小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.002 11



 それは永劫とも思える時間だった。
 黒い瞳が、ウェイを捉える。
 緑色のプラスチックを貫き、少女がウェイを。


 ──え?


 ウェイが目を見開く。
 少女がカクリと首をかしげる。
 その直後のことだった。
「避けろぉ──!」
 頭上から誰かの声が降ってきた。
 ウェイはハッと我に返った。気づけば反射的に駆け出し、前方に立ち尽くす少女を突き飛ばすと同時に、自らも地面に身を伏せていた。
 それからわずか数秒後。
 世界は灼熱の赤に染まった。


 上空から見ると、それは巨大な龍に見えただろう。
 大通りをうねりながら駆け抜けていったのは、全長50メートルにもなる炎の龍だった。炎の龍は、通りに面した店々の壁面を焼き、ネオンの蛍光灯をぐにゃりと融解させ、逃げ遅れた人々を呑みこみ、そして裏通りの闇へと消えていった。
 フレデリック兄弟最大最強の武器、火炎放射器 FLAME DRAGON である。


 強烈な熱波を浴びた肌が、ちりちりと鋭い痛みを発する。ウェイはすぐさま上体を起こすと、肩越しに大通りを振りかえった。
 大通りが、真っ赤に炎上していた。
 あちこちで火の手が上がり、焼け焦げた店々が炎の中で揺らめいている。通りのそこらでは火達磨と化した人影が断末魔を上げながら、駆け回り、転げ回っていた。
 その凄惨な光景に、ウェイは我知らず息を飲む。
 だがそこに、状況を打破する者が現れた。
「次を撃つまで、五分はかかる!その間に逃げろ!」
 誰もが言葉を失う中、武器を手にした無数の男たちが、大声で叫びながら、身を伏せた人々の傍らを駆け抜けていった。
 いち早く動いていた、中古屋たちである。
 かすかな感嘆が、呆然としていた人々の口から漏れる。やがてそれは爆発的に膨れ上がり、いつしか燃え盛る大通りは、中古屋を賞賛する声で満たされていった。
「……」
 ウェイは走り去る中古屋の背を無言で見送り、ふと体の下に庇った少女を見下ろした。
「……大丈夫か?」
 躊躇いがちに声をかけると、耳を塞ぎ、身を丸めていた少女が小さく震えた。その反応に、ウェイは戸惑いを隠せず、次の言葉を失う。
 ──それは間違いなく、機械の墓場で出会ったあの少女だった。
(なんで、この子がここに……)
 ウェイは眉根を寄せて、少女をまじまじと見下ろした。
 警察に保護されたとばかり思っていたのに、何故、こんな所に。
「あ」
 ウェイは意識の半分だけで我に返ると、少女の腕を掴み、自分が立ち上がるのと一緒にその小さな体を引き起こしてやった。そして改めて少女を見下ろし──直後、彼は背筋を凍りつかせた。
 この騒動の最中にありながら、少女は、完璧に、無表情だった。
 まるで人形が立っているようだ。微かに首を傾け、瞬きひとつせずに前を見つめている。いや、見ているという感じではない、目は開いているが、少女は何も見てはいない。
 ただガラス玉を嵌め込んだだけのような、空虚な、目。
 ウェイは動揺のあまり、一歩後ずさった。
 そのとき不意に、ポリスジェットのサイレンが途切れて消えた。
 聞こえなくなって初めて、今までサイレンが鳴っていたことに思い至る。顔をめぐらせると、先ほど頭上を通過していったポリスジェットが、背後数メートル先の地面に、停車の警告灯であるサークルを描いているのが見えた。
 フレデリックの追跡だろうか。しかしそれにしては中途半端な位置に停車する──不審に思いながら少女を振りかえったウェイは、それまで身動きひとつしなかった少女がジェットを見つめて後ずさるのに気づき、言葉を失った。
「……まさか」
 ポリスジェットが地上に着陸する音が聞こえた。再び振りかえると、助手席のドアが自動で開こうとしているところだった。
 ウェイは答えを求めるように、少女を見つめる。
 だが、そこにはやはり何の反応もなかった。助けを求める様子もなければ、ウェイを見上げるそぶりすらしない。それどころか、そもそも少女には、ウェイを覚えている様子がなかった。
 その事実が、彼の躊躇を吹き飛ばした。
 ウェイは少女から視線を逸らすと、声もかけずに、そのまま背を向けた。
 関わらないと、もう決めたのだ。
 少女に何の反応もないなら尚更、ウェイが少女の側にいる理由はない。
 まるで自分に言い聞かせるように心中で繰りかえし、ウェイは少女からどんどんと遠ざかってゆく。
 ──だが。
 足早に歩き出したウェイの、緑色の視界隅に、警察官二人の姿が映った。
 裏世界に似合わぬ、真紺の制服。いかにも頑丈そうな靴。表情は、制帽の影に隠れて見えない。
 二人の警官は少女を見据え、互いの顔を見合わせた。
 そして彼らは、なぜかウェイを振りかえった。
 それで気がついた。


 少女が、自分を見ている。


「そこの男、止まれ!」
 警官の制止を呼びかける声が飛んでくる。だがそれよりも先、ウェイの足は自然と止まっていた。
 警告を叫びながら、警官が銃を構える。一人の銃口は立ち尽くす少女に、もう一人の銃口は、真っ直ぐにウェイへと向けられた。
(見るな……)
 だがウェイは激しい焦りの中で、警官の存在以上に、背中に感じる視線に動揺していた。
(何で見るんだ……)
 痛いほどに突き刺さる視線が、あの時と同じ何かを訴えつづけてる。
 黒い瞳。虚無を宿した、ガラス仕様の目。
 目を合わせてもいないのに、瞼裏にはっきりと浮かぶ少女の眼差し。
「……見るな」
 三度目、ウェイは声に出して訴えた。だがその声は、あまりに小さくて、騒ぎに飲まれた大通りでは自分の耳にすら届かなかった。
 警察との距離が徐々に狭まってゆく。焦燥のあまりに、脳内の血が沸騰する。
 そして、次の瞬間だった。


 ──……たすけて。


 ウェイは目を見開いた。


 不意に警官が怒号を張り上げた。
「動くな! それ以上動けば撃つぞ!」
 それをウェイは少女への威嚇だと思った。
 実際に足元を発砲され、初めて気がついた──気づけば、少女のもとへと駆けている自分に。
「……っ来い!」
 中古屋の無骨な手が、立ち尽くす少女の手を力強く引き寄せた。
 警察の制止の声とともに、周囲の喧騒が吹き飛ぶ。
 聞こえるのは自分の高鳴る鼓動と、そして掴んだ細い手首から伝わる、少女の脈打つ血潮。
 目に映る無秩序な世界のパーツが、流れる視界の中で絡み合って、マーブル模様を描き出す。
(何をやってるんだ……!)
 罵りの声を上げる警察を背に走りながら、ウェイはすでに強烈な後悔と、気が狂いそうなほどの焦燥に駆られていた。
(正気じゃない!)
 そのとき、不意に掴んだ小さな手が、自分の冷え切った手を握り返してきた。
 戸惑いを感じるとともに、何かが心の中に広がってゆくのを感じた。
 それが同情とも哀れみとも取れる感情だということに気づいた瞬間、ウェイは──表世界の人間を皆殺しにしたくなった。

+++

 騒ぎのさなか、フレデリック兄弟の末弟ガイ=フレデリックは、雑居ビルの屋上を、一人ゆったりとした足取りで歩いていた。
 先ほどから、携帯電話の着信音が兄弟からの着信を知らせている。いつもの単独行動を戒める電話だろう。
 だがガイは電話に出る様子もなく、屋上の端で足を止めると、足元に眼を留めて、くすりと笑った。
「ごらん、ミッキー、道化師だよ」
 大切そうに抱きしめた腕の中で、鉄骨の人形ミッキーが、カクリと首を傾ける。
 ガイは地面に散らばったチラシを一枚手に取り、動きもしなければ、喋るでもない人形に向かって、楽しげな「会話」を繰り広げた。
「道化師って何って? ふふ、道化師というのはね、人を楽しませるためなら、どんな滑稽なことすらもしてのける哀れな生き物のことさ」
 笑い声すらもどこか芝居がかって聞こえる、奇妙に甘くて、恍惚とした声。女のように細い、しかし先の黒ずんだ指先で、人形の金属の手をちょいちょいと動かすと、ガイは一人、さもありなんとうなずいた。
「そう、頭がいいね、ミッキー。道化師とはつまり、僕らのことさ」
 大通りを焼く熱風が、火の粉とともに舞い上がり、彼の黒い前髪をふわりと揺らした。ガイは指先からチラシを離した。白いチラシは眼下に見える大通りの炎へと、ひらひらと儚げに舞い落ちていった。ガイは眉目秀麗な顔立ちを、どこか険のある微笑で歪ませる。
「もっとも、僕らの場合」
 ガイは腰のベルトから奇妙な形をした銃を取りだし、優雅な手つきで冷たい銃口を正面上空の闇へと向けた。
「一番楽しんでるのは、僕ら自身なんだけどね」
 銃口から弾丸が飛び出すのと同時に、左手から一台のポリスジェットが出現した。ガイは不敵に冷笑する。人差し指ほどの弾丸は、まるで吸い込まれるようにポリスジェットの装甲盤を貫いた。
 ポリスジェットが内側から奇妙に膨れ上がったように見えた。かと思うと、ジェットは大きく傾いで、そのまま黒煙を噴出しながら、大通りからわずかに反れた路地へと墜落していった。ガイは同じ銃を、足元の地面へ向けて発砲すると同時に、何の躊躇もなく虚空へと身を投げ出した。
 青年の細く美しい肢体が、建物の壁面すれすれを滑るように落ちてゆく。手に握りしめた銃口から伸びた太いワイアが、屋上に穿たれたフックと連結して命綱の役割を果たし、およそビル6階分の距離を落下したガイは、地面すれすれの所で銃を手放し、落下したエアジェットの側へと軟着地した。
 ポリスジェットは轟々と炎と黒煙を吐きながら、半壊したボディを拷問に苦しむ虜囚のように軋ませている。赤く燃えるジェットの窓から、黒い人影が這いずり出てくるのが見えて、ガイはさも愉快げに首を傾げた。
「へえ。表世界の虫も、案外しぶとい」
 瀕死の警察は、自分に近づいてくる青年の存在に気がつくと、助けを求めようとして口を開き、直後、安堵に似た表情を凍りつかせた。
「フ、フレデ……あ……ぁああ……!」
 たった今、命がけで這い出てきたばかりの炎の塊の中へと、上擦った声を上げながら這いずり戻ろうとする警察。ガイはそれを執拗以上にゆっくりと追い詰め、炎の壁に恐れをなして、それ以上の後退が出来なくなった警察の顔を嘗めるように見下ろした。
「怖がる必要はない。僕らは慈悲深い道化師だからね」
 警察の後頭部から、痰を吐くような軌跡を描いて血が吹き出した。
「ショーの邪魔をするお前たちを、楽に死なせてやる程度には、ね」
 ガイは掲げた銃をそのままに、重たい音をたてて地面に倒れ、自ら頭部を炎で焼き始めた警察の死体を見下ろして、つまらなそうに溜息を落とした。
「少しぐらい、急所をはずした方が面白かったかな……ん?」
 ふとそのとき、彼の黒い視界の隅を何かが横切っていった。
 振りかえると、路地の向こうに見える大通りを、少女と男の奇妙な二人連れが走り去ってゆくのが見えた。
 ガイは鉄骨人形と顔を見合わせて、退屈そうだった顔に、楽しげな色を宿らせた。


 警察は異常なまでに執拗だった。
 ウェイは肩越しに背後から追ってくる警官を振りかえり、鋭く舌打ちした。
 何かがおかしい。
 炎上し、倒壊した店の看板を飛び越えながら、ウェイは目まぐるしく思考を回転させる。
 たかが子供一人だ。必死に彼の後をついてくる少女は、犯罪を犯すにはあまりに幼い。
 何故これほど執拗な追手をかける必要がある。ましてこんな、フレデリックが帰還したときに──。
「……っ」
 いつもは浮浪者が暖を取っているドラム缶が、走り抜けたその脇で、爆発した。爆風で吹っ飛んできたゴミの燃え滓を避けながら、ウェイと少女はさらに大通りを走る。
 追ってくる警察官は二人。マンション街へと通じる空中歩行路は、もう目と鼻の先。すでに前方上空にその姿が見えている。だが警察を引き連れたまま、マンションへと戻るわけにはいかない。警察を撒かなければ、もう帰れない。
 だが、撒けるのか?
 ウェイは怪我した足を強烈に意識した。足は気づかぬうちに地面を擦り、まともに走ってすらいなかった。このままではやがて警察に追いつかれる。何か方法を考えなければならない。
 その方法が浮かばぬうちに、空中歩行路の真下を通過したときだった。
「ハァイ、中古屋さん!」
 頭上から、聞き覚えのある女の声が降ってきた。
「こんなときに、愛の逃避行かい?」
 見上げると、先ほどのストリッパーが含み笑いでこちらを見下ろしていた。
 まだ帰っていなかったのか、という驚きとともに、彼女の手に握られた武器や、背後で上空へ向けて発砲している女たちの姿を、次々と視界の中に入れてゆく。
 そしてその目が担架を捕らえた瞬間、彼は叫んでいた。
「……担架!」
 走り抜けざまに叫ぶと、彼女はきょとんと自分の尻の下にある担架を見下ろした。そしてふと人の悪い笑みを浮かべると、彼女は担架を持ち上げ、歩行路の縁から投げ落とした。
 稼動中の担架は自動的に安全装置を働かせ、機体は水平を維持したまま、斜めの角度で落下を始めた。ウェイの頭上を飛び越し、さらに数メートルほど前進、地面から1メートルの規定高度セーフ・ゾーンに達したところで、安定した浮遊走行を再開する。
「貸しだよ、中古屋さん」
 後方から追ってくるストリッパーの声に手を上げて応え、ウェイは荒い呼吸をぐっと抑えると、足を速め、前方を行く担架へと追いついた。腕を伸ばして担架の後部を引っ掴み、少女を乱暴に抱き上げると、無事な足で地面を蹴って、担架のステップへと飛び乗った。
 警察の制止の声が背中を打ってくる。ウェイは少女を担架の上へと乗せると、自分は担架後部の操作パネルに指を走らせ、速度を最高速度40キロまで上げた。担架はぐんと速度を増して、炎に包まれた大通りを真っ直ぐに突っ切り始めた。
 だが警察官は彼ら二人だけではなかった。
 担架が走行を始めるなり、上空から一台のポリスジェットが急下降してきた。ジェットは警察官の頭上を追い越すと、真っ直ぐウェイと少女の乗った担架を追跡しはじめた。
「……っ」
 このままではあっさりと追いつかれる。
 ウェイはジェットの追跡を肩越しに確認すなり、コートの内ポケットから中古屋の工具を取り出した。
 適当に引っつかんだそれらを担架の上にばらまき、中から煙草箱シガレットケース大の機械を取り上げる。右手で担架の操作パネル右下にある蓋を開け、左手に取った機械の上部から顔を出しているプラグを口にくわえて、内部にしまわれていたコードを引き出す。口から下がるコードを右手で掴むと、先端のプラグを、担架の蓋下に隠れていた「IN/OUT」と表記された挿入口へと差し込んだ。
 自前の機械表面に設置された計測器が「速度設定40」を表示する。ウェイは計測器下のパネルに指を走らせ、表示上で「40」の数字を「最高速度120」へと書き換えると、新しい速度設定を、強制介入ウィルスと一緒に担架へと逆送信した。
「再起動かける! しっかり掴まってろ!」
 ウェイは少女が担架の端を握りしめるのを確認するなり、担架の主電源を切った。
 浮遊走行した状態から電源を切られた担架は、今までの走行の勢いを維持して前方へと自然走行してゆく。二人分の重みを乗せた担架は、自然、走行しながらも斜め下方、地面目がけて沈み始めた。ウェイは操作パネルからプラグを引き抜くと、再び主電源を入れなおした。
 担架の正面部分が地面にぶつかるぎりぎり寸前、再起動した担架が再浮上した。同時に担架は急激に速度を上げると、大通りを爆走し始めた。その速さ、時速120キロ。担架はポリスジェットを置き去りに、熱せられた大気を切った。
 ウェイは安堵に顔を緩める。
 だがそれも長くは続かなかった。
「来るぞぉ──!」
「……っ」
 再び頭上から警告の声が降ってきた。ウェイは担架の上に座る少女の体を抱きかかえると、ステップを蹴って、前方から近づいてきた路地の切れ目へと横飛びに飛び込んだ。
 操縦主を失った、無人の浮遊担架がなおも裏通りを前進する。
 直後、二度目の火炎放射が大通りを駆け抜けて、担架を紅蓮で呑み込んだ。


 路地が真っ赤に染まり、無数の火の粉がふわふわと地面に降りそそぐ。真冬だというのに、押し寄せる熱波のせいか、激しい緊張のせいか、背中が汗で濡れていた。
 心臓が嫌な音を立てている。ウェイはサングラスの奥で、目が染みるほどに目を見開いて、極度の興奮を必死に鎮めた。
 悲鳴を上げる体を無理やり引きずり起こし、路地の入り口から大通りへと顔を出す。炎の龍の姿はすでになく、警察の姿もまた見られない──そう認めた瞬間、はるか後方の路地から警察官が顔を出すのが見えた。ウェイ同様に、路地へと逃げ込んでいたらしい。
 ウェイは苦い顔を引っ込め、地面に転がっている少女を助け起こして、周囲に視線を走らせた。
 左脇の壁に、地上からかなり高い位置からさびついた梯子が上へと伸びている。もともと地面まで続いていたのが、錆びて、途中から砕け壊れてしまったものだろう。
「乗れ」
 しゃがみこんで、自分の背中を指差すと、少女は素直に従ってウェイの背に負ぶさった。ウェイは狭い路地をぎりぎり反対側の壁際まで下がり、助走をつけて跳躍すると、壁面を二回蹴って、目と鼻の先にまで近づいた梯子をしっかりと両手で掴んだ。
 足が鋭い痛みを放つ。ウェイは顔を歪ませながらも、腕力だけで最初の数段を上り、足が最後の段にかかるなり素早く梯子を伝い登った。
 上った先は、狭い道になっていた。道の先は建物と建物の影に飲まれていて、判然としない。だがとりあえず人気らしきものはないようだった。
 ウェイは息をつくと、少女を地面におろし、梯子の下に広がる路地を見下ろした。
 うまくいけば、これで警察を撒ける。すでに担架で距離は離した。警察はこの路地に逃げたのを見たかもしれないが、路地に入ってはきても梯子には気づかず、そのまま奥へと走っていくゆくかもしれない。否、そうであってほしい。
「……おい」
 だがそう願った直後、ウェイは頭を抱えたくなった。
 一体何の冗談か──梯子の下に、掃除用ロボットがいた。
 ピピピピピ!
 ウェイの後をついてきていたのだ。考えてみれば、当たり前の話だった。帰巣プラグラムがバグっていて、ウェイを巣として認識しているのだ、どこまでも追いかけてくるに決まっている。
 エッグは梯子の側で、甲高く機械音を鳴らしながら、ぐるぐるとしつこく回転していた。健気な愛らしさを感じさせたが、あれでは警察の道案内をしているようなものだ。
 ウェイはエッグを引き上げるか、追い払うか、あるいは自分たちが降りるか、道を更に奥へと逃げるかで躊躇した。もはや疲労が限界を超していて、とっさに判断がつかない。
 そして躊躇する間に、路地へと警察が一人飛びこんできた。
 ウェイは慌てて顔を引っ込め、地面に身を伏せる。ウェイを真似てやはり下を覗き込んでいた少女にも、強引に地面へ伏せさせた。
 気づかれぬよう下方を覗くと、警察が不審そうに回転しているロボットを見ていた。
 ウェイは祈るような気持ちでそれを凝視した。隣では少女がやはりじっと警察の動きを見下ろしている。
 警察はしばらくロボットを見ていたが、何かに気づいたのかちらりと梯子を見上げてきた。心臓が跳ね上がる。ウェイはひたすら警察が何も気づかず去るのを祈った。
 と、そこへもう一人の警察が現れた。
 警察は梯子から視線を外し、背後の同僚を振り返った。一方のロボットは警察など見向きもせず、青い単眼をこちらへと向け、ひたすらピピピピわめいている。
 警察が小声でやりとりしている。大通りの方の爆音がうるさくて、内容は聞こえない。
 と、後から来た警察が一度うなずくと、武器を手にして路地の奥へと走っていった。
 ウェイは、ギクリとした。もう一人の警察が、同僚が去るのを見送ってから、再びエッグを、そして梯子の上を見上げてきたのである。
 警察がゆっくりと、逆側の壁際へ後ずさる。それは先ほどのウェイと同じ行動だった。ウェイは伏せていた身を微かに起こすと、地面についていた膝を後ろに引いた。伏せたままの少女の腕を掴み、逃げる準備を完了させる。
 警察が助走を始めた。
 直後、狭い路地に、銃声が響きわたった。
「……!?」
 肩から血飛沫を上げて、警察官が壁際へとよろめき倒れた。
 ウェイは瞠目して周囲を見渡す。しかしそこには警察を狙撃した者の姿は見られなかった。
 突然の事態に戸惑いながらも、今が逃げる好機に違いない、ウェイは少女の腕を引くと、狭い道を左奥の闇へと向かって走り出した。


 両脇を狭める建物の湿気に濡れた壁。ひどく暗く、また大人一人が歩ける程度の幅しかない。ウェイは抜け道を探すが、暗いせいか、それらしきものが見当たらない。
 警察が追ってくる気配はなかった。肩を撃たれたようだったから、あれでは梯子は登れまい。
 安堵する傍らで、ウェイは険しく眉をひそめる。
 何者かに助けられたとは考えない方がいい。警察を憎む誰かか、流れ弾が飛来したのか、何にせよ狙撃者が自分たちを狙っていないとも限らないのだ。
「……大丈夫か?」
 とりあえずは背後の警察を恐れ、自分の前を歩かせている少女に問いかける。少女はいまだに一言も言葉を発さず、ただ闇に沈みそうなほど黒い姿を、一定のテンポでもって前進させ続けていた。だが問いかけには反応しているようで、少女の黒髪がかすかに揺れたのが分かった。大丈夫だ、ということだろう。
 ウェイはひっそりと溜息をつき──不意によろめいて、その場に尻餅をついた。
「……?」
 唐突な転倒に自分自身で驚いて、ウェイは闇越しに自分の足を見つめる。原因はすぐに分かった。怪我をしていた足が、奇妙な方向に捩れていたのである。
 足を引きずりながら走り回ったせいだろう。ここまで酷い状態なのに今まで気がつかなかったのは、痛みを取りもどし始めているとはいえ、未だに効き続けている麻酔のせいに違いなかった。
「……笑えるな」
 自嘲の笑みを浮かべ、ウェイは額に手を押し当てた。
 ウェイは傍らに少女の気配を感じて、鬱屈と振りかえり、心臓が止まるほど驚いた。
 予想外に間近な位置に、少女の人形じみた無表情があったのだ。
 さらさらの黒い髪が動作に合わせて揺れる。墓場ではほんの一瞬しか見ることの出来なかった、なのに頭に残って仕方のなかった黒い瞳がじっと見上げている。その闇のような眼差しは、まるで心の奥の奥まで見透かしてしまいそうだった。それは緑色のレンズすらも貫き通すようで──訳の分からない恐怖に駆られ、ウェイは無意識に少女から視線を外した。
(何をしているのだろう、自分は……)
 ウェイは水滴と苔に濡れた、黒い地面を見つめた。
 確実に警察に顔を覚えられたはずだ。犯罪者リストに載っているわけではないが、どこで素性がばれるとも知れない。素性がばれれば、自然ウェイは「少女の逃亡幇助者」ではなく、別口の犯罪者として、追われることになる。裏通りに生きる者の中には、犯罪歴のない人間などいないのだから。
 何故、助けたりしたのだろう。自分の行動がまるで理解できない。
 警察に全てを託したはずだったのに。警察に保護された後、どうなるかなど知ったことではない、とそう思ったはずなのに。
 なのに、反射的に手を引いていた。
「怪我は」
 先ほどから似たような問いかけばかりしている。だがそれ以上に聞くことがない。いや、聞きたいことなら山ほどあったが、それを聞けば──少女の素性を知れば、恐らくもう二度と昨日までの生活に戻れないことが分かっていた。
「……へーき」
 不意に、耳元で幼い声が問いに応えた。
 ウェイは目を見開き、少女を振りかえる。
 少女は相変わらず人形のように冷たい眼差しで、ウェイの顔を見つめていた。だが聞き返されたとでも勘違いしたのか、少女は再び色の悪い唇を開くと、同じ言葉を繰りかえした。
「へいき」
 初めて、人間らしい何かが少女に宿った気がした。
 十歳ほどの外見に相応しい舌ったらずな口調。高い声は、血の通わぬ人形にしては「幼さ」という色を帯びすぎている。
 ウェイは半開きにしていた口を開閉すると、「ああ、そう」と間抜けな返答をした。







…お返事 
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