小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.002 8



 喧騒とネオンで輝くあの通りに、二度目の一歩を踏み出すのは、一度目よりも勇気がいった。
 少年はゴクリと喉を鳴らして、足元から伸びる自分の影を、惨めな気分で見下ろした。
 いつまでたっても、歩き出そうとしない主人の動揺を察したのだろうか、肩先の機械動物が頬をすり寄せてくる。
「……わ!」
 それだけのことで、少年はびくりと身を強張らせた。
「あ、あああ、ご、ごめ……慰めてくれたんだ……よね……あ、あの……」
 大げさな反応に、機械動物は再び毛並みを逆立てる。大慌てで少年はぺこぺこと頭を下げた。
 そんな自分に、彼は疲れた様子で肩を落とした。
「……順応しなきゃ」
 そう呟いた途端、背後から寒風が吹きつけてきて、彼は無意識にジャケットのポケットに手をもぐりこませた。
 ──ふとその手が小さな箱に触れて、「カチリ」と音をたてた。
 まっち、だ。
「そう、だよね……」
 少年は紙でできた小さな箱を、そっとポケットの中で握りしめた。
 ――怖い人ばかりではない。
 血の気の失せていた口元に、わずかに笑みが宿った。そしてあれほど躊躇っていたつま先は、ふと何の気負いもなく、光の中へと一歩、踏み出した。


 警戒の視線が、すぐさま少年を突き刺した。
 崩れ落ちそうな建物の階段に、数人で腰かけた男たち。今にも襲ってきそうな野性的な目つきで、じっとこちらの動きを見守っている。
 だが一度目よりもましに感じられるのは、気のせいだろうか。
 先ほどは、すぐさま見知らぬ男たちに囲まれたのだ。逃げ出してもすぐに新しい男たちが囲ってきて、「誰だてめぇ」とか「新人の礼儀を教えてやる」だとか台詞を吐いて、乱暴にこずいてきた。
 多少の覚悟を決めてきたのがよかったのか。それとも、機械動物やマッチに引き出された勇気が、少年の背筋を凛と伸ばさせたのか。視線はしばらく彼の周囲をただよったあと、自然と薄れていった。
 少年は深く安堵して、思わず機械動物に笑いかけた。
 雑然とした町並みには、「HOTEL」のネオン看板が幾つも見つけられた。だがほとんどの入り口で、男女が妖しく手招きしているので、少年は無知ながらに不穏なものを感じとって、足早に彼らの前を通りすぎる。
「もう日が暮れちゃう……」
 ネオンと闇のせいで、時間の流れは感じられないのだが、それでもどこからか夕暮れの光が漏れているようで、空気がふわりと赤かった。
「綺麗……」
 少年は無意識に手を伸ばし、まるで空気を掴もうとするようにそっと拳を握った。
 その拳の向こう。少年はそこに、一本の脇道が伸びているのを見つけた。
 ネオンばかりのこちらとは違って、黄白色の温かな光に包まれている。よく見ると、それは黄熱球をぶらさげた屋台の群れのようだった。
「おなか、すいたね」
 食欲というものを持たない機械動物に、少年はぽつりと呟いた。
 まともな食べ物屋を見つけることができず、さんざん裏通りをさまよい歩いたが、先ほどはあの通りを見つけることができなかった。もしかしたら夕飯時にだけ、屋台が張られるのかもしれない。ともかくあの通りへ行けば、なにかしらまともな食べ物が手に入りそうだった。
「泊まる場所は、あとででいいよね」
 ポケットのマッチをぎゅっと掴むと、少年は「よし」と気合をひとつ入れた。


 屋台街のものすごい活気に、少年は声も出ないほど驚いた。
 つい立ち止まってしまった少年の肩を、背後から来た大男が乱暴に押しのけて、文句を吐きすてる。少年はつんのめるようにして、屋台の合間を歩き始めた。
 隙間なく屋台が立ちならぶ通りは、ただでさえ狭いというのに、人の数も信じられないほどに多く、不慣れな少年の足取りでは歩くことすらままならなかった。人に押されるようにして、少年はただひたすら歩きつづける。
 遠目には、屋台ばかりが並んでいるように見えたが、椅子や卓を並べ、簡易的な食べ物屋を営んでいるところも多いようだった。赤ら顔で、熱酒のグラスを乾杯する男たち、もじゃもじゃ髭を皿に突っこんで、うとうとと眠っている老人。子供も多く、大人たちの隙をついては、テーブルの下から食べ物を奪っては逃げてゆくのが、あちこちで見受けられる。
 見つかってしまったらしい、上がる罵声を背に、二人の子供が少年の脇を駆け抜けて行く。
「どけよガキ!」
 すり抜け様に、そんなことを言われて、少年はビクリと肩を震わせた。自分よりも子供の人に、ガキと言われてしまった。そこはかとなくショックを受ける少年である。
「銃は持ってるか?」
 やはり入るべきではなかった。そう後悔し始めた彼の前に、ふと真っ黒な箱を担いだ男が立ちはだかった。
 あまりに唐突だったので、声を失う少年に、男はすかさず箱の中から何本かの銃を取り出して少年に突きつけてきた。
「レーザーなんかつまんねぇもんじゃねぇ。昔ながらの回転式リボルバーだ。フレデリックの奴が戻ってくる。持ってないなら買っときな」
「あ、あの……え、フレ……?」
「弾もつけとくよ。こいつぁ無料だ。手ぇ出しな」 
 良い鴨だとでも思ったのだろう、男は畳みかけるように口早に喋って銃を押しつけてきた。そのひやりとした冷たい感触に、慌てて手を引っこめる。
「おいおい坊や、持ってねぇんだろ。フレデリックは置いといても、持っておいて損はねぇ。生意気なガキどもをぶっ飛ばすのにだって、これは役に立つぁ」
 上手い冗談を言ったつもりなのか、男はクツクツと自らで笑った。
「安くしとくからよ。ただし弾は次以降もうちで買うんだ。こりゃ店の住所だ。たまにこの辺をうろつくこともある、見かけたら声をかけな」
 大げさな挙動をとりながら、男は少年の気弱さを見てとって、しつこく銃を押しつけてきた。少年は拒みきれずに、とうとう銃を受けとってしまう。
 その重さ。その冷たさ。
 少年の顔色は見る間に青ざめていった。
「さぁ、金払いな。何ぼさっとしてやがる。持ち逃げする気じゃねぇだろうな」
 身勝手に罵って、男は何の許しもなく、少年のコートのポケットに手を突っ込んだ。機械動物が背中を丸めて、鋭い奇声を発する。しかし少年はただ銃の冷たさに恐怖し、棒を飲んだように硬直していた。
 男は硬貨を数十枚探りだすと、満足げに鼻を鳴らす。予想に反した小金が入っていたのだ。それもすべて真新しい輝きを放っている。これなら表通りでも、受け取りを拒否されないだろう。
「なんだこりゃ」
 されるがままの少年の耳に、ふと訝しげな声が入ってくる。フードの下から男を見下ろすと、男は硬貨に紛れていたマッチの箱を、つまらなそうな顔で眺めていた。
「あ」
 そこでようやく少年は我を取り戻した。銃を握りしめたまま口を開く。しかし返してくれと懇願するより先に、男の腕は、不要と判断したマッチ箱を、どうでもよさそうに放り捨てていた。
 マッチの入った箱は、砂利まみれのコンクリートを軽くバウンドして、少年の足元よりいくらか先に転がる。
「まっち」
 少年は慌ててマッチを拾いに走った。その間に男は、「毎度」と言って、かがむ少年の脇を抜け、人ごみに紛れていってしまう。銃を片手に持ち直し、少年は無事、マッチを拾いあげた。
 汚れたわけではない。
 誰かに踏まれてしまったわけでもない。
 マッチはポケットに入っていたままの状態で、少年の手元に戻ってきた。
 ──にもかかわらず、ひどい動悸が少年を襲った。
「…………」
 少年はマッチをポケットに落として、ゆっくりと立ち上がった。
 肩の上で男を睨みすえていた機械動物が、不意に耳をぴんと立て、少年を見上げた。
 かたかたと、掌が小刻みに震えている。
 銃を持つ手が、激しく震える。
 緩やかに、銃口が持ちあがった。
 と同時に、周囲を取り巻く通行人たちの足取りが、やけにスローになる。
 人々の頭の向こうに、男の背負う黒い箱が見えた。
 荷物が揺れ動く様もまた、やけに緩慢だった。
 銃口はさらに持ちあがる。胸の高さまで、肩の高さまで──眼の高さまで。
 引き金に、震えるのをやめた指先が、かけられる。


 動悸が、鼓膜を、打つ。


「……おい!」
 不意に銃口に上からの力が加わった。
 乱暴に銃先を引っつかまれて、今にも弾を打ち出そうとしていたそれは、ぐっと地面に向けられる。
 ハッとして顔を上げると、目の前に見知らぬ男が立っていた。
「何しやがる!」
 少年は呆然として男を見上げた。耳の中には急速に音が戻り、通行人たちの足取りも再び足早になった。そして狭まっていた視界には、険しく眉間に皺を寄せた男の顔。
 何故か呆然としている少年には気取られず、男は掴んでいた銃口を乱暴に突き放した。しかし少年はまだ呆けたままだった。それは、突然現れた男の存在に驚いているというよりも──何か別のことに狼狽しているように見えた。
「おい、ガキ! 何で俺に銃を向けたのかって聞いてんだ!」
 男は少年にまるで反応がないことを見てとると、怒気に顔を赤くして拳に力をこめた。銃は男に向けられていた。正確には、男のさらに向こうにいた商人に向けられていたのだが、それを男が知る由もない。目を見開いてうなだれた少年は、地面を踏む男の巨大な足が、こちらへと踏み込んでくるのを──地面を向いたまま震えている銃口を、愕然と見つめた。
 今、何をしようとしたのだろう。
 僕は、何を、しようと──。
「……ん?」
 不意に視界の中で、男の靴がぴたりと止まった。
「おい、中古屋ぁ!」
 男の突然の呼びかけが、少年の頭上を越えて、背後へと向かってゆく。
 真っ青に青ざめていた少年は、ゆるゆると顔を持ち上げて、反射的に首をめぐらせた。
 灰色のフードが、驚愕に揺れ動く。
 荒波のような人ごみの中、苦い顔をしていたのは、あのマッチをくれた男だった。


 あのエッグめ。ウェイは内心で罵倒を吐き捨てる。
 エッグと衝突したせいだろう、鎮痛剤を打った右足が、急速に痛みを取り戻しはじめていた。
(眩暈までしやがる……)
 目を閉じると、瞼裏に光の粒子がチカチカと舞っているのが見えた。
 視線の正体も分かったことだ、あとは早くマンションへ──。
 ピ。
 ウェイは眉を持ち上げた。
 どこからともなく、機械音が聞こえた気がした。
 軽く振りかえって音の出所を確認するが、人が多すぎて、あの卵型のロボットを見つけることはできない。
(まだウロウロしてるのか……)
 ウェイは顔を戻し、ふとマフラーの下で笑った。
 蹴られた恨みは忘れはしないが、ウェイはあの掃除用ロボットが好きだった。くるくる回転しながら、表通りの磨きぬかれた地面を掃除するロボット。現在でもマニアの多いジャンク映画「スターウォーズ」に出てくるロボットに、少し形が似ているのだ。
 ちょろちょろと動き回る姿は、愛嬌があって可愛い。もしも墓場で見つけたら、自分用に一匹確保しようと、ひそかに企んでいた時期もあった。部屋が狭すぎて、掃除するスペースすらないことに気づいて、諦めたのだが。
 ふとウェイは顔をあげた。そういえば、何故エッグがこの裏通りにいるのだろう。
 掃除用ロボット「プランプ・モップV」は、表世界の大通りにしか出没しない。そうプログラミングされている。間違っても裏通りに入りこむなんてことはないはずなのだが。そうだ、それに正常に起動しているエッグならば、決して人にぶつかったりはしないはずだ。これは絶対的な命令として、エッグに与えられたプログラムである。
 ピピ。
 時折背後から聞こえてくる機械音。
 ウェイは、故障しているのだろうか、と首をかしげる。
「おい、中古屋ぁ!」
 もう一度振りかえろうとしたところで、前方から声が飛んできた。
 来たな、と表情を険しくさせて、ウェイは口元まで引き上げていたマフラーを取り払った。


「中古屋だろ、お前。フレデリックの野郎が──」
 緑色のサングラスをかけた薄茶の髪の男は、男の興奮しきった声音に、辟易とした様子で顔をそらした。その動きに合わせて白い息が流れ、それで彼が溜息をついたのが分かる。しかしそれにはまるで気づいた様子もなく、男はなおも言葉を浴びせかけた。
「俺ぁ、フレデリックにゃつかねぇ。あんたらにつくつもりだ。期待してるからよ」
「どーも」
 マッチをくれた男は短く答え、自分の胸を叩く男の脇を通り過ぎようとする。
 通り過ぎて、しまう。
「あ……!」
 少年はとっさに声をあげていた。
 なおも喋り続ける男の横を通り抜けざま、マッチの男はふと、こちらをふりかえった。
 サングラスごしの視線が、少年をとらえる。それは彼の肩の上で、耳を立てる機械動物へと横滑りし──固く閉ざされていた口が、何かに気づいたように、わずかに開いた。


 ウェイは、フードをかぶった少年と、機械動物の姿を見つけて、目を見開いた。
 フードを被った姿だけでは、誰だか思い出せなかったが、忘れようもない機械動物の、アニーに預けたはずの兎猫を見て、急速に記憶が蘇った。
 ローガン・ストリップの前で出会った少年だ。アニーの店のマッチを投げてやったのだが、では彼は無事にたどり着いたのだ。
 そしてアニーのお眼鏡に叶った。
 会ったばかりの少年に、機械動物を譲るとは。ウェイはアニーが認めた少年に興味を覚え、その足を止めた。
「あの!」
 男が自分を覚えてくれていた風だったのが嬉しくて、少年は先ほどの動揺を忘れ、彼の方へと足を踏み出した。
「んだ、てめぇ。まだなんか用があんのか!」
 それを、彼と少年の間にいた男が、乱暴に押しとどめる。
 マッチをくれた男は、少年を小突いた男を止めようとしてか、腕を持ち上げた。
「おい──」
 だが。
 その制止の言葉が、最後まで紡がれることはなかった。


 ッピ────ィィィィィイイイイイイ……!!


 突然、甲高い機械音が、屋台街に響き渡った。
 鼓膜を貫くような高音に、少年は反射的に両手で耳を塞ぐ。
 側にいた通行人たちもまた耳を塞いで、人間の本能で身を屈めた。
 そしてそれはウェイも同様であった。脳髄まで突き刺さんばかりの高音、ほとんど物質と化した高音波から耳を庇いながらも、彼は目を細めて周囲を仰ぐ。
 まともに思考が働かない。それでも何とか、事態を打開しようと、音源を探す。
 そしてウェイは、背後に「それ」を見つけた。
 一方の少年もまた、緊張でフードを激しく揺らしながら、マッチの男が振り返った方向を凝視した。
 そしてやはり「それ」に気がついた。
「……え?」
 闇と光の交錯する屋台通り。
 コンクリートが剥がれ、あちこち土が顔を出している地面。
 少年とウェイの伸びた長い影の中に、無気味な何かが立っていた。
 それは影の中に青い何かを光らせて、こちらをギロリと見上げている。
 困惑して後ずさる少年に、それは再び殺人的な高音を放った。


 ────……ィィィイイイイイイ……!


「嘘だ……!」
 突然、少年が裏返った悲鳴をあげた。
「っ嘘だ……!!」
 通行人たちは耳を塞いだまま、怪訝に少年を振りかえるが、それにはまるで気づかず、彼は勢いよく身を翻し、ウェイの側から駆け出した。
「あ、おい!」
 ウェイは本能的に、逃げてゆく少年の背中へと手を伸ばした。あっという間に少年の姿は、耳を塞いで立ち往生する人々の壁の向こうへと消えてゆく。
 そしてウェイがそれを追おうとした直後。
 足元に、何かが滑りこんできた。
「え?」
 足元で輝く卵型のボディ。ウェイは目を見開く。
 それは、あのエッグだった。
 エッグは背面をウェイに向け、逃げてゆく少年に丸い眼球を向けて、甲高い機械音を発し続ける。
 まるで誰かを、呼ぶかのように──。



 ──マンハッタン州大工場地帯。
 第三機械処理場正面入り口、ドラム缶置き場。


 一般市民には好奇心を、まずいことをしでかしているという自覚のある者には嫌悪と恐怖を与えるポリスジェットが、ドラム缶の廃棄場の空いているスペースに、速やかに着陸した。
 サイレンが止み、青い回転灯だけが灰色のスモッグを切り裂く。
 ポリスジェットから制服を適当に着崩した若い警察官が、欠伸をしながら出てきた。出てくるときにドアの縁に頭をぶつけ、汚らしい言葉とともに唾を吐き捨てる。
「遊んでねぇで、さっさと女の子とやら連れて来い。もたもたしてると、中古屋の連中に改造されちまうぞ」
 火に油を注ぐ助手席の同僚のジョークを無視して、警察官はドアを乱暴に閉めた。
 途端、ガンガンに鳴っていたロックがドアの向こうに消え、かわりに静寂に近い空気が警察官を包みこんだ。
「ち。薄気味悪ぃ」
 都市の外れにある機械処理場付近は、常にスモッグが漂い薄暗く、また工場からも幻聴のように作業音が聞こえ、無気味さ極まりない。出るという噂は、大した信憑性もないくせに根強く残っている。今のご時世だ、信じているつもりはないが、気味が悪いのは本当だ。
 警察官はフロントガラスの向こうで雑誌を読む同僚を恨めしく振り返りながら、廃棄ドラム缶の山へと向かった。
 通報と、他のポリスジェットの話によると、ここに女の子が倒れているということだが。
「あれか?」
 スモッグの向こうに積まれたドラム缶の前に、黒い影が座っている。
 警察官は少しずつドラム缶に近づき、やがてそれの前に立った。
「人形?」
 警察官は眉をひそめ、それの側にかがみこむ。
 座っていたのは、恐ろしく精巧に出来た人形だった。
 ふざけるなと警察官は毒づく。悪戯か、慌て者の通報か、なんにしろ無駄足をさせられたのだ。
 ──おい、どうした……!
 ポリスジェットから同僚の声が聞こえる。警察官は舌打ちし、忌々しげに叫び返した。
「人形だ、生きてやしない!」
 ──ちゃんと脈確かめとけ。例の、逃亡したとかのヒューマノイドかもしんねぇぞ。
 関心がなさそうに、警察本部を騒がせている事件を冗談の種にして、同僚は再び雑誌に視線を落とした。
 警察官は舌打ちし、人形を振り返った。逃亡したのは工場の作業用ヒューマノイドだ、こんな少女なわけあるか。同僚への罵り言葉を心中で吐きながら、警察官は人形に視線をやった。
「気味が悪ぃ」
 警察官は口元を歪め、思わず身震いした。不気味な人形だ。素人目にも相当な腕によるものだとは分かるが、決して好印象を与える人形ではない。
 人間の少女の、ほぼ等身大だろう。
 死人のような青白い肌。今はスモッグから漏れ入る夕陽に照らされ、片頬を不気味に赤く染めている。
 闇に溶けこみそうな黒い衣装は、重く暗い印象しか与えない。
 それにこの髪の毛。人毛でも使用しているのだろうか、いやに生々しい光沢を放っている。そして、綺麗に整えられた前髪から覗く、


 黒い眼光。


「───!」
 警察官は声にならない悲鳴をあげ、後ろに転倒した。
 言葉を失う警察官の前で、人形は冷たい目をパカリと見開き、瞬き一つせず周囲を見渡した。
 光を宿さない漆黒の瞳は、目の前の警察官を見向きもしない。地べたに座り込んだまま、黒い前髪の隙間から黒い視線をさまよわせている。
 やがて人形は音もなく立ち上がった。
 黒いワンピースの裾が、ふわりと風に揺れて細い足を覆った。
 そして色の薄い、小さな唇がひっそりと開かれ、
 囁いた。


  ラ……


      ク……


   リ……


       マ……


 人形の姿が機械廃棄場の入り口をくぐって、廃棄場の霧の中へと消える。
 警察官は逃げるように立ち上がり、同僚にしまりのない声を張りあげた。
「追え! ヒュ、ヒューマノイドだ……!」







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