小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.002 4



 中古屋専用の出入り口へと帰りついたウェイは、よろめくように担架のステップから降りた。
 一種の高揚状態から覚め、足首に痛みが走りはじめている。ウェイは担架に突っ伏し、降りたときの衝撃をどうにかやり過ごした。
 頭上にエアジェットの走行音が響きわたる。見上げると、スモッグの中を、赤いエアジェットが突っ切ってゆくのが見えた。
 まるで血でも塗りたくったようなボディだ、とウェイは顔をしかめる。
 つづいて、別の飛行音が轟いた。
 次に現れたのは、青と白のボディをしたポリスジェットだった。
「来たか」
 通報を受けて来たのか、ポリスジェットは少女がいる入り口の方へと向かっているようだ。
 ウェイはそれを一瞬だけ見送り、躊躇いを振りきるように、トンネルへと足を踏みいれた。
 眼差しを隠す緑のサングラスが、中古屋たちの横道に宿る光を映して、蒼色に染まった。

+++

 どこからともなく、鼠の鳴き声が聞こえてくる。
「んー?」
 男は低い声で可愛げもなく唸って、でかい図体を苦しげに折り曲げ、シートと床の狭い隙間を覗いた。片目を閉じ、鼻の下を無意識に伸ばして見やった先には、しかし暗闇がうずくまっているだけだ。
「まだあの薄汚ねぇドブ鼠、探してるのか?」
 背後から笑い含みの声が上がった。鬱蒼とした気分で体を元に戻し、男は赤い背もたれ越しに声の主を振りかえった。
 ここはエアジェットの車内である。
 振りむいた後部座席に、くつろいだ姿勢で身を預けているのは二人の男だ。
 一人は、髪を針鼠のように逆立て、顔中をタトゥとピアスで飾った柄の悪い男だ。唇に吊るした銀の輪を舌で転がしながら、にやにやと笑っている。
 もう一人は、見目の良い美青年である。縞馬柄のシルクハットに、同柄の円いサングラスが、その風貌に奇天烈さを与えている。こちらは窓枠に頬杖をついて、外をぼんやりと眺めていた。
 助手席に巨体を埋めていた、巨人のような男は、磨きあげた禿頭を天井にぶつけながら、針鼠の方に血走った目を向けた。
「ドブ鼠じゃねぇ。マイケルだ」
 威圧感に満ちた重低音だったが、針鼠は小慣れた様子で肩をすくめ、「さいですか」とあっさり視線をそらした。
「兄さん。何度も言うけど、ペットに僕の名前つけないでくれる?」
 欠伸をする針鼠の隣で、青年がどこか甘い声音で呟いた。巨人は青年の三倍はある肩を、「ふん」と大仰に揺すった。
「僕の名前、だぁ? 冗談じゃねぇ。俺の弟のマイケルはもういねぇ。あんな可愛いかったマイケルは、どこかへ行っちまった。マイケルはお人形遊びなんかに現を抜かさず、立派に立ちションするし、立派に鼻くそほじって喰っちまう子だった! 」
「んでもって、お股にゃ立派に息子さんがいたっけなー」
「立派? ああ、もしかしてひがみ?」
 ケタケタと笑っていた針鼠と巨人は、同時に「んだとぉ!?」と座席から身を乗り出した。
 青年は二つの強面に臆する様子もなく、吐息を落として、膝の上に視線を下ろした。そこには何故か鉄製の人形がちょこんと座っている。
「うるさい人たちだ。ねぇ、ミッキー?」
「畜生、人形に話しかけんじゃねぇ、女々しい奴め! ……ああ! 俺の可愛いマイケルはどこに!」
「ああ、訂正して。人形じゃないから、この子」
「あ? じゃあ何だってんだよ」
「ミッキー」
「……マイケルー! 」
「あの」
 車体が揺れるほどの大混乱の中、新たな男が論争に割って入った。
 三人が一斉に目を向けると、運転席で安全運転を心がけていた赤と金のストライプスーツを着た運転手は、窓の外にちらりと視線をやった。
「中古屋たちの巣が見えてきましたが」
 三人の男は喋るのをやめ、それぞれ最も近い窓に顔を寄せた。
 良く磨かれた窓から見下ろせるのは、灰色のスモッグだ。濃厚なスモッグの隙間からは、大工場地帯と、巨大な機械処理場が見え隠れしている。
「ふん」
 巨人が鼻を鳴らして、暖房のせいで乾いた唇に舌を這わせた。
「軽く挨拶でもしてってやるか?」
 険悪な口調に、針鼠と青年は同時に首を振る。
「いや、挨拶は大勢の目の前で、派手にやるのがいいだろ。墓場はいずれでいいさ」
「それにみんな待ちくたびれてる。僕らの帰りを、ね」
 三人は顔を見合わせると、ひそやかに笑いあった。
 その直後だった。
「警察です」
 バックミラーに映るスモッグの中に、かすかなポリスジェットの影が見えた。
「速度違反か?」
「いえ、メーターは制限速度です」
「じゃ、とっとと違反こきやがれ」
 巨人の下品な命令に、運転席の男は無言でアクセルを踏み込んだ。

+++

 上空1600メートル。
 天を切り裂いてそびえ立つ大都市も、郊外にくれば圧倒的に高層建築が減る。特にマンハッタン島西部に位置する、大規模な工場地帯の上空ともなれば、高い建物はほとんど見られなくなる。火を噴く背の煙突や工場監視塔以外は、平たい工場が地面に寝そべっているのみだ。
 工場地帯のあちこちに点在する、機械廃棄場。
 その上空は灰色のスモッグによって視界が判然としない。
 ポリスジェットは赤いジェットの片鱗を追うので必死だった。


『第三機械処理場付近にいる警察官は、処理場に向かってください。第三機械処理場付近にいる警察官は──』
 ポリスジェットの内部に、本部からの無線が機械音声で無機質に繰り返される。助手席から身を乗り出してフロントガラスの向こうを睨み据えていた警察官は、苛立たしげに舌打ちした。
『子供が処理場入り口で倒れているとの通報。直ちに保護──』
「それどころじゃねぇ!」
 罵声を吐き捨て、無線のスイッチを拳を叩きつけて切る。
「ガキの迎えなんぞ、ガズにくれてやれ」
 苛立たしげな指示を受けて、運転席の同僚がすぐさま無線機を外線に切り替えた。
『194だ。どうした』
「ガズ。エドがご立腹だ。第三機械処理場に子供を保護に行ってくれ」
『何だと? ふざけるな、今セントラルパークの警備中だぞ』
「手が離せないんだ」
『……奢れよ、畜生』
 吐き捨てるなり、あちら側から無線が切られた。警察官は助手席に体を埋め、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「てめぇらには、ガキのお守がお似合いだ」
 制限速度ぎりぎりで、ジェットは灰色のスモッグの中を突き抜ける。
 フロントガラスの向こうには、少し距離を離して、赤色のエアジェットがこちらに尻を向けて飛行していた。
 後部座席に二人の男が座っているのが確認できる。一方は髪を突っ立て、一方は帽子をかぶり、前の様子は彼らに遮られて、確認することが出来ない。
「帽子じゃ分からねぇか。VOICE、左の、髪突っ立てた男の方を照合しろ」
『了解。ターゲット、補足します』
 警察の声に反応して、車内に女性の機械音声が発せられる。それと同時に、フロントガラス全面が光の線によってマス目状に仕切られた。
 マス中央には、視界を遮断しない透明な光文字で「NOW CHECKING」の表示が点滅した。直後、手の平大のサークルが出現する。光線で出来たサークルは、ガラスの向こうに見える二つの後頭部の間を、チカチカと点滅しながらさまよう。まるでスナイパーが銃窓の中に敵を捕らえるように、サークルはやがて髪を突っ立てた男の後頭部を捕らえ、ポーンという音と同時に点滅をやめて停止した。
『ターゲット、補足。照合開始します』
 後頭部を捕らえたサークルが、カチカチと4mm単位で拡大される。それと同時に、囚われた後頭部もまたモニタ上で拡大化した。実物大にまでクローズアップされた後頭部は、隠されていた正面の顔をぐるりと警察官へと向ける。
 そこに現れたのは、顔中をピアスとタトゥで飾った、二十代半ばほどの男だった。
『頭部型、前科リストと一致。姓名ジョニー・フレデリック。推定二十五歳。警察官殺害によりアルカトラズ刑務所に投獄、三年の服役後、脱獄。現在行方不明中』
「やはりフレデリックか」
 警察官は緊張に顔を歪めた。運転席の同僚がすぐさま無線を本部に繋げた。
「こちら148、脱獄犯フレデリックを発見。捕獲に移る。周辺の警察官に援護を要請する」
 返事を聞く前に彼は無線を切って、叩きつけるようにアクセルを踏み込んだ。
 その直後だ。
「気づかれた」
 赤いジェットとの距離が、突如ぐんと広がった。
 警察官は即座にサイレンスイッチに拳を叩きつけ、ジェット頭部についた警告ランプを回転させた。
 工場地帯の上空を、二台のエアジェットが駆け抜ける。加速エアが限界まで噴出され、空には飛行機雲に似た白い軌跡が高速で刻まれた。
 赤いエアジェットの内部は、とんでもないお祭騒ぎになっていた。
「ぎゃーっはははは! 追ってきやがるぜ犬畜生どもが!」
「運転手さん、スピードもっとあげてくださーい」
「結婚式に遅れちゃうわ! ってか! ぎゃはははははは!」
「ジェットの性能は、ポリスの方が断然いいな」
 腹を抱えて笑い転げる巨人と、くすくす笑う青年を尻目に、針鼠が一人冷静に、膝に乗せたキーボードを打ち鳴らしながら言った。キーボード上に投射された立体ホログラムウィンドウには、緻密に再現されたミニサイズのポリスジェットが回転している。
「後でこのジェットも改造してやらにゃあならねぇな」
 青年は、ぶつぶつ呟く針鼠の脇からウィンドウを覗き込んだ。
「ポリスジェットはかっこいいねえ。……それに比べて、このエアジェットときたら」
 そうぼやくと、青年は膝の上の人形を見下ろし、やれやれといった風な笑みを浮かべた。
「誰の趣味か知らないけど、この赤は最悪だ。ねぇ、ミッキー?」
「そいつに話しかけるな―!」
 途端笑い転げていた巨人の拳が、前部座席から飛んでくる。青年は軽々とそれを避け、これみよがしに、ミッキーをきゅっと抱きしめた。
 板ばさみの針鼠はそれを極力避けながら、黙々と運転を続ける運転手に鋭い視線を向ける。
「逃げ切れるか?」
 運転手はバックミラー越しに針鼠を振りかえり、卑屈な眼を細めた。
「無理のようです」
「その人形を寄越せこのカマ野郎! 俺様が貴様の根性を叩き直してやる!」
「ミッキーだってば」
「じゃあ大都市の、手近な滑降ゾーンまで行ってくれ。そこで撒く」
「この野郎! この……っくぬぅ……!」
「見てごらん、ミッキー。ゆでダコさんだよ」
「馬鹿かおめぇ馬鹿かおめぇ! よこせこの……っ」
「承知しました」
 運転手は一つ頷いて、赤い手袋を嵌めた手でハンドルを思い切り右へと回転させた。
 座席から身を乗り出しての人形争奪戦をしていた巨人と青年は、その衝撃で左壁へと叩きつけられ、運転手への罵りを盛大に喚き散らした。
 一人パソコンを弄っていた針鼠は、不意に邪悪な笑みを浮かべると、そっくり返ったままの姿勢で帽子を直している青年に、にやりと目で合図をした。
「おい三男坊。ちょっと無茶してもらうぜ」
 針鼠の言葉に、青年は口端を冷たい微笑で彩った。


 赤いジェットとポリスジェットの逃走劇はなおも続いた。
 明らかに性能が上回るポリスジェットだが、運転手の技量の差か、なかなか追いつくことができない。
 微妙な距離で肉薄したまま、やがて視界を遮っていたスモッグの海が途切れた。
 開けた眼前に、忽然と立ちはだかったのは、光を反射する巨大な壁だった。いや、壁ではない。見上げてもなお頂上の見えぬそれは、超高層型都市の姿だ。
 赤いジェットが急速に接近してくる都市の壁を、猛スピードで右に回避した。警察官は瞬時にハンドルを切り、ジェットの後部をひたすらに追う。
 左から、後部から、差し込む位置を変えながら、太陽の光がポリスジェットの車内を光で染める。わずかに赤が混じった光は、夕暮れが迫っていることを表していた。
 都市の壁面近くを走っていた赤いジェットが、突如急上昇を始める。
「絶対に逃がすな!」
 助手席で、怒号が上がる。フロントガラスに表示された速度計測はすでに150キロを割っている。高度メーターの数値はそれを上回る速度で跳ね上がり、ついに2200メートルを切った。
 窓の外に立ちはだかっていた都市の壁が、音をたてて途切れた。
 フロントガラスの向こうに、どこまでも果てしなく続く、本物の夕暮れ空が弾けて広がった。


 雲に赤々と陰影をつける、冬の夕焼け。
 雲海から顔を出すビルの最上端が、雲に長い影を投げかけている。
 それは地上の人間には滅多に見ることのできない、信じられない絶景だった。
 ポリスジェットは夕焼けに染まる雲海の上空を駆け抜けていった。
 車内は奇妙の静寂に包まれる。前方を飛行する赤いジェット、それを追うポリスジェットの速さは尋常ではなかったが、不思議と物音というものが感じられなかった。
 ふと真正面に、赤い光を浴びて輝く、巨大な建造物が雲海から顔を出しているのが見えた。
 2200メートルに位置する建造物は百以上ある。正面の建物は明らかに2200メートル級で、しかも他より横幅がある。
 夕日を跳ね返す、鏡面処理を施された鋼色の壁面。そして、オレンジを切って、その断面を上に向けたような半球体型のジェット着陸地を備えた、巨大な高層建築。
 ビルの上部に刻まれている社名は、『アウトラス・コーポレーション』
「まるで神様気取りだな」
 現代社会を創生したといっても過言ではないアウトラス社を、警察官は蔑むように睨みおろす。
「AI搭載ロボットの脱走か……」
 アウトラス社のAI搭載ロボットが、傘下の工場から逃亡した。
 その事実が、ここ数日、警察署内を騒がせている。
 助手席の警察官の呟きに、運転席の警察官は、短い嘲笑を吐き出した。
「ロボットだと? 違う。”ヒューマノイド”だろ」
 民間のニュースでは「AI搭載ロボット」とだけ公表しているが、それは情報規制によるものだ。
 実際にはただのロボットではない。「ヒューマノイド」と呼ばれる、人型ロボットが脱走したのだ。
 アウトラス社の作り出すヒューマノイドは、気味の悪いほどに人間に似ていて、並べてみても区別がつかないほどだと言われている。実際AI「非」搭載のヒューマノイドは、町のあちこちで見ることができるのだが、その形は人間そのものだ。これにAI、人口知能が加わったとなるともう見分けがつかない。
 それが逃走したという。しかも現在も行方が掴めていない。おぞましいことに、民間に紛れた可能性が非常に高いらしい。
 ロボットへのAI搭載は、国際AI法によって禁じられている。
 アウトラス社はAI搭載ロボットの製造も、ヒューマノイド逃亡疑惑も完全に否定している。
 だが──。
「懲りない連中だ。六年前にどれだけの惨事が起きたか、もう忘れたらしい」
 警察官は剣呑と独りごちて、アウトラス社に舌打ちを浴びせかけた。
 それに応えて何かを言おうとした同僚だったが、口を開く間もなく、彼らの意識はすぐに現実の緊迫した状況へと引き戻された。
 赤いエアジェットが、アウトラス社の周りを、帰路を急ぐ鳥のように小さく一周して、一気に都市の海へと落下していったのだ。
「滑降ゾーンか」
 警察は舌打ちし、赤いジェットを追って、アウトラス社の周りを大きく旋廻した。
 通り過ぎる時、ジェット着陸地に、数台のポリスジェットが停車しているのが見えた。黒服の男たちが着陸地を、足早にアウトラス社へと向かっている。
 ビルを一周したところで、フロントガラス右端に、「滑降ゾーン」の表示が点滅した。
 ポリスジェットはわずかに上昇して、緩やかな山を描いてから、一気に急滑降を開始した。
 アウトラス社の壁を滑るようにして、ポリスジェットは逆さまに落下する。
 フロントガラスいっぱいに、雲海に沈没した、光と騒音で満ちた輝かしい大都市が広がった。


 通常走行時には禁止されている急滑降を許可した空間、それが滑降ゾーンである。
 目に見えるものではない。標識や車線、高度メーターなどの交通情報を、光によって表示する、データモニタの役割も果たしたジェットのフロントガラス上のみで、都市の上端から地上までを45度の傾斜で貫くゾーンの姿が確認できる。
 ポリスジェットはアクセルを踏みこんで、赤いジェット目掛けて傾斜を滑り落ちていった。
 色とりどりの看板や、茜色を発し始めた浮遊人口太陽光が、いっしょくたになって窓の外を過ぎる。ゾーンの横を普通走行するエアジェットのクラクションが、ドップラー効果を残して一気に上方へと去っていった。
 高度2000まで落ちたところで、ビルの谷間から数台のポリスジェットが飛び出し、背後を追って滑空し始めた。
『援護する』
「趣味の悪ぃ赤いボディがフレデリックだ」
 無線に飛び込んできた仲間の声に、助手席の警察官は用件だけを述べた。
 赤いエアジェットは、彼らの100メートル下あたりを、尋常でないスピードで滑降していた。制限速度40の滑降ゾーンで、優に90キロは越している。もはや「滑降」と表現するのもおかしい、それはほとんど落下と呼ぶに相応しかった。
 車体が強烈な空気抵抗を受けて、ガタガタと嫌な音をたて始める。警察官は取られそうになるハンドルを制御するので、精一杯だ。
 甲高いサイレンが重なり合い、都市は騒然となる。建物の間を走る空中歩行路では、買い物途中の市民が不審そうに空を見上げて、落下してゆくエアジェットと、三台のポリスジェットを見送った。突風だけを残して、ジェットはあっという間に点となった。


「それでは、行ってきます」
 青年は遊びにでも行くような調子で言って、腰に回したワイアを厳重に締めた。


「捕獲フックを車体に打ち込んで、スピードを殺してやれ!」
「無駄だ。この速度じゃ、フックが空気抵抗でジェットにまで届かない」
 ポリスジェットの車内は騒然となる。決死の覚悟でアクセルを踏み込んでも、赤いジェットは少しも近づいてこない。高度メーターは1700、1400、1000と見ている間に下がってゆく。地上はみるみる近づいてくる、これ以上速度はあげることはできない。
 エアジェットは恐らく、ここで自分たちを撒くつもりだ。地上すれすれで滑降ゾーンを飛び出し、激突を恐れたポリスジェットが自分たちより早めにゾーンから離脱するのを狙っているのだろう。そうでなければ、彼らにとっても危険である滑降ゾーンへ、敢えて来た理由が分からない。
「捕獲フックを用意しておく。通常走行に戻ったとき、一気に片をつける!」
 助手席の警察官は、暗に「地上に激突してでも、フレデリックは逃がすな」と同僚を言い含めて、捕獲フックの発射準備スイッチに手をかけた。
 しかしエアジェットが取った行動は、彼らの想像をはるかに絶したものだった。
 警察官はフロントガラスの向こうに見える光景に、唖然と言葉を失った。
 前方を落下してゆく、赤いエアジェット。その後窓が突然開き、一人の青年が身を乗り出してきたのだ。
 青年は懸垂の要領で上体を外へと押し出すと、上部の窓縁を掴んで、足を片方ずつ外へと出した。呆気と見ている内に、強風吹き荒ぶエアジェットの後部バンパーには、青年のすらりとした姿が乗っかっていた。
 正気の沙汰ではなかった。凄まじい速度で落下しているジェットの後部バンパーに、生身で立つなどと。あれでは風に煽られ、簡単に吹き飛ばされてしまう。いや、わずかでも足を踏み外せば、はるか遠い地上まで落下し、激突して肉塊となるのだ。
 だが青年はそんなことを意に介した様子もなかった。強烈な向かい風にあおられて、バタバタと翻る帽子を手で押さえ、高速で頭上へと上昇してゆく都市の姿を見上げている。浮遊人口太陽光が、左脇を一瞬で通り過ぎ、青年の顔を束の間赤く染め上げた。
 その顔が、唐突にこちらを向き直った。
 青年は息を呑む警察官に、帽子を脱いでお辞儀をした。
 その優雅な挨拶とは裏腹に、黒髪が乱雑に空を舞う。顔を覆う髪の間から見え隠れするのは、礼節を保った控えめな微笑。
 それはまさに、紳士さながらだった。
「イカれてやがる……」
 警察官は気味が悪そうに、口元を引きつらせた。
 それが対応の遅れに繋がった。


 高度300メートル。青年が左手を差し出した。まるで踊りを誘うような手付きで。
 しかし貴婦人が取るであろうその手には、すでに何かが置かれている。
 何か。それはどう見ても、爆弾にしか見えなかった。


「──避けろ!」
 言われるまでもなく、運転席の警察官は咄嗟にハンドルを右へと切っていた。
 ジェットの左隅を掠めて、大爆発が起こる。
 大都市に悲鳴と爆発音が交錯した。


 青年は命綱を外すと、歓声巻き起こる車内へと舞い戻って、針鼠と手を打ち鳴らし合った。


 強烈な爆風に叩き付けられて、ポリスジェットの車体は斜めに傾き、傾いたまま左方向へと弾き飛ばされた。
 一瞬衝撃で意識を失いかけた警察官は、ジェットが滑降ゾーンを飛び出す直前でハンドルを切り、どうにか二次災害を避けた。
「……被害状況」
『バンパーの一部が破損。ほか、被害はありません』
 体勢を立て直して、頭を押さえながら言う言葉に反応して、機械音声が冷静にそう告げる。そうは思えない衝撃と爆煙だったが、ジュットの判断は正確だ。どうやら爆発音と爆煙だけのコケ脅しだったらしい。
 溜め息を落として後部を振りかえると、他のポリスジェットも大きな被害はなく、ただ彼ら同様、衝撃に立ち往生をしているのが確認できた。
「……畜生」
 緩やかに晴れ始めた爆煙の向こうには、すでに赤いエアジェットの姿はかすかとも見られなかった。
「どうする」
 同僚の指示を仰ぐ声に溜め息を落とし、警察官はフロントガラスに大都市の地図を呼び出して、切れた唇を舐めて、地図上部に視線をやった。
「どうせ奴らの目的地はここだ。体勢を立て直して、追撃するぞ」
 視線の先には、「第三裏通り」の文字が点滅していた。







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