小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.003 10



「これは君へのお土産、アニー」
「まぁ、ゼンマイ式のチョロQ。この小さなタイヤがたまらないの、動くかしら?」
「きちんとメンテナンス済みさ。ああ、もちろん昔ながらの手作業でね」
「ああ、素敵……こんなのはじめて……」
「動かしてごらん? 妖精の羽に触れるように、そっと、そっとね」
 怪しい。ウェイは席について早々、早くも家に帰りたい気分で、グラスの氷をからりと鳴らした。
 仄かな明かりに照らされたカウンターテーブルを挟んで、先ほどから妙に盛り上がっているのは、ガイとアニーだ。アニーの手には骨董価値の高い前世紀の玩具「チョロQ」。かつて日本と呼ばれた国のある玩具メーカーが手がけたゼンマイ式ミニカーで、現在ではもう見ることのできないタイヤを備えた車を、精密な、且つ愛らしいデフォルメで再現している。玩具の域を超えた、世界中にコレクターの多い骨董品だ。
 それはともかく、話題はただのマニアな会話なのに、何だか恋人同士の囁きにも見えるのは、ひとえにガイの放つ怪しさと、アニーの気だるさの相乗効果の賜物だろう。
 この酒場の客層の広さには、驚かされる。ウェイは存在感薄く酒をあおり、肩を落とした。
「ああ、ニナ、口から牛乳が零れているよ」
 ガイがくすくすと笑った。目だけで振りかえると、嫣然と微笑んだ青年が、彼と中古屋との間に座るニナの口端を、指でぬぐうところだった。
「……ミルク?」
「そう、牛さんの乳だよ」
 ガイはまるで恋でもしたように、うっとりと頬杖をつき、少女の顔を覗きこんだ。
「何故かしら」
 アニーがチョロQをいじりながら、ぽつりと呟く。
「あなたが言うと、いちいち卑猥ね」
 同じことを思って硬直していたウェイは、的確な指摘に大きくうなずいた。
 その瞬間、アニーと目が合った。
「……わいせつ罪で捕まらないことね」
 だが視線はすぐにそらされる。不自然なほど、唐突に。
「ひどいなあ。こんな紳士を捕まえておいて」
「紳士は自らを紳士と呼ばないものよ」
 ウェイはグラスをカウンターに置き、ひっそりと溜め息をついた。
 酒場に入ってからずっとこうだ。ガイとはやたらと話をするくせに、ウェイに対しては目を合わそうとすらしない。外で声をかけてきた時には、普段通りのアニーだった。だがガイが、ウェイが呆けている隙に、ニナの手を取って酒場に入った時には、すでにアニーはウェイの存在を意識の外に追いやっている風だった。
 ニナの存在が気になっているのかもしれない。金欲しさについに幼女誘拐に走ったとでも勘違いしているのか。だが端から見ると、ニナはむしろガイの連れに見えると思うのだが――。
「ニナ。君は、おもちゃは好き?」
 物思いに耽るウェイの脇では、相変わらずガイとニナが楽しげに話をしている。
「おもちゃ……、ミッキー?」
「ミッキーもおもちゃの一種だねえ。おもちゃは、だいたいの子供が大好きなものだ。もっとも、僕はもう小さくないけれどね……見てごらん、ニナ」
 自分で自分が可笑しいのか、笑いながら彼は懐から万年筆を取り出した。
「万年筆に見えるけど、これもおもちゃだよ。僕の作ったものだ。ねぇ、ミッキー?」
「まんねんひつの、おもちゃ?」
「そう。……ああ、でも辞書はこの場合、あまり役に立たない」
 舌ったらずに繰りかえし、また辞書をめくりはじめるニナを見て、ガイは薄っすらと微笑んだ。
「アニー、紙はある?」
「裏紙でよければ」
 差し出された裏紙に、ガイは鼻歌で「Three Little Kittens」を歌いながら、絵を描きはじめた。
 手持ち無沙汰にガイの手元へ目をやったウェイは、思いがけず驚いた。ただの倒錯趣味者かと思えば、ガイはなかなかの絵心の持ち主だった。格別上手いというわけではないが、物体の特徴を実によくとらえている。
 だが本当に驚くべきは、そこではなかった。
「気をつけないといけないよ、ニナ。このインクは、描いた絵に命を与えてしまうという、魔法のインクなんだ」
 ガイは薄く笑い、ニナの注意をペン先へと向ける。
「この子猫にも、ちょっと心臓を描き足しただけで、ほら、ね」
 可愛らしい猫の絵を描いたガイは、最後に、猫の胸にハートマークをつけ足した。その途端、猫を形作っていた黒いインクが、美しい蒼色に輝いた。アニーまでが目を見張った直後、絵でしかなかったはずの猫がむくりと顔を持ちあげ、前脚で愛らしく顔の掃除まで始めた。
「さぁ、君には空を翔るための自由な脚がある。動いてごらん」
 ガイは呪文のように呟き、ふっと猫に息を吹きかけた。吐息を受けた猫は、ヒゲを揺らして目を細め、逃げるように駆け出し、そのまま紙の外へと飛びだした。
 蒼い猫はガイの肩先を走りまわり、ニナの鼻先に止まったかと思うと、軽やかに後脚を蹴って、さらに天井近くまで駆けあがった。そしてウェイたちが呆気にとられる中、蒼色の線を滲ませ、淡い燐光を放ちながら、空気に溶けて消えてしまった。
「まだ試作品だから、インクが乾くと、すぐに消えてしまうんだ」
 ウェイはガイの残念そうな声に我に返った。目を落とすと、先ほどまで猫が描かれていたはずの紙には、インクの染み一つ残されていなかった。
「もう少し持続性を研究しないと。それにキラキラしたり、途中で変形したり、炎を吹いたりとか、子供たちにも分かりやすい派手さがないと」
「……すごいな」
 ウェイはまだ呆けたまま、思わず呟いた。
 それまでウェイには関心の一つも寄せなかったガイが、そこで初めてウェイを振りかえった。
「……そう?」
「制限領域内ならまだしも、普通の紙でそんなことができるなんて……聞いたことがない」
 技術的に見た率直な感想を口にすると、ガイの顔が不愉快そうに歪んだが、ウェイは興奮のままに続けた。
「でも、それだったらマジックとか、スプレー缶でも面白いんじゃないか? 万年筆なんて子供は持たないし、マジックならその辺の壁にも自由に落書きできるし、それに太いから迫力あるものが描けるし。恐竜とか、学校の口やかましい校長と、か――」
 ウェイはそこまで一気に捲くし立ててから、はっとして口を噤んだ。気まずく目を泳がせると、先ほど、確かに一瞬不快そうにしていたガイが、意外にもぽかんとしていた。
「……ああ、確かに……その方が子供たちは喜ぶかもね」
「あ……いや、原理はよく分からないけど」
「発色コリオールと、プロフェッショナルG、それから紙面に一次性限界領域を形成するテプラ液を3:5:2の割合で混合する。インク液についてはね。ただ、テプラは再現率が甘いから、今の段階ではマジックのような太い線は難しい。それを解決できれば……」
 何が起きたのか、ガイはあっさりと玩具の構造をばらしてみせた。これまでの冷たい態度とは一転した素直さに戸惑いながら、ウェイは躊躇いがちに口を開く。
「テプラ? 去年出たテプラEXじゃなくて? EXなら多少補えるだろ。再現率も格段に上がってるって話だし……」
「去年? そんなものが出たの? へぇ」
「へぇって……知らなかったのか、こんな訳の分からないもん作っておいて」
「訳の分からないものとは随分な言い方だね。まぁ、褒め言葉と受け取っておくけど。……ふふ、そうと分かれば早速調べなくちゃ、ミッキー。――さて、ニナ、次は何を描こうか?」
 ガイは万年筆をくるりと指先で回すと、再びニナに向きなおった。
 すでにウェイへの興味は失せていると見え、こちらへはもう視線ひとつ寄越さない。
 ウェイはその移り気に呆れながらも、やはり中古屋だろうかと憶測した。最初にウェイたちを助けに入った彼を見た時も、そう思った。だがこんな妙な中古屋など、これまで聞いたことがない。あの玩具を見るかぎり、相当な技術の持ち主であることは分かるのだが。
「いらっしゃい」
 アニーの無愛想な声が、ウェイを物思いから現実へと引き戻した。
 どうやら新しい客が来たようだ。フレデリックが帰還してからまだ三日も経っていないのに、なかなかの盛況ぶりだ。振りかえると、扉の前には赤と金のストライプ模様という奇抜極まりないスーツを着た、見知らぬ男が立っていた。
 不意に、ガイが笑い声を上げた。
 クツクツと肩を震わせ、込みあげる笑いを堪えている。奇抜なスーツ姿の男は、そんなガイを無言で見つめ、扉のすぐ脇のテーブルに腰を下ろした。
 アニーがカウンターから出て、注文を取りに行く。しばらくして戻ってくると、流し台の下の冷蔵庫からコカ・コーラを取りだし、グラスに注いだ。
 ウェイはぎょっと目を見張った。アニーがボトルを冷蔵庫に戻そうと身を屈めた隙に、ガイが懐から取り出した何かの錠剤を、泡立つコーラの中にぽとりと沈めたのだ。
 茶色の液体の底で、錠剤はあっという間に溶けてなくなる。立ち上がったアニーは異変には気づかず、コーラをトレイに乗せ、男のテーブルまで運んでいった。
 青年は縞馬柄の帽子をくっと下げ、オレンジジュースを笑んだ口許に運んだ。ウェイが様子を伺うと、男は常連ではないのか、酒場の古風な内装を訝しげに見渡していて、まだコーラには手をつけていなかった。
「――ところで、アニー」
 不意にガイが、声のトーンを落とした。
 カウンターに戻ったアニーは、無言で青年を見下ろす。
「三年前、僕が依頼した情報は、見つかった?」
 その瞬間、アニーの肩がわずかに震えたように感じた。
 ガイは口端を持ちあげ、身を乗り出して頬杖をつく。
「情報料はもう渡した。君なら“壁の中”まで届けてくれると思っていたのに……残念だよ。裏通りでは未だに、“彼”の存在が明るみに出ていなかった。あの黒人の名前ばかりが有名になっていてねぇ。知っているだろう? 僕はあの男にはあまり興味がない。それよりも、」
「見つからなかったわ」
 アニーの間髪入れない返答に、ガイは意表をつかれた様子で眉を持ちあげた。
「……ふぅーん?」
 ガイは細い指で唇を撫で、意味ありげな笑みを浮かべた。
 アニーは無言のまま、皿を拭いている。
「まぁ、いいけど。他にも手段はある、そうだろう? ミッキー」
 ガイは底に残っていたオレンジジュースを飲み干すと、おもむろに立ち上がった。
「さて、アニー。トイレを借りてもいい?」
 さりげなくカウンターに滑らせた手の下には、数枚の紙幣。アニーは無表情に首を振り、顎でカウンターの中にある扉を示した。
「チップは結構よ。受け取った情報料はこれでチャラにしてちょうだい……」
「君の店のトイレはずいぶんと高いんだねぇ?」
 ガイは含み笑い、ふとニナを振りかえって、隙をつくような口付けをその頬に贈った。
「それでは、勉強好きなお嬢さん、ご機嫌よう。また、近いうちに、ね」
 その耳元での囁きは、ニナ自身と、隣のウェイにしか聞こえなかったはずだ。ウェイは訝しげに扉と青年とを見比べるが、結局考えるのが面倒になって視線をそらした。
 ガイはそれきり、戻ってこなかった。
 トイレの扉が閉じてから優に十分は経過した頃、背後から、発炎筒でも点火したような音が聞こえてきた。不審に思って振りかえると、あのスーツ姿の男が、口から花火を吐き出しながら、慌ててグラスをテーブルに置くところだった。
 あの錠剤だ。そう察するのと同時に、ようやく火花を吐き出し終えた男が、カウンターまでやってきた。
「女、トイレはどこだ」
 動じた様子のないアニーは、詰め寄って来る男を薄目で見つめる。
「ここにトイレはないわ。外の公衆トイレを利用することね」
「どけ!」
 男はアニーを強引に押しのけ、カウンターの向こう、ガイの消えた扉を無理やり開けた。その目が驚きに見開かれる。扉の向こうはトイレどころか、ただの狭苦しい掃除用具入れだったのだ。
 男は整然と置かれた旧時代の掃除用具を手で掻き分け、どこにも隠し扉がないことを確認して、大きく舌打ちした。
「……コーラのお代。払ってちょうだい」
 そのまま足早に去ろうとする男を、アニーが呼び止める。何の感情も篭らぬ声だが、不思議と威圧感があった。男は爬虫類に似た目を細めると、硬貨を一枚一枚、これみよがしに床に落とし、足音高く酒場を去っていった。
 ベルの音が収まると、酒場にはまた静かな空気が流れた。
「ファンタジーな奴」
 傍観者に徹していたウェイは、変に感心した。あの男は、トイレが掃除用具入れに変わっていたことに驚いただろうが、ウェイにしてみればその逆だ。ウェイはそもそもあれが掃除用具入れであることを知っていたので、むしろガイがあそこに入った時にこそ驚いたのだ。まぁどちらにしてもファンタジーには違いない。どんな魔法を使ったのかは知らないが、あの青年の言動や行動を思い起こすと、掃除用具入れがトイレに変わっても、もはや大して驚く気にはなれなかった。
 ウェイの呟きには誰からも返答はなかった。別に、誰の返事を期待していたわけでもなかったが、普段のアニーなら何かしらは返してくれる。
 ガイが消えたことで、ニナを連れているのが自分だと判明してしまった。気まずさが募り、ウェイは頭を掻きむしって席を立った。
「……じゃあ」
 二人分の硬貨を置いて、ニナを促す。背の高いスツールから不器用に下りるのを、もどかしい気分で見守り、アニーの沈黙から逃げるように背を向ける。
 そこで、アニーがようやく口を開いた。
「“その子”の情報、簡単に手に入ったわよ……」
 ウェイは目を見開き、アニーを振りかえった。
 アニーの冷ややかな眼差しが、ウェイを捕らえた。それはまるで責めるように、問いかけるように、サングラスの奥まで覗きこんでくるようで、ウェイは息を飲む。
「……その子って……」
「フレデリックより優先して、追跡指令がかかっていた人物。あなたの言う通り、確かに一人いたわ。第三機械処理場からの”人が倒れている”という通報を受け、ポリスジェット194隊が出動。その後、何らかの理由で、その“倒れていた人物”が逃亡。この時点から、194隊による追跡が開始された」
 アニーの言葉に、ウェイの心臓がどくりと鳴る。
 第三機械処理場、通称「機械の墓場」。ウェイが少女を拾い、そして再び、正面口のドラム缶置き場に放置した場所。
「その後、194隊の報告を受けた本部から、なぜか“第一優先”追跡令が発令された。しばらくしてフレデリック兄弟がニューヨークに帰還したけれど、その指令はその時点でも第一優先を維持したままだったわ。――けれど、その十二時間後、」
 アニーはウェイに背を向け、洗ったばかりの皿を一枚一枚、棚に戻しながら続ける。
「突然、指令は完全解除。理由は194隊の誤認追跡であったことが判明したからとされている。解除と同時に、追跡されていた人物の記録はデータバンクより完全抹消。そのデータを洗えないか探ってみたけれど、残念ながら拾えなかった」
 アニーは最後の一枚を棚に置き、そのままうなだれた。垂れた赤い髪が邪魔して、その表情はウェイからは見えない。
「194隊と本部が、なぜ保護するはずの人物を、第一優先指令をかけてまで過剰に追跡したのかは不明。同様に、何をもってして、最初の報告が誤認であったと判断したのかも不明。唯一手がかりになりそうなことは、最初の報告で、194隊の二名は、逃亡した人物が……」
 アニーは言葉を区切った。
 わざわざ、次の台詞を強調するように。
「ヒューマノイドであったと伝えている」
 ウェイは足元がぐらつくような感覚を覚えた。
 ヒューマノイド。人工知能AIを搭載した、完全人型のロボット。
 薄暗い酒場で、表情の見えないアニーの唇だけが動くのが薄気味悪い。
「“その子”の情報は、それだけ……」
 それきり口を閉ざすアニーと、立ち尽くすウェイの間で、ニナだけが押し黙って立っていた。
 じっと、硝子の瞳でウェイを見るともなしに見つめたまま。
 まるで、あの時、骨董品屋で見つけた、人形のように。
「……抹消された情報を拾うには、どうすればいい」
 ウェイは意識とは違う部分で、沈黙する女店主にそう問いかけた。
 アニーは髪を気だるげに掻きあげ、いつもの無感動な顔に戻って、呟いた。
「金物街のクグカを訪ねることね……。警察の内部情報なら、あちらの方が専門よ……」
 ウェイはアニーの返答を聞くなり、少女を促すこともせず、扉へ向かって歩きはじめた。
 その背に、アニーの声が届いた。
「新聞、読んだ?」


 読んでいない。
 マンションの自室に戻ったウェイは、ソファに腰かけ、テーブルを見つめた。
 突然賑やかになった生活に慣れず、三日前の受け取った新聞は一面だけを流し読んで、そのままテーブルに放置してあった。
 ウェイは新聞を手に取ろうとして、躊躇う。帰宅してからずっとその調子のウェイを不審がってか、エッグが足元をちょろちょろしてうるさい。
 予感が、あったからかもしれない。
 アニーの新聞を読むようになったのは、ちょうど六年前からだ。酒場に行けば必ず渡される新聞を、重大ニュースを扱った一面から、下らぬ芸能欄にまで目を通してきた。毎日欠かすことなく、「目的」を持って読み続けてきた。
 そしてアニーはその目的を知っている。
 持て余すほど重たい記憶が、心臓にずしりと重みを与えた。逃れるように目を閉じると、第三機械処理場の荒涼とした光景が、機械たちの墓場が頭を過ぎった。
 真っ白なスモッグが果てもなく漂い、遠くにモンキー・ボックスの不気味な稼動音が聞こえる。
 壊れた機械が無言で横たわる死の大地。
 地面から、人間の首が伸びている。
 処理を待つ機械の中で、無数の人間が、首から上だけを出して、埋められている。
 いや、あれは人間ではない。ヒューマノイドだ。
 人間そっくりに作られた人工生命体。人間を真似るのが得意な、命を持たぬ人形たち。
 彼らは、機械の墓場で、空ろな目で処理されるのを待っている。
 ピピピッ。
「――……!」
 ウェイは青ざめた顔を持ち上げ、足元のエッグを見下ろした。エッグは単眼を点滅させ、心配そうにくるりと眼球を一回転させた。
「……いや、何でもない」
 答えた途端、吐き気が胸の奥に込みあげてきて、嫌な汗が背中を伝った。
 ふと視線を感じて振りかえると、部屋の隅に立ったままの少女がこちらを見ていた。
 この三日間で見慣れてしまった、その光景。ウェイは少女の眼差しに促されるように、新聞に手を伸ばした。
 乾いた紙を手にとると、一面には「フレデリック表通りに出現」の大書きの文字が躍っていた。投稿者からの、ぶれぶれの目撃写真も掲載されている。
 ウェイは震える手でページをめくり、二面に目を通した。
 そして、動きを止めた。
『不法にAIを搭載したロボットの製造疑惑が持ち上がっていたアウトラス・コーポレーションに対し、立ち入り調査を行った結果、AI搭載ロボットの逃亡疑惑が新たに持ちあがる。現在、ロボットは逃走中とされているが、アウトラス・コーポレーションの対外部はこれを完全に否定』
 何故、このニュースを見逃していたのだろう。
 自分はずっと「これ」を恐れ、恐れながらもなお、新聞を読み続けていたというのに。
 文面を読むと、少女と出会ったあの日に受け取り、結局コートごとなくしてしまった新聞にも、ニュースの第一報が載っていただろうことが分かった。
 だがウェイは、どちらの新聞も読まなかった。そして代わりに、あの少女に出会った。
 動揺の中で、ふたたび少女を振りかえると、少女はまだじっとウェイを見つめていた。
 AI搭載型ロボットの逃亡。人工知能を搭載した、ロボットの逃亡。
 機械の墓場。旧型の冷蔵庫。目を閉じたまま座っていた人形のような少女。
 新聞は、AI搭載型ロボットを、ヒューマノイド型であるとは言っていない。
 だが、警察は機械廃棄場の入り口にいた人物を――ウェイが置き去りにしたニナを、ヒューマノイドだと本部に報告し、第一優先追跡令が下った。
 ウェイは意識がどこか遠くにあるのを感じながら、ゆっくりと口を開く。
「……お前……」
 その時、突如、室内にインターフォンが鳴り響いた。
 ウェイはぎくりと顔を上げ、高鳴る心臓を押さえる。
 一瞬、とんでもないことを考えていた気がする。少女がまさか逃亡した作業用ロボットだなどと。そんな訳はない。新聞にはただのロボットとしか記載されていない。ヒューマノイドだとは一言も書いていない。第一、ヒューマノイドだったとしても、労働用に作られた工場の作業用ヒューマノイドが、こんな少女の姿をしているわけがないのだ。
 激しい動揺に襲われる自分自身を誤魔化すように、ウェイは慌てて立ち上がり、少女の目から逃れるように扉に向かう。
 普段なら、もう少し警戒していたと思う。ただこの時は、自分の思考から逃げ出すことに必死で、扉の外に誰がいるのかを確認する前に、扉を開けてしまった。
「……ウェイ!」
 扉が開いた瞬間、いきなり突き飛ばされ、そのままバランスを崩して床に倒れた。
「やっと開けたわね! 許せない、これだけあたしを待たせるなんて……!」
「……ユ、ユンファ……?」
 近所に住む中華系の女ユンファだった。
 ユンファは、混乱のあまりまともに動けないウェイを床に押しつけ、低く、不気味に笑いながら、ぎらぎらした猛獣のような目でウェイを見下ろした。
「今日こそあんたのケツの穴、奪わせてもらうわよ……」
「はぁ!? 何言って……ちょ……っこの、は、離――……!」
 ようやく状況を理解したウェイは、ユンファを押しのけようとするが、その時にはすでにシャツをまくられ、あちこち触られ、どさくさに紛れてちゃっかり唇まで奪われ――ウェイはユンファの顔を力づくで押しのけ、怒りと羞恥で顔を真っ赤にした。
「っっこのっ、馬鹿が……!!」
「うるさい! 言っとくけどねぇ、あんたがもがけばもがくほど燃えるわよ!」
「どこの変質者だ……っ」
「あんたの三つ隣の部屋の変質者よ!!」
「ちがう!」
 女相手とは思えないほど力を篭めているのに、それでも剥がれないユンファに、ついに本気で悲鳴を上げかけたところで、
「……なぜ?」
 空虚な声がした。
 ユンファはいい所で横槍を入れられ、苛々と声がした方に罵声を返した。
「うるさいわね、お子様は黙ってなさ――――ん? お子様?」
 そこでようやくユンファは動きを止めた。呆気に取られたユンファの顔は、じっと、男を襲う女の図を見物している少女を見つける。圧しかかられたままのウェイもまた、救われた気分半分、究極的に情けない気分半分で、少女を振りかえった。
「え……?」
 ユンファが動揺に声を上ずらせ、ついに悲鳴を上げた。
「っえぇえええ!?」
「……何のプレイだ、お前ら」
 そんな修羅場の三人を、いつの間にか開けっ放しの扉の前に立っていたロブが、白けきった顔で見下ろした。







…お返事 
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