小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.001 2



 高度2000メートルでは、風が暴力的なまでに吹き荒れていた。
 時は十一月も下旬、風の塊は痛いだけでなく、刺すように冷たい。
 凍死するのと、墜落死するのは、どちらが楽だろうか。
 男の脳裏に浮かんだ考えは、一文字に引き結ばれた口元に、歪んだ笑みを作らせた。そのどこか無感動で、無気力な笑みは、しかしすぐにまた凍りつく。
 三十を幾らか過ぎたばかりであろうその男は、ビルの屋上に立っていた。
 屋上の一番端、数センチ先にはもう足場なんて存在しない。ぎりぎりの位置に、男は立ちつくしている。風は決して弱まることなく、あと一吹き風が背中を押せば、男はそのまま地上へと落下してしまいそうだった。
 もっとも、風になど手助けされなくても、落ちるつもりだが。
 男は光のない瞳で、眼下を見下ろした。
 地上から見上げた時とは、まるで違う景観だ。言うならば、一昨年観光で行ったグランドキャニオンの谷に似ている。
 垂直に落ちこむ、切り立った建物の断崖。人工の谷間を、クラクションを鳴らしながら猛スピードで走ってゆくエアジェットの群れ。流行の原色カラーのおかげで、それはさながら極彩色の鳥だ。
 地上は、見えない。
 エアジェットや、建物間を縦横に結ぶ空中歩道のせいで、視界が遮られているためだ。
 そしてなによりこの高さ。
 男ははるか下方にあるはずの地上の大通りを、豆粒ほどにも見えない通行人たちの姿を思い浮かべ、薄く笑った。
 あそこには、無表情なロボットと、それにも劣らず無表情な通行人たちがいるはずだ。
 そう、人を模してはいるが人ではない「物体」と、人でありながら人に見えぬ「人間」が──。
「……俺は違う」
 男はひっそりと呟いた。


「いたぞ、あれだ」
 ハンドルを握っていた警察官は、フロントガラスの先を指差し、助手席の相棒を振りかえった。
 左正面の質素なビジネスホテル、その屋上の端に男が一人立っていた。
 車内の高度表示盤に視線をやると、「2000メートル」の数字が確認できた。
「近づけろ」
 ホテルの側へゆっくり近づくと、ジェットをその場に停車させ、警察官は窓を開けた。
 強烈な風が吹きこんでくる。警察官は舌打ちしながら、窓から顔を出した。
「おい、何してる! 高度500メートル以上に建設された建物の屋上は、立ち入り禁止になってる! 良い空気を吸いたいなら、自由の女神さんにでも上ってな!」
 男が一瞬こちらを振りかえる。だが軽蔑じみた笑いを浮かべると、また顔を正面に戻した。
 男の着ている服が風にあおられ、後方にはためいている。裾の長い、真っ白な服だ。よく見るとそこには、ぎっしりと数字が書かれていた。
 意味は分からない、ただ赤い文字で狂ったように、『2095』と。
「ちっ。イカれたダイバーめ!」
「ほっとこうか、給料外だ」
「助けりゃボーナスだ。女房が新しいコートをご所望でね」
 警察官二人はこの状況で笑いあった。
 人が死ぬことなど何も感じていないかのように。
 その笑い声に、狂者的な笑いが重なった。


「っく、……く、あはは……!」
 一度笑いだすと、不気味な高揚感が男を支配した。
「俺の大嫌いな人間もどきが、俺の死を見届けてくれるわけか! 愉快だな!」
 男の目尻にわずかに涙が浮かんだ。
「ざまあみろ! 俺は死ぬ!」
 男は両手をばっと広げ、首を仰け反らせて、空を仰いだ。
「アウトラスの狂った人形どもめ! 俺の血を浴びて、悲鳴の一つもあげてみやがれ……!」
 視界に広がったのは真昼の空。冬の白みがかった青は、気温に反して、温かく優しい気がした。
「俺こそが人間だった……!」
 それは初めてまともに見た「空」で、──最期の「空」だった。


「おい! 飛ぶぞ、下に回りこめ!」
 警察官はまだ残っていた口端の笑いを消し飛ばし、アクセルペダルを踏みこんだ。


 男は笑いながら右足を動かし、爪先だけ虚空へと出してやった。
 そして視線を下に向けた、
 途端。
 まるで吸いこまれるように、
 男はごく自然に、足場のない一歩先へ、
 踏み出した。


 ゴミ箱から大して歩きもしない道端に、公衆電話のボックスが立っている。ウェイはそのボックスを背もたれがわりに、地べたに腰を下ろした。
 冷たいはずの地面はかすかに温かい。別に不思議なことではない、彼自身が先ほどまでここに座っていて、ゴミを捨てにちょっと離れただけのことである。
「ただいま」
 ウェイは、席を立つ前からこの周辺の地面を磨いている、二足歩行型・掃除用ロボットに声をかけた。
 金属のボディではあるが、一応人間のような形をしたそれは、人間で言えば眼球に相当する球状型センサーをチカチカと点滅させながら、こちらに顔を向けた。
『おかえりなさい』
 少し平坦な男性の声が、テキパキと答える。ウェイは皮肉の色が混じった苦笑を浮かべた。
「俺は時々、お前こそが人間じゃないかと思うよ」
『私はロボットです』
「知ってる。……映画進んだ?」
『あなたがここを離れ、三分たちます』
 ウェイはどーもと言って、顔を上げた。
 日曜昼下がりの、タイムズ・スクエア。行き交う人とロボットの向こうには、扱っているものも様々、形も様々な店舗が、切り立つ崖のように垂直に積み重なり、そびえ立っている。
 ウェイは、通りを挟んだ正面、巨大なスクリーンを壁面に設置した建物に目をやった。
 少々年季の入った、三十階建ての大型百貨店である。壁面に設けられた巨大スクリーンが、今、何か映像を映し出していた。目が痛くなるほど粒子の粗い画面で、しかも今時平面画像だ。鱗に覆われた体に翼を生やした巨大な生き物が、夜空を飛び回っている。
 ジャンク映画と呼ばれる、百年以上前の映画だ。
 ウェイは電話ボックスに寄りかかり、首の痛くなる高さに設置されたスクリーンを見上げた。視線はそちらにやりながら、抱えていた機械動物を膝の上に下ろす。コートの内ポケットに手を突っこみ、普通の人間なら持ち歩いているはずもない、ドライバーやスパナといった工具を取りだした。
「タダ働きか」
 自分をからかうような笑いを浮かべ、ウェイは機械動物を仰向けに引っくり返した。
 その時だった。
 ウェイは故障個所を探っていた手を止め、いぶかしげにスクリーンから視線を外した。
 頭上に展開する空車道でクラクションの洪水が起こっていた。都市では決して鳴り止むことのない、苛立ちからのクラクションではない。本来の意味での警告音クラクションのようだ。切羽つまった短い音が、凄まじい勢いで地上へと迫ってくる。
 まさか、と思った瞬間だった。
 視界の隅を小さな影が落下し、肌があわ立つ種類の音が、人で賑わう大通りに響きわたった。
 前を通りすぎる通行人の何人かが、わずかに嫌悪の表情を浮かべ、音のした方を振りかえる。しかしすぐにまた視線を戻し、流れの中へと戻っていった。
 ウェイはひっそりと溜め息をついて、薄茶の髪を揺らした。
 ふと顔を上げると、掃除用ロボットと目が合った。
「……自殺だと思うか? それとも新種のスポーツかな」
『スポーツ──?』
「ジョークだよ、笑うとこ」
 彼の言葉を反芻して首をかしげた掃除用ロボットに、ウェイは暗い笑みを浮かべた。
 この掃除用ロボットは、半AI(人工知能)搭載ロボットだ。完全AIを搭載されているわけではない。そもそもAIの完全搭載は、国際AI法で禁じられている。このロボットは、ある程度までの言語しか理解できないのだ。さすがにジョークは通じない。
「あ」
 ふと短い声を上げ、ウェイはスクリーンを見上げた。
 ジャンク映画を映していたスクリーンは、今は真っ黒で、ただ白地の文字だけが下から上へとゆっくり上ってゆくだけだった。エンディングクレジットである。
「……あー……」
 がっくりと肩が落ちる。肝心のラストシーンを見そこなってしまった。人間とともに戦った伝説の生き物ドラゴンが最期の言葉を残すはずだったのに、その直前で目を離してしまった。
 気の抜けた顔でしばしうなだれたあと、ウェイはため息をひとつ落とし、機械動物の腹部にある蓋を取りはずして、腹の中に突っこんだを工具を一見適当に動かしはじめた。
 そして三十秒もしない内に、再び蓋のネジを締め直した。
「終わりましたよ、お客さん」
 道具をコートの内ポケットにしまうと、ウェイは目を閉じて動かない機械動物を指でつついた。しばらくすると、兎の耳がぴくりと立ちあがり、猫の目を開いてひょこりと立ち上がった。
「金はいらねぇよ」
 幾度か目を瞬かせ、膝の上から見上げてくる機械動物のすっかり元気な様子に、ウェイは目元を和らげる。
「主人に捨てられちまったみたいだしな。……おいで」
 手を伸ばすと、猫の声で一声鳴き、腕を伝って肩に上ってきた。右肩を定位置と決めたのか、さっさと身を丸めて、長い耳もぺたりと伏せる。
 ウェイは立ちあがり、磨きぬかれた地面をしつこく磨きつづけるロボットの横を通りすぎた。
「またな」
『お待ちしております』
 地面にこびり付いたガムを、足の裏についた超強力バキュームでスポンッと吸いとりながら、ロボットがイマイチずれた返事をよこした。
 マフラーを引きあげ、白い息を吐く口元を覆いかくす。ポケットに手を突っこみ、彼はスクリーンに背を向けて、人波の中へと紛れていった。
 少し歩いた先に、人の流れが崩れている場所があった。こちらの方向に向かってくる人々は、横目で何かを見て、あからさまに避けて通っていく。
 ウェイはのんびりした歩みで、その「現場」の横を通る。
 そのとき横目で捕らえた光景は、人の溢れた大都市では、別段珍しいものではなかった。
 降りそそぐ人工太陽光を浴びて、白々と輝く磨きあげられた地面。何メートルもの範囲に飛び散った、血の飛沫。
 人の形など残っているはずもない、助かる余地も綺麗に死ぬ余地もない、最高高度2200メートルにもなる超高層型都市の、飛び下り自殺者の落下地点だ。
 ウェイは頭上を見上げた。
 建物はどこまでも伸び、どんなに背伸びをしてみても、頂点など決して見えない。もしその一番上から落ちたのだとすれば、大抵はエアジェットに跳ねられるか、電子ネットや空中歩道に落下するかで、地上まで落ちてくることは珍しいことだった。もっともそれが運が良いのか悪いのかは、判断に困るが。
 元々は白かったのだろう服らしき布が、わずかに白地の部分を残し、後は真っ赤に染まっている。鮮烈な血の赤に。
 上空からサイレンが急下降してくる。同時に通りのあちこちから、何台かの掃除用ロボットが、ローラーの足を滑らせてやってきた。それらは、この悲惨な自殺者をゴミだと認識し、淡々と吸引機で吸いとり、血をモップで拭きとっていった。
 その側を、人間たちが限りない無表情さで通りすぎてゆく。
 ウェイは、血と人間の残骸に汚れた地面と、それを処理するロボットたちと、そして無表情な人々を、それら「日常」の全てを視界から追い出し、ほんの少し震えた手をポケットから出して、サングラスを押しあげた。







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