小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.003 9



 以前、アニーが「欲しい骨董品がある」とウェイに話したことがあった。
 骨董収集歴の長いアニーは、独自の入手ルートを持っている。だからウェイが骨董品屋に行ってみる理由など一つもなかったのだが、いつも平坦な顔をしたアニーがその時ばかりは嬉しそうに笑っていたので、気づいたら足を運んでいた。
 少女を墓場で見つけた時に思い出した骨董人形は、確か、そのとき見つけたものだ。
 その人形は、薄汚れたショーウィンドウの中で、買い手がつくのをただ無表情に待っていた。アニーが欲しがっていた骨董品は、結局その店では見つからなかった。何も買わずに店を後にしたウェイの背を、ガラスの向こうから、いつまでも人形が見つめている気がした。
 何故か、後ろ髪を引かれた。置いてゆくことに後ろめたさを感じた。
 今でも、その感情を理解できずにいる。
 人形は人ではない。生き物ですらない。プラスチックと人毛を組み合わせただけの物体で、生命があるわけでも、感情があるわけでもないのだ。
 なのに何故、あんなに哀れに思ったのか。


 ――結局、来てしまった。
 ウェイは砂利まじりのコンクリートを踏みしめ、顔を持ち上げた。
 彼の前には五段ほどのレトロな鉄製階段。その先には無愛想な一枚扉。第三裏通りと表通りとを結ぶ名もない路地の、ちょうど中間にある酒場だ。
 混乱のあまり女に会いに来るなんて、情けなくて泣けてくる。ウェイは気まずさに扉から顔をそらし、落ち着かない気分で首筋を掻いた。
 そこに、辞書に熱中して前方不注意になっていたニナがぶつかってきた。
 ニナは驚いた様子もなくウェイを見上げ、首をかしげる。
「いや。何でもない」
 聞かれてもいないのに言い訳がましく答えると、ニナは無言のまま、再び辞書に目を落とした。
「……目、悪くなるぞ」
 気まぐれで贈った物を、そんなに熱心に見ないで欲しい。ウェイは込みあげる気恥ずかしさを、いらぬ老婆心で誤魔化す。だがニナはそんなウェイには気づいたそぶりも見せず、またあの言葉を口にした。
「これは、なに」
 言いながら、ニナの手はすでに辞書を捲ろうと準備されている。視線を辿って地面を見下ろしたウェイは、少女の足元に黒く濁った水溜りがあることに気がついた。
「水たまりだよ。この辺りは太陽が照らないから、いつまでも地面が乾かないんだ」
「みずたまり」
 ニナは辞書を手早く捲って「水たまり」を調べはじめた。
「……」
 ウェイはそんな少女と水溜り、そして酒場の扉とを見比べ、顔をしかめた。
 足が向くままここまで来てしまったが、どちらにしろ少女を連れては入れない。アニーが少女を見てどんな顔をするかは想像したくもなかったし、いちいち説明するのも気が引けた。――それに、あまり心配はかけたくない。
 とりあえず一度家に帰って、出直すことにしよう。
 そう心に決め、再び来た道へと向き直った、次の瞬間。
 上空から、人間が降ってきた。
「……――!?」
 闇と呼ぶに近い空から降ってきたその人物は、三メートルほど前方に落下してきた。ウェイは反射的に銃を引き抜き、ニナを背後に隠して身構える。そうしながら、頭に浮かんだ映像は、先日表通りで見かけたばかりの「飛び降り自殺ダイブ」の光景だった。
「おやおや、水たまりだらけだねぇ」
 だが、自殺者ダイバーは生きていた。
 着地の衝撃を逃がすため、大きく折った膝が水たまりに浸かのを楽しげに見下ろし、その場の空気にまるで似合わぬ優雅さで立ち上がる。まだ二十代前半だろう、奇怪な円形のサングラスをしていても、はっきりそうと分かるほどの美貌の持ち主だった。
 青年は衝撃でずれた縞馬柄の帽子を直すと、手にしていた黒い傘を畳み、うっすらと微笑した。
「メアリーポピンズの真似なんて、するものじゃないねえ。濡れなかった、ミッキー? 錆びたら、君の嫌いなお風呂に入らなければならないから気をつけないと……え、矛盾しているって? ああ、ミッキーはなんて賢い子だろう! ……ん?」
 青年は鼠と思しき鉄製人形の、動物をデフォルメした時にありがちな大きすぎる耳に甘く囁きかけ、ふと立ち尽くすウェイに気がついて動きを止めた。
 ウェイは緑色のサングラス越しに、唖然として青年を見つめた。
 青年もまた同様に、銃を構えたままのウェイをじっと観察する。
 色付きのレンズを通した視線は、互いに感情を伝えない。ウェイは青年の次の一手が読めず、警戒を一気に強め――そこでようやく気がついた。
「おまえ……」
「おや!? 君は!」
 ウェイは青年を、青年は少女を見やり、同時にテンションの違う言葉を発した。
「水たまり」
 出遅れた少女だけが、二人を無表情に見比べ、脈絡なく呟いた。


 その青年は、裏通りでも飛びぬけて変な部類に入るとウェイは思った。命を救われておきながら、あまりな言い草だろうが、できれば今後もお近づきにはなりたくないタイプだ。
 いや、そもそもあの時、警察やチンピラからウェイたちを守ってくれた理由が、純粋な人助け精神から来たものだなどと、この裏通りに限っては考えるべきではない。
 実際、純粋ではなかったのだろう。ウェイは目の前で展開されている不気味な光景に、顔を引きつらせた。
「ああ、君とまた出逢えるなんて、何て素晴らしい偶然だろう!」
 路地裏に青年のやたらと甘い声が響きわたる。聞いているだけで、いたたまれないというか、身の危険を感じるというか、皮膚の上を何かが這うような気持ち悪い感覚にさせられる声だ。
「え? ミッキーはまた会えると信じていたって? 抜けがけは許さないよ」
 青年は、ミッキーという名前らしい人形にしきりに話しかけながら、芝居がかった台詞を滑らかに続けていた。もちろんウェイに対してではない。ニナにである。
 青年はウェイにはまるで関心がないようだった。ニナと、人形であるミッキーにはやたらと話しかけるくせ、ウェイには一瞥すらくれない。思い返してみると、最初に顔を合わせたあの時もそうだった。ただ一言、「おい、おまえ」と、明らかにニナとは違う態度で命令してきただけだ。
 別にニナのように甘く囁かれたいなどとは死んでも思わないが、ここまで無視されるとさすがに不愉快だった。まあ、「ロリコン」相手に、何を言っても無駄だろうが。
 果たして身の危険は感じているのだろうか、ニナは特に警戒した様子もなく、無表情に青年を見上げていた。これで少しでも青年が妙な真似をしたら、ニナの目からビームが放たれるとかだったら面白いな、とウェイは薄暗く思う。
 そうしながら、ポケットに仕舞いなおした銃からは手を離さない。
「ほらミッキー、きちんと挨拶をしなくてはね」
 青年はミッキーを少女の顔の前まで持ち上げ、首をかくんと傾げさせた。
 ニナはわずかに身を乗り出し、目をぱちぱちさせてミッキーを見つめる。
 青年の口元に、ふっと笑みが宿った。
「可愛いお嬢さん、君の名前は?」
「わたしは」
「おい」
 ニナがあっさりと名乗りかけるのを、ウェイが遮る。ニナはウェイの声を聞くなり、人形のように口を閉ざした。青年はそれを見て、不愉快そうにウェイを見上げた。
「名前を聞くなら、そっちが先に名乗ったらどうだ」
 無言の重圧を無視して続けると、青年は意表をつかれたように眉を持ち上げ、意外にもあっさりとうなずいた。
「ああ、そうか。それもそうだ。ずいぶんと裏通りを離れていたから、ここ流の礼儀をすっかり忘れていたよ、ミッキー。――僕は、」
 青年はそこで言葉を区切る。人形と顔を見合わせ、何やら小声でやり取りすると、くすくす笑いながら少女の顔を覗きこんだ。
「今のところは、ガイ、だよ。明日の名前は、分からないけど」
 偽名なのだろう。裏通りの名乗り合いではよくあることだ。
 ウェイは詰めていた息をそっと吐き出す。少女もどうせ偽名だ。相手が偽名を名乗れる程度にはこちらに気を許しているなら、少女が名乗り返しても問題はないだろう。
 ニナはそんなウェイの様子を、じっと見つめていた。
 ウェイは、どきりとする。
 何故か、ニナの視線が「名乗ってもいいか」と問いかけているように見えたのだ。
「この子はミッキー。……ハァイ、僕ミッキー!」
 何も答えられずにいると、ニナはふっと視線を外し、人形で腹話術をするガイに向き直って小さく口を開いた。
「わたしは、ニナ」
「ニナ! そう、綺麗な名前だね」
 ガイがやけに嬉しそうに笑う。ニナは首を傾げた。
「きれい?」
 いつも通りに反芻し、さっきからの習慣で、早速ニナは辞書を引きはじめる。
 ガイはそんなニナを不思議そうに見つめた。
 ウェイはそこでようやく、少女の辞書をいちいち引くという行為が、傍目には奇妙に映ることに気がついた。
「……ニナ。もういい。帰るぞ」
 こんな奇妙な男に、これ以上目をつけられては厄介だ。ウェイは辞書をめくるニナの手を押し留めると、その手から辞書を奪いとろうとした。
 ぐっと思わぬ反動が、手にかかった。
 振りかえると、ニナが辞書の端を両手で掴み、抵抗するように手元へ引き寄せようとしていた。
「ニ――」
 少女の目が、ゆっくりとウェイを捕らえた。
 ウェイは再び意表をつかれる。これまでずっと何の感情も表さなかったニナの目に、ほんの一瞬、不満げな色が宿ったように見えたのだ。
 激鉄を上げる音がした。
 目を見開くと、ガイがウェイのこめかみに銃口を押し当てていた。
「ニナが嫌がっている。その手を離せ」
「……は?」
 何だそりゃ、と思わずウェイはすっとんきょうな声を上げる。
 だが目だけで見返すと、ガイは真剣そのものだった。どうやら底値なしの異常者らしい。普通、辞書を取ろうとしたぐらいで銃を向けてくるか、というより、自分はこの少女の保護者で、ガイは会ったばかりの他人なわけで、何でこっちが悪者扱いに――ウェイは辞書から手を離して両手を挙げた。
「別に嫌がることをやったわけじゃ……。第一、俺はこの子の……保護者だ」
 保護者と言い切ることに一瞬躊躇ったのがまずかったのか、ガイは説得力がないとばかりに一笑し、銃口をなおさら押しつけてきた。
 ウェイは急激な苛立ちに襲われた。
 自分だって、別に好きで少女の保護者をやっているわけではない。なのに、この仕打ちは何なんだ。赤の他人が、自分の苦労の何を知っていると言うんだ。ほとんど八つ当たりに近い怒りに突き動かされ、ウェイは口の端で短く笑った。
「ロリコンの変質者が。人形と喋る不気味な野郎に、いきなり綺麗だの何だのと言われて、そっちの方がよっぽど嫌がられてることに気づいてないのか?」
 ガイは薄い唇をいよいよ侮蔑で歪ませ、銃の引き金を半ばまで引き絞った。
「気づいていないのはどちらかな? さっきからニナが助けを求めているというのに、お前はまるで無視……それでよく保護者と言えたものだ」
「助け? 何の話だ。いかがわしい妄想のしすぎで、幻覚まで見えているようだな。とっとと病院に行け」
「ふぅ、可哀想に。こんな軽蔑するにも値しない鈍感男が、愛しいニナの保護者だなんて……やれやれ」
「会ったばかりのお前に何が分かる」
「分からない方がどうかしている」
「ああ、そうかよ……!」
 ウェイはぐっと前屈みになり、その反動で振りあげた踵で、ガイの手から銃を蹴り飛ばした。銃が宙を舞うのと同時に肘鉄を食らわせようとするが、つい一瞬前までガイが立っていた場所にはもう誰もいなかった。かと思うと、身を屈めて足元の死角に潜んでいたガイが、立ち上がり様に落下してきた銃を掴み取り、ウェイの後頭部へと向けた。同時に、ウェイもまたポケットから銃を引き抜くと、素早くガイの額へと、
 背後でドアベルの鳴る音がした。
「ちょっと。店の前よ。少し静かにしてちょうだい……」
 この緊迫した状況に、驚くほど冷静な女の声が割って入った。反射的に振りかえると、階段上の酒場から、いかにも迷惑そうな顔をしたアニーが出てくるところだった。
「……あら」
 アニーはウェイと目が合うと、眉間に皺を寄せた。
「ウェイじゃないの。それに……」
 アニーの視線は、硬直するウェイから、訝しげに足元の少女へと向けられる。そして。
「やぁ、アニー! 相変わらずやる気のない顔だ」
「あら、まぁ、大きくなったわね……」
 ガイがあっさりと銃口を下げ、親しげな口調でアニーに声をかけた。
 意外な展開にウェイがアニーを振りかえると、無愛想な女店主は、担いでいた巨大なバズーカ砲を地面に下ろし、いつもウェイに向けるような親しげな笑顔をガイへと向けた。







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