小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.003 4



「ウェイ」
 治療済みの足の具合を確認していると、背後から肩を叩かれる。
 振りかえるより先に、たたまれた新聞が顔の脇から差し出され、ウェイは思わず笑った。
「ああ、よかった。実は昨日の朝刊なくしちまって……今朝はどうも落ち着かなかったんだ」
 アニーのくれる紙新聞は、常連客の楽しみの一つだ。
 新聞は今ではデジタル化されて売られている。だが今でもアニーのように紙新聞にこだわる人間はいて、そんな愛好家のために、闇の新聞社が大手ニューヨークタイムズの電脳から最新ニュースを盗み取り、勝手に紙新聞にして発行しているのだ。アニーの骨董趣味を笑いながらも、影響を受けて、すっかり紙新聞に馴染んでいるウェイである。
 ウェイは新聞を受け取りながら、首をかしげた。
 アニーが自分をじっと見つめていた。
 相手を怯ませるほどの真摯な眼差しだった。
「アニー?」
「……ガスレンジのことだけど」
 唐突にガスレンジの話題を持ち出され、ウェイはとっさに反応できない。ガスレンジは昨日アニーに頼まれた商品だ。昨日の今日でまさか催促はないだろうと思ったが、アニーはやがてぽつりと言った。
「アウトラス社製はやめてちょうだい……」
 ウェイは瞬く。言うべきか迷って、口にする。
「……アウトラス社が興ったときには、ガスレンジを生産する企業なんてもうなかったよ。知ってるだろ?」
 2000年代の中期、石油に代わる代替エネルギーが開発されてから、ありとあらゆる電化製品に変革が起きた。中でもガスなどと非生産的な気体を利用したガスレンジは、もはや立派な骨董品だ。
 まして時代の最先端をゆくアウトラス社が、ガスレンジを作っていたなど聞いたこともなかった。
「……ああ、そうだ。そのことで聞きたいことがあったんだ。ガスレンジの本体が見つかったとして、ガスの配給はどうするつもりなんだ?ボンベ式に改造していいなら、ガスボンベを今も取り扱ってる会社を探しておくけど」
 不可解だったが、そのまま沈黙することがなぜか恐ろしく思え、ウェイは無理やり話をつなげる。
 だがアニーのほうはとっくに興味が失せていたらしく、さっさとカウンターの向こうに移動して、皿拭きを始めていた。
 ウェイは頭を掻き、受け取った新聞を小脇に抱える。
 奇妙な思いを消せないまま、酒場を横切って扉に手をかけ、
 彼は自分の口元が歪むのを感じた。
「……アウトラスなら俺もお断りだ」
 カシャン、と皿の鳴る音がした。

+++

 アニーにつられて、ウェイの調子まで狂ってくる。
 彼女のテンポが掴めないのはいつものことだが、今日は格別だった。
 心の奥で不穏な波がざわめく。ウェイは乱暴にマフラーを引き上げた。
 それでなくともアウトラス・コーポレーションの名は、ウェイを動揺させる。
 ――もう六年も経つというのに。
 ――いや、たった六年しか経っていないともいえる。
 脳裏に、スモッグに包まれた機械の墓場が浮かびあがった。
 普段、あの場所に立っても思い出さない六年前の情景が、押し寄せてくる。
 沈黙する壊れた機械たち。モンキー・ボックスの駆動音。監視カメラの音。そして――。
 ウェイは固く目を閉じ、路地の壁に額を押しつけた。
 凍てついた壁の冷たさが、彼に少しだけ余裕を与えてくれる。ウェイは白く息を吐き出し、よろめくように壁から離れた。
 アニーは、何を言おうとしたのだろう。
 ウェイは思い立って、脇から新聞を取りあげた。畳まれたままの状態で第一面に目を落とすと、フレデリック帰還の話題が書かれていた。ただしざっと見ても、フレデリックが表通りに出現したことは書いてあっても、第三裏通りが襲撃に遭ったことは書いていなかった。
 前と扱いは変わっていない。五年前、第三裏通りにフレデリックが現れたときも、新聞はフレデリックのニュースを全く掲載しなかった。表世界が襲撃されて初めて一面に載せるようになったのだ。
 表世界の人間は自分に害が及ばない限り、裏世界に興味を持たない。
 表のことを思い出すと、少女の無機質な眼差しが目の前に浮かんだ。
 何の受け答えもしてこなかった少女を思い出し、忘れていた焦燥感と苛立ちが蘇ってくる。ウェイは唇を噛み、読みかけた新聞をふたたび小脇に抱え、歩くことに意識を凝らした。
 少女を表世界に帰そう。
 それも今日中に。
 決意を固め、ウェイは路地から第三裏通りの大通りへと出た。


 静謐で、それでいて穢れた、奇妙に矛盾した光景だった。
 黒焦げた地面に立ち、頭上を見上げて、その静けさに目を伏せる。
 大通りには、この時間では考えられぬほど人気がなかった。頭上を見上げてみても、空中歩行路にすら人の姿が見られない。ただ、ビルの合間から差しこむ微かな朝陽のなかを、生ゴミをあさっていた鴉が飛び去ってゆく、それだけだ。
 瓦礫からはいまだくすぶる黒煙が立ちのぼり、化学物質が燃える不健康な匂いが充満していた。店々のシャッターは高熱にあぶられぐにゃりと歪み、看板はことごとく地面に落下している。だが見渡したかぎり、焼け焦げの死体はない。五年前のときは、ごろごろと焼死体が転がっていたが、アニーの言うとおり中古屋の手で処理されたらしい。埋葬する余裕はなかったろうから、どこかに集められただけだろうが――。
 皮肉だ。機械にすらある墓場は、裏通りで暮らす人間たちにはないのだ。
 ウェイは物陰から物陰を、身を縮めて移動してゆく。人気がないとはいえ、誰もが他人の動向に、フレデリックファミリーと中古屋の動向に注視していることだろう。視界の端に映る建物の窓を、人影らしきものがさっと通りすぎるのを、幾度も感じた。
 だが屋台街へとさしかかったウェイは、驚きに目を見開いた。
 わずかな朝陽を受け、靄が白く幻想的に輝く、屋台街。そのなかに灰色の影がぽつりと立っていた。
 今朝通ったときには瓦礫しかなかった通りに、屋台が一軒だけ立っていた。


 瓦礫を越え、ウェイは屋台の前へ躍りでる。
 幌の下を覗きこむと、中華系の顔つきをした店主が炒飯を炒めていた。
 湯気と一緒に、玉子のやわらかな香りと、コンロにかけられた鍋から、煮玉子の独特な匂いがしてくる。店主は細い目をわずかに開き、中国語で言った。
歓迎光臨いらっしゃい
 ウェイは先ほどまでの塞いでいた気分も忘れ、おもわず笑った。
 その笑いの意味をすぐに理解したのだろう、店主もにやりと笑って、鉄のお玉で炒飯をすくいあげた。
「フレデリックごときに負けちゃられん!飯を売らにゃ、わたしも、あんたも、飢え死にする。そうだろ?」
「自炊って手もあるけどな」
「ならとっとと家に帰って、自炊せい。もっとも食料通りもシャッターを下ろしてるがね」
 人っ子一人いない状況で交わされる皮肉の応酬に、ウェイはクツクツと笑う。
 外に出る物好きは、自分を含めてもそうはいないだろうと踏んでいたが、思わぬ同志との遭遇が嬉しかった。それは店主も同じようで、彼は饒舌に昨日へと思いを馳せた。
「昨日は、わたしの知り合いも怪我をしたよ。足が瓦礫の下敷きになってな。それに、誰かしら死んだようだ。誰かはまだよく分からんが、知り合いかもしれんな」
「あんたはすぐ逃げたのか?」
「ああ。爆発には巻き込まれなかったが、爆発の後、しばらくしてフレデリックファミリーが銃撃戦を始めやがって……すぐに屋台を回収して逃げたよ。あの時はまだ大した被害じゃなかったんだが、さっき来てみたらすっかり瓦礫の山だ」
「昨日の今日で、よく来る気になったな」
 声に自然と賞賛が混じる。五年前もやはり屋台街は襲撃を受けた。瓦礫と化した通りに屋台がおっかなびっくりでも出始めたのは、一週間以上が経過してからだ。当時は襲撃者が何者なのかもはっきり分かっていなかったから、誰もがただ家に引きこもって身を震わせていた。
「中古屋がフレデリックとやり合おうというんだ」
 店主の低い呟きに、ウェイは反射的に身を強張らせた。
「わたしもここに屋台を出すことで、戦う意思を見せるよ」
 彼の緊張を見抜いた様子もなく、店主は深い思いをこめ幾度かうなずいた。
 何も言えず、複雑な思いでいると、店主はパックと煮玉子とを紙袋に入れながら、屋台の細い柱をぱしぱしと手で叩いた。
「とりあえず、どうにかこの屋台を守れるといいんだがな。これがなきゃ稼ぎもなくなる。そうなればフレデリックがどうというよりも前に、わたしは生きてはいけん」
 裏通りの人間は誰もがぎりぎりの生活を強いられている。生活水準は、表のそれとは比べものにならないほど低い。日々の稼ぎがなくなれば、あっという間に生活が立ち行かなくなる。
「こう、可動式のシャッターを設置したり、フレデリックの連中が近づいてきたら、乱射する銃を取り付けたりとかな……中古屋さんが何か改造してくれるといいんだがな」
 冗談だからこその斬新な意見ではあったが、ウェイは笑うことができなかった。
 ウェイは五年前も、今回も、フレデリックとの攻防には参戦していない。
 実のところ、中古屋の半数は家で身を潜めて、災厄が過ぎるのを待っている。ウェイもその一人で、ただ巻き込まれぬよう中古屋と知られぬよう、知られても適当に期待を受け流して生きてきた。
 友人であるロブは五年前に中古屋としてフレデリックとやり合い、英雄と呼ばれるまで活躍した。その間も、ウェイはただマンションにこもって、黙々と中古屋の仕事をしていた。
 そして今回も、フレデリックとの攻防に参戦する気はなかった。
 ウェイは奥歯を噛みしめ、躊躇いがちに屋台の幌を見上げた。
「……シャッターは無理でも」
 暗い口調で呟くと、店主が顔を上げた。
「武器特有の熱を感知したときに、自動で幌が下りてくるよう稼動装置をつけることができるかもしれない。それで幌を、耐熱性、防弾性に優れたものにすれば、ある程度、防衛装置がわりにはなると思う。ただ熱源を感知した後だから、昨日みたいな遠方からの火炎放射か、やっぱり遠方からの発砲に限られるけどな。手動で稼動できるようにすれば、至近距離からの発砲にも、ある程度の防衛はできるけど。その程度の素材なら墓場で手に入るし……」
 頭の中に浮かんだ青写真をそのまま言葉にしてゆくと、店主がまじまじと見つめてきた。
「あんた中古屋か?」
 質問には直接は答えず、ウェイは問いを返す。
「必要なら造る。どうする?」
 それはうなずいたも同然の言葉だった。
 店主は驚きと期待とで目を見開き、ふと苦い顔で首を振った。
「金がない。ないからここにいるんだ」
 ウェイは、薄く笑った。
「俺も飯がないから、ここにいるんだよ」
 店主は意味ありげに笑うウェイを見上げ、破れた幌を見上げ、またじんわりとした視線をよこしてきた。
「……半月、飯をタダってことでどうだ?」
「この調子なら、一週間もすりゃ屋台街はまた屋台だらけになるよ。あんたの屋台を見て、他の店主がいつまでも引っこんでるとは思えない。中華ばっかじゃ俺も飽きるしな。一週間でいい」
「じゃあ二週間だ。それで手を打ってくれ」
 ウェイは口端に先ほどとは違う、中古屋特有の暗い笑みを乗せ、店主が投げ返してきた小銭を受け取った。
「近いうちに材料は手に入れる。明日にでもまた来るよ。それまでくたばるなよ」
「フレデリックが来やがったら、鉄板を顔に押しつけてやるわい」
 商売人らしく笑う店主に苦笑を返し、ウェイは紙袋を受け取った。
「あんた、フレデリックとはやり合わないのかい?」
 どこか逃げ腰の反応から察したのだろう、店主が躊躇いがちに聞いてくる。
 ウェイは曖昧に笑い、どちらとでもとれるようただ首を振る。
 店主は幾度かうなずき、少し距離の置いた笑みを浮かべた。
「そういう中古屋を軽蔑する連中もいるがね。わたしたちとて中古屋に頼るばかりで何もしちゃいない」
 ウェイは苦笑し、屋台の縁をコツンと叩いた。
「誰もいない瓦礫の山の中で屋台をたてておいて、何もしちゃいない?中国人は謙遜しない人種だと思っていたよ」
 店主はにやりと笑った。
「謙遜しないのは欧米の連中だろう。中国人がしないのは謙遜じゃなく、妥協だ」


 沈む気分を抱えたまま、鉄筋コンクリートの瓦礫を越える。
 そこで彼は、目を見張った。
 瓦礫の陰に、じっとこちらを見つめるフードをかぶった男の姿があった。
 昨日の少年かと足を止めるウェイだったが、男が軽く手を挙げるのを見て、それが少年でないことに気づく。もっと大柄な男で、黒い肌をした――。
 ウェイは瓦礫を飛び越え、さっと身を隠した男の姿を追って、物陰へと入った。
 瓦礫に背を預けていたロブは、フードの下から白い息を吐き、にやりと笑った。
「よう、ウェイ」
「なんだ。くたばったかと思ったよ、ロブ」
 物騒に笑うロブの肩に、ウェイは拳を入れた。
「くたばってても、葬式には呼ばねぇよ」
「どうでもいいけど、お前、フードはやめろ。どんなでっかい赤ずきんちゃんだ」
「ああ、これか?いや、昨日路地でフードをかぶった奴を見かけてな……」
 ロブはごわごわしたファー付きのフードを取り、黒い肌をあらわにする。
「その手があったか、と。案外、顔が隠れるんだ。これなら悪目立ちはするが、俺だって気づく奴も減るだろうし、どことなく近寄りがたい」
 ウェイは眉を持ち上げた。確かに、ロブのような大柄な男がフードをしていると、近寄りがたいものがあった。身も蓋もないほど悪目立ちはしているが、ロブほどの巨体ともなると、敢えて近づいて正体を追求してくる者もいないだろう。
「パンクで流行ってたろ、昔。メンバー全員がコートのフードをかぶった、ゼロ90年代のバンド。なんつったっけか……THE HABIT BLOOD? あれのコアファンでも気取るさ」
「そんなのいたか?俺はアンブレイカブルのブルース・ウィルスを推すけどな」
「またジャンク映画か。俺にジャンクの話はするな。理解できん」
「アンブレイカブルはジャンク映画じゃない。ぎりぎり2000年の作品だ」
 大して言い含める熱心さもなく反論しながら、ウェイの脳裏を少年の姿がちらついた。
 思わず、うんざりとした溜め息が漏れる。
 ロブが顔を歪めて太い首をかしげた。
「……なんだ?」
「少年に、少女に、くるくる回る玉子に……俺の頭の中は昨日からメルヘンなんだよ」
「おいおい。塗料用シンナーでも吸いこんだか?」
「前から気になってたんだけど、何で塗料っていつまでもあんな不健康なシンナーを使ってるんだろうな。墓場のB3区画、あそこなんてやばいだろう」
 ウェイは額を押さえて首を振り、それよりもと話題を変えた。
「彼女は、無事だったのか?」
 ロブは疑わしげな顔を明るくすると、その強面からは想像もできないほど穏やかに笑んだ。
「ああ。どうにかな。フランクフルト、喜んでたよ」
「そうか」
「お前に会いたがってる。久々に顔でも出して、手料理を食ってやってくれ」
「……胃薬用意しとく」
 ウェイはつられて笑い、意味深な顔でうなずいた。
 ロブはそんな友人を広い肩の上から見下ろし、背後の瓦礫の先にある屋台を見つめた。
「あの屋台の改造をするのか?」
「ああ、聞いていたのか」
 同じく屋台に目を向け、ウェイは自嘲気味に笑った。
「様子見ついでに、墓場に行ってくるよ。どうせ暇だ」
 その表情は、いつものウェイに比べてどこか自暴自棄に見えた。それは友人であるロブに対してすら、一線を引いているようで、ロブは先を続けることを躊躇した。
 だがロブは、慎重に言葉を続ける。
「ウェイ。前から聞きたかったんだが……」
 砂塗れの革靴を見下ろし、しばらく台詞を探して、ようやく続きを口にした。
「なぜ、お前、動かないんだ?」
 ウェイは質問の意味を捉えかね、首を傾けた。
「フレデリックのことだ。お前は中古屋のフレデリック討伐には加わらなかった。前回も、今回もだ。なぜだ?」
 ウェイは面倒そうに白い息をつく。
「関心がない。巻きこまれて、痛い目を見るのもごめんだ」
「お前がそう言うから、俺はずっとそうなんだと思っていた。実際、動かない中古屋は他にもたくさんいる。けどお前は、結局最後には――」
 追求を制止するように見返してくるウェイのサングラスに映る自分が唇を噛む。ロブは首を振って、屋台を顎で示した。
「あの屋台の改造なんてしてみろ、他の屋台の連中もお前のところにやってくるぞ。もしかしたら、フレデリックもお前に目をつけるかもしれない。そうなれば必然的に巻きこまれる。慎重なお前だ、そんなことぐらい分かっているはずだ」
「言っただろ。暇なんだ」
 ウェイは不機嫌を露にし、言葉少なに答えた。
 全身でそれ以上の追求を拒んでいるのが分かる。
 ロブは幾度か物言いたげに歯を鳴らし、やがて重い溜め息を落とした。
「……そうか。忘れてくれ。――俺は仲間が欲しいだけなんだろう」
 おもむろに、彼は左腕を持ち上げた。
 その指の付け根には鈍い光。黒い肌に良く似合う、金色の指輪だ。
 ロブは手の甲を口元へと運び、指輪にそっと口付けする。そのまま彼はもう片手で顔を覆い、深くうなだれた。
「お前も同じ恐怖の中にいてくれれば、心強いと思ったんだ……」
 それきりロブは沈黙した。
 ウェイもまた何も言えず、口を噤む。
 どこからか瓦礫の崩れる音がした。ロブは背にした瓦礫を振りかえり、肩をすくめた。
「まあ、ブルースうんたらをやってれば、顔も割れねぇだろう。あれは中華か?匂いがぷんぷんしてやがる」
「手料理、食ってやれよ」
「胃薬を切らしてるんだよ。残念だ。……ああ、電話よこすなら家にかけろ。携帯はほかの中古屋連中も知ってるから電源を切ってる。合言葉は風、谷だ」
「……お前もたいがい、コアな日本マニアだよ」
「俺の永遠の女は、フジコ・ミネさ」
 ロブは物騒な笑みをフードの下に隠し、瓦礫の外へと出て行った。
 ウェイはそれを見送り、その姿が瓦礫の背に隠れて見えなくなると、ロブがそうしたように、自らも片手で顔を覆い隠した。

+++

 マンションへと帰り着いたウェイは、自室の扉を前にいよいよ暗い気分になった。
 ドアに張られた「fackin’me !!」と書かれたオレンジ色の口紅付きのメモを無造作に引きちぎり、カードキーを取り出す。ウェイは目を閉じて呼吸を整え、キーをセンサーにかざした。
 ドアは緩やかに左へとスライドし、朝と変わらぬ風景が家主を出迎えた。
 少女は、ソファに座ったままだった。
 ぞっとするよりも先に、どうしようもない苛立ちがこみあげてきた。
 このクソ寒い部屋に、朝と寸分変わらぬ体勢で座りつづけるその意図が、嫌がらせでなくて何だというのだろう。嫌がらせでないなら、よほどの自虐趣味だ。機械の墓場にいた理由も、案外ロシアンルーレット的な生きるか死ぬかのぎりぎりの快感でも味わっていたのかもしれない、と投げやりに思う。
 沈む一方の機嫌に逆らう気になれず、ウェイは纏わりついてくるエッグを無視し、紙袋を乱暴にソファへと放った。
「炒飯買ってきた。それを食ったら、表へ行く」
 少女は、黒い眼球だけをウェイへと寄越した。
 その態度に苛立ちを募らせ、ウェイは投げやりに言った。
「家に帰れ」


 エッグとパソコンとを有線ケーブルで接続し、エッグの内部データをパソコンへと移行させると、ウェイはバグのチェックを始めた。
 予想した通り、プログラム内の「帰巣本能」項目にエラーがあるのが一目でわかった。
 こういったロボットを精密機械と呼ぶ時代はとうに過ぎたが、それでも耐衝撃性にはまだ不安が残っている。見る限り、バグは何らかの強い衝撃を受けて発生したもののようだ。
 恐らく、これが原因で機械の墓場に捨てられたのだろう。
 そう思いながら修復にとりかかったウェイだったが、妙なものを感じてその手を止めた。
 この程度のバグ、中古屋になりたての少年でも簡単に修復できる。果たしてこれしきの故障で、エッグを廃棄したりするものだろうか。
 確かに現代の機械開発の流れは尋常ではないが、製造ナンバーを見る限り、このエッグはまだ新型だ。故障に乗じて捨てられるほど旧くはない。それに掃除用ロボットは企業向けに製造されているので、値段が張る。新型を小さなバグ程度で廃棄する理由が、ウェイには分からなかった。
 そして奇妙な点はそれだけではなかった。
 良く良く見ると、帰巣本能とは別のプログラム内――それも掃除用ロボットの核とも言うべき最重要プログラム内に、もう一つ、不可解なバグが見られた。
 いや、バグというより、これも一種のプログラムに感じられた。一見すればただのバグにしか見えない、何の意図も見えてこないランダムな数字の羅列。だが解析を重ねるうちに、それが何かしらのプログラムを構築し、エッグに「最重要」で何かの指示を出しているのが分かる。
「なんだ、これ……」
 核をさらに探るうち、有り得ない数字が目の前に弾きだされた。
 それをウェイは驚きとともに見つめる。
「何でこんな大容量のメモリを搭載してるんだ」
 エッグのような掃除用ロボットからは検出されるはずもない、超大容量のメモリデバイス。それがエッグの内部に搭載されている。
 試してみるとメモリ内も簡単に探れたが、中身が何なのか、暗号化された部分があまりに多くて理解できなかった。
 ウェイはキーボードを打つ手を止め、立体画面上の数字の列を見つめる。
 一般には知られていないが、表世界の掃除用ロボットは時にスパイロボットとして利用されることがある。警察にはロボットにいつでも「監視ウォッチャー」機能を取り付けられる権限があるのだ。このエッグもそういった役割を担っていたのかもしれない。
 だが軽く見た限りで、監視機能が取り付けられているようには見えないが――。
 そこでウェイは、目を見張った。
 今、画面に映し出されているのは、「掃除対象」を設定したプログラムだった。
 普通の掃除用ロボットは、ここに恐ろしく厳密なプログラミングが施されている。何をもってゴミとするか、というプログラムだ。ここに設定ミスがあると、極端な話、掃除用ロボットは道を歩く猫をゴミと判断し、処理してしまうのだ。
 まだ掃除用ロボットが試作品段階にあった頃、研究員の飼っていた猫を「食った」という逸話は、嘘か本当か、今でも中古屋たちの笑い種になっている。
 だがこのエッグの掃除対象プログラムは、恐ろしく簡潔だった。
 ある一つの物体のみが処理対象として指示され、そのほかはゴミとして認知されないようになっている。
 そこにはただ一言、こう記されていた。


  LA’CRYMA


 ウェイはハッと背後を振りかえる。
 そこには黒い衣服をまとった少女が立っていた。
 少女は無機質な瞳を限界まで見開いて、じっと液晶画面を見つめていた。
 硝子玉のような透明すぎる瞳に、文字が反映する。ウェイは少女の眼球の中に「LA’CRYMA」の文字を見つけ、ぞくりと背筋を震わせた。
 どうしようもない恐怖感が喉元まで迫りあがってきて、ウェイは無意識に後ずさる。その手がキーボードに触れ、関係ないキーが押される。ピーッと単純な機械音がして、画面にエラーが吐き出された。ウェイは慌ててパソコンに向き直る。
 エラーを消去し、震える手で掃除対象プログラムからエスケープする。そして再び帰巣本能プログラムまで下がると、彼はウェイに設定された帰巣目標を初期化した。
 背後から気配が消える。キーボードを叩くふりをしながら、目だけで後ろを振りかえると、黒い服の裾がドアの向こうへと消えてゆくのが見えた。
 ほっとし、どうにか冷静さを取り戻したウェイは、なぜ自分があそこまで過剰に恐怖を覚えたのかを必死で考える。だが答えは出ず、ウェイは神経質になりすぎている自分を恥じた。気を取り直して、今度は帰巣本能プログラムに新たな手を加え始める。自動で、帰巣目標が設定されないよう、プログラム自体に鍵をかけたのだ。こうしておかないと、また再起動した後、最初に見たもの誰かれかまわず帰巣目標と設定してしまう恐れがある。
「……よし、これでいい」
 ウェイは作業を終えると、ケーブルをエッグから引き抜いた。
 ピピピッ。
 エッグが自力で起動し、瞳がパッパッと数度点滅して、ウェイをぐいんと見上げる。
「もう俺はお前の親じゃない。元の世界に、巣立ってくれ」
 答えるように回転すると、エッグはまるで最後の別れでも惜しむかのようにウェイの足元に摺り寄った。メタリックブルーの頭部を撫でると、エッグはウェイの手をすりぬけ、少女のいる部屋へと出て行った。
 あそこまで付きまとわれていたのが急になくなると、何だか寂しい気がした。
 そんな自分にそろそろ嫌気がさしながら、ウェイはクローゼットの扉を開けて、何か防寒具代わりになりそうなものを探した。
 隣の部屋へと行くと、少女がエッグと並んで、ソファの横に立っていた。
 テーブルには空になった炒飯のパック。最初は食べるのを躊躇っていた少女だったが、ウェイが食べだすと真似するようにスプーンを口に運んだのだ。ウェイは一口食べて、さっさとエッグの修理に取りかかったが、少女はどうやら最後まで食べたようだ。煮玉子は手付かずだったが。
「……何もないんだ。これで我慢してくれ」
 空に近いクローゼットから見つけ出した黴臭いトレーナーを手渡すと、やはり寒かったのだろう、予想に反してあっさりと、もぞもぞ芋虫のような動きでそれらを身につけた。少女にはそのトレーナーはかなり巨大だったが、おかげで立派な防寒具になりそうだ。
 少女があまりに素直なので、先ほど冷たい口調で「家に帰れ」と言ったことに多少の自己嫌悪を覚えた。少女の態度に苛立ったのもあったが、あれはそれ以前に沈んだ気分からくる八つ当たりだった。
 ウェイは気まずく首根を掻き、ソファに放っておいた自分のマフラーをぎこちなく少女の首にかけた。少女は無抵抗で、マフラーを巻かれるに任せている。
「それで、家はどの辺なんだ?」
 口調はどうしてもぶっきらぼうになってしまったが、かわりに話す速度はゆっくりにする。改めての問いかけに、少女は朝よりも反応よく顔を持ち上げた。
 だがウェイを見つめるだけで、答える気配はまるでない。
「これから表通りに行く。タイムズ・スクエアの辺りを通っていくつもりだ。……タイムズ・スクエア、分かるか?ブロードウェイのあるところだ」
 忍耐強く、懇切丁寧に説明するが、少女からはやはりどんな反応も得られなかった。
 自己嫌悪も、八つ当たりへの反省もそれで吹き飛んだ。
「……助けたことを後悔するよ」
 ウェイは重苦しく溜め息を落とすと、声もかけずにドアへと歩き出した。
 少女が、三歩後ろをついてくる。
 さらにその後ろを、気まぐれな動きでエッグが追ってくる。
 二人と一台はばらばらに廊下へと出た。


 昼も近くなり、第三裏通りの気温はわずかに上昇していた。だがいつもはあちこちで焚かれているドラム缶の火が消えているため、精神的には寒さが増している気がした。
 薄着の体を手でさすりながら、ウェイは身を縮めて歩く。速歩きでどんどんと先へゆく中古屋の後ろを、少女が小走りで追いかける。帰巣本能プログラムのバグから解放されたエッグは、様々な物に目移りするのか、次第に二人から置いてけぼりを食いはじめるが、ウェイも、少女も、エッグ自身も気に止めなかった。
 裏通りは静かで、少女の小刻みな足音だけが響いた。ウェイの足音は、裏通りに生きる人間の癖であまり音とはならない。
 最初は自分の歩幅で歩いていたウェイだったが、少女の足音に気づくと、彼は足を止めた。背後を振りかえると、十歩ほども離れた位置から、少女が追いかけてくるのが見えた。
 ようやく追いついた少女の上気した肌を見下ろし、ウェイは気まずい気分になる。
 何か声をかけようかと思ったが、少女の無反応を思いかえし、一気にその気をなくした。
 ウェイは何も言わぬまま再び歩きはじめ、それでも今度は少しだけ歩調を緩めた。
 相変わらず一軒だけしかない屋台街を、店主に見つからぬように切り抜ける。大通りまで出ると、あちこちへと伸びる脇道の向こうから、幾度か銃声と悲鳴が聞こえた。昨夜の狂騒で疲れたフレデリック一味が、遅い目覚めとともに、ふたたび活動を始めたのだろう。ウェイは警戒に顔をこわばらせ、自分の体の陰になるよう少女を引き寄せると、瓦礫から瓦礫を渡り歩いた。
 被害に遭うこともなく、やがて大通りの両脇に建つ店々がまばらになってゆく。
 闇が深くなり、道幅も次第に狭くなり、ついにはひどく湿った路地へとつながる。
 だがそのずっと奥からは、かすかに光が溢れているのが見えた。
 第三裏通りの東端、表世界であるファースト・ジオ・マンハッタンの繁華街タイムズ・スクエアへと直接つながる、唯一の道である。

+++

 そつなく着飾った人々が無数に行き交い、その間をロボットたちが動き回っている。昼の白々とした日差しが、磨きぬかれた道路を輝かせている。見上げると、高層ビルの間には色とりどりのエアジェットが飛び交い、クラクションが都会の空を彩っていた。
 眼の眩むような、ファースト・ジオ・マンハッタンの表の姿だ。
 
 輝かしい光景を路地を出る少し手前から見つめ、ウェイは少女へと向き直った。
 無造作に、トレーナーについた浅めのフードを頭にかぶせてやる。そうしてみると、確かにロブの言うとおり悪目立ちはするが、近寄りがたい雰囲気となった。
 ただでさえ、裏通りの人間と丸分かりのウェイが側にいるのだ。ぶかぶかの服を無理やり着た少女は、ホームレスの類にしか見えないだろう。表世界の人間が、そんな人間に興味を持つことはない。
 それにフードをかぶっていれば、とりあえず、警察の目隠しがわりにはなる。
 背後からはエッグが遅まきながらついてきている。帰巣本能プログラムが解除されたエッグが、ここまでどうにかウェイたちについてこられたのは奇跡に近い。だがエッグもまた表世界に出れば、人通りに紛れて、ウェイたちからは自然と離れてゆくだろう。
「約束した通り、家に帰れるなら家まで送る。警察に行くなら、タクシーを拾ってやる。どこでもいい。行きたい場所を言ってくれ」
 先ほどとは言葉を変えて語りかけるが、やはり少女は無言のままだ。
 ウェイは深々とうなだれ、ふと少女の長すぎるトレーナーの袖口に目を奪われた。
 自分のトレーナーを着せたのだ、袖を引きずるのは当たり前だ。そう、改めて見るまでもなく、少女は年齢相応に小さかった。
 不意にウェイの心の中に、先ほどの苛立ちとは違う憐憫の感情が芽生えるのを感じた。
 だがそれは少女の境遇に対してのものではない。
 表世界の子供はここまで無表情なのかということに対しての、漠然とした憐れみだった。
 第三裏通りに生きる人々は、みな表世界を追われた人々だ。理由は様々だが、大半は表世界の人間よりも表情豊かだった。ジャンク映画の登場人物に比べれば表情は少ないが、それでも表世界よりははるかにマシだ。
 裏通りの子供は、笑う。無邪気さとはほど遠い歪んだ笑顔であるが、それでも笑う。
 だが表世界の子供が笑っているところを、ウェイは見たことがなかった。
 壊れてしまった機械動物を平気で見捨てた、あの日の子供を思う。あの子供と、目の前の少女とは、全く同一のものだ。
 ウェイは薄茶の髪を掻き混ぜ、少女の傍らに膝をついてしゃがんだ。
 見上げるばかりだった少女に視線の高さを合わせ、諭すように呼びかける。
「ニナ」
 ニナ、と初めて名を呼ばれ、少女はかすかな反応を見せた。
 長い睫をしばたたかせ、ウェイの声に耳を傾けるかのように、わずかに身を乗り出す。
 ウェイは思わぬ反応に驚きながらも、会話の糸口を探して、言葉をつなげた。
「俺は、これ以上は関われない。同情はするが、俺にはそれだけの余裕がない。けど、何があって追われているのかは知らないが、ここまで関わった以上、最低限の手助けはする。……どうしたい?」
 帰る場所を聞いても答えない。行きたい場所を聞いても答えない。ならばウェイにはそう訊ねるしかない。その希望通りには叶えてやれなくても、手助けぐらいはできるだろう。
 少女はかすかに首を傾け、じっとウェイの言葉に聞き入っているようだった。
 やはり少女はすぐには答えなかった。
 それでもウェイは辛抱強く、答えが返ってくるのを待つ。
 これで答えが返ってこなければ、警察署に連れてゆく以外に方法がなくなる。だが少女の状況が分からない以上それはしたくなかったし、ウェイ自身も危険にさらされるのはごめんだった。
 熱意が通じたのか、おもむろに少女が視線を泳がせた。
 その目線をたどってウェイも首を巡らせる。
 少女はよろめくような足取りで、路地の終わりまで歩いてゆく。
 ウェイは立ち上がり、困惑しながらもその後をついていった。
 一歩、足を踏み出せばもう表世界というところで足を止め、少女は喧騒うずまく大都市を見上げた。今までと同じ、無感動な瞳。だがウェイはそこにほんの微かな「驚嘆」を見つけた気がした。
 少女のか細い腕が、緩やかに持ち上げられる。
 路地の外へ向かって伸ばされた指先は、しかし見えないガラスにでも触れたように、路地と表世界との境でぴたりと止まった。まるでガラスのパントマイムをするロボットのように、指は何もないはずの虚空を這いまわる。
 それは硝子の檻に閉じこめられた少女が、外の世界に恋焦がれてでもいるかのようだった。
 少女は薄く唇を開くと、一歩、ガラスの向こうへ踏み出した。







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