小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.002 12



 ウェイは溜め息を落とし、壁を支えに立ち上がった。
 そんなウェイを少女はただ黙って見上げてくる。
「……出口を探す」
 その視線に後ろめたさを覚えて、ウェイは少女から眼をそらした。
 そう、出口を探すのだ。この暗い道から抜け出て、安全な場所まで逃げる。警察の追ってはこない場所に、フレデリックがまだいない場所に。
 そこで、今度こそ少女を放棄する。
 ウェイは残酷な決意を固め、うなだれた。
(ここは、ジャンク映画の世界とは違う)
 "英雄"なんてものは、存在しない。誰もが自分のために生きることで必死で、他人のことなど構っていられないのだ。
(ここに、ニナはいない……)
 ウェイは心中でつぶやき、ふと顔を上げた。
 中古屋の鋭い聴覚が、かすかな人の声を捕らえた。声は彼らの進行方向、闇に沈んだ道の真っ直ぐ先から聞こえてくる。ウェイは闇を見据え、少女を立ち上がらせた。
 声は笑い声を伴って、こちらへと近づいてきていた。
 ──それにしても、ひどいよなぁ?
 固い足音の合間合間に聞こえてくるのは、男の声。
 ──声ぐらい掛けてくれりゃいいのによ……。
 ──てめぇじゃ役に立たねぇってよ。
 声と足音の数から、五人、ないし六人ほどの人間が、こちらに向かってきているのが分かった。ウェイは緊張に顔を歪め、少女を促して、一歩、一歩と後ずさりを始めた。
 ──低く見られたもんだぜ。三年前、武器商人を皆殺しにしてやったのは、この俺だってのに。
 ──ああ、あいつら、内臓まき散らして悲鳴あげてたなぁ。
 ──ありゃ臭かった!
 どっと笑い声が巻き起こった。
 会話の内容に耳を傾けていたウェイは、心中で舌打ちし、結論づけた。
 フレデリック・ファミリーだ。
 ファミリーの多くは銃殺、もしくは逮捕されたが、当時の下っ端たちは長い間野放しの状態であった。捕まえるほど価値もなかった、それだけなのだが、本人たちはその単純な事実に気づいていないらしく、いまだ路地のあちこちに縄張りを這っては、ファミリーを名乗って、弱者を虐めては虚勢を張っている。
 脳みそはない。ないだけに、何の常識も通じぬ厄介な相手だ。
「フレデリックも脱獄したわけだしよ、奴らに俺たちの価値ってもんを分からせてやろうじゃねぇか」
 男たちの声が徐々に鮮明になってゆく。
 ウェイは焦りに背後を振りかえり、また一歩、後ずさった。
 その瞬間、少女が濡れた地面に足を滑らせた。
「……!」
 ウェイはとっさに少女の背を支える。だが、かすかな物音は、狭い道に驚くほど反響してしまった。
 男たちの笑い声がやむ。足音が途絶え、かわりに水の滴る音が響きわたる。
 ウェイは息を飲んで状況を見守った。恐怖を感じているのか、少女もまたウェイの胸元に身を寄せてくる。
 沈黙する路地。闇の中、互いに互いを探る緊迫した空気。
 そして、静寂の向こうに硬い金属音──銃の安全装置を外す音を聞きつけたウェイは、少女の腕を乱暴に引っつかむと、身を翻して全速力で走りはじめた。
「おいおい、誰かいるのか? どこ行くんだよ?」
「なぁ、ちょっと遊んでくれや。表のゲームに参加しそびれちまってよ」
 背後から猫撫で声とともに、一斉に駆け出す足音が聞こえてくる。
「……おい見ろよ、あのロリコン、可愛い兎を連れてやがるぜ!」
 それまで伺うような口調だった男たちが、突然、興奮に声を荒げた。ウェイよりも闇に慣れた男たちの眼が、少女の姿を見つけたのだ。
 次々と、少女を言葉で犯すような、聞くに堪えない卑猥な言葉が追いかけてくる。捕まればどうなるかが容易に知れるその言葉の群れに、ウェイは顔を歪めた。
「止まれって、なぁ、優しくしてやるからよ……」
 男の足音が、不意に止まる。
「………止まれっつってんだろ!」
 その直後、背後で銃声が轟いた。
 弾丸は、ウェイの後方を走る少女の足元に被弾した。続けざまに、二回、三回と、銃口がうなる。
 その中の一発が、少女めがけて真っ直ぐに飛来してくるのをウェイは見た。
 記憶上では数秒にも等しい長い時間。だが実際上では、少女を引き寄せ、弾道から逃がすことすら出来ないコンマ秒。驚きに、ただ息を詰めることしか出来なかったウェイの脳裏で、血飛沫が舞った。少女の頭部が吹き飛んだ。強烈な緊張が生み出したリアルすぎるその妄想。
 だが妄想は、現実のものにはならなかった。
 路地の上空から、人が降ってきた。
 その人物は少女の背後に着地するなり、手にしていた奇妙な金属棒をくるりと回転させた。途端、円を描く棒の周囲に、奇妙な空間のぶれが生じる。まるで水面に描かれた波紋のようなそれ。直前まで迫っていた弾丸は波紋にぶつかると、軋んだ音をたて、木っ端微塵に吹き飛んだ。
 砕かれた弾丸が、金色の粉となって降りそそぐ。
 幻想的に散る金粉の中に立つその人物は、細身の青年だった。
「大丈夫かい、お嬢さん」
 唖然とするウェイと少女を、青年は優雅に振りかえった。縞馬柄の帽子を頭から取って胸にあてがい、社交場の紳士のように頭を下げた。
 少女は、自分を助けてくれた青年を、やはり無感情に見上げた。青年は形の良い唇を微笑ませると、帽子を穴を上に向けて少女へと差し出した。その穴から、動物の形をした人形がひょいっと顔を出す。
「さあ、ミッキー。君もお嬢さんに挨拶を」
 良く見れば、青年が帽子の下から人形を指で押し上げているのが分かったが、少女は気づかず、興味を引かれたのかかすかに首を傾けた。
「中古屋、か?」
 ウェイは伺うように問いかける。状況の展開が理解できなかった。一体どこから現れたのか。何故、彼らを助けてくれたのか。だがファミリーに楯突くのは、中古屋ぐらいだ。しかもあの奇妙な形状の武器──。
 青年はサングラス越しの視線をウェイに向け、面白そうに指を顎にあてがった。
 その笑顔のまま、彼は背後を振りかえる。
 罵声と足音とが急速に近づいてきている。青年は人形を手に取り、シルクハットをかぶりなおすと、整った顔に影を落とした。
「そこの男」
 青年はウェイから視線をそらし、冷たい口調で言った。
「この道を真っ直ぐ走れ。君たちが登ってきた梯子を越えた右手に脇道がある。そこを通れば、人気のある通りへと出ることが出来る」
 少女に対する口調とは正反対な不遜な物言いに、眉根を寄せるウェイを無視して、青年はさらに続ける。
「警察ももういない。早くこのお嬢さんを安全なところへ」
「まさか、さっきの──」
 先ほどの謎の狙撃を思い出し、ウェイは思わず声を上げる。それをやはり無視して、青年は少女の手を取ると、その甲に口付けるふりをした。
「こんな所で、こんなに可愛らしいお嬢さんに会えるとは。次はぜひ、ミッキーと三人で午後のお茶でも。さぁ、逃げるんだ、黒い小兎さん」
 青年は少女から手を離すと、二人に背を向けた。
 ウェイはわずかに躊躇したが、もうすぐ側まで男たちが迫っているのを見ると、少女とともに再び走り出した。


 遠ざかる足音を背中に、近づいてくる足音を正面に聞きながら、青年は浮かべていた微笑に、冬のマンハッタンよりもなお冷たい表情を重ねた。
 男たちは正面の闇の中に、先ほどの男とは違う青年の姿を見つけ、足を止めた。
 撃ち抜いたと思った少女はそこにはいない。一瞬、怒りに駆られた男たちだったが、彼らは青年の容姿に気がつくと、にやりと笑って、舌なめずりをした。
 闇の中、浮かび上がるようにして優雅に立っていたのは、滑稽なサングラス越しでもそれと分かるほどの美青年だったのだ。
「よう、お兄さん。あんたが代わりに遊んでくれるのかい?」
 銃を片手に、厭らしい笑い声をあげ、ゆったりと足を進める男たち。
 青年は微笑んだまま首を傾げる。その細い首筋からは匂いたつような色気、男たちは我知らず喉を鳴らした。
「男と子供、さっき狙ったのはどっち?」
 青年が囁き声で問いかけてくる。男は興奮に引きつる笑い声をこぼし、あっさりと答えた。
「子供さ。ああ、殺すつもりはなかったぜ? ただ脇腹辺りに一発ぶちこんでおけば、抵抗できなくなるだろ。触覚をもがれた虫みてぇに、よ」
「あぁ、……なるほど」
 青年がうなずいたそのとき、パンッと何かが弾ける音と、べちゃっという嫌な音がした。
 集団の先頭に立っていた男は「あ?」と不審げに自分の腹を見下ろした。そしてごく単純に驚いた。自分の左下腹が肉塊を地面に撒き散らして、弾け飛んでいたのだ。男は、青年のだらりと垂らした片腕が、小さな銃を手にしているのを見て、遅い、遅すぎる悲鳴を上げた。
「……こんな感じに?」
 青年が嫣然と微笑み、血を撒き散らして地面をのたうちまわる男の脇腹を、汚いものでも扱うように爪先で蹴った。男がただ悲鳴を上げるだけなのを見て、青年は納得げにうなずく。
 それを唖然と見下ろしていた男たちは、青年のシャツのポケットに奇妙な人形が仕舞われていることに気がついて、目を見開いた。
「フ、フレデリック……さん!?」
「マイケル・フレデリック!」
 男たちは一斉に引きつり笑いを浮かべ、青年の名を口々に叫ぶ。
 青年が否定しないのを見ると、男たちは慄いたように三秒ほど押し黙り、やがて大げさな手ぶりで弁解を始めた。
「いや、これは、まさか、俺たちの縄張りにフレデリックさんが来るとは思ってなくて!」
「お、俺たちはフレデリックファミリーの一員です、あ、あんたの仲間ですよ!」
「ファミリーの一員?」
 青年は小さく囁くと、見る者を戦慄させる、壮絶な微笑を浮かべた。
「女の子をいじめるような屑と、一緒にしないでほしいな。ねぇ、ミッキー?」
 そして再び、内臓の飛び散る音が響きわたった。

+++

 来た道を引き返す二人の左下方に、やがて先ほどの梯子が現れた。
 ウェイは足は止めずに横目で路地を薙ぐ。青年に言うとおり、そこにはもう警察の姿はおろか、掃除用ロボットの姿も見当たらなかった。
 走る二人の足音と、荒い息遣いが、人気のない路地に響きわたる。
 やがて前方の右手に、かすかな光が漏れている脇道を見つけた。
 ウェイは少女の腕を引き寄せると、転げるように脇道へと飛びこんだ。


 脇道の先に現れた通りには、まだ被害らしい被害はないようだった。買い物途中の通行人が、不安そうな面持ちで建物の向こうから響いてくる爆音に耳を清ませている。まだ何が起きているのかを把握していないようで、逃げだす者もまばらだ。いまだに買い物をしている客までいる。
 ウェイは見える範囲に警察も不審な者もいないのを確認してから、大きく息を吐き出した。
 店の看板から判断するに、ここは大通りから多少離れた位置にある、日用雑貨街のようだ。今までの道に比べれば断然広いが、ポリスジェットが降りれるほどには広くない。フレデリックについても、この様子だと、まだ当分は安全だろう。
 ウェイは重たい疲労感に襲われ、その場に力なく座りこんだ。
 ウェイと一緒に通りを探っていた少女もまた、中古屋の前にぺたりと腰を下ろした。スカートの裾が、少女の脇に広がっている水溜りにかかって水を吸うが、気にする様子もない。
 ふと少女が視線に気づいてか、ウェイを見上げてきた。
 それを、彼は躊躇いとともに見つめる。
 少女を放棄するならば、今だ。
 あの危険な状況下ならばともかく、もう安全な場所まで脱したのだ。もう、出来る限界ぎりぎりまで、少女を助けた。これ以上は、ウェイ自身に危険が降りかかることになる。
(英雄も、正義の味方も、どこにもいない……)
 彼はサングラスの奥で目を眇める。
 無意識に、持ち上げた指がフレームを撫でる。
(俺は、正義の味方じゃない……)
 ウェイは目を閉じると、座ったばかりだというのに、ふたたび立ち上がった。
 彼の動きを、無機質な黒い瞳が追ってくる。ウェイは片手で顔を覆ってうなだれた。少女の眼差しは、瞼を閉じてもこちらを見ている気がした。
「しばらくここで隠れてろ。警察もここまでは追ってこないだろう。眠くなるまで隠れたら、ここを出て、表通りを目指せ。裏通りは危ない」
 裏通りを一人で歩いて、表通りへと無事に抜け出せる確率は、この人形のように美しい少女ではきわめて低いだろう。誰もがどう利用しても商品価値の高そうなこの少女を狙うに違いない。
 いや、たとえ表通りにたどり着けたとしても、それで安全だとは限らない。警察に追われているのだ。追撃はなおさら苛烈さを増すはず。
 だが──表通りならば、この少女もそこまでは目立たないはずだ。あの、すべてに無関心な人間たちの街、誰もがこの少女のように表情を持たぬ街。輝かしい、表世界。
 少女はきっと逃げきれる。
 自分へと言い訳を重ね、なぜ自分に言い訳をする必要があるのかと同時に憤り、ウェイはポケットに手を突っこんだ。
「……じゃあ」
 その黒い姿から顔を背け、ウェイはそのまま通りへと出てゆこうとする。しかし小さな手がそれを引き止めた。コートの裾を掴まれて、ウェイは唇を噛んで背後の少女を振りかえる。
 少女はじっとこちらを見上げていた。
 その漆黒の瞳からは、何の感情も読み取れない。
 責めているようでも、助けを求めているようでもない。
 ただ、見ている。
「……離せ」
 わざと冷たく言い放つが、少女は手を離してはくれなかった。
 その小さな手。細い腕。まだ幼い少女。心の奥で何かがざわつくのを無視し、彼はコートを無造作に脱ぐと、少女の寒そうな白い息を覆い隠すように、それ以上に黒い瞳に自分をさらさないために、投げ捨てるように少女の頭にかぶせた。
「欲しいなら、やる」
 しがらみがなくなったウェイは身を翻し、それでもなお少女の視線を感じながら、通りを歩きはじめた。
 大股に歩くと、やがて背後に感じていた視線は消えてなくなった。それでも十分に歩いてからようやく振りかえると、通りの向こうには少女は愚か、脇道の切れ目すら見えなくなっていた。
 ウェイは自分がずっと何かを堪えるように歯を食いしばっていることに気がつくと、深くうなだれ、マフラーで口元を覆い隠した。

+++

 あいつが、来る。


「ひ、ひぃ……!」
 次々と仲間が死体に変わってゆくのを見て、後方の三人は、たまらずに身を翻した。
 逃げ出した彼らに、フレデリックは無関心なようだった。それが逆に恐ろしい気がして、男たちは死に物狂いで路地を逃げる。青年が追ってこないのを執拗なまでに確認し、それでもなお逃げつづけ、疲れて走れなくなったところで、ようやく彼らは足を止めた。
「ち、畜生、あのロリコン野郎!」
 遅すぎる罵倒を悔し紛れに吐き出し、男たちは歯を軋ませた。
「何がフレデリックだ、調子に乗りやがって……!」
「あ、あいつ、笑いながら、ギンを撃ちやがった……」
「びびるな!」
 臆病風に吹かれる仲間に叱咤をいれ、男は握りしめたままの武器をぐっと掴んだ。
「このままじゃ気がすまねぇ。……ん?」
 猫の鳴き声を聞いた気がして、男は声の出所を探した。すると脇道の向こうに、奇妙な少年が立っているのを見つけた。
 フードをかぶった、ここらでは見たことのない少年だ。
 男は凶悪な感情に駆られ、仲間と顔を見合わせると、にやりと残虐な笑みを浮かべた。


 それはイメージだった。
 抽象的すぎて何を意味するのかまるで分からない。
 半分に切ったオレンジに集る黒蝿。葉脈を伝って流れる白い血。琥珀に閉じこめられた虫が足をばたつかせる。黒い花が歓喜に赤い花弁を開く。機械でできた丘で踊る大きな猿。生き埋めにされた殉教者の笑い声。骨董人形に硝子の瞳を入れる顔のない職人。
 唐突に確信した。あふれるイメージが織り成した、根拠も何もない予感。
 あいつが、来る。
「ラクリ……マ……」
 微動だにせず立ち尽くしていた少年はぽつりと呟き、不意にフードを揺らした。
 不思議そうに顔を持ち上げ、少年は口に手を押し当てる。
 動揺に指を震わせると、あわてた様子で周囲に視線を走らせた。
「……あ、れ」
 そこは見覚えのない路地だった。
 どこをどう走ったのか、まるで記憶になかった。ともかくあの場所から逃げ出したい一心で、がむしゃらに走りまわって、入り組んだ路地に飛びこんで──そこまで思い出した少年は、ふと記憶が欠落していることに気がついた。
 なぜ、走っていたはずの自分が足を止めているのか、思い出せない。
「僕、どうし」
 少年はまだ混乱している頭で、機械動物を振りかえった。だが動物は少年が振りかえるのを見るなり、怯えた様子で肩の上を後ずさってしまった。
「……?」
 機械動物の思わぬ反応に、少年はぼんやりと首を傾げる。
 だが少年はそれ以上、機械動物の奇妙な反応にかまうことが出来なかった。
 徐々にはっきりとしてゆく脳裏に、映像が流れ始める。
『あの!』
 あの時の、ほんの少し前の、過去が。
『まだなんか用があんのか!』
『……おい──』
 ピントのずれた写真のようにぼやけた男の肩越しに、やけに色鮮やかに見えた「彼」。
 止めようとしてくれたのだろうか。
 助けようとしてくれたのだろうか。
 中途半端に持ち上げられた腕の先で、指が男の肩を掴もうと鉤爪の形に折れ曲がり……。
 突然、機械動物が甲高い声で鳴いた。
 甲高い、音。
 少年は声にならない悲鳴を上げ、がむしゃらに腕を振り回して耳を塞いだ。その反動で足がもつれ、少年は不器用な体勢で地面へ転倒する。
「……っ」
 右肩がずきりと痛み、少年は肩を押さえて身を縮めた。頬の下に敷いた排泄物の臭いが染み付いた地面が、少年に嘔吐感を誘った。
 彼が転倒するより先に着地していた機械動物が、心配そうに、また怯えた様子で彼の周囲を行ったり来たりする。しかしそれすら、今の少年には見えていなかった。
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……!」
 血を吐くように、地面へと呟きつづける。
「まだ見つけていない……」
 体は小刻みに震え、血の気の失せた唇もまた歯列ごと震えている。
「まだ、“アイツ”を、見つけてな──」
 いったい何の物音に反応したのか、言葉半ばで、少年は背後の闇を振りかえった。路地にわだかまる闇は、どれだけ凝視してもただの闇でしかない。だが錯乱した彼の神経は、闇の中に“それ”を見出す。
 閃く青い単眼。
 ギロリと少年を捕らえた。
 笑い声にも似た悲鳴がはじけた。完全な恐慌状態に陥った彼は、妄想上の“それ”から逃れようと、尻餅をついたまま、闇を凝視したまま、背後へと後ずさった。その背中がなにかにぶつかる。錯乱した神経に水を差され、少年は一瞬、真っ白に呆けた。
 呆けたまま振りかえった背後には、見覚えのない男たちが不気味に笑って立っていた。
 ──誰?
 少年がぼんやりと男たちを見上げた瞬間、機械動物が鋭い威嚇の声をあげた。少年はハッと我に返った。硬化していた思考が、軋んだ音をたてて再起動をはじめる。正気は一瞬にして正常値まで戻り、第三裏通りでの重たい経験が、彼に警戒心を呼び起こさせた。
「どうしたよ坊主、随分と楽しそうじゃねぇか」
 男たちは彼を見下ろすと、厚い唇をめくりあげて笑った。
「俺らも仲間に入れろよ」
「……!」
 少年は尻餅をついた不自然な体勢から、強引に前へと逃げ出そうとした。だが少年が立ち上がるよりもはやく、男のうちの一人が、コートの襟首を引っ掴んだ。
「は、離してください……!」
 裏通りで幾度も繰りかえした言葉を、少年は再度口にした。だが今までの数回がそうであったように、今回もまた、少年の懇願は笑い飛ばされた。
「おい、何でお前こんなもんかぶってんだ?邪魔だろ、なぁ」
「っ離して……!」
「離してぇ、いい声で鳴くじゃねぇか……っつーかお前、うるせぇ」
 主人を守ろうと、威嚇の声を上げつづけていた機械動物が、男の蹴りを喰らって、闇の向こうまで吹っ飛んでいった。地面を跳ねる音のかわりに、短い悲鳴が幾度か響きわたる。
「……!」
 少年は自分の状況も忘れ、機械動物の溶けていった闇に手を伸ばした。


 他愛もないマッチ箱が放物線を描いて飛んでゆく。


 心臓がドクリと脈を打った。
 呼吸が荒くなる。血の気が引いてゆく。
 はっきりとそれを自覚しながら、抑える気が沸いてこない。
 男たちは、玩具を前にした子供のように、笑いながら少年の周りをぐるぐる回った。
 少年は周囲に視線を走らせた。
 それは、そこにあった。
 ゆらりと揺れるフードの向こうに見える、汚れに汚れたコンクリートの道。その先に転がっているのは、いつ落としたのか、武器商人に無理やり売りつけられた、回転式銃。
 全ての音が耳から消えうせる。激しい耳鳴りが神経に障る。あの時と同じ。マッチを捨てられたあの時と、まるで同じ状況。
 止まらない。
 止まらない、止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない。
 ──止めてやらない。
 少年の口端が、歪んだ。
「……あ?」
 ふと抵抗をやめた少年につられ、襟首を掴んだ男の腕から力が抜ける。少年はその隙に男の手から逃れると、低姿勢のまま、銃に向かって走った。
 真っ直ぐに伸ばした指が銃のグリップを掴む。同時に、少年は身を反転させると、男たちに向けて銃口を向けた。
 そして少年は、何のためらいもなく、引き金を引いた。
「ッギャ……!!」
 男の一人が悲鳴をあげて、その場に倒れた。銃弾は太腿を撃ち抜いたらしい、足を抱え、男がのたうちまわる。
 大の大人が情けなく転げ回るその醜態が可笑しくて、少年は思わず笑った。一度笑い出すともう止まらず、少年はフードを震わせると、やがて腹を抱えて笑いだした。
 路地に反響する、神経を逆なでする笑い声。
 男たちは唖然と、笑う少年を見つめる。
 それすらもが可笑しくて、少年は笑い狂った。
 可笑しい。楽しい。転げまわる男、無様すぎる、おかしすぎる、何あれ。
 可笑しい可笑しい可笑しい可笑しい、何あれ、あれは何、これは何だ、欠陥、欠陥だ、致命的な欠陥、だから可笑しい可笑しいおかしいオカシイ。
『これには致命的な欠陥が──』
『おかしい、こんなはずでは。理論上では間違いないはず──』
『処分するか──』
「──!?」
 更に笑いを深めてゆく少年は、不意に足首に走った鋭い痛みに、ハッと顔を上げた。
 足元を見下ろすと、そこには足首に噛みついたまま、悲しげに鳴く機械動物がいた。
 少年の口元から笑みがゆるゆると引いてゆく。代わりに浮かんだのは、激しい戸惑いと、動揺。
「こ、の野郎………!」
 ただの暇つぶしと思っていた相手に仲間を撃たれ、二人の男は怒りに目を血走らせる。
 少年は機械動物を震える手で掬い上げると、男から身を翻して逃げ出した。
「……僕は、なんてことを!」
 走りながら、少年は悲痛な声で叫んだ。銃と一緒に抱えた機械動物が、悲しげに耳を伏せ、少年の胸元に頬をすり寄せる。
 背後に銃声が轟いた。少年は右肩に強い衝撃を感じて、悲鳴を上げた。悲鳴を上げてからようやく焼けるような痛みに気がついた。撃たれた。撃たれた──。
「いやだ……!」
 危うく転倒しかけた少年はぎりぎりで足を踏ん張り、つんのめるように更に前へと走った。再び銃声が聞こえ、少年は思わず身を固めるが、今度は当たらなかった。
「いやだ………!!」
 足音が執拗なまでに追ってくる。何度も銃声が路地に轟き、そのたびに少年の体のどこかが衝撃に吹き飛び、強烈な痛みに悲鳴を上げる。それでも彼はひたすら走った。腕に機械動物と銃を抱いて、ひたすら、真っ直ぐに路地を。
 やがて、痛みに白濁する意識の中で、少年は前方に光を見た気がした。
 それは路地の果てであり、「表通り」への入り口だったのだが、少年はそんなことなど知る由もなく、ひたすら光を目指して走り続けた。
 あそこに行けば何とかなる、あの光の中へ行けばきっと助かる、そう祈りながら。
 そして少年は、ついに路地の終わりへとたどり着いた。
 その瞬間、彼の視界を光が覆い尽くした。
 光。光の洪水。茜色の光を燦々と浴びて、色とりどりの光の粒子が世界に踊る。
「……───っ」
 あまりの眩しさに顔を腕で覆った少年は、少しずつ慣れてくる視界の向こうに信じられない光景を見た。
 それは美しい世界だった。
 天へと向かって聳え立つビルの群れ、見上げてみても先など見えぬ超高層型都市マンハッタン。
 唖然と立ち尽くす少年は、天まで伸びるビルの側面に、巨大なスクリーンを見つけた。
 そこに、美しい女性がいた。
 ひっそりと首を傾けて地面を見つめる虚ろな眼差し。
 そこから輝きを放って、零れ落ちるものは──。


「ラクリマ………!」


 少年は叫んだ。
「ラクリマ………!」
 喉が裂けそうな大声で、女に向かって叫んだ。光の中で歩く人々が一瞬こちらに視線を向けて、すぐに何事もなかったように去っていく。
 直後、背後から延びてきた腕が少年の首を掴んで、暗い路地裏へと引きずり返した。
 少年はそれでも女に手を伸ばして、ひたすらに叫んだ。
「ッラクリマァア──ァアア……ッ!!」
 光が遠くなる。耳元で腕の主が何かを叫んでいる。自分も延々叫んでいる。
 ラクリマ。
 少年のその悲鳴は、歓喜のものであったのか、悲痛のものであったのか。
 ──むしろそれは、憎しみの絶叫に似ていた。

+++

 分かっていた気がする。
 こうなることなど、最初から。


 怪我した足を引きずり、ようやく自宅へと帰りついたウェイは、足を止めた。
 閑散とした灰色のマンション街。時折、逃げてきたのか、急ぎ足の住人が建物へと消えてゆくだけの、人気のない場所。色褪せた古紙と埃とが、下水の匂いのするつむじ風に吹かれ、ふわりと巻き上がる。奇跡的に潰れていない空き缶が足元まで転がってきて、カツンと音を立てて止まった。
 彼は深くうなだれ、緑色のサングラスの奥で静かに目を伏せた。
 分かっていたのだ。最初から。
 きっとそれはおそらく六年前のあのときに。
 そして──本当はそれを自分が望んでいたことも。
 ウェイはゆっくりと、ゆっくりと、背後を振りかえった。
 そこには、掃除用ロボットのエッグと、エッグの上に跨った少女がいた。
 少女を乗せたエッグは重たげに蛇行しながら中古屋の足元にたどり着くと、くるりと青い単眼を回転させて、ピピピッと機械音を鳴らす。
 エッグの上に乗っかっている少女は、ウェイを無表情に見上げる。
 ウェイは少女の黒い瞳に躊躇いがちな視線を返し、マフラーを取り払うと、白い溜息を吐き出した。


「……俺のコート、どこやった」


 そして、ラクリマが始動する。







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