも必要だが」
「……誰が、お前の気色悪い恋愛テクニックを語れと言った」
「独り身のお前にどう言われようが、痛くもかゆくもねぇな」
 ロブは豪快に笑って、左手の薬指に輝く金製のシンプルな指輪に「ぱっ」と音付きの口付けを贈った。似合わない、だがどこか愛情のこもったその仕草にウェイはかすかに笑って、しかし表面上はうんざりと溜息をついてみせた。
「彼女は、よほど物好きだったんだろうな。可哀想に。猿を人間と見間違えたんだ」
「言ってろ。アニーを口説く時、後悔しても知らないぞ。あの女も相当な物好きだ。ユンファ以上のな」
 ロブはクツクツと肩を震わせ、ふと口調を改めた。
「まじめな話、大丈夫なのか?」
 ふざけたやり取りのおかげで多少の余裕を取り戻したウェイは、一瞬冗談で返そうか考え、結局やめた。
「……俺がお前の家に行くつもりだった」
 元々、ロブと連絡を取ったのはウェイである。今抱えている仕事についてロブに助けを借りたくて、外に出た隙に彼の自宅に電話をしたのだ。
「黙ってるつもりだったって意味なら、一発殴らせろよ。……あの子はなんだ?」
 ロブはじっと部屋の奥でテレビに見入っている少女を顎で示した。
 ウェイもまた肩越しに振りかえる。少女は気づいた様子もなく、テレビの立体映像を微動だにせず見つめていた。ウェイは小さく溜め息をついた。
「ニナ。エッグと寝室に行ってろ。俺はこのおっさんと話がある」
「……おっさん?」
「このゴリラみたいな顔した中古屋のことだ」
「…………おい」
 ニナが「テレビ、オフ」と言って立ち上がった。ゴリラ、おっさん、中古屋……一体何を調べる気か、辞書をぱらぱらとめくりながら、ウェイの元へと向かってくる。ウェイはロブの顔を盗み見た。彼の顔には見慣れぬものを見たときの不審感が宿っていた。
「エッグ」
 ウェイは足元でスリープモードに入っていたエッグの頭を、こんこんと叩いた。目を閉じていたエッグはぱちりと単眼を開いて、くるりと一回転する。どちらが主人かを考えあぐねているかのように、ウェイと少女とを交互に見上げると、やがてウェイの「行け」の仕草に目を点滅させ、ニナについて寝室へと去っていった。
 寝室の扉が開き、ユンファの浴びるシャワーの音が聞こえてくる。再び閉ざされると、リビングには静寂が戻った。
「……怒るなよ。あの子は、なにか変だ」
 ロブが神妙に呟く。ウェイは中古屋の勘の鋭さに他人事のように感心し、灰皿に置かれた煙草をふたたび手にとった。


 ユンファの胸には怒りが渦巻いていた。
「……なによ。なによ、なによ、なによ……!」
 ジムのロッカーのようなシャワー室は、自分の部屋と全く同じ作りだったが、いつもより狭苦しく感じた。空から降ってくる冷たいシャワーを頭から浴びて、ユンファは壁に拳を叩きつけた。
『――惚れてる?』
 寝室に入ってからしばらく、扉の隙間から二人の会話を盗み聞きしていた。漏れ聞こえてきたのは、中古屋ウェイの訝しむ声。
『嫌がらせか、憎まれてるのか知らないが、惚れられるような心当たりがないからな』
「心当たりがないですって……?」
 ユンファは歯を食いしばり、排水溝に流れてゆく水を睨みつけた。
「今に見てなさいよ、中古屋……!」
 裸足の爪先で排水溝を踏みにじり、ユンファは自分の豊満な体をきつく抱きしめた。


 シャワールームの扉を開け、濡れたままの裸体を惜しげもなくさらして寝室に出てきたユンファは、そのままぴたりと動きを止めた。
 目が合う。ベッドの脇に立ち尽くし、低い位置からじっとこちらを見上げてくる、あの気色の悪い少女と。
「何よ」
 苛立ちをあからさまに舌に乗せて、ふん、と腕を組む。自然、大きな胸が腕に乗る形になり、実に悩ましげな立ち姿となった。もっとも見せる相手がウェイではなく、この少女だというのが不愉快だったが。
 まだロブはいるのだろうか。もういないのなら、このまま裸でリビングに出てゆきたかった。この体を見れば、あの性欲貧相な中古屋も飛びついてくるに違いないのに。
「……それは、なに」
 不意に質問をされ、ユンファは一瞬、怒りも忘れて少女をきょとんと見下ろした。
 少女は小さな指でユンファの胸を指差し、無表情に繰りかえした。
「それは、なに」
「……はぁ?」
 どう見ても胸を指差しているので、ユンファは呆れた顔をした。
「なに……って、胸よ、胸。あんたがもっとちっさい頃に、必死でしがみついてたもんよ」
 腰に手を当てて、やけっぱちになって答える。少女は「胸」と反芻し、手にしたままの辞書をぱらぱらとめくりはじめた。ユンファは呆気にとられて、先ほど感じた不気味さも忘れて頭を抱えた。
「……なにそれ。あんた、頭足りてる?」
 元々順応力は高い方だ。ユンファは少女から無理やり辞書を取り上げると、それをベッドに置き、その脇にぼすっと乗っかって胡坐をかいた。タオルもなしのその体勢はかなり挑発的だったが、その場の数少ない目撃者の一人である掃除用ロボットは、屈辱的なことに、いかにも感心がなさそうに顔をそらした。
「……むかつく」
 何だかよく分からない物体だが、むかつく中古屋のペットは、やはりむかつくらしい。ふと、少女が自分の胸を凝視したままなのに気がついて、ユンファはにんまりと笑った。
「……はっはーん。もしかして、あんた、ないんだ? 胸」
 見た目、明らかに十歳に満たない少女に当然のことを言って、ユンファはゆさゆさと自らの乳を揺さぶってみせる。
「さわってみるぅ? 五千万元もした感度バツグンのシリコン胸よ」
 絶対に触らないだろうこと前提で少女にちょっかいをかけると、直後、ニナの小さな手がものすごく無造作に彼女の豊満な胸を握った。
「アイヨー!?」
 思いもよらぬ少女の反撃に、ユンファは思わず中国語で悲鳴をあげた。
「……っな、ななな」
「……?」
 胸を腕でかばって顔を真っ赤にするが、当の少女は無表情に首をかしげている。
「ほ、ほんとに触るかフツー!」
 自分の生娘みたいな反応が無性に恥ずかしくて、ユンファはとりあえず寝台から薄掛けを引っこ抜いて、自分の体に手早く巻きつけた。
「……ぇくしゅ! ……うう、寒い。何よ、暖房壊れてるんじゃないの? もうっ。いろいろ腹立つ、ウェイ屋敷! ちょっといつまで見てんのよ、ユンファ様の裸は有料だからね、借金がまだ残ってんだから。あっはーん、もちろんウェイは別だけどぉ?」
 ウェイとのただならぬ関係を匂わせてやろうと、再びこれみよがしなことを言ってみるが、少女の表情はやはり変わる様子がない。どうやら心配していたような危ない関係ではないらしい。
 だとすれば、ユンファにとっては取るに足らない存在である。いや、それどころかむしろ有効利用すれば、あの中古屋を落とす手立てとなるかもしれない。
 ユンファはちらりと少女に目をやり、少女もまた自分を見ていることに気づくと、身を乗りだしてその整った顔を覗きこんだ。
「ねぇ、あんた、名前は?」
「…………」
「あたしはユンファ。ユンファ・フリーマン。ウェイの隣人よ。三つ隣のね」
「……ニナ」
 何かを躊躇っていたニナだったが、ユンファの名乗りを聞いてようやく名を発した。ユンファはオレンジ色に塗った爪で少女の黒髪を梳いて、その耳元に唇を近づけた。
「ふぅん、アメリカンらしい面白みのない名前。……ねぇあんた、ウェイの何なの?」
「……?」
「ウェイは、あんたの何なのよ?」
 要領を得ない様子のニナに、ユンファは一瞬苛立って詰め寄る。
 ニナは目を瞬かせ、ふと思いついたように口を開いた。
「保護者」


「なるほどな。まあ事情は分かったが」
 ロブは眉間に皺を寄せて、乾いた表情で息をついた。
「お前な……厄介事に巻きこまれてるぞ、完全に」
「分かってる。さっさと見捨てろって言いたいんだろ。その通り、お前ならそうするんだろうよ。お前にはそれができるんだろう。あの子供をマンションの外に放り出して、エッグもついでに外に蹴り出して、衛星で俺の居場所をキャッチして、またマンションに戻ってきてはじっと人の顔を見上げてくるニナとエッグを鍵閉めた扉の外に感じながら、それでも平静に日々の生活を送れるんだろうよ、お前には」
 早口で皮肉を捲くし立てるウェイに、ロブは苦笑した。
「まあ、巻き込まれた自覚は充分すぎるほどあるようだがな」
「……ないわけない」
 ウェイがロブに語った「厄介事」の内容は、完全ではないし、簡単にまとめたものではあったが、ほぼ顛末の全体像と言えた。
 完全さに欠ける部分は、少女が高層都市の中で発したあの謎めいた言葉についてだ。
 別に話しても良かったのだ。ここまで話しておいて、これ以上どんな話が増えようが、ロブの中では大して厄介度は変わらないだろう。
 だが、言えなかった。
 何故か、言うのが躊躇われた。
 あれは――そう、あれは異常すぎる。
 他のどんな事態よりもはるかに異常で、そして、異質だ。
 あの時のことを思い出すと気分が悪くなる。耳鳴りがやまないような不快感、後ずさりたくなる不安感。脳裏に少女の無機質な瞳が投射されて、動揺のあまりに息が詰まる。
『194隊の二名は、逃亡した人物がヒューマノイドであったと……』
 ――ヒューマノイド。
 ――アウトラス社の工場から逃亡した、AI搭載型ロボット。
 ウェイは脳みそが揺れる不快感を覚え、サングラスの奥でぐっと目を閉じた。
「それで、どうするつもりだ? 警察の情報は探れなかったんだろ」
「……そう、だな」
 上の空に答えてから、ようやく目を見開いた。問われてみて初めて、少女の今後について何も考えていない自分に気づいたのだ。
 彼は両手を顔に押し当て、呻いた。
「……何も考えてなかった」
 そのらしからぬ答えに、ロブは目を丸くした。
 アニーに頼んだ警察の内部情報はすでに廃棄されていた。考えていたようにすんなりとは情報が入手できなかったのだ。となれば当然、少女の素性を知るための新たな対策を考えなければならない。そうだというのに、今後について苦慮するどころか、情報を得られなかったことに落胆すら感じていなかった。
 それほどアニーと、アニーの寄越した新聞がもたらした情報に動揺していたのだ。
「まあ、とりあえず事情は分かった」
 ウェイの青ざめた横顔をじっと見つめ、しかしロブはそれ以上追求をせず、ソファから立ち上がった。
「今日のところは俺も帰るが、近いうちに家に寄ってくれ。用件の方の詳しい話はその時に聞かせてくれや」
「ああ、俺はそれでもいいが……、今、話すか?」
「いや、アンジェラに会ってやってくれ。部屋に篭りっぱなしで、随分としょげてる。俺は多少外に出ることができるが、あいつはな……」
「……わかった。じゃあ胃薬準備だな」
「それか漫悠老の萬金油だな。……ああ、それとウェイ。一つ、老婆心というよりは、親心ってやつなんだが……」
 ウェイは顔を上げる。ロブは責めるように眉をしかめていた。
「あのニナって子だが、シャワー、ちゃんと面倒見てやってるか?」
 ウェイは長い間沈黙したあとで、間抜けな顔で聞き返した。
「は?」
「髪の毛とか身体とか、ちゃんと洗えてるのか? そういう記憶は残ってるのか?」
「どういう意味だ?」
 ロブは肩を竦める。
「女の子にとっちゃ、ちょっとかわいそうな具合になってたぞ。火薬の匂いというか、カビ臭いというか、路地臭いというか……さっき近づいてきた時にちょっとな。髪の毛も油っぽいし、あちこちはねてるし、ちゃんとシャワーの使い方は理解してるのか? 水しか出ねぇなんて平然と言ってないで、直してやれ。使い方も教えてやるんだ。シャンプーはちゃんと泡立てるとか、ついでに泡で髪の毛の角一本でも作ってやらないとなぁ」
 呆気にとられるウェイをじろりと見下ろし、ロブはにやっと笑った。
「預かる以上はきちんと面倒見てやることだ。パパ」
 そしてひらひらと手を振って、何のフォローもなしにさっさと部屋を後にする。
 ウェイは扉が閉まる直前に見えたロブの背中と、笑いを堪えたような横顔をポカンと見送って、ようやく青ざめた。
「――シ、シャワー?」







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